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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(1)

これは、400年前の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の仕掛けた謎を追って、美の迷宮をさまよう美術史ミステリーです。2019年に書いたものなので、新型コロナウイルスやウクライナ侵攻のない世界が舞台になっています。言うまでもなく、これはフィクションなので実在する人物、団体とはいっさい関係ないのですが、もはやパラレルワールドものとして楽しんでいただくのもアリです(転生はしませんが)。

プロローグ


「見えた!あれだ」
 雪に覆われたアッペンツェルアルプスが前方に広がり、頂上に巨大なアンテナを持つひときわ高い山が見えてきた。
「なんすか、アレ」前席のパイロットがつぶやく。
「気象データかなんかを送るヤツだ」
「気流に悪さしなけりゃいいけど」
「この辺は難所らしいぞ」
「そういうのは離陸する前に聞きたかったっすね」
 パイロットが操縦桿を倒すと、TVクルーを乗せたヘリは大きくバンクしながら白いアンテナめざして降下した。眼前に急峻なアルプスの岩肌が迫ってくる。カメラマンはファインダーを覗きながら訊ねた。
「わざわざヘリまで飛ばすなんて、なんかあるのか。ただの遭難事故だろう」
「爆破予告もあったし、へたすりゃ100年前の再現になるからな」
「なんだよそれ」古株のカメラマンは若いディレクターにカメラを向けた。「聞いたことないか?100年前の殺人事件」
「殺人って、」
 その時機体が大きく揺れた。同時にアラームが鳴り始める。
「マジかよ、ヤバイな」ディレクターはハーネスを握りしめるが、カメラマンは自分のハーネスを外して叫んだ。「もっと山頂に寄れるか!」
「もうこれがイッパイっす」
「どこを狙う?」カメラマンはドアを大きく開けて叫んだ。エンジン音と風切り音が氷点下の風とともに一気に機内に暴れこみ、機体は嫌な揺れかたをした。
「あそこだ、あのロッジの下100メートルくらいかな、そのあたりの絶壁。もう山岳救助隊のヘリが来てる」ディレクターがエンジン音に負けじと叫んだ。
「ヘリ?どこにも見えないぞ」
「上だ、もっと上」
「ああ、いたいた。でもあんなに離れちゃ救助できないだろ」
「よく見ろ。長いロープを降ろしてるだろ」
「あれか。しっかし、あんな長いの、見たことないな」
「あちらさんの秘密兵器だ。その先に隊員がいる」
「わかった。おい、衝突回避アラーム、切っといてくれ。マイクが拾っちまう」
 ヘリは事故現場に近づいて映像を局のスタジオに送った。画面には絶壁のわずかな岩場に引っかかるように倒れている人影が映し出されている。この距離からでは生死はわからない。山岳救助隊のヘリは現場上空でホバリングを続けていた。赤と白に塗り分けられた機体に大きく1414という数字が見える。テレビ局のヘリは大きく迂回して現場から200メートルほど離れた位置で静止した。救助ヘリはなんとか絶壁に接近しようとするが、付近は強風が渦巻いているらしく容易に近づけない。ディレクター兼リポーターはインカムの耳を押さえた。
「はい。わかりました」彼は腕時計の秒針を見ながら声に出さずにカウントを取っている。
「事故現場から中継でお伝えします。深夜の爆破予告は悪質ないたずらだったようです。遭難者はゼンティス山頂から100メートルほど下の岩場に倒れています。REGAの救助ヘリが救助作業にかかっていますが、付近は強風が吹いており、救助は難航している模様です。救助信号は五時間前に受信されましたが、荒天のため今までヘリは飛べませんでした。遭難者の状態が気になります」
 カメラはズームアップするが、距離がありすぎて遭難者の細かい様子まではわからない。片腕が力なく岩肌にたれ下がっているのだけが見て取れた。ディレクター兼リポーターはここでマイクを切った。
「ありゃあもうダメだな」

第1章 運命の寓意

ワルシャワ エルサレム大通り

「わしは原理主義者なんかじゃないぞ」
 11月の薄曇りの朝、引退した王立芸術院名誉顧問と駆け出しの美術史研究員の二人は、タクシーでワルシャワ国立美術館に向かっていた。若いヴァーツラフの顔色がすぐれず元気がないのは、昨夜サー・ジェフリーにつきあって深酒したせいらしい。一方、今年で72歳になる老大家は朝から妙に溌溂としている。
「あいつらはやみくもに科学を攻撃しとるがな、わしは違う。あくまでも合理性を重んじとるだけだ」
「はいはい、そうでしょうとも」
 サー・ジェフリーはひと睨みでヴァーツラフを黙らせた。
「その証拠にだ、わしは修復に関しては大いに科学的手法を評価しておる。レーザーとかバクテリアとかな。ああした技術がなかったら、美術品の修復はここまで進まなかったろう。もちろん、その前提としてのドキュメンテーションの重要性は揺らぐものではないがな」
「じゃあなんだって、」
 マエストロの大声で頭痛がひどくなったのか、ヴァーツラフの言い方もついけんか腰になる。こうなると、付け焼き刃のマインドフルネスなど何の役にもたたない。
「何度も言っとるだろう、まだ精度が甘いんだ。しかもだぞ、検査結果を最終的に判断するのは人間じゃないか。いくら最先端の検査機器とか言ったって、しょせんは高価な虫眼鏡に過ぎんよ。それともなにか、きみは判断もAIまかせにするつもりなのか」
「え、」
 ヴァーツラフは目を見開いてしばらく考え込んだ。やっと頭が働きだしたらしい。「誰もそんなこと言ってませんけど」
「だが、突き詰めればそういうことだろう」
「ええと。AIですよね?うーんと、たぶんそんなことにはならないでしょう」
「ほう、なぜだ。なぜそうしてはいかんのかな、ヴァーツラフ・モラヴェツ君」
「それは…ええと、美の本質が人間を抜きには語れないからですよ。AIもまた、人間がアルゴリズムを設計したものにすぎないですし、AIが使うパラメータも人間が作ったものです。人間の代わりにはなれませんね。人間以外のものが美を判断することはできないはずです。少なくとも僕はそう信じてます」
 少しなまりの残る英語でヴァーツラフは必死に答えたが、芸術を考えることは人間とは何かを考えることだという、彼が常日頃プラハの職場で思っていることでもあった。
「なんだ、わかっとるじゃないか。なのになぜあんなウィーンの雌ギツネの肩をもつんだ」
 サー・ジェフリーは意地悪そうに笑っている。ヴァーツラフは小さくため息をついた。まだ頭がズキズキする。
「もともとプフィッツナー博士は判断に関与しません。正確な判断材料を提供するために参加してるんです。倫理の問題じゃないですよ」
「その判断材料を作るのもまた人間なんだぞ。あの雌ギツネは言うなれば、意思を持った電子顕微鏡みたいなものだ。それも相当性悪ときておる」
「プフィッツナー博士はたいへん優秀な専門家です。それは先生もよくご存知でしょう。去年、あんなことがなかったら…」ここでヴァーツラフはまずいことを言ったことに気づいて口ごもった。
「そうだな。あれは科学者や研究者としてというより、人間として許されることではない。実に嘆かわしく、恥ずべきことなんだぞ。わしのような自己犠牲と博愛精神に満ちた人間でなかったら、あんな雌ギツネなどとっくに追放されとる」
 巨匠は昨年のことを思い出してだんだん激昂してきた。「あんな奴をのさばらせておくような愚挙はだ、美術界にとって害悪にこそなれ…」
 ヴァーツラフはここで無理やり口を挟んだ。この状態を放置しておくとこれから顔を合わせるというのにすべてが台無しになってしまう。彼女のせいではないとはいえ、結果的に美術界の大御所に赤っ恥をかかせたのだから。少なくとも世間はこの一件が美術史の巨匠の引退を招いたと見ていた。
「ともかく、今回のような特殊なケースでは美術史家だけでなく分析の専門家との協同調査は有意義だと思いますが」
「ふん、公式見解というわけか。まあいいだろう。ということはだ、あの雌ギツネが分析したものをわしが最終的に判断する、それでいいんだな」
「最終的な判断はワルシャワも含めた協議によるものになると思いますが」
「そうなればこっちのものだ」
「え、どういうことですか」
「なあに、独り言さ」  
 タクシーは幅広いまっすぐな道路の端に停まった。横を見ると前庭の奥に巨大だが特徴のないモダニズム建築が広がっている。直線だけで構成された砂色の外壁が曇り空に溶け込み、どこか荒涼とした印象を与えていた。
「すいません、裏に回って関係者入口に着けてください」

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