ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(11)
第1章 運命の寓意
チューリッヒ州オッシンゲン
昨夜降った雪は、夜が明けると田園風景を銀世界に一変させていた。空は珍しく晴れ渡り、低い太陽が顔を出している。周囲のなだらかな丘は陽射しを受けて、一面水晶の粉を撒き散らしたように世界をきらめかせている。ヴァーツラフは冷たい陽に目を細め、キッチンへの階段を降りていった。朝日の射し込むキッチンは今朝もなぜかキレイに片づいていて、マエストロの書斎の惨状とはまったく相容れなかった。
「この世は神秘に満ち溢れてる」
ヴァーツラフは独り言をつぶやきながらコーヒーを沸かし、マグを二つ持って書斎のドアをノックした。予想外にすぐ返事があり、ドアが内側から開いた。
「おお、もうこんな時間か」
ぼさぼさ頭でガウン姿のサー・ジェフリーは廊下の明るさに目をしばたかせた。部屋の奥から生暖かくこもったような葉巻の匂いが廊下に流れ出る。
「おはようございます。もしかして、徹夜だったんですか」
「ああ、ついな。だが、こんな生活ももう終わりだ」そう言ったマエストロは確かに徹夜明けにしてはすっきりした顔色をしている。
「え、じゃあ」
「どうやら結論が出たようだ」
「もっと時間がかかると思ってました」
「わしもだ。だが積極的な瑕疵はどこにも見当たらん。整合性という点においてはな」
「すると、」
「なにしろ三つのスケッチのうち二つは疑う余地のないものだからな。残る一つも実在する、あるいは実在したと考えるのが筋だろう」
「あの二つはウィーンにありますからね」
「うむ。そうなると、あの文章を否定するためには、かなりはっきりとした証拠が必要になるが、そんなものは見つからなかった。したがって論理的帰結は、あの文章も真ということになる」
「なんだか拍子抜けです」
「まあ、現実というものは、えてしてそんなものだ。映画みたいにドラマチックにはいかんさ」
マエストロはかつて列車の中で女の子を泣かせた時と同じ笑い方をした。ヴァーツラフは両手にマグを持ったまま途方に暮れている。まだよく事態が飲み込めないようだ。
「なにを突っ立っとる、早く入らんか」
薄暗い部屋の中は生暖かく、よどんだ空気が重くただよっていた。再びヴァーツラフの頭にディオゲネスという単語が浮かんだが、とりあえずマグの置き場所を探すことに集中した。
「君はあれか、あれが偽物だと信じ込んでおったわけか」
「いえ、別にそんな」
ヴァーツラフにとっては確かに結果は喜ぶべきものだった。彼自身、未知のクンストカマー発掘に胸躍らせていたのは事実だ。しかし、あの嵐の夜以来、彼の脳裏にまとわりついて離れないのは、薄笑いを浮かべたカチンスキの顔だった。どうやってかはわからないが、奴が偽物を巧妙に本物とすり替えた、という固定観念はすでに確信に変わっていたのだ。
「結果はみんなが望んでおった通りになったじゃないか。これでワルシャワは絵が手に入るし、プラハはクンストカマーの発掘調査に踏み出せる。クラーラも喜ぶだろう」
ヴァーツラフの顔色が面白いように変わった。「なぜそれを」
「考えればわかることだ」マエストロはなぜか小さく溜め息をついた。「もしあれが本物なら、プラハは『フォルトゥナ』などワルシャワにくれてやるだろう。クンストカマーの方がよほど重要だからな」
「…はあ、まあ」やっとマエストロにカップを渡したが、二人ともまだ突っ立ったままだ。「ところで、どんなところを調べてたんです?」
「それか。ふふん、用語だよ。当時まだ使われていなかったものが使われとらんかとか、使われてしかるべきものが使われておるかとか」
「なんだか地味ですね」
「あたりまえだ、何を言っとるか。文献調査というものはだ、膨大な当時の手紙や売買記録や訴訟記録などをひたすら確認する緻密で根気のいる作業の繰り返しなんだぞ。派手なはずがない」サー・ジェフリーは不機嫌に青年を睨みつけ、音をたててマグをすすった。
「すいません。でも今回は文章内容そのものの調査で、通常とは違うんじゃないかと」
「違うところは何もない。基本は同じだ。今回は統計的手法は使っとらんがな。あんな文章量では役に立たん」
「エミリア、いえプフィッツナー博士は何と言うでしょう」
「ふん、得意気に言うに決まっとる。無駄な手間をかける必要はなかったとな」凶悪な目つきのまま、マエストロはマグを片手に手近のソファにどっかりと座りこんだ。頑丈そうなソファが悲鳴をあげる。
「基本と言えば、偽造の基本は、とにかく素材、材料だ。これに尽きる。その時代の材料さえ手に入れば、もう作業の八割方は終わっとる」
マエストロは手元のファイルをヴァーツラフに渡しながら言った。ファイルはかなり分厚く、ヴァーツラフは一気に現実に引き戻された。この手書きメモの束を急いで報告書にまとめなければならない。
「憶えとるか、去年の装飾写本の件を。あれは材料が新しいせいで贋作だということがわかった。しかし、今回の『フォルトゥナ』では材料には何の問題もない。そうさ、エミリアがそう言っとるんだ、間違いない」サー・ジェフリーは立ち上がってデスクの上から分厚い封筒を取り上げた。
「エミリアがよこしたものだ。彼女の結論にわしも異存はないよ」
その封筒もヴァーツラフに渡す。チラッと覗くとこちらは写真やグラフも含め、きれいにまとめられているようだ。殴り書きのメモとは雲泥の差だった。
「そうなるとマテリアルでは追求できない。文章内容そのものをわしが検討した」
「でも、そこでも何も出なかったと」
「そもそもラテン語は今に至るまでたいして変化しておらん言語だ。語彙も文法もな。それが、いまだに学術用語として使われとる理由の一つでもある。とはいえ、時代によってゆるやかに移り変わるものはある。そこをどうとらえるかが、腕の見せどころだ」
部屋の中は効きすぎる暖炉のせいで汗ばむほどだ。ヴァーツラフはファイルと封筒とマグを抱えたまま椅子に座った。
「今回は全体の文脈を無視して場違いな語彙が使われているでもなく、時代的に整合性がとれない言い回しもない。そうした不自然な部分は見当たらんし、文章としてのトーンというか色あいというか、そういったニュアンスも破綻がない。筆跡的にも一人の人間が一気に書いたことを示しておる。スプランヘル自身が書いたかアーヘンか、どちらかだろう。確証はないが、わしはアーヘンだと睨んどる」
「ハンス・フォン・アーヘンですか。どっちもルドルフの宮廷画家ですね」
「アーヘンもまた教養や人脈が豊富で、皇帝の美術アドバイザーを務めておった。しかもだ、ルドルフの命で美術品の買い付けをやっとった男だからな。クンストカマーに言及しとっても不思議はない。いずれにしてもだ、当時の宮廷芸術家サークルの人間が書いたことには間違いないだろう」
「先生がそうおっしゃるならそうなんでしょう」
「どうした。なにか不服そうだな」
「いえ、決してそんなことは。あーと、そうです。スケッチ、スケッチの方はどうなんです?あれはそもそもなんであそこに描かれたんでしょう」
「ふむスケッチか。これは意外に手間がかかった。製作前か後か、それによって解釈も変わってくる。製作後かどうかは現物と照らし合わせればすぐわかる。今回は幸いにしてセイシェル椰子がある。この手の自然物は一つ一つ特徴が違うんでな、それが決め手になった。これでスケッチが実在する作品についてのものだということが結論づけられた。さらに、実物とはデザインが違う部分がある。これでこのスケッチが製作前のものだとわかる。だがこのスケッチが製作前だとすると、別の問題が出てくる。いったい誰がこのスケッチを描いたのか、というものだ」
「はあ」ヴァーツラフはムッとする部屋の空気のせいか、居心地悪そうに体をゆすっている。しばらく床を見つめていたが、顔を上げて老師匠をまっすぐ見た。
「先生を疑うわけじゃありませんけど…なんか釈然としないんです。なにか大きな罠にはまったというか」
「ふふん、このじいさん、ついにもうろくしたと言いたいのかな」
「違いますよ。ただ、妙に気になるんです、あのカチンスキが」
「ふむ。確かにあいつは偽物だった。ハルトに聞いたら、本物のカチンスキはわしより年上だそうだ。驚くじゃないか。論文こそ発表しとらんが、永年バロック絵画の研究をしてきたらしい。どおりでわしが知らないわけだ」
「僕がわからないのは奴の目的です。わざわざ館長になりすまして、いったい奴は何をしようとしたんでしょう」
マエストロはカーテンの隙間から漏れてくる冷たい光に目を細めた。
「そういえば君、アグネス・スワンと話しはできたのか」
「ああ、そうでした。あの人、いろんな美術館を支援してて、ちょっとした有名人ですよ。先生はその手のレセプションなんかお嫌いで顔を出してないでしょうけど、各美術館の連中は彼女のご機嫌を取るのに必死になってるみたいです」
「ふん、おおかたそんなとこだろうと思っとったよ」
「で、昨日やっと電話できたんですけど、当局から箝口令を敷かれてるそうで、なかなか教えてくれません」
「当局だと?」
「ミュンヘン警察ですよ。それに、あの人はマエストロに興味深々なんです」
「よしてくれ。冗談じゃない」
「でも、そのおかげで面白い話が聞けたんですよ」
「聞けたのか」
「ええ、電話ではいったん断られたんですけど、後から暗号化したメールを送ってくれましてね。もったいぶった古だぬきだと思ってたら、意外といいところもあるんですよ」
「君は凄腕の女たらしなのか」
「やめてください。それによると、2年前にミュンヘンでカチンスキを見たというんです。しかも警察署で」
「なんと」
「当時ミュンヘンでは絵画のデジタルアーカイブ計画が持ち上がってて、それに格安で入札したのがカチンスキだったんです。その時はノイマンと名乗ってたそうですが。もちろん、それは詐欺だったんです。IDG保険はミュンヘンのアーカイブ計画に出資してて、その担当者がアグネス・スワンだったんですが、カチンスキは彼女の所に売り込みに行ったんです」
「やれやれ」
「結局カチンスキは詐欺容疑で警察に尋問されました。その時本人確認のため彼女が警察署に呼ばれて、尋問の際のビデオを見せられたそうです」
窓の外には物音ひとつしない雪原が広がり、あちこちに陽光をきらめかせている。静謐な空気はあくまで澄みわたり、ただ沈黙だけが世界を覆っていた。
「とんだ話だな」
「やっぱりあいつは犯罪者だったんです。そうなると奴がワルシャワに現れたのも、『フォルトゥナ』を盗むためじゃないですかね」
「もしそうしたかったら、もっと手っ取り早い方法がいくらでもある」マエストロは冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
「でも、発見される危険を犯してまで我々の前に現れたんですよ。なにか目的があるに決まってます」ヴァーツラフはだんだん自分の声が大きくなっていくのに気がついてはいない。サー・ジェフリーはソファの中で不自由そうに体を動かした。
「僕は昨日アグネス・スワンのメールを読んでから、ずっと考えていたんです。カチンスキがどうやって『フォルトゥナ』を偽物とすり替えたのかを」
「ほほう、やはり君は偽物だと思ってたんだな」
「そりゃそうですよ、あんなメールを読んだら誰だってそう思うでしょう。でも先ほど先生から、あれは本物に間違いないと聞かされて、混乱してしまったんです」
「ふむ。まあ、続けなさい」
「で、思いついたんですけど、ドゥリューなんじゃないですか」
「なんだと?」
「ほら、むかし来歴をでっち上げて贋作をたくさん売りさばいたイギリス人の詐欺師がいたじゃないですか」
「ジョン・ドゥルーか。今から30年くらい前の話だな」
「そうですそうです。カチンスキはそれをやったんじゃないですか、ワルシャワ国立美術館のアーカイブに忍び込んで」
ヴァーツラフは明らかに自分のひらめきに酔っていた。両方の頬が赤くなっている。それに比べて経験豊かなマエストロは冷静そのものだ。
「話としては面白いがな、まあ同じ手口は使わんだろう。昔と言っても30年もたっておらん。当時の記録も残っとるし、第一あれ以来、アーカイブへの立ち入りはどこの美術館でも厳しくなっておる」
「でも、館長という立場なら、」
「まあ、そう結論を急ぐこともあるまい。その後、ワルシャワで被害があったという話は聞かんだろう」
「じゃあ奴はいったい…」
「わしはな、今、ある人物のことを考えておる」
「え、なんです?」
「例の装飾写本を作った奴さ」マエストロは凶悪な目つきでヴァーツラフを睨んだ。
「ウリエルですか」
「うむ、そう呼ばれておる贋作プロデューサーのことだ」
「まさか、奴がこの『フォルトゥナ』も」
「いや、あの絵は確かに本物だよ。ただ、今回の一連の流れに、なにか同じ手触りを感じるんだ」
「サー・ジェフリー、カチンスキがウリエルなんですか」
彼はそれには答えず、立ち上がってデスクの上の資料やメモを持ち上げて何か探している。ヴァーツラフは何か言いたそうだが、とりあえず両手のファイルとマグを床に置いて椅子に座り直した。
「先生、あの文章には整合性があるとおっしゃいましたよね」
「そうだが」やっと探し当てた葉巻に火をつけながらマエストロはうなづいた。
「もし、もしもですよ、先生が参照した資料のほうが偽造されたものだとしたら…」
「君はどうしてもあの文章を偽物にしたいようだな」
「そんなことありませんよ。でも…」
「今回わしが見たところ、あの文章にもスケッチにもおかしなところはなかった。来歴はもともとない。そもそも、細々した手紙や膨大な訴訟記録なんかをいちから捏造するのは現実には不可能だろう」
「じゃあウリエルは今回の件にどうからんでるんでしょう」
「それはわからんよ。やつの狙いがわからんのだから」
葉巻の煙が薄暗い室内をたゆたい、よどんだ空気をさらに重苦しくさせる。ヴァーツラフは少し気分が悪くなってきた。
「もしかしたら、やつの狙いは文章ではなくスケッチの方かもしれん」
「え、それって」
「ああ、三つめのスケッチだ」
「あのペンダントですか」
「うむ。あれはダニエル・フレーシュの工芸品目録に載っておるものに近い。というかそのものではないかとわしは踏んでおる。まだ1607年の目録は確認しておらんから確かなことは言えんが、おそらく存在が確認されとらんのではないかな」
サー・ジェフリーは凶悪な目つきで煙の行方を追っている。暖炉の火は少し弱まってきたようで熾火が赤黒く光っていた。乱雑極まりないマエストロのクンストカマーは、冬の長い陽射しに照らされると急にその魔力を失い、絨毯の染みや壁紙のめくれやテーブルのホコリを露わにしていた。
「僕は、自分の仕事をした方がよさそうです」
「うむ、そうだな」
ヴァーツラフは釈然としない思いをかかえたまま、重い足取りで老人の仕事部屋を後にした。