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先輩の博士論文の審査会のモヤモヤ/序論と結論の整合性

佐藤大朗(ひろお)です。早稲田の大学院生(三国志の研究)です。20年弱続けた会社員生活を辞めて、博士課程の学生をやっています。

先週は、先輩の博士論文の公開審査会を「傍聴」してきました。

専門分野がまったく自分の研究とは重ならないけれど、
・博士論文はこのように審査される
・公開審査会はこのような場である
という情報を入れて、
自分が審査を受ける側の席に座っている、という脳内シミュレーションができます。なるべくたくさん出席しています。

誰に頼まれたわけでもないのに、「もし自分があの立場だったら」と脳内シミュレーションして予行演習するひとは、いずれその立場に即くことができます。ぼくは博士号を取るはずです(知らんけど)

関連する事例をChatGPTに聞いてみましょう。ちなみに引用された漢文は正しかったです。

ChatGPTより

モヤモヤしたこと

さて、記事のタイトルの件、先輩の博士論文審査会を傍聴して、何にモヤモヤしたのか。
モヤモヤしたことの構造だけ取り出して、説明してみましょう。先輩の研究内容や、審査の先生の指摘内容を「さらす」ことが目的ではないので、原形を留めないレベルで改変しています。


博士論文の序論(問題提起)

この書物は、バージョンAとバージョンBがあり、分岐し並行して流通している。先行研究は、AとBのどちらが正しいか議論してきた。

博士論文の結論

バージョンAは、こんな特徴と長所があり、バージョンBにはこれこれという意義がある。いずれもこの書物にとって重要な内容を含む。バージョンAかバージョンBかという二項対立にこだわらなくてよい。

審査の先生のコメント

序論(問題提起)と、結論が対応していない。


うわー、これはモヤモヤしますね。先輩の博士論文に問題がある(審査の先生のコメントが適切)なのでしょうか。それとも、審査の先生のコメントに必ずしも従う必要がないのでしょうか。

モヤモヤする理由

ぼくはちょうど同じ日、博士論文の審査会に行く前に、「論文のかたち、論証のかたちは1つではないらしい」というnote記事をアップロードしていました。

アメリカ型のアカデミック・ライティング

いわゆるアカデミック・ライティングと呼ばれるアメリカ型のエッセイは、問題設定をしたら、その問題の解決につながる証拠だけ列挙し、結論を一切ブレさせない、ということを要求します。
審査の先生のコメントは、アメリカ型の見地でした。

今回の博士論文ならば、
序論で「この本にA版とB版があり、どちらが善本なのか先行研究で争われてきた」と問題設定したならば、結論で「A版が善本である」と決めなければいけない。※B版でもいいです
AかBのどちらかを排他的に支持しないと、肩透かしです。「フリ」と「オチ」がお約束どおりになっていない。

もしもアメリカ型の形式を守った上で、結論を「A版もよし、B版もよし」というところに着地させたいならば、
……というか、
研究した結果、「A版もよし、B版もよし」という主張をしたいと思い到ったならば、序論(問題設定)であらかじめ、「A版とB版のどちらが善本か論争があるけれども、それは本当に意味がある議論なのか?」というホノメカシを先にしないといけないはずです。※個人的な代案です

結論ありきの誘導、ちょっとずるく見えますが、アメリカ型のエッセイは、この「ずる」を許します。むしろ、このような「ずる」を要請します。思考した順序、意見が形成された順序をすべて解体して、もっぱらアメリカ型が要請する形式(結論ファースト、余りのピースなし)に組み替え直すことを求めます。
博士課程にて、未知のことに真摯に取り組んだなら、結論から先に思いつくひとなんていないんですけど、それを1つの博士論文(1冊の本)にするときに、「あたかも最初から、結論に向かうための問いが立っていたかのように」偽装しなければいけません。方便です。

そういえば、ぼくの先生の指導にもありました。
論文の「はじめに」は、とりあえず最初に書くんだけれど(かりそめでも冒頭部分がないと本論に進めない)、論文を最後まで書き上げてから、「はじめに」を書き直す。「はじめに」は一番最後にできる。

フランス型の弁証法だった?

では先輩の「肩透かし」博士論文は、良くないのか。
いいえ。
これは、フランスのディセルタシオンと同じ形を採用しているのでは?と思いました。
ディセルタシオンは、弁証法で書くルールです。テーゼ(正)・アンチテーゼ(反)・ジンテーゼ(合)という構成が要請されます。
先輩の博士論文の本文がどのようになっているか分かりませんが(審査会では概要の説明しかされない)、A版を分析して、B版を分析して、「A版vsB版論争」に終わりを告げるならば、それって弁証法ですよね。

先輩が「アメリカ型を目指したが完成度が低かった」のか、あるいは「フランス型のディセルタシオン形式(弁証法)で表現したが、審査の先生から理解を得られなかった」のか。
真相と意図は分かりません。

だったらどうするか

とりあえず、持ち帰ることができる教訓としては、
学位を請求する博士論文では、アメリカ型の記述(論理展開)が求められるので、「はじめに」「序論」の問題提起を、本論全体を書き終えてから書き直す、というところに落ち着くのでしょうね。

ただし、アメリカ型の結論ファーストこそが、唯一の人類の叡智の形態だ、あるべき論理構造だ、と信奉するのではなく、「TPOに合わせた書き方の技術の1つ」ぐらいに距離を取って、本筋の思考を乱されないように付き合うのが宜しいかと思います。

なんでも結論ファースト、破綻ゼロ!余剰パーツゼロで研究せねば!!と思う必要はないはずです。このように意気込むことは、アメリカ型の表現方法の過度な内面化ではないか。息苦しいし、知性が死にます。研究ができなくなってしまいます。
フランス型のように、相互に矛盾していそうなものを摺り合わせたり、角度や抽象度を変えながら、「何か言えることはないのかな?」って考えるぐらいが、頭が働きやすいし、メンタルも死なずにすみそうです。

自分の頭で、それこそ血が出るほど真剣に考えたことならば、いかようにでもアメリカ型の表現形式に当てはめることができるでしょう。「誰にでも論文が書ける」ように大衆化したのが、アメリカ型のアカデミック・ライティングです。整合的に書くことは、訓練と意識さえすれば簡単なはずです。誤解を恐れずに言えば、小手先の仕上げのテクニックです。

卒業論文、修士論文、博士論文で、分かりやすさや整合性、いわゆる「アカデミック・ライティング」を要請されて行き詰まったら、この本をどうぞ。今回の記事は、この本を土台にして書いています。

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