三浦春馬さんの訃報について

私はあまり芸能人とか興味無いので、作品とか一切見た事ないんですけど。
ただ、テレビで見掛けたときに、ふと気になって。
この人、目の奥がめちゃくちゃに暗いな。
この人"仲間"だな。死にたいんだな。
こんなにイケメンに生まれて、こんなに華々しく活躍して、それでもこんな瞳の奥が闇みたいな色になる人、いるんだな。
そんなことを思いました。
ドラマとか写真だとそうでも無いんですけど、番宣とかのちょっとした時の目の色の異様な暗さに、初めて見た時は驚きました。
そして、謎の安堵感もありました。
あぁ、絶望は自分のところだけでなく、どんな世界の人の所にも転がってるんだなって。
たしか3~4年前の話だと思います。
なので、今週、ネットニュースで事件を知った時は、驚きよりも先に
「あぁ、ついに…」
という、なんだか、海外移住したいね、とお互い話し合った人から、先に行くよと渡航の報告を受けたような気がしました。
ただ、彼のニュースを見ながら、自殺未遂をした人の手記にあった「若いと元気だから、そう簡単には死ねない。一発で達成するためには、上手いことやらないといけない。」という言葉を強く思い出して。

創作の影響で、命の沙汰を決める決意の瞬間は、ものすごく暗い心で、こんなはずではと泣きながらみたいなイメージあるかもしれないけど、実際には、安堵が大きいそうです。
あぁ、これで、ようやく。という安堵。
でも、完了までは相当大変で、余りの大変さに、やってる最中に心変わりすることもあるそうで。
なので、救われたのだろうか。最後に安堵できただろうか。
そうであってほしいと、切に感じました。

なんてこと言うんだと、思われるかもしれないけど。
もう、そういうことを望んで、昨日今日の話じゃないのは確かなわけで。
何年も何年も頭の片隅にあって、疲れてるんだなとか、最近思うこと増えてきたな、とか、明日は○○があるしとか、さすがに良くないなとか、ふいに誰かの顔が脳裏によぎったりとか、そういうたくさんの日々があった上で、行き着くところまで行ったんだろうなと、分からなくもないんですよね。

このニュース、Twitterでも色んな人が意見を述べてて。
電話して欲しかった。
逃げて欲しかった。
助けを求めて欲しかった。
他に道があること見て欲しかった。
どれ見ても、いやいや、そんな元気あったら、死なないですよ。って話なんですよね。
助けてと、たった四文字を伝える労力よりも、自分を消す労力の方が、軽くなったとき。
未来にある輝きより、今ここで得られる消滅の方が、温かく心に響くとき。
人は、それを果たすんだと思うんですよね。
この世にある全てより、その「救済」の方が強いから。
何年考えても。思いとどまっても。
それ以上のなにかが見当たらないから。

この世の何よりもそれを求める人を、止めるのって、出来ますかね。
心から人生の救いをもとめる人を、他人ごときが責任取れもしないのに、横から口挟むなんて。
私は追い詰められた時の「救済」の価値がいかほどか、もうこの世に「救済」以外残されていない時の絶望がいかほどのものか、わかる気がして、気安く止められないと感じます。

ネットの記事程度のことしかわかりませんが、
本人は、こうなることを、かなり早くから感じていたみたいなんですよね。
そして、その頃だったら、まだ沢山ある未来にの道筋から柔軟に選べたはずなんですよね。
まわりもなんとでも出来たはずなんです。
もっと早くひと声かければ、こういった未来は避けられたかもしれない。
実際のところは分かりませんが、事務所が望む「ドル箱として活躍し続ける道」と本人が望む「引退」の間って、本当は沢山の落とし所があったはずで。
そこに「死」はなかったはずなんですよ。
病気と一緒ですね。
初期なら色んな治療法も取れるし、死亡率も低いけど、末期になってからじゃ、初期に使ってれば効いた薬も今はなんの効果もなく、今更手の施しようがないってあるでしょう。

じゃあなんで、それがなされなかったのか。
Aviciiが死んだ時と、全く一緒なんですよね。
何回も限界だって周りに言っていたのに。
おかしな予兆はあったはずなのに。
それも、全く興味無い、私のような一視聴者の記憶に留まるほどの予兆が。
それでも、周りにとっては「彼のコンテンツ価値、商業価値」が大事だったのでしょうか。
彼への追悼の言葉を見ても「偉大な才能が」「役者としてもこれからと言う時に」なんてみるたび、悪気はないのでしょうが、ひしひしと感じます。
そういう中で、「人間としての彼」は置き去りにされて。
誰が悪いとかではなく、なるべくして、なった話のような気がしますね。


何年か前、父に言われ、ブログに書き留めた言葉を、引用します。

「頑張ること、目的を持つことが+だとしたら、頑張らない、目的を持たないことは-になる。
でも実は、そのあいだにすごく薄い±0の「普通」がある。
社会は努力と成長を求めるから、その普通という踊り場は、上に行くか下に行くかの岐路に感じるし、時には踊り場なんてないように社会は見せてくる。
頑張らなければ脱落だぞと。
でも実は、社会という軸でなくて人生という軸で見ると、その踊り場があるって認識することはとても大事だし、そこ自体にいるという選択も取れる。
踊り場にいるのが一番いい選択や、上に行く必要はあるんだけど、その前にひとまず踊り場から周りを眺めないといけない局面も、人生にはある。」




なんで、大して知りもしない方の死のことを書いたかといえば、それは、私の今の人生のすぐ隣に、彼のような選択があったからだと思います。
逆をいえば、もっと早いうちに、彼の周りにこのような言葉をかける人がいれば、なにか違ったのかもしれません。
インターネットの片隅から、まだこの世に生きている、数多の名もなき、三浦春馬さんに、この言葉が届くことを願います。

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