修士課程から博士課程の変化点/応援から批判へ
佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。
2023年度に修士課程(博士課程前期、マスター)を卒業
2024年度からは博士後期課程(ドクター)に入学します
「はざま」の期間は今しかないので、思うことを書きます。
一昨日、はじめて学外、自分の指導教員がいない場所で、研究報告をしてきました。他大学の先生方にコメントを頂きました。この経験で感じたことも含めて、「はざま」に感じたことの記録です。
修士課程は応援される
修士課程の学生のあいだは、
対外的なステータスは「研究をしたいひと」です。
「研究をしたい」と思うのは自由なので、「がんばって」という言葉をかけてもらえます。裏を返せば、これ以外にかける言葉がありません。
学内(ゼミ)のなかでは、「よく勉強してるひと」「成長過程が見えるひと」「まだまだのひと」など区別があるでしょう。「2年で卒業するひと」「3年かけるひと」「4年かかるひと」など個人の事情や進捗がありますが、それも対外的には見えない。
「研究をしたいひと」は「がんばって」という励ましがもらえる。
修士号だけを取得し、研究をやめるひとが多いでしょう。文系の大学院ならば、一般企業や公務員に進むひとが多い(7割か8割ぐらいは研究を辞めるような気がする)。
その「確率論」も含めて、修士課程の学生はよくも悪くも見習いであり、「お客様」であり、未知の可能性が許される。いつまでも未知数じゃいられないから、遅かれ早かれ甲乙・優劣が顕在化してくる。
うまくハマらなければ、学位だけとって大学から離脱するのが、学生にも先生にも幸福でしょう。大学院に残れば偉いというものではない(残るのが愚かというわけでもない)。
博士課程は批判される
博士課程に進むと、少なくとも1本以上、論文を書き上げたひとになる。修士論文を書かないと、博士課程には入れないので。
「博士課程の学生です」名乗るひとは、最低限の選別が終わっている。くり返しますけど、「優秀なひとが選別を残る」のではない。最低限のマッチングは済みましたかね、という居心地となる。
対外的なステータスは、「研究をしているひと」となる。
見習いではなく、「お客様」ではなく、未知の存在ではない。
研究は、先行研究(同業者の先輩たちの仕事)のなかから、問題を発見することから始まる。先輩たちの説を批判することになる。先達の意見に正反対の意見をぶつけるというシンプルなパターンではなく、
「これについて、もっと考えるべきだったのでは」
「これに注目すべきではないか」
「こういう角度から見るべきではないか」
といった、研究対象・ものの見方に対する「意見」も含みます。
これまでの先達も、「考えるべきこと」「見るべきもの」を設定して研究をしてきました。
新参の博士課程の学生が着手した研究で、「従来考えるべきことが考えられていない」「注目するべきものが見落とされてきた」「その資料からは別の結論が出るのではないか」「もっと別の表現・説明をしないといけないのでは」などと批判されたら、先達は批判で応じるでしょう。
博士課程は、先達の人波に分け入っていく感覚??
課程をデートや結婚にたとえる
適切な比喩なのか分かりませんけど、
研究という行為、研究の世界との距離感は、
修士課程は、「食事に行ってみる」
博士課程は、「付き合ってみる」
博士号の取得は、「結婚する」
と喩えられるのではないか。異論は全然あると思います。
「そもそも一緒に食事も行きたくない、話すこともない」という相手がいるだろう(むしろそれが大半だ)。そのなかで、「もしかして悪くないかも?」と思ったら何回か会ってみる。これが修士課程。加点方式で、よいところが見えてくる(応援)。食事をしたり出かけたりして、まあ楽しかったけど、これ以上は十分かな、という場合が多い。
人生のタイミングや諸条件が合致すれば、付き合うかも知れない。これが博士課程。距離が詰まると、悪いところ・合わないところも見えてくるかも知れない。減点方式で見極められることもある(批判)。
これを経て、いわゆる「ゴールイン」が博士号の取得だと思います。
ただし、長い人生と同様に、
「ゴールイン」してからが本番ですけどね。
以上、今回の記事は、修士課程を卒業しないと書けないこと、見えてこない景色でした。1ヶ月ちょい前までは、「修士論文、書けるの?」「博士課程に進むの?」「博士課程、入れるの?」を心配していました。
博士課程の期間を学生としていかに過ごすか。博士号をいかに取るか(取るか取らないかの二択ではなく、どのような態度で取るか、その先にどのような研究の展望があるか)に、目が向くようになってきました。