「趣味」で学問をする人に必ず訪れる、中年の危機について
佐藤大朗(ひろお)です。会社を休んで、三国志の勉強をしています。
今日は、自分なりに学問をしているひと(研究職でないひと)に必ず訪れるという、中年の危機についてお話しします。
ぼくが二十歳前後のころ『鋼の錬金術師』を読みました。
何かの錬金術の先生(マスタングさんかホークアイさんの先生)が絶望しながら、自分の知識やスキルに「満足してしまった」と泣いてました。
私にはもう、向学心、探究心がなくなってしまった。自分の上限値を見てしまい、その事実を受け入れてしまったから、もうダメなんだと。
当時二十歳前後のぼくには、「このおじさん、なに泣いてるの?」って意味不明だったんです。
「泣くくらいだったら、もっと勉強すればいいじゃん」と思ったものでした。 #若者らしい感想
ある程度、年齢を重ねて、
自分と同年代のひとが、「趣味」からフェードアウトすることを見る機会が出てきました。
若いときから、旺盛な意欲と自律心を、つねに高いレベルでキープし、コンスタントに結果を出し続け、自分より前を走っているように思われた人たちです。
#できればあんまり見たくなかった
40歳が近づいた今ならば、あの『鋼の錬金術師』のおじさんの偉さが分かります。
あのおじさんは、自分の限界ときちんと向き合って、意欲の減退をしっかりと自覚して、泣いていたんですね。
むしろ、偉いですよね。
ごまかしていないですからね。
本人は、もうやる気がなくなってしまったが、その分野では、依然として一定レベル以上のスキルや結果の持ち主ですし、尊敬を受けているでしょう。ファンとか弟子だっているでしょう。
(弟子のマスタングさんも、まだやれます、先生はすごいじゃないですか!って、せっついていたような気がします)
#そういうことじゃないんだよ
しばらくは、惰性&遺産により、「どや顔」することが許されています。やがて、「老害」と蔑まれていくのかも知れませんが、賞味期限は、3年~5年くらいは、残っているのではないでしょうか。
ところが、『鋼の錬金術師』のおじさんは、築き上げた状況に甘えることなく、おのれの内面と向き合って、泣いてるんです。
そういえばあのおじさんも、国家お抱えの学者にならず、家で一人で研究してました。示唆的です。
関連した話が、北野唯我『 #これからの生き方 。』にありました。
意志型の人間(本のなかの用語)に訪れる危機として、
年齢とともに、意志のキープが難しくなると。
肉体的な衰えと、社会的な成功を手にすると、挑戦をしなくなると。
錬金術のおじさんのように、「満足してしまった」と自分と向きあうでもなく、漠然と衰退し、市場における価値がなくなるそうです。
北野氏曰く、意志型の人間が中年の危機を乗り越える方法は、
① 環境を強引にでも変える方法を学ぶ
② 何度でも復唱できる自分の使命を見つける
①は、つぎつぎと厳しい環境に身を置く(飛び込む)とか、あえて大きな借金して、自分にプレッシャーをかける、といった方法があります。 #ポジティブ・マゾ
②は、きちんと言語化する、のだとか。
ぼくが見た事例では、他人が用意した舞台装置のなかで、意欲を発揮しているひとは、早晩、中年の危機を迎えて終わりやすい(≒死んだも同然となる)ということですね。
外部に振り回され、意欲が折れることがある。もしくは、中年の危機を他人のせいにし、ごまかして、正当化できてしまう。
たとえば、「youtubeでがんばってきたのに、収益化のロジックが変更されたから、もうやりたくなくなったわ」てな感じです。
本人に意思の力があるならば、別の動画のサービスを探す。べつに、動画にこだわる必要もないな…という思考が始まるはずです。むしろ、この危機と戦うプロセスも含め、どうやって売り出して(ファンを増やして)やろう?と考えるのが、意志があるひとの動き。
しかし、意志が減退していると、「しおどきか」ってなりがち。
自分で挑戦的な環境を設定する、自分でやりたいことを言語化していく。それが、自分なりに学問をしているひと(職業としての研究者でないひと)にとって、大事なことだと思いました。
そして、限界を感じたら、ちゃんと「泣いて」、引退したいものです。