17世紀イタリアで予言されていた、息苦しいネット社会
佐藤大朗(ひろお)です。会社を休んで三国志の研究をしてます。
時間があったり、生活に満足感が足りないと、インターネットを長時間してしまいがちです。するとどうなるか。どういう世界に、身を置くことになるか。それを端的に表した文章を見つけたので、ご紹介します。
これは、西暦1602年にイタリアの詩人のカンパネラが書いた『太陽の都』(翻訳は、一穂社、2004年)にありました。
個人の所有権は一切認められず、博愛が義務づけられており、喧嘩したひとは死刑に処せられる。…あらゆることが、好ましい平均的な人間を生み出すために管理されるのだ。また、だれもが、密告者の大規模なネットワークによって監視されている。ルールに違反したひとは、自分の素行の悪さを思い知るまで、激しく批判され、みずから進んで石打ちの刑に服する。
ぼくがこの一節を知ったのは、
ルトガー・ブレグマン『隷属なき道/AIとの競争に勝つ/一日三時間労働』という本に引用されていたためです。
引用者(ブレグマン)は、上に引いたものを、のちの歴史(17世紀以降)に発生した、ファシズムやスターリン主義、集団虐殺のおぞましい予兆であるとしています。
ちょっと待ってください。
ファシズムは馴染みがないですけど、上の引用部分の様子は、どこかで見たことがありません??
そうです。インターネットの雰囲気です。
もっとも分からず屋で、もっとも理解力や知識に乏しく、柔軟性がなく、また、もっとも自分に悪意を持ち、陥れようとしているひと(だれ?)から監視され、攻撃されたとしても、わが身を守れる範囲でしか、情報を発信してはいけない。
ネットは、そういう場所になってしまいました。
かりに自分が正しく、裁判で勝てるとしても、心が削り取られますから、いっそうの予防線を貼ってますよね。そういうディストピアでは、往々にして司法が機能しませんから、裁判に期待しても仕方ないです。
先手を打って、もうひたすら、もっとも平均的な人間(だれのこと?)の機嫌を損ねるようなことを言ってはいけません。
失言があれば、
丁重に謝罪の言葉を発信させられ(みずから石打ちの計に処され)、アカウントを消すか、もしくは通報によって抹消され(ネットにおいては、死刑に等しい)、下手をすると社会的にもリアルで死にます。
石打ちの刑って、参加したことないし、見たことないですけど、大衆の前に立って(立たされて)、寄ってたかって、大衆から石つぶてを、ぶつけられるんですね。まじ、インターネット(笑)
とは言っても、インターネットはとても便利。
完全にボイコットして生きていくのは、あまりに不利です。メールやネット通販、決済アプリや地図アプリを使うだけでなく、勉強や娯楽を捗らせるため、文章や動画の発信にも使いたい、と思いますよね。
では、どうしたらいいのか。
また別の記事にしようと思います。