ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(16)
第2章 3つめのスケッチ
ミュンヘン ドーナー研究所
「どう思うかね、ハルト」
雪こそ降らないが底冷えのする曇天の午後、室内は暖房が効きすぎるほどだったにも関わらずヴァーツラフは体の芯が冷えきっているのを感じた。目の前に座っている眼光鋭いデューラーの専門家は読み終えた報告書をデスクに置くと、ゆっくり眼鏡をはずした。隣に座るマエストロは声をかけてはみたものの、だらしなく椅子に座って眠そうにしている。
「興味深いね。そう、たいへん興味深い」
ハース教授は細い指を組み合わせて静かに答えた。ヴァーツラフは朝からサー・ジェフリーの運転手としてバイエルンの中心部を中央美術史研究所、アルテピナコテークとまわり、ここ、ドーナー研究所のゲルハルト・ハース教授が最後の訪問先だった。ハース教授は、ステラの話から想像していたような堅苦しさはなかったものの、几帳面で多少神経質そうに見えた。
「よく調べてある」
ヴァーツラフは軽く頭を下げた。
「しかし、美術品の調査報告書というよりは、なにか犯罪の記録のように思えるのだがね」
「ほう、それはどういう意味かな」巨漢のマエストロの声は相変わらず大きい。
「なに、たいした意味などないさ」
「君に見せたのは、今回の件が君にも関わっとるからだ。なにか不都合なことでもありゃせんかと思ってな。提出する前に君の意見を聞かせてもらいたい」
「別に意見などないよ。娘たちにペンダントを与えたのは事実だ。それが、君らの言っている物かどうかはわからんがね」
「君も親から譲り受けたんだろう。何か聞いとらんか」
「いや、特には。大事なものだと聞かされただけだよ」
「ふむ」サー・ジェフリーは大きく息をつくとポケットから葉巻を取り出した。
「構わんかね」
「ここは禁煙なんだが、君はどうせ無視するだろう」そう言ってハース教授は窓の上部だけ開けた。
「すまんな」
「些細なことさ。では尋問はもう終わったのかな」
「尋問だなんて…」ヴァーツラフはハース教授を見たが、マエストロはあたりまえのように答えた。
「ああ、終わった」
「じゃあ私から質問だ」
彼は椅子に座り直して自分もタバコを取り出し、火をつけた。ヴァーツラフは唖然としてそれを見ていた。
「あのペンダントだが、本当にルドルフが関与していたのか。私にはありきたりに見えたんだが」
「もちろん確証はない。だが、これまでわかっとることを総合すると可能性は高いだろう。現状で最も近い、ということだ」
引出しから灰皿を取り出した教授は、唐突に話し出した。「ヨーゼフ二世は、それだけ母親を恐れていたのだろうか」
早くも二人の煙が部屋に充満し始めている。ヴァーツラフは話の流れがつかめないまま、じっと両巨頭の会話を聞いているしかなかった。
「母子関係が実際のところどうだったかはわからんが、強く意識はしておっただろう。ハプスブルク宮廷内のパワーバランスを考えても無理のないことだ」
「その反動が、あのコレクションの大量投棄というわけか」
「マリア・テレジア自身、プラハには関心が薄かったし、急進派のヨーゼフには中世以来の王侯貴族が保持していた、過去に対するノスタルジーはなかったとみえる。プラハ城から投げ捨てんまでも、マリア・テレジア存命中から何度も投げ売りはしていたようだ」
「散逸か」
「散逸というなら、その100年以上前にスウェーデン軍が派手に略奪しとるしな。残念ながらそれが世の習いだ」
それを聞いてハース教授は首をすくめ、ヴァーツラフに笑って見せた。
「ジェフ、君があれをルドルフ由来のものだと思ったのは、実際のところどうしてなんだ」
「君もよく知っとるように、この手の事柄に決め手があることは珍しい。あのペンダントにしても、誰も疑いをはさむことができんほどの決め手などないよ。ただ、素材や様式は時代やエリアに合致しておる。無論それだけで断定はできんが」
「専門家としての公式見解か?さあさあ、ジェフ、腹のうちはどうなんだ。ここには身内しかいないだろう」
「なに、変わらんよ」サー・ジェフリーは相変わらず仏頂面で葉巻を吹かしている。「18世紀後半にプラハ城から投げ売りされる前のことは推測しかできん。ルドルフ・コレクションだったかルドルフ・プロデュースだったか、あるいはまったくの別物なのか、今となっては遠い歴史の彼方だ」
「それでも君は、あれがルドルフと関係していると思ってるんだな。人は見たいものしか見ないというが…」
「わしはなハルト、結局、ここに引っかかってくるものを追っかけてきただけだよ。若い頃から今までずっとな」マエストロは自分のこめかみを太い指でつついた。「君の前で偉そうなことを言っても始まらん。わしが引退したのは、老い先短い人生を自分の好きなように使おうと思ったからだ。そして、今はこれが気にかかっとる」
「わかったよ。私だって好きなことをしている」
急に二人とも押し黙ってしまった。ヴァーツラフはどうしていいかわからずに中空を睨みつけている。妙な緊張感が室内に満ち、彼は手のひらが汗ばむのを感じた。
「1851年といえば、ティファニーが宝飾品を扱い始めた年だな」
また話がとんだ。この二人の会話はいつもこうなのか。
「カルティエもそのころだ。1848年の二月革命でフランス貴族が大量に放出したからな。オークション市場にも宝飾品が溢れ返っとった」
「それを争って買い求めたのがブルジョワさ」
「バイエルンのメレンドルフもな」
「メレンドルフと聞くと、ニーチェやブルクハルトと論争していたヴィラモーヴィッツ=メレンドルフが思い浮かぶが……まさかな」
「さすがに古文献学者の出る幕はなかろうよ」
「バイエルンからザンクト・ガレンに移ったのは普墺戦争の影響か」ハース教授は独り言のようにつぶやいた。「そう言えば、スイスは第一次世界大戦の影響があったのかな。当時から中立だったと思うが」
マエストロが黙っているので、仕方なくヴァーツラフが答えた。「めだった被害はありませんでしたが、国境警備のため徴兵制が敷かれ、経済的にも大きな痛手を受けたようです。戦後まもなくゼネストもありましたし、様々な影響をこうむったでしょう」
「メレンドルフ家は戦争中に離散したんだったな」
「分散して疎開したようです。1915年に屋敷を売却した記録がありますが、その先は追えませんでした」
ハース教授はデスクの抽斗から封筒を取り出してヴァーツラフに渡した。
「参考になるかもしれない」
「何なんです?」
「昔の写真だよ」
怪訝な顔で封筒を受け取り、中の写真を順番に見ていったが、ある一枚を見た時にヴァーツラフの手が止まった。「これは…」
その写真には年配の女性と二人の若い女性が写っている。年配の女性の胸には大柄で古風なペンダントが下がっていた。
「先生!」
ヴァーツラフから写真を受け取った巨匠は眼鏡をかけ直してその一枚を凝視した。ハース教授は何も言わず、二人の様子をにやにや眺めている。サー・ジェフリーは葉巻を持った手を旧友に突きつけた。
「ハルト、最初から知ってたんだな、この悪党め!」
「なあジェフ、長年の友人がいきなり美術界から引退してスイスの田舎に引きこもり、何をしているかと思えば探偵ごっこだ。まるで才能の無駄使いじゃないか。私は面白くなかったよ。だが、君の探しているものが我が家にあったことがわかってからは、」
慌ててヴァーツラフは他の写真も確認したが、ペンダントが写っているのは一枚だけだった。
「いつここへ来るかと待っていたのさ」
サー・ジェフリーはなにも言わずに葉巻を猛烈にふかしながらハース教授を睨みつけている。
「想像してたより遅かったな。もっと早くここにたどり着くかと思ってたが」
「ふん、役所がらみは時間がかかるんでな」
「ジェフ、私は君がうらやましいよ。ほんの少しだけだがね」
「わしが好きでこんなことやっとると思っとるのか」
「ああ、そう思ってるよ。君は実に楽しそうだ」
「バカを言え。わしはなハルト、くだらん連中と顔をあわせるのが心底嫌になったんだ」
マエストロは写真をヴァーツラフに戻した。
「これが、殺されたレナ・ハース…あっ、すみません」ヴァーツラフは赤くなって恐縮した。
「いや、いいんだ。私にとっても彼女は伝説上の人物のようなものさ」ハース教授は笑って言った。「それはレナ・ハース=レス。ハインリヒ・ハースの母親だ。両隣が彼女の孫娘。事件のあった何年か後に撮られたものだ」
「レナ・ハースの義理の母がレナ・ハース=レス、ですか。ややこしいですね」ヴァーツラフは写真を見ながらつぶやいた。
「で、どっちですか?」
「どっちとは?」
「あなたのお母さんは」
「ああ、左の方だ」
「ちょっと貸してくれ。…ふん、美人じゃないか」
「そりゃどうも」
「教授、不躾なお願いで恐縮ですが、この写真を貸していただけないでしょうか。画像分析してみたいんです」
「どうぞ。最初からそのつもりだよ。モノは娘たちが持っているはずだ」
「ありがとうございます」
「いつから気づいてたんだ」サー・ジェフリーはまだ旧友を睨みつけている。
「昨年の暮れ、君から久しぶりに連絡をもらった時だよ」
「あの時は何も言わなかったな」
「君も聞かなかったからな」
巨匠は憮然として虚空を睨むしかなかった。