「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」というお話(48)
また更新間隔が開いてしまいました。
家族がコロナを患い、私もそれをもらい、しばらく寝こんでいたのです。
コロナ感染は初めてでしたが、想像よりもキツかったです。
誰も重症化せず、年末年始にもかからなかったのは良かったのですが、先月予定していた体内検査が1月まで先送りになってしまったのが残念です。
手持ち無沙汰な中、ケーブルTVで見たTVドラマ「復讐人アーギャフ(2018年トルコで公開)」が面白かったです。
スウェーデン版の「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」もそうでしたが、存じ上げない役者さんたちが馴染みの無い言語、文化圏で繰り広げるドラマはとても興味深いものです。
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今回も、引き続き、具体的なヒロセ車を通し、オーナーさんと廣瀬さんとの関係性をご紹介して行きたいと思います。
前回までは、個々の工作や自転車の設計的特徴等に焦点を当ててのご紹介でしたが、今回は少し視野を広げ、オーナーさんと廣瀬さんとの人間的関係性について、あれやこれや、記して行きたいと思います。
それも、オーナーさん側からの視点だけでなく、廣瀬さん視点も交えて。
平たく言えば「『ヒロセ車のオーナーさんたちの自転車ライフ』が廣瀬さんによって豊かになっていたように、廣瀬さんもまた、オーナーさんたちによって人生を豊かにしてもらっていたよ。」というお話です。
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設計にまつわること 34 「オーナーさんという最重要パーツについて その11 オーナーさんの個性が具現化したヒロセ車 - C」
4 「A氏の場合」の続き
前回、A氏が、ご自身2台目、3台目のオーダー車において、「LEDライトのヘッド部分」と「ダイナモからの電気をLED用に変換する基盤」を自ら製作されたことをご紹介しました。
A氏はこのことで、その電飾まわりの工作能力を廣瀬さんに高く評価され、他のオーナーさんたちのオーダー車用電飾工作も担われるようになりました。
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他ならぬ、私のランドナーのライト用基板もA氏の手によるものです。
私のランドナーは、シートステーに設置されたダイナモが電源で、フロントがLEDライト。リアが分割式泥除けの後部に設置された豆電球式ライトという仕様です。
上は私のランドナー、フロント周りの画像。
左がダイナモを電源とするLEDライト(元は他のお客さんのママチャリについていた廉価ライト)。右は市販のLED懐中電灯です。
下はリアライト周り他を工作している廣瀬さんと車体全体を写した画像。
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A氏によるこうした「お手伝い」が、はたしてどういう条件、契約の下で、発注、受注が行われていたか、私自身は存じ上げません。
しかし、A氏にはヒロセさんが認める技量があり、A氏は廣瀬さんから依頼がある都度、快く、作業を引き受けてらっしゃいました。
このA氏の例だけでなく、ヒロセにおけるオーナーさんとビルダーさんとの関係性は、「オーダー車が納品されたらおしまい」とならない場合が多くありました。
自らの技量をお店に差し出すオーナーさんはA氏だけで無く、多くのお客さんが、自らの得意とする領域でヒロセさんを助けられていたのです。
オーナーさん達によるヒロセへの様々な貢献
「支払いが終わったら、もうそれで売り手と買い手との関係性は終わり」ではない、というのは多くの自転車ショップ、自転車工房でも一緒だと思います。
自転車という商品は、買った後も調整や、消耗品(タイヤ、ブレーキパッド、チェーン、バーテープなど)の交換なんかが欠かせません。
最初に本体を買ったお店に満足出来ているなら、以降もそこであれこれ済ませられれば、それにこしたことは無いでしょう。
購入やメンテの履歴を知ってもらっていれば、購入後に出た新製品が自分に合うか否かをお店の方に判断してもらいやすいですし。
ヒロセの場合、変速機やバッグアダプターといったオリジナルのパーツが存在し、その調整や仕様変更といったものはヒロセ以外では難しく、また、既に世間では忘れられてしまったような古い古いパーツの調整は、若い方が運営される店では難しい場合が多いので、その意味において、繰り返し来店される常連さんが多かったように思います。
また、自転車店は、パーツや装備の相談だけでなく、乗り方、漕ぎ方、さらには自転車旅行のコースといった相談までが行われる場所でもあります。
ヒロセにも、連休の前になると走行コースをどこにしようか相談に来られ、休みが終わるとその旅行の土産を手渡すという口実で、自らの武勇伝を廣瀬さんに伝えるため、再来されるパターンが間々ありました。
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ヒロセのオーナーさんと廣瀬さんとの間には、こうした一般的な自転車ショップの関係性から、もう少し踏み込んだ、深い関わり方があったように私は感じています。A氏の電飾工作のように。
それらを一言で言えば、「オーナーさん側からの得意分野でのヒロセへの貢献 自らのテクネ(技術知)の提供」となるでしょうか…。
廣瀬さんは、オーナーさんに対し、自らが保有する知識、技術の全てを使い、オーダー車を提供する。
オーナーさんは対価として金銭を支払うだけでなく、自らの持っている知識、技術の中でヒロセに貢献できるものを提供する…。
A氏に限らず、そういう方が多かったように思うのです。
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例えば、デザインが得意なオーナーさんは、ヒロセを周知させる為のリーフレットや、ノベルティー的なグッズを作られてはお店に貢献されていました。
下の画像は、そのリーフレットの表裏。
私がお店に出入りするようになる前に作成されたもので、私がHPを作るにあたって、大いに刺激を受けた「作品」です。
下の画像は、お店の35周年と40周年を記念してデザインされたロゴと、それらをベースにしたフレーム用シール。これらもオーナーさんのテクネです。
下は、私の手元にあるオーナーさんの手によるノベルティーの一部。
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こうした形として残る貢献だけで無く、オーナーさんたちによる、多くの助言やアドバイスによっても廣瀬さんは助けられていました。
ある電気技師のオーナーさんは、お店の電源周りの改善へのアドバイスをされていた。
ITが得意なオーナーさんは廣瀬さんのPCまわりやネット環境を整備し、公式HPを作られたりされていた。
「関西にある銀行のお偉いさん」は、廣瀬さんがお店の権利関係の法律を調べるにあたって相談に乗ってくださった。
また、こうした具体的な利益があることだけでなく、知的好奇心への刺激といったことでもお客さんは廣瀬さんを豊かにしていました。
廣瀬さん「なんでそんなこと知ってるの?」というオタッキーな、狭い専門領域の知識を、豊富にご存知だったのですが、それは、往々にして、それを専門、あるいは趣味とされているオーナーさんから仕入れた知識でした。
お客さんの経験や知識により、廣瀬さんの知識は増え、豊かになっていった。こうして広まった教養は、次からは営業トークとして活用されていった。
廣瀬さんはお客さんの自転車ライフを豊かにするという一方通行では無く、お客さんから、ご自身の人生を豊かにしてもらっていたのですね。
オーダーメイドのお店における客と売り手との関係というのは、商売的には一対一なんですが、廣瀬さんの後ろには、それまでに親しくなったオーナーさんたちの存在、積み重ねがあったわけです。
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もっとも、こうした関係性は、廣瀬さんに人望があるだけでなく、廣瀬さん自身に人を見る目が無いと成立しません。
「無料でやってあげるよ」という口だけは達者な相手に、いざ任せてみたら酷いことになってしまった、なんて例は、世の中、そこらじゅうに転がっていますからね。
まずは会話を重ね、その人の自転車に対するアプローチから、その人の人となりをあれこれ推察し、信頼できる相手と思ったら、そこで初めて何かを依頼してみる。
と同時に、自らが一旦相手のテクネを評価したら、相手に任せ、委ね、よほどのことが無い限り、自らは口を挟まないという、わきまえた行動もなされていた…。
廣瀬さん、お元気な時分は、この辺りのバランスがとても優れていたように思います。
私は、廣瀬さんから、動画やネットで廣瀬さんのお仕事を紹介することを任されました。
廣瀬さん、私が作ったものを見て、自転車用語の単純な間違えや字幕の誤字脱字を指摘して頂くことはありましたが、何をどう取り上げるか。つまり、テーマや表現について異議を唱えられたことは一切ありません。
当初から「あなたに任せるから、好きなように、思う存分やってください。」といった感じだったのです。
私は「ああ、自分は信頼されているんだね」と思い、だからこそ自由に遊べた…。自由な分、成否の責任はこちらにあるので、真剣にあたれた…。
A氏や、他の方々も、私と同じような有様だったと私は推察しています。
「あの廣瀬さんに信頼され、任されたのだから、一丁やってやろうじゃ無いか!」ってな感じで。
私はヒロセ以外の工房のことは全く存じ上げませんので、ビルダーという職業を一般化して語ることはできません。
ただ、オーダーメイド自転車のビルダーという職業は、良いお客さんと出会えれば、かように、とても豊かな人生を送れる職業の一つである… と、廣瀬さんを見る限りにおいては感じます。
それぞれの時代、環境で、大変なご苦労もあるとは存じますが、ぜひ自転車が好きな若い方には職業選択肢の一つとして考えて頂きたいものです。
走行会撮影におけるA氏の貢献
さて、A氏のヒロセへの貢献は電飾工作においてだけではありませんでした。
下の画像は「A氏1台目のオーダー車」に設置された、A氏手作りの映像撮影補助装置(バネが仕込まれているビデオカメラが設置されている台座)。2015年の走行会時に撮影したものです。
当時、既にGoProなどの小型アクションカメラやジンバルやスタビライザー(現在のような廉価なものは無かったと思います)なんかも登場してはいました。
しかし、A氏は、安易にそれらを購入するのでは無く、既にA氏の手元にあったビデオカメラ(前方撮影用)と動画も撮影できるデジタルカメラ(後方撮影用)を使い、なんとか似たような撮影結果を得ようと、個人で創意工夫し、作られた装置で、テレビや映画の撮影で用いられているステディカムと似た狙い、意味合いがありました。
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私は放送局でのディレクター時代、3回、このステディカムを使ったことがあります。
正確には、ステディカムを使ったカットを使用したくなり、カメラマンさんにこの装置を「着て」頂き、撮影をお願いしたことがあります。
レールを敷いたり、簡易クレーンを使用したようなカットが撮れるのですね。
1回目は、カール・ストーン(Carl Stone)氏という、都市に溢れる音をサンプリングしてはPCに取り込み、音楽を構築されていた現代音楽家の作風紹介のイメージカットの為、東京の雑踏を練り歩いての撮影。
2回目は北海道美術館で、学芸員さんの説明に合わせ、イサム・ノグチ氏の彫刻作品を舐め回すように撮影。
3回目は野球選手の人物伝バラエティー用に、ピッチャーが投げるボール目線の映像なんかを撮影。
当時の放送業務用カメラ(BETACAMを使用)は重く、この装置自体にもけっこうな重さがあります。いずれのカメラマンさんも汗だくになって撮影して下さいました。
今でもW杯サッカーやオリンピックの陸上競技といった大きな大会でステディカムが使われているのを見かけることがあります。
もっとも今なら、スマホを3軸のジンバル・スタビライザーに取り付ければ同じ効果が簡単に撮影できます。
四半世紀前と比べ、おそらく数百分の1程度の値段で、より高画質な動画撮影が実現可能。なんともすごい変化です。
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A氏は廣瀬さんに頼まれてこの装置を作った訳ではありません。
自ら、勝手に、廣瀬さんの解析、分析の為にもなればとの想いでアタッチメントを作られ、撮影をされ、撮影データを廣瀬さんに提供されていました。無償で。
走行集団の中からの安定した解析用画像の撮影というのはA氏が初めてだったのでは無いでしょうか?
A氏は、1台目のオーダー車が出来て以降、ほぼ全ての走行会に参加され、その都度、映像機器に工夫、改善をこらして撮影をされていました。
2台目以降のオーダーでは、はなからビデオカメラ用アタッチメントを付ける前提でオーダーをされていました。
車載カメラのための工作計画をあれこれ練るお二人は、とても楽しそうでした。
ヒロセの走行会における動画記録の変遷と意味
廣瀬さん、開店当初から晩年まで断続的に続けていた走行会では、常に、お客さんの走りを動画で記録されていました。
最初は8ミリフィルムに。
やがて8ミリビデオに。
晩年はSDカード等のメモリーに。
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動画撮影の意味ですが、これまで記して来たように、一義的には廣瀬さんが、お客さんの走りの癖、体の使い方の癖、つまり「体癖」を理解する為の記録でした。乗り手がオーダーする時の為の資料として。
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(A氏以外の)動画撮影は、並走する車から、あるいは、路傍に車を停め、路上から行われました。
近年の走行会は、廣瀬さんがコースを設定したコースを、参加者が各々のペースで走り、それを廣瀬さんが運転するクルマで追走しながら、トラブルが無いかをチェックするという形態をとっていました。
先頭から最後尾まで、時にはかなり距離が開いてしまうので、廣瀬さん、せわしなく先頭と最後尾をクルマで往復し、無事を確認しながら、同時に、参加者を満遍なく撮影しようとされていました。
ハンドルを握る廣瀬さんは撮影が出来ません。
そこで、クルマからの撮影は、もっぱら助手席の奥様がして下さっていました。
しかし、参加者の中には、自らは走らず、皆の撮影を手助けして下さる「奇特な方(廣瀬さんの弁)」もいらっしゃいました。
それがU夫妻です。
5 「U氏の場合」
旦那さんのU氏は、もっとも長い空白期間をおいて2台目をオーダーされたオーナーさんでした。
U氏最初のオーダーは1978年。2回目が2010年。実に30年以上の間隔があったのです。
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U氏は、2台目のオーダーをされた2010年以降、奥様同伴で走行会に参加されていました。
奥様は走られず、もっぱら廣瀬夫妻の乗る「サポートカー」に同乗され、撮影や、ドリンク、軽食の準備といったサポートをして下さっていました。
U氏ご自身も、裏方にまわって下さる回もありました。
U氏は、第46回でご紹介したK氏と並び、廣瀬さんのもっとも古くからのお客さんの一人でした。
まだヒロセが創業する前。「東京サイクリングセンター」時代からの。
以下、U氏のオーダー車を、ヒロセの歴史とからめご紹介していきます。
1978年製 U氏1台目のオーダー車
U氏は高校一年生の時、吉祥寺にある大学附属高校のサイクリング部に入部します。
この街には、廣瀬さんが従業員として働いていた「東京サイクリングセンター」がありました。
U氏、部の先輩たちからのアドバイスもあり、中学生のころからの憧れのブランドだった「東京サイクリングセンター」のブランド車「ゼファー」を購入されます。
下は、廣瀬さんが保存されていた1963年の「ゼファー」カタログです。
サイクリング部の活動は、普段は「陸トレ」で体力作り。土曜日に、吉祥寺から読売ランドや八王子あたりまでのサイクリングといった感じだったそうです。
部活の帰りに東京サイクリングセンターに寄っては、当時はいち店員だった廣瀬さんと頻繁に自転車談議をされていたとか。
この頃、廣瀬さんの紹介で、当時、慶應大学自転車部だった(第46回でご紹介した)K氏とも顔見知りになっていたそうです。
下のアルバムはサイクリング部の合宿風景とのこと。
U氏が高校三年の時、弟さんもサイクリングに入部され、弟さんは、廣瀬さんのお古のゴールデンゼファーを購入されたとか。
下の写真は、その一台を弟さんがメンテしている場面。
この自転車に付いているリア変速機の「シクロランドナー」は、廣瀬さんがサイクリングセンターの店主から無料でもらった日本上陸一号機だったそうです。
「鳥山氏の勧めで大量に取り寄せたのは良いが、マニュアルがフランス語で、はたしてどう調整して良いやら珍紛漢紛のこの変速機」を、「若造だが機械との対話が得意だった廣瀬店員に解析してもらうことで、目玉商品として売り捌きたい」というのが店主の狙いだったようです。
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U氏が大学生になった頃「サイクルストア・ヒロセ」が小平に誕生します。
新しく出来たお店では、弟さんのゴールデンゼファーの改造を手掛けてもらったことがあったそうです。具体的にはキャリアやFDの作り直しといった工作。
開店当初のヒロセではフレームとフォークの製作はしていませんでした。
他社のフレームに廣瀬さん自らがセレクトしたパーツを組み付けて販売したり、キャリアの製作や改造などを通し、フレーム製作にむけての技術を磨かれていた時期。
また、有吉氏と催す走行会を通し、自転車の探求、設計理論の構築をされていた時期でもありました。
K氏は当時の走行会に参加されていましたが、U氏が参加されていた記録はありません。
大学に入ったU氏はクルマにも惹かれ、もっぱらそっちに熱中されていたようです。
1978年、大学を卒業し、老舗の百貨店に入社間も無いU氏のところに、突然、廣瀬さんから連絡がありました。
「フレームとフォーク作りを始めたのでレーサーを注文してはくれないか?」というお願いの連絡でした。
U氏は戸惑ったことでしょう。
というのも、当時のヒロセに対するU氏、そして世間の認識は「鳥山新一氏の秘蔵っ子としても名を馳せた、組み上げやメンテナンスの技術力が高く、自転車に関する知識が豊富な店員が『東京サイクリングセンター』から独立して作ったお店」といったものだったように私は思うのです。
少なくともビルダーとしての実績はゼロ。この時点では試乗車さえ無い。ヒロセへのオーダー車注文は賭けのようなものだったと思うのです。
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廣瀬さん、「創業十年目を目処にフレームとフォークを作れるようになる。」ことを目標に、1970年の開店当初から必死に研鑽を積んで来ました。
キャリアを量産し、ロウ付け技術を磨き、他社製の事故車を切断し、分析しては、製作技法、設計方法を構築していた。
さらに走行会や整体の勉強を通じ、人間工学的な視座からのフレーム設計哲学も形成されていた。
しかし、誰にも師事しなかったので、世間的には、何のお墨付きもありません。
前の勤め先「東京サイクリングセンター」は自社ブランドを売ってはいましたが、その製作自体は、当時、既にフレーム製作会社として有名だった東叡社他の下請け。
お店にフレームビルダーはいませんでしたし廣瀬さんも違いました。
ただ、廣瀬さん、頻繁に東叡社に赴き、見学はされていたそうです。
やがて、東叡社で自らの自転車をオーダーするにあたり、芯出し方法や、製作手順に注文を付け、実際、職人さんにその通りやらせるほど、知識と信頼を獲得していったのだとか。
もしかしたら、ビルダーを開始するにあたって「東京サイクリングセンター」や「鳥山新一」の名前を看板に出したりすれば、素人さん相手にオーダーが取れることもあったやもしれません。
しかし廣瀬さん、自分に何ら落ち度は無いのに、理不尽な理由で吉祥寺を追放されたので、その名は使えないし使いたくも無かった…。
また、真面目な廣瀬さんからすれば、フレームとフォークを作り始めてしばらくの間は、ある程度「乗り味」のわかるU氏のような人に乗ってもらい、忌憚の無い感想を知りたくもあったのかもしれませんね…。単に売り捌ければ良いという感じでは無かったのかもしれません…。このあたりの真相は、今となってはわかりませんが。
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小平においてオーダーを開始することが認知されなかった理由として、営業が苦手という当時の廣瀬さんの性格もあったでしょう。
これまで記してきた通り、廣瀬さん、自転車やパーツとの対話は得意でしたが、人との対話は不得手。
営業トークなんて最も苦手とするところでした。笑顔と口車でオーダーを獲得するスキルなんてものは持ち合わせてらっしゃらなかった…。
こんな話があります。
当時、廣瀬さんの弟さんも頻繁に工房に出入りされていたそうです。弟さんはお店の工具や機械で得意のラジコン工作などをされていたんだそうです。
廣瀬さん曰く、弟さんと自分とは正反対。弟さんは手先が器用で、愛想も良かったそうです。親しいお客さんはこういって廣瀬さんを揶揄っていたとか。
「弟さんがいると工房が明るくなって良いよね。」と。
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こうしたさまざまな事柄が足枷となり、いざフレームとフォークを作る準備が整ったので注文を取りたいと思ったは良いが、なかなか注文を獲得できない日々が続いていた…。
だから、藁をも縋る気持ちで、高校生の頃から知っているU氏を頼ったのだと思うのですよね。
きちんと会社に就職し、収入があり、自転車を評価できる感性を持ったU氏に…。
U氏からすれば、崇拝していた「まるで自転車については知らないことが無いような大先輩」が、年下の自分に、頭を下げてまで注文をお願いしてくる様に、戸惑いと同時に、得も言われぬ迫力を感じられたのでは無いでしょうか。
結局、U氏は毎月1万円の分割払い、プラス、ボーナスとの併用という契約でロードレーサーを注文します。
当時の物価感は私には分からないのですが、まだ給料が安い新米社員にはかなり高額な買い物だったのでは無いかと推察します。
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下がU氏が1978年にオーダーされたレーサーの画像です。撮影は2010年頃。
オーダー当時はまだ「HIROSE」のデカールも無かったのでしょう。
ヘッドバッチも無かったはずですから、この写真のバッチは後から設置されたものと思われます。
U氏のオーダー車は、廣瀬さんが自らパイプをロウ付けして作った6台目の自転車。ヒロセのオーダー6号車でした。
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この連載の第13回でも軽く触れていますが、ここで、6号車までのオーダーメイド車を振り返っておきます。
廣瀬さんの手で、パイプのロウ付けから作られたオーダーメイド車、ヒロセ1号車は子ども車でした。1977年の製作。
内外の高級車を研究し、ロウ付けや金属加工の技術を磨き、理論的にもバッチリなはずだったのに、この自転車、ちっとも良く走らなかったとか。
また、オーダー車1号というと聞こえは良いですが、この自転車のオーダー主は息子さんという「てい」。
ゆえに出来が悪くてもキャンセルはありませんでしたが、廣瀬さん、創業から7年、フレームとフォークを自作するために構築してきた作り方や治具等の見直しを迫られることになりました。
廣瀬さんの構築された理論と実践には、まだ、開きがあったのですね。
ちなみに、この車体、前変速機にはカンパが使われていますが、小さなチェーンホイールには羽の部分が長すぎたそう。
そこで廣瀬さん、焼き入れがしてあった羽部分を「焼き鈍し」してから短く切ったそうです。
この1号車、息子さんが大きくなられてからは、他所のお子さんに引き継がれたとか。
廣瀬さん、「今も何処かで走っているかもしれないね。」と仰っていました。
*
ヒロセ2台目のオーダー車は奥様用でした。
下は2010年の展示会で3台目と共に展示された時の画像。
奥様の洋子さんは健脚で、女性ロード選手のはしり。当時は女子選手の存在自体が珍しかったのでNHKの取材を受けたこともあったとか。
下はヒロセ3号車の画像。
2台目も3台目も1978年製。6台目のU氏の車体も同じ年の製作だったことを鑑みると、廣瀬さん、かなり早いペースで作られていたことが伺えます。「量は質を産む。とにかく経験だ。」とばかりに量産されていた…。
廣瀬さん曰く、3号車あたりから、ようやく「良く走る自転車」を作れる手応えが得られたと振り返ってらっしゃいました。
しかし、その手応えが、そのまま世間一般に伝わる訳も無く、相変わらずオーダー車の注文は入らない…。
前のお店や、競輪まわりから爪弾きにされ、所謂業界からは孤立していましたし、小平という田舎の立地でしたからね…。
U氏他に頭を下げてでも、一台でも多く作り、腕を磨き、一刻でも早く、他所より「良く走る」自転車を作れるようになりたい…。しかし気ばかり焦る。
ビルダーとしての廣瀬さんの苦闘は6号車以降もしばらく続きます。
フレームとフォーク作りを含めたオーダー車製作で食えるようになるには、まだまだ、長い年月が必要でした。
*
住居も会社も都心にあったU氏、オーダー後しばらくは、毎月の支払いのため、小平に通ってらっしゃったそうです。しかし、完済後、仕事も忙しくなり自然とヒロセから足が遠のいてしまったとのこと。
その後、U氏は関西に転勤されます。
転勤先では6号車をフラットハンドルにして楽しんでらっしゃったそうです。
U氏が廣瀬さんが日本有数のビルダーとなっていることを知ったのは、だいぶたってから。再度の転勤で東京に戻られた後だったとか。
時は流れ、日本で何回目かの自転車ブームが到来。
セミリタイアしたU氏、サイクリング熱が再燃し、6号車を改造しにヒロセを訪問。これが2010年頃。
以降、健康維持も兼ね、頻繁に都心のご自宅から小平まで遊びに来られるようになりました。
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U氏は、パーツを新しいものに交換するなどされながら、今でも、この6号車に乗り続けてらっしゃいます。
そしていつも、まるで展示品のように、とても綺麗にされています。
トップチューブを見ると、使っているうちに、長いブレーキアウターケーブルがズレてしまう問題を改善する為、黒いタイラップが有効に活用されているのがわかります。
「タイラップは白いやつより黒いやつの方が劣化が遅いんだよね。なるべく黒を使うと良いよ。」とは廣瀬さんの談。
2010年製 U氏2台目のオーダー車
2010年、U氏は2台目のヒロセ車をオーダーします。
前回の注文から、実に30年以上の時が経過していました。
前回の注文時、廣瀬さんは、レーサーしか作っていませんでした。
当然、当時もランドナーやスポルティーフといった車種は存在していましたし、ヒロセでも、他所製のフレーム用にキャリアなんかも作られていたのですが、廣瀬さんの中では、「複雑な自転車を作る前に、まずは最もシンプルなレーサーをしっかり作れるようになる。」という自らの決め事があったのですね。
ランドナーにもスポルティーフにも、泥除け、キャリア、ダイナモといった旅に便利な工作が不可欠です。しかし、その工作によってフレームの精度出しは難しくなります。
火を入れる箇所が増えれば、パイプが歪む回数は増え、芯出しは難しくなるからです。
また、キャリアを設置することで、剛性にまつわる変数が増え、車体全体の剛性設計は複雑になります。
キャリアの設置によって増える分の剛性をフレームの剛性から引いてやらなくてはなりませんが、その加減をするには、まずはフレームを狙った剛性通り作れるようにならなければいけません。
工作やパーツが多ければ多いほど、出来上がった自転車が「良く走らなかった」場合、その原因を追求するのが難しくなる…。
だから、まずはシンプルなレーサーを量産し、自分の中で剛性の基礎となるフレームとフォークの剛性基準を作っていったのですね。
廣瀬さん、最晩年、私に「ヒロセで自転車製作教室をやろうか?」と持ち掛けられていたのですが、その話の中でも「ビルダーを目指す人は、まずは工作やパーツの少ない、いたってシンプルな車体を作るのが良いよね。」とおっしゃっていました。
*
U氏は30年以上ぶりのオーダーにスポルティーフを選びました。
廣瀬さんには、オーダー前、「退職後を見据え、70歳まで楽しく乗れるように作って欲しい。」との希望を伝えたそうです。
発注時、U氏が参考にされたのは雑誌で見かけたTOEI車だったそうです。
もっとも、この件は、廣瀬さんには内緒だったそうですが…。
上はU氏が参考にされた誌面。
下が完成したU氏2台目のオーダーヒロセ車。
出来上がってみると、U氏としては雑誌のより数段格好良く、操舵感覚、乗り心地等、全てにおいて最高な一台だった、と感想を述べられていました。
U氏のオーダー1台目(ヒロセ6号車)完成からおよそ30年間、弛まず技術の向上に努めた廣瀬さん。
泥除け、ワイヤー内蔵、削出しリフレクターといった新たな工作が可能になっただけでなく、芯や各ラインの精度、残留応力を極力排除したロウ付け、一人一人のオーナーに合わせた剛性感や「乗り味」の演出など、写真では伝わらない部分にも、その製作スキルの進化、深化があったようです。
U氏、70歳を超えられた後も、この一台を堪能してらっしゃいます。
ちなみに、私が初めてU氏にお会いしたのは、このスポルティーフが完成した直後のことでした。
2013年製 U氏3台目のオーダー車
スポルティーフの出来に感動したU氏。
すかさず、ランドナーも発注されました。
ヒロセのオリジナル工作やオリジナルパーツ満載の一台。
と同時に、現代的なパーツも活用し、古い意匠と利便性とのバランスが取れたランドナーです。
下はこの車体の組み上げ工程を記録した画像。
U氏の二台目、スポルティーフは、私が工房に出入りするようになる前の完成だったので、製作過程を拝見することはできませんでしたが、この一台は、製作工程を拝見することができました。
下は、この一台の製作中に撮影したもの。
フォークにちょっとしたデザイン加工を施している時の画像です。
この工作をしている廣瀬さんに、いつもと異なる雰囲気を感じたことを私は覚えています。
サンダーで肩を削っている廣瀬さんの横顔が、いつも以上に真剣なように、私には思えたのです。
「廣瀬さん、このU氏の一台を、いつも以上に心を込めて作られている。」そう感じたのです。
この部分の工作だけでなく、シートステーの二本巻きの隙間部分の間隔具合なんかも、とても時間をかけ、丹念に、懸命に調整されていました。
当時はその理由がわからなかったのですが、上記の6号車発注の経緯を知るにつけ、なんとなく廣瀬さんの心の内がわかったような気になりました。
廣瀬さん、心のどこかでU氏に借りや恩があるように思われていたのだと私は思うのです。
昔オーダーをしてもらった借りが。まだ実績の無い自分に賭けてくれて恩も。
それに報いるために、精魂込めて作られていたように思うのです。それもU氏には見えないところで。
ですから、すこし我田引水気味ではありますが、この一台もまた、「U氏の個性が具現化した、二つとないオーダー車」だと言えると思うのですよね。
ビルダーも人間です。誰の自転車に対しても、手を抜かず、まったく同じように作っているつもりでも、どうしても違いは出てしまうというもの…。
*
廣瀬さん、U氏に限らず、古い古いお客さんに対しては、昭和の体育会系部活動の先輩と後輩のような態度をとられることがありました。
傍で聞いている私がびっくりするほど横柄で、きつい言葉を廣瀬さんが相手に対し、投げかけられたりしていたのを私は目の当たりにしていました。
特に「東京サイクリングセンター」時代からのお客さんに関しては、出会った当時の年齢での関係性のまま応対されることが多々ありました。
すっかり大人になり、高い社会的地位を得られた人々に対しても、出会った当時のままの扱いをされる…。
そして、また、その言葉を受けるお客さんの方も、それをごくごく自然に受け入れてらっしゃった…。
まるでおじさん(お爺さん?)ふたりが、心の中だけで青春時代にタイムスリップしているような、なんとも不思議な光景でした。
*
U氏に対しても、廣瀬さん、お二人が出会った、U氏が高校一年生のままのような感じで応対されているような節がありました。
さらに、それだけで無く、廣瀬さん、U氏に対し、どこか拗ねたような、わざと突き放す感じで接するところがありました。
もうすっかり良い大人のUさんに対し、辛くあたってみたり、邪険にしたり。
そう、U氏の前で廣瀬さんは、どこか子どもっぽくなっていたんですね。
側から見ていると反抗期の子どもが、憎まれ口を叩くことで親に甘えるような感じでさえありました。
これも「6号車での借りや恩」から来る態度だったように、私は感じています。そして、そこに、廣瀬さんの、ある意味、人間的な一面を見た気がしています。
一方、U氏は、どんなことを言われてもサラッと受け流されていました。
廣瀬さんの内実は実に義理と人情の人である。そのことを見抜かれているようで、どんな憎まれ口を叩かれようと、それらをさらっと受け流され、けろっとされていた…。じつに大人な感じでした。
*
廣瀬さんの「特定の世代に対する興味深い距離感」は他の世代に対してもありました。そのひとつが私やA氏の世代に対してでした。
私やA氏は廣瀬さんのご子息とあまり変わらない年齢。廣瀬さん、そういう世代のオーナーに対しては、どこかご自身の子どもや、その友人に接するような態度で応じているような印象がありました。
だから工房において、全く同じようなことをやらかしたり、軽口を叩いたりしても、U氏ら世代に対しては厳しく、我々世代には甘かった。
「かつての廣瀬さんは尖っていて、怖かったんだよ」と言われても、我々には、ちっともピンと来ないのには、こんなところにその理由があったように、私個人はとらえています。
今回のまとめ
以上、A氏とU氏の自転車を見ながら、ヒロセへのお客さんによる貢献や、人間的な関係性についてご紹介してきました。
今回取り上げさせて頂いたお二人に共通するのは「走行会における撮影での貢献」でした。
走行会の撮影が誰の為に行われていたかと言えば、一義的には「お客さん各々の『体癖』に合致した自転車を製作したい」廣瀬さんの為。
「人体と車体にまつわる動画データ収集、蓄積」の為でしたが、同時に、参加する皆様の為でもありました。
撮影は、彼、彼女らが、走行会で乗っているオーダー車に不満があり、その改善を廣瀬さんに求めた場合、より適切なフィッティングを可能にする為の資料(サドルやハンドルの位置やパーツ選択の見直しなど)。
その延長で、参加者が、次回ヒロセでオーダーする事があれば、今よりももっとその人にぴったり合った自転車を作る為の資料(ジオメトリや剛性設計からの見直し)。
さらに、廣瀬さんが参加者からライディングへのアドバイスを求められたら、漕ぎ方などへの助言を行えるようにする為の資料でもありました(ライディングフォームや日頃のトレーニングの見直し)。
無論、オーナーさんご自身が自らのライディングを探求する為の資料でもありました。自らの走りを客観視することで自らのライディング技術を向上させる為の。
ところが、参加者のほとんどは「廣瀬さん、きっと記念として走行風景を撮っているんだろうな〜。」と、他人事に捉えていたように思います。
つまり、走行会の撮影が「ご自分の為にも行われている」という自覚が希薄だったように、私には見受けられました。
廣瀬さんは、A氏、U氏の映像記録への貢献にとても感謝されていました。
と同時に、撮影に込められた意味に気づかない人々に対し、それを知らしめ、その鈍感さを論(あげつら)うようなこともされませんでした。
「気付かないのなら仕方が無い。それもまたその人の個性。無理矢理知らしめて恥をかかせても可哀想。」
廣瀬さんは徹頭徹尾そういうリベラルなスタンスの方でした。
そして、そのスタンス、つまり人の内心には立ち入らないという意味で、実に平等にオーナーさんたちに接してらっしゃいました。
だから廣瀬さんができるのは、A氏やU氏から何か注文を受けた際、撮影手助けの感謝の気持ちを込め、最大限の誠意をもってことにあたることだった…。
側で見ていた私は、今、そんなふうに感じています。
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私は、ヒロセの走行会が終わる都度、そこで撮影された画像を編集し、CD-ROMやDVDに焼いて、参加者人数分プラスアルファのコピーを作ってはヒロセに置いておいたり、限定公開のYouTubeにて配布させて頂いたりしていました。
廣瀬さんに促されて。自分が参加していない走行会の場合も。
しかし、これもまた、多くの参加者からは、私が単に酔狂でやっていることと受け止められていたようです。
廣瀬さんからすれば、参加者が、映っている自らの走りに疑問を持って、質問してきたり、次回のオーダーの参考になればと思い、私にやらせていたことだったのですが、そういう視点で捉えていた方は、ほとんどおられなかった…。
廣瀬さんが伝えない撮影の意味を私が言うのは憚られましたから、私も配布の意味について自分からは何ら言及はしませんでした。
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以前も記しましたが、晩年の廣瀬さんは、お客さんに有吉氏と構築された自転車用「体癖理論」を伝導するどころか、それについて、ろくに語りもされませんでいした。
でも、廣瀬さん、内心、お客さんからライディングにまつわる質問を期待しているような雰囲気がありました。
工房で、私と二人、走行会の記録映像を見ていると、映っている人の走りについて「この人は、こうだ。」「あの人はああだ。」と乗り手の「癖」を指摘する言葉がポンポン出てくるのですね。
いろんな人に助言したくてうずうずしているけど、求められない限りはそうしないと決めているから自分からは伝えない…。
このあたり、廣瀬さんのアンビバレントで、人間的な部分だったように感じています。
でも、オーナーさんたちに、自分自身のライディング、個性に興味を持ってもらおうという気持ちが無ければ、下準備が面倒で、自腹出費もかさむ走行会を開き、自らビデオを握り、編集したものを配布させたりはしないでしょう?
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フィルム、ビデオ、デジタルに関わらず、廣瀬さんの撮影する走行会の記録映像は実に退屈なものです。
基本的には車の中から、走行する人を背中から追いかけ、抜き去るだけ。
それもブレが目立たないよう、ある程度広い画角で。
撮影主体は小さく写っているだけで、とても、パーツのグレードやメーカーなんかは判別できません。
時にはフロントガラスに車内が映り込んだり、サイドミラーが見切れているなんてこともある…。
つまり、走行地の風景を楽しみたい人、一台一台の自転車の違いを観たい人なんかからすれば、ちっとも楽しめない動画なんですよね。
しかし、この撮影法、乗り手の「体癖」を診る、という観点からすれば、その見識がある人が見たならば、確かに、乗り手の特徴、個性が判別できるもの。
素人の私が見ても、個々人の上半身の動くベクトル、膝の開き方、足首の角度といった差異が判別できます。
編集する身としては、単なる「走行会の思い出ビデオ」なら、走行シーンのうち、格好良くとてれている部分だけを抜き取り、合間に休憩中皆が楽しそうに歓談していたり、風景が綺麗なカットなんかを繋げば良いのですが、廣瀬さんがライディングフォームを分析する為の資料となると、そういう訳にもいきません。お仕事で使う資料なわけですからね。
誰かが走っている姿が映っているシーンは、たとえ画面が斜めになっていようと、ピントが外れていようと、それが「体癖」がわかるカットと思われる限り、全て使わなくてはならない…。
結果、出来上がりの尺はひたすら長く、内容も「自分や他人が走るフォームの違い、癖」に無頓着な方々には酷く退屈なものになってしまっていました。
ですから、私が編集した画像を見たほとんどの方々が、「出来損ないの記念品」的に捉えてらっしゃったとしても、それは無理からぬことなのですよね。
晩年の走行会は5月と10月の末に行われることが多く、その数週間後、「上映会」とか「飲み会」とか呼ばれていた催しが開催されていました。
私が配布用に編集した走行会の映像を見ながら飲食する会です。
場所はヒロセの二階。つまり廣瀬さんのご自宅。
しかし、ここでも、画面を見て、個々人の走りの違い等を比較検討するような方はおらず、それどころか、ろくに画面を見てさえいない方が多かった。
「飲み会」の席、映像にタイトルテロップやBGMなんかを入れて上映会に備えた私や、撮影に尽力されたA氏やU氏に対し、すまなそうな、申し訳無さそうな表情を向けられていた廣瀬さんの表情を懐かしく思い出します。
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晩年の走行会に参加するオーナーさんたちは、廣瀬さんを優れたビルダーさんとして尊敬し、サイクリング先や装備に関しての適切なアドバイスを下さる大先輩として敬愛されてもいました。
しかし、ほとんどの方が、廣瀬さんのことを、乗り方や、ライディング理論を教わる対象とみなしてはおられなかった…。
廣瀬さん自らがそれを喧伝されないことを選ばれていたから「体癖理論」の存在なんて知りえない。ゆえに、誰もそれを教わることが出来る相手と認識されえなかった…。
ですから、近年、走行会に参加した後に、ヒロセ車を発注した人々は、廣瀬さんがその方々の「体癖」をどう分析し、フレームとフォークのどこに、どういう、他者とは異なる味付けを施したかをご存知ない人がほとんどなのでした。
しかし、私は、こここそが、実は、廣瀬さんがヒロセ車のオーナーさんたちにわかって欲しかったことなのでは無いか、と思っています。
人の走りにはそれぞれ個性がある。
ヒロセは、その各々の個性にあわせて一台一台自転車を製作している。
まずは、自分の個性を知って欲しい。
それを理解した上でヒロセの作る自転車を評価して欲しい。
決して自らそうは言わないが、それに気づいてくれる人を待っていたのでは無いだろうか…。そんな印象を持っています。
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廣瀬さんが生涯を通して探求されていた「オーナーさん毎に異なる乗り方、『体癖』の差異を鑑みた自転車提供」という視座。
個人的には、将来、これがテクノロジーの助けによって、自転車売買における一般的で、有用な物差しの一つになってくれると良いな、などと夢想したりしています。
遠い将来ではあるかもしれませんが、廣瀬さん的視座が、より、深い科学的、データ的裏付けを得て、誰もが使える手軽で身近な知識、ノウハウとしてして広まってくれたらな、と。
というのも、近年、その方向で使えるテクノロジーの進化、深化が、映像機器の廉価化や、PCのデータ処理能力向上、ネット(通信)の普及により、いろんな領域で進んでいるように感じているからです。
大きな括りで言えば「科学の眼(scientific visualization)」とビッグデータの解析となるのでしょうか…。
例えば「歩く」という領域で考えてみましょう。
防犯カメラの進化は目を見張るものがあります。映る人の歩き方をAI解析することで映っている個人が特定できる技術。
これが成立するのは人それぞれ、歩き方に「癖・特徴」、つまり「体癖」があり、それを見極めるところまでテクノロジーが来ていると言うこと。
足裏の圧力を感知するセンサーや、心拍数のリアルタイム計測なんてものもまた、歩きの研究で使われる「科学の眼」ったりしますよね。
今はまだ、各研究が統合されておらず、単に個人特定や、個人の日々の体調比較に使われているだけかもしれませんが、やがてデータやアルゴリズムが有機的に結びつくことで、その個人の体癖、体調に合わせた「より疲れない歩き方指導」なんてものに応用される日が来るかもしれません。
スマホで歩き方を撮影すれば、しかるべきソールの硬さや歩き方をアプリが指導してくれたりとか。
自転車においても、廣瀬さんと有吉氏の自転車用「体癖理論」によるアドバイスや、フレームのサイズ、剛性選択のフィッティングのようなものが、スマホのカメラとアプリだけで簡単に実現できたりする未来が来たら楽しいだろうな、と。
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A氏のようなアタッチメントにスマホを設置し、友達同士、お互いの走行を後ろから前から動画撮影し、アプリで解析することで、その人の「体癖」が分かり、それに応じたトレーニングやポジションの修正を提案してくれるアプリ。
正面からの映像の歪んだ表情と、スマートウォッチ計測による心肺データと、クランクに設置されたセンサーの歪みデータなんかを総合的に勘案し、乗り手の「辛さ」を解析してくれたりとか…。
有吉氏と廣瀬さんが収集できた「車体の剛性やポジションと乗り手の脚力を把握した上でのライディング動画のサンプリング」は、自らが主催する走行会参加者分のデータだけでした。
しかし、スマホのアプリで世界中からデータを収集できれば、より解析の精度は上がり、類型化にも説得力が出る…。
そして、こうした「自分と自転車のマッチングアプリ」的なものが活用できれば、ショップの見立て、お薦めの一台が本当に自分の「体癖」「体力」に合っているか否かなんてものも検証、評価可能になる…。
お店の人の趣味によって、自分には剛性が高すぎるロードレーサーを買わされ自転車が嫌いになってしまったり、逆に、ふにゃふにゃのフレームを勧められて遠出や坂が嫌になり、自転車散歩をやめてしまうような悲劇が少なくなるかもしれない…。
ショップからしても、高価な装置や面倒なライセンス無しに、スマホ一台で、お客さんと同じ目線で、フィッティングが手頃に実現できるのですから、歓迎すべき方向の進化では無いでしょうか。
一部のメーカーやショップだけがノウハウを独占するより、ユーザーも一体となって平均のレベルが上がる方が、業界全体としての成長ができると思うのですよね。
これまでのフィッティングプログラムは、体幹があるていど出来上がっており、なおかつアスリート志向の人向けのものが多かったように感じています。
プログラムを作る上でのサンプルも、アスリートやその予備軍、健康な大学の学生たち等から収集されているのでは無いでしょうか?
それも、ローラー台のような実際の走行とはかけはなれた環境下でのデータ収集方法で。
だって、人と自転車双方に計測機器からくるシールドを繋げたまま、ダートや坂道を走ってもらって、あれやこれや計測なんてことは難しいですからね。
そんな限定的なサンプリングと、中途半端な計測によって得られたアルゴリズムを写真機片手にポタリングしたいだけの高齢者に当てはめても上手くいくはずがありませんよね。
あるいは日々コンスタントに通勤で使わなくてはいけない人。つまり平均速度より安全性が求められる人にあてはめても。
自転車活用の幅はとても広いですから、流布されるプログラム、アルゴリズムも多様であるべきですし、それには一般からのデータ収集が欠かせない。
そして、スマホとネットとAIの連動がこれらを可能にしてくれる… かも?
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上記のようなアプリが一般化し、実現されるような将来において、クロモリ自転車のオーダーメイドショップは、アプリによって得られた個人データの意味を正しく理解し、その情報を、しかるべき剛性感やジオメトリに落とし込み、さらにその設計案通りに切削加工、ロウ付け、組み上げができる能力が求められることになるのでは無いでしょうか…。
つまりは、廣瀬さんが実現しようとされていた目標が当たり前になる時代が来るかもしれません。
もっとも、これを真面目に実現するには、メーカーや素材を超えて、車体剛性の規格、表示ルールなんかが統一されないと難しいでしょうから、我ながら現実味は薄いとは思いますが…。だから冒頭「夢想」と書いたわけでして…。
それにしても、コンビニのワインにさえ「甘口」「辛口」の表示が。スーパーのコーヒー袋にも「苦味」「酸味」「こく」といったベクトルの提示が。ラーメンの店によっては「ばりやわ」「やわ」「ふつう」「硬麺(かためん)」「ばり硬(ばりかた)」「針金(ハリガネ)」といった細かな表現まであるって〜のに、いまだ、自転車には広く一般に認知された「乗り味」を表す形容詞の候補さえ、雑誌や、ショップ店頭での会話の俎上に登らないってのはどうなんでしょうね? やはり、未だ自転車は日本においては文化じゃ無いのかも…。
ちなみに、クロモリパイプを使った自転車では、パイプの厚みや径の違いによる剛性選択が可能でしたし、廣瀬さんは様々な太さ厚さのパイプの組み合わせ、時には混在させ、さらには、ロウ付けに使うロウの量や厚みの付け方によって、その個々人のフレームにおける適切な剛性の実現を目指されていました。
その車体の剛性を、いちいち数値として、我々オーナーに提示されてはいなかったですが、脚力や体癖や体重なんかによって塩梅する方策と基準を、ご自身の中においては、お持ちだったのですね。
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しかし、改めて廣瀬さんの人生を俯瞰してみれば、
・個々人の走り方の違いの理解
・それらの分類と分析
・それを踏まえた上での自転車設計理論の構築
・その理論を実現するための自転車設計方法の確立
・その設計通り製作を実現するための段取り作りと技術の修練
これら全てを、途中までは有吉氏と二人、そこから先は自分お一人の勉強と練習で実現されようとされていたわけで、なんとも遠大なビジョンをお持ちだったのだな、と思わされます。
また、廣瀬さん、単に「走りのフィッティング」だけでなく、オーナーさんの趣味、嗜好といった、さらに数値化しずらい要素をも設計に落とし込もうとあれやこれや努力されていたわけで「特定の個人にとって最適で最高な自転車作り」の実現に向け、非常に高い理想をお持ちだったんだね、と感服する次第です。
…話が横道にずれました。戻します。
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参加者のためにA氏やU氏が撮影し、私が編集して配布した、誰にも感謝されず、ろくに見られることもなかった走行会の動画。
しかし、そこに参加されていたうちの何人かは、走行会後に、新たなオーダー車を発注されており、その設計において、これらのビデオは、確実に、廣瀬さんの役に立ち、活かされていました。
A氏やU氏のご尽力は決して無駄では無く、廣瀬さんと新しいヒロセ車をオーダーされたオーナーさんにとって有益なものだったのです。
他ならぬ、A氏も、私も、一台目のヒロセ車で走行会に参加し、その走りを記録した映像を廣瀬さんに解析して頂き、その上で二台目以降の、新たなオーダー車を作って頂いています。
そして、解析を経て、新しく作られた自転車の方が、より乗り手にフィットしていることを、私は、強く実感しています。
「一台目は、乗っているとポジションをいじりたくなることがあるけど、二台目はまったくいじりたくなることが無い。」というのがその根拠の一つです。
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上記で記した通り、A氏とU氏と私は、「走行会の記録映像作り」という一点において、言わば共犯的な、同志的な関係にありました。
さらに、それだけで無く、A氏とU氏は、私のHP作りを真正面から応援して下さった数少ない、奇特なヒロセ車オーナーさんでもありましたした。
A氏は廣瀬さんに、私による動画制作を進言してくださった方でした。
さらに、ヒロセのYouTubeチャンネルの為に、動画や静止画を惜しみなく提供して下さり、またご自身の姿を撮影し、画面に登場させることを快く許可して下さっている方です。
U氏は、昔から、私が作るYouTube動画を見て下さっては、「今度の音楽もあなたが作ったやつ? 良い感じじゃん。」とおだてて下さったり、廣瀬さん没後も変わらず私のHP製作を応援して下さったりと、常に私のモチベーションを盛り上げて下さっている方です。
また、U氏は(廣瀬さんからは最後まで高校生扱いのままでしたが)、自転車に関して鋭い視座や深い知識をお持ちの人物で、廣瀬さんの工作に対して、奇譚の無い意見をきちんと言える方でした。
オーナーさんの中には廣瀬さんの行うこと全てを無批判、無疑問に受け入れてしまわれる「ヒロセ教の信者」のような方も多々いらっしゃったのですが、U氏は自らが理解できなかったり、疑問に感じたことをその都度素直に口にされていました。
故に、側で聞かせていただいた廣瀬さんとU氏との工房での雑談は、私にとって勉強になり、動画や文章作りのヒントにもなっています。
実は私、一番初めのヒロセHP、「ヒロセ車の静止画紹介ページ」を作るにあたり、何人かの常連さんに、放送局勤務時代に書いたような提案書、「ヒロセHP作り 企画提案書」を書いてお渡ししたことがあるのですが、すっかり無視されてしまい、結局一人きりで作ることに。
また、定期的にHPを更新するようになった後も、その画像の公開を廣瀬さんが許可しているにもかかわらず、「俺のオーダー車の写真を勝手にネットに載せるな。」と、ある常連さんから妨害されたことも。
A氏とU氏は私のHP製作に理解を示して頂けただけでなく、変わらず応援し続けて下さった、私にとって得難い方々なのですね。
これまで、お二人からの励ましには、大いに助けられて来ました。
この場で、お礼を記させて頂きたいと思います。
ありがとうございました。
U氏も、A氏も、そして私も、他のオーナーさんからは何ら評価されなくても、「動画記録への貢献」を通し、ヒロセを支えることを厭いませんでした。
かといって、我々が必ずしも、廣瀬さんの狙い全てを理解した上で協力していた訳ではありません。
私自身、廣瀬さんと有吉氏による「体癖」理論の狙いや意図は伺えたものの、その理論自体については、その、ほんの一端しか理解出来ていませんから。
三人ともが、なんとなく、勝手に、支えたくて、支えていた。
とどのつまり、三人とも、ヒロセという場、廣瀬さんという人物が好きだったのですね。
そして、今から振り返れば、他のオーナーさんたちが我々のやっていたことの意味や価値に気づかないことも、また、自然だったように思います。
前述の通り、廣瀬さんは、誰それには何々をしてもらったとか、当て擦りと捉えかねられないようなことはおっしゃらなかったですし、また何かをしてもらったからといって、その人物を皆の前でエコ贔屓されるようなことはありませんでしたからね。
だから、きっと、私が気付いていないだけで、多くのオーナーさんが、私の知らない局面で、私の知らない部分、角度からヒロセを、廣瀬さんを、その方々なりの支え方で支えていたのだと思います。
だからこそ、廣瀬さんも、幾度かあった苦しい時期を乗り越え、生涯、ビルダーとして生き続けることが出来た。そう思うのです。
「オーナーさんの個性が具現化したヒロセ車」シリーズのまとめ
今回で、ここ3回続けて来た、個々のオーナーさんのオーダー車たちを通してヒロセさんをご紹介する「オーナーさんの個性が具現化したヒロセ車」シリーズは終わりです。
K氏、M氏、MT氏、A氏、U氏。
五名のオーダー車に込められた意味や意図や意志を整理するにつけ、オーダーメイドのお店の価値というのは売上高や、知名度の高さではなく、作られた自転車に対するお客さんとビルダーさん双方の没入度、関わり度、満足度、達成感の高さなんかにあるのでは無いか、と改めて感じたりもしています。
その自転車の背景にある物語の深さ、広さといっても良いかもしれません。
もっとも、ここで私が文章化し、ご紹介できたのは、「オーナーさんの個性が具現化したヒロセ車」のほんの一部に過ぎません。
今回、私が取り上げられなかった方々のオーダー車にも、そのオーナーさんと廣瀬さんという組み合わせならではのユニークな特徴や、人間的エピソードがきっとあるのだと思います。
ヒロセのお客さんは実に多様で個性的。ゆえに多彩で個性的な自転車が作られて来ましたからね。
あとは一人でも多くのヒロセ車オーナーの方々が、ご自身のヒロセ車に込められている濃い物語を、各々、得意な方法、媒体で、公に披露して下さるのを、いち読者、いち視聴者の立場から、楽しみに待ちたいと思っています(NakadeX氏やDiamond Pink氏のように、私の「note」のコメント欄にて、私の存じ上げない、興味深い、ヒロセさんでのエピソードを記して下さる方もいらっしゃいます。ありがたいことです)。
ヒロセ車のオーナーの皆様方、どうぞよろしくお願い致します。