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日本語から日本語に翻訳する簡単なお仕事?/現代中国語との往復

佐藤大朗(ひろお)です。早稲田の大学院生(三国志の研究)です。20年弱続けた会社員生活を辞めて、アラフォーの無職、大学院生です。

ライティング、ライターの職業の本を読んでいます。

インタビューをして記事に書き起こすのは、日本語から日本語への翻訳なんだ、とありました。話者が言ったことばをそのまま文字に置き換えるのではなく、何を言いたいのか、別の言葉を補ったり置き換えたりするのが、ライターの仕事なんだと。

同じような「翻訳」体験がたくさんあるので、メモをしておきたい。

受験の英訳問題

はじめて「日本語から日本語に翻訳しろ」という指導を聞いたのは、高校時代です。大学受験の前、代々木ゼミナールか河合塾でした。

事例をネットサーフィンで適当に見つけました。
2018年の東京大学の和文英訳の問題は、「現在の行動にばかりかまけていては、生きるという意味が逃げてしまう」という日本語を英語にせよ、だそうです。
「かまける」「意味が逃げる」を英訳しやすい日本語に変換しないと、英訳に着手すらできないぞと。逐語訳で「意味が逃げる」だから「ミーニング・ランナウェイ」じゃダメなんです。

センテンス・スプリングと同じじゃ困るんです。
「文春」は「文藝春秋」の省略形。文藝は「アート」で、春秋は「クロニクル」の意味ですから、表面だけなぞったらダメなんです。
気になって『文藝春秋』の英語版のタイトルを探したら、「Bunjun Spring Autumn」だそうです。スプリング・オータム、って本当ですか。センテンス・スプリングを笑えない。

中国人留学生の論文を添削

いま、ぼくが出会う「日本語から日本語への翻訳」は、中国人留学生が書いた日本語の論文を添削し修正するときです。

ぼくの専門は中国の思想です。
中国思想の分析を、中国人が日本語でやるという二度手間なことをしてもらっているのですが(提出先が日本の早稲田大学だから)、中国人留学生は日本語が母国語ではないので、いかに日本語がうまくても、やはり完全ではありません。
彼らの日本語を見て、日本語を直します。
日文日訳っぽいですよね。

「てにをは」の修正だけならば簡単なんですが、不可解な文はもっと根が深い。もともと中国人がどのように中国語で思考し、それを日本語に変換するときにどんなエラーを起こしたか、を洞察して、添削します。
そのような大工事をしないと、論文として成立しません。

日常会話ならば、話し手の意思が最優先、キングです。話し手が言いたいことがつねに正しい。
しかし論文の場合、もとの根拠となる資料(漢文)で言っていることや、論理的に成り立つか(飛躍や矛盾がないか)という第三者の目線もまた、話し手の意思と同じぐらい尊重される。
だから、ぼくのような他人(書き手でない者)が、チェックしたり、口を出したりが可能です。資料と論理をつなぐためには、ここでは、こう言っていなければおかしいはずだ、という推論が可能になります。

どうしても論文の書き手(中国人)が、何が言いたいか分からない場合は、「この部分だけ、現代中国語の文でいいので送って下さい」とお願いして、ぼくが現代中国語を日本語に翻訳します。
これは本来の翻訳ですね(笑)。中文和訳。留学生が担当やっていた中文和訳のプロセスを、ぼくが巻き取ってしまっている。

中国人研究者の日本の論文の翻訳

早稲田大学では、日本と中国の学術的な交流を大切にしているようで(どこの大学でも同じだと思いますが)、中国人研究者が、日本の歴史について論じた中国語の論文を、現代日本語に翻訳する、
という仕事を何回もしたことがあります。

文の意味は明白です。中国人の学者が、中国語で書いているためです。しかし、論文のなかで日本のことを分析するとき、
・日本語の古い文献(平安や室町の資料)
・日本語の現代の論文(平安や室町を研究した専門書)
これらを誤読していることがたくさんあります。外国語の文献を読むのは、とても難しいですからね。※ぼくも大苦戦中

中国人研究者が日本語を誤読し、誤った資料理解あるいは誤った先行研究の理解に基づいて、「正しい」中国語で論じていることを、「正しく」日本語に翻訳すると、正しくない日本語の論文が完成してしまう。
これもまた、修正作業が入ります。※どこまでやるかは場合による

日本人が中国文を誤読した日本文

中国の歴史や思想(古い文献)に対して、
中国語の論文がいっぱいあります。

現代日本人の大学院生が、中国語の論文を日本語に翻訳し、日本語の論文のなかで引用することがあります。ゼミのなかで原稿をチェックしていると、違和感のセンサーが作動します。
・日本語の内部で破綻がある
・この説明では、中国語の古い文献(資料)と整合しない

この場合、おもに2つの可能性があって、
・もとの中国語の論文が、古い文献を読み間違えている
中国語の論文は正しく古い文献を読めているが、日本語訳するときに大学院生がミスった

おもに後者(翻訳時のミス)がメインです。いちいち、大学院生が参照したもとの論文なんて見ていられませんから、日本語のなかだけで破綻を検知する必要があります。※わりとできます

現代中国語を読めてない大学院生がダメなんだ、というのは簡単ですけど、苦戦する理由も分かるんです。もとの中国語の論文の書き方が、不親切なこともある。言葉が少なくて不十分、ほのめかし的で、意味が1つに決まらないなど……。
ただし、それぐらい省略しても正しく意味を拾えるような学問レベルの読者を想定して書いているのかも知れない。もとの中国の学者を、不親切じゃないか!と責めるのも恥ずかしいのかも。

中国の研究は、古ければ古いほど、書き手が偉ければ偉いほど、「言わずもがな」「書かなくても当たり前」の領域が拡大します。もとの古い文献(資料)とあわせて読めば、たとえ言葉が少ない指摘であっても、整合的な文意は1つに決まるだろう、言葉ジリだけに囚われて曲解するなんて学問が足りないぞ、と怒られそう。

大学院生が書いた日本語の原稿を見て違和感のセンサーが鳴り響き、日本語を直すというアウトプットになるので、日本語から日本語への翻訳と言うことができましょうか。日文日訳。

と、こんなに古今の中国語を何往復もしているのに、中国語会話(聞き取りと話す)がまったく出来ないっていうのは、とても恥ずかしいです。

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