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嫌々やった仕事でもスキルが身についている理由/アウトプットあるのみ

佐藤大朗(ひろお)です。会社を休んで、三国志の勉強をしています。
社会人を一定年数、経験したひとならば、思い当たるふしがあると思うんです。こんなこと、ありません??
・ふてくされて、嫌々やった仕事でもスキルが身についている
・前のめりで興味津々で学んだ、好きな趣味なのに忘れている

いやー、じつに腹立たしいですよね。嫌々やった仕事だと、そんな分野に関わりを持ちたくないし、さっさと忘却して、「なかったこと」にしたい。そのわりには、スキルが残っているんですよ。

反対に、ものすごく自発的に、お金と時間と労力を投入したはずのことなのに、趣味で学んだことって、意外と忘れていることが多い。その瞬間は、熱くなっているから、幸福感に包まれるんですけど、感動したわりには、あんまり定着していない。

漠然と抱くイメージの逆だと思います。
嫌々やっても身につかない…はず…だよ…な…あれ??
好きこそものの上手なれって言う…のに…な??

諸説あるというか、さまざまな分析が成り立つと思います。
「会社からお金をもらっているから、嫌々にせよ、真剣にやっている(やらざるを得ない)から、身につくんだよ!」
という考え方も出来ますが、そんな憂鬱な解釈は、採用したくないっす。上司から叱責されたくないから、ビクビクして真剣になり、恐怖のトラウマを含み、強迫観念とともに定着するスキルなんて、捨てちまいたいです。

ぼくが思うに、仕事でやることは、アウトプットの機会が多いから、スキルが定着するんです。 #ここが結論

仕事では、学んだことは実践を迫られる。実践をしながら学ぶ。
同僚、上司、お客様などに対して、説明したり、それを通じて何かを提供するということが、日々行われます。これは、対人サービスに限ったことではなくて、パソコンのうえで完結する作業にせよ、何らかの相手・後工程に対して、成果物を提供します。
たとえ「ブル・シット・ジョブ」であろうと、アウトプットの連続であることには、変わりないんですよね。

他方で。好きなことは、ひとりで完結して、発表の場がないです。発表の場を作るためには、ひと一倍、活動的にならないといけない。仕事のように、日々、強制的にアウトプットの圧力に晒されない。趣味において、仕事のときなみにアウトプットを続けるには、相応の意識の高さ?か、習慣化する努力(のようなもの)が求められる。
自発的な活動におけるアプトプットの総量の担保。これがネック。

このnoteの読者は、noteの著者の方が多いと思いますが(自分調べ)、noteに書くことも貴重なアウトプットです。noteに書いたことって、覚えていると思いません?
ぎゃくに、どれだけ素晴らしい体験やインプットがあったとしても、瞬間的に高揚したにも拘わらず、忘却のかなた、なんです。悲しいことに。

というわけで、仕事であろうが、なかろうが、むしろ、仕事でないからこそ(アウトプットの機会が少ないからこそ)、とにかくアウトプットの総量を増やしていかないとな、というお話でした。

情報過多といわれ、インプットだけなら、ネットサーフィンだけで無限に出来てしまうんです。2020年代において、「インプットの不足」によるスキルの停滞は、ほぼ起きません。
(だれかと競争する必要はありませんが)インプットの多寡によっては、差が付きにくくなりました。スキルや学びの総量は、アウトプットの総量に比例する、とすら断言可能です。
なんという、シンプルな図式でしょう!!笑

これを思うのは、さいきん、とても効率のいい勉強法を見つけたからですが、その話は、またします。要するに、効率よくアウトプットをする体制を作ったという話なんですが。

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