ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(9)
第1章 運命の寓意
チューリッヒ州オッシンゲン 2
窓の外でまた落雷があり、エミリアの声が途切れた。マエストロは悪態をつくのをあきらめ、眼鏡を外すと再びグラスにスコッチをついだ。ヴァーツラフもそれにならった。自分の中のカチンスキの印象が、さっきとはまるで変ってしまっている。それはもはや美術には無知な、突然館長職についておたおたしている無能な人間などではなかった。
「先生、誰かがなにか企んでるとして、狙いはなんだと思います?」
「まだわからん。わからんが、絵かクンストカマーかどちらかだということは明らかだと思う」
「それはつまり、『フォルトゥナ』をプラハに渡さないようにするためか、あるいはクンストカマーを独占しようということですか」
「あの絵はともかく、クンストカマーの独占など誰にもできやせんよ」
「確かに。そうなるとやっぱり『フォルトゥナ』ですかねえ」
「そいつはどうかな。前任者に交代劇の真相を聞ければいいんだが」
「先生、前任者って誰なんです?」
「君、知らんのか。ハースだよ、ミュンヘンの」
「ゲルハルト・ハース博士ですか、アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン旧絵画館)でしたっけ」
「そうさ。わしがベルリンに行ったのもハルトに誘われたからだ。なにしろデューラー研究の第一人者だからな」
「じゃあミュンヘンで研究を続けながらワルシャワの館長もやってたんですか」
「ミュンヘンには月に一度帰ってたそうだ」
「サー・ジェフリー?」小さな画面の中のエミリアが声をかけた。
「お、つながったか」マエストロはあわてて眼鏡をかけた。
「さっきからつながってますよ。面白そうなお話ですね」
「聞いとったのか」
画面の中でエミリアはいたずらっぽく笑った。「ハース博士って、確かおじいさまとおばあさまを山で亡くされてるんですよね」
「なんだそれは」
「ゼンティス殺人事件って、聞いたことありませんか」
巨匠と青年は顔を見合わせた。仄暗い室内で二人の顔だけが暖炉の炎に浮かび上がっている。
「殺人事件?おだやかじゃないな」ヴァーツラフが身を乗り出した。
「スイスでは有名な話しだと思ったんですけど。映画やオペラにもなってますよ」
「いや、わしは知らんが」
「100年くらい前のことらしいです。スイスのゼンティスという山の頂にある測候所で二人は住み込みで働いていたんですが、ある日、一人の男に殺されてしまったんです」
「どうしてそんなことに」
「いまだに真相はわかってないみたいで」
「迷宮入りか」
「じゃ犯人は捕まらなかったんですね」
「それが、犯人は自殺しちゃったんです。なので動機とかがいまだにわからないってことらしいんです」
「二人は結婚してたんですか」
「ええ、娘が二人いたんですけど、二人とも寄宿舎にいて無事だったんです」
「ええと、ハース博士は」
「博士は下の娘さんの子供だということです」
「やけにくわしいな。なんでそんなことを知っとるんだ」
「あたし、ステラ・尹の友達なんです」
「誰かね」
「ハース博士の娘さんですよ。彼女とはウィーンのハーブワークショップで知り合ったんです。歳はちょっと上なんですけど、なぜか話しが合って」
「ほほう」
「ユンって…」
「ああ、それは結婚相手の姓で、ダブルネームが面倒だからって言ってましたね」
「なるほど」
「彼女、チューリッヒオペラでヴィオラを弾いてるんです」
「いいですね、オペラかあ」ヴァーツラフは酒の入った気楽さで口を挟んだ。
「お好きですか」
「好きっていうほど聴いてるわけじゃないですけど」
「あたしも彼女と知り合ってから聴くようになったんです。それまでは、なんか敷居が高くって」
「ですよねえ」
「わしは御免こうむる」
サー・ジェフリーの目つきが険悪になってきたが、ヴァーツラフはまったくそれに気づいていない。
「え、お嫌いですか」
「三時間も四時間もじっと座って舞台を観るなんて狂気の沙汰だ。うまい酒でも飲んでるほうがよっぽどましだろう」
「サー・ジェフリーがオペラ嫌いとは知りませんでした。ナイトの教養には入ってないんですか」エミリアがうれしそうに言う。
「冗談じゃない。あんなものをありがたがる奴の気が知れんわ」
「わかりましたわかりました。以後、気をつけます」ヴァーツラフはマエストロに向かって軍隊式に敬礼した。
「わしをオペラ好きの鼻持ちならん連中と一緒にせんでくれ」巨匠は不機嫌そうに吸いさしの葉巻を暖炉に放り込んだ。
「はいはい。了解しました」
いつの間にか雷鳴は遠ざかり、風もおさまったようだ。あたりは打って変わって静まり返っている。
「なあ、エミリア。君が殺人事件にくわしいのはよくわかったが、今回の件ではあまり役に立ちそうもないな」
「そうですね、すみません」
「その娘さんは父親とは仲がいいのかね」
「それが、それほどでもないんです。たまに会っても話題がなくて困るって言ってましたから」
「だったら、先生が直接聞いた方が早いですよ。さっきからそう思ってたんだ僕は」もはや酔っ払っているヴァーツラフが無遠慮に言った。
「そうだな」サー・ジェフリーはじっと前を見て何か考えている。「ベルリンでは結局会えずじまいでな。わしが行った時にはもうミュンヘンに帰った後だったんだ。考えてみればここ数年、顔を合わせておらんな」
「じゃあ、マエストロから連絡すれば博士は喜びますよ」エミリアは自信たっぷりに断言した。
「ふむ。そうしてみるか」
「それにしても、マエストロがステラのおとうさんとお知り合いとは。世の中狭いですね」エミリアは感に耐えないようにつぶやいた。
「さて、嵐も過ぎたようだし、今夜はお開きとしようか。エミリア、楽しかったよ」
「待ってください。先生のさっきの質問は…」ヴァーツラフは酔ってはいたが、サー・ジェフリーの質問は忘れていなかった。
「ああ、それなら後であなたに送っておくわ。いいでしょ、ヴァシェク?」
「おお、そうしてくれるか」
「もちろん大歓迎だよ。エミリア?」
「なあに?」
「いや、いいんだ。おやすみ」ヴァーツラフはなにか言いかけたが思い直した。マエストロは何も気づかなかったようにグラスを傾けていた。