全員を勝たせるというのは詭弁?/利益と喜びを独占してはいけない
おはようございます。佐藤大朗(ひろお)です。会社を休んで、三国志の研究をしています。
かねがね、文化人やアーティストが出すメッセージに懐疑的でした。
たとえば、あるアーティストが、「全員を勝たせる」と約束し、貧困や被災地の救援などを手がけています。コロナで潰れそうな商店を助けています。それ自体はいいことには違いないですけど、このひとは、社会活動家だったんだっけ?と思わなくもない。
迷走している。手の広げすぎな感じもします。
恐らく、ご本人もそれを気にしたのでしょう。
「ぼくの作品を受け取ってもらうためには、その前提として生活の安心が必要だから」、「ぼくの作品を広く届けてもらうためには、あいだに、さまざまな業者が必要だから」、という理由で、
コロナなどで困った人々を支援するのだそうです。もちろん、生活の安心はいいことですけど。きっと、活動全体やメッセージの空中分解を避けるために、詭弁を使ったのだろうな…と。
詭弁であろうと、支援はいいことです。しかし、詭弁を使ってまでやる支援ってなんだろう??と思わなくもない。
モヤモヤがあったんです。
ぼくが会社員のマインドのままだったら、「偽善者だな」とか、「詭弁ってどうなの?」って感想しか、出なかったと思います。
ですが、会社を休職して、ひとりだちして、専業の三国志の研究者になって気づいたんです。あれは、
私は利益を独占しません!という態度表明だったんだなと。
#ここが結論
会社のなかでは、いいかどうかは別として、ただ乗り(フリーライド)が容認されています。
その人を、信頼できようが信頼できまいが。一緒に働いて気持ちよかろうが悪かろうが、あんまり関係ないんです。その部署にいる、その役割に任命されている、っていう圧倒的な事実・前提によって、一緒に働くしかないんです。拒否権はない。
もちろん、フリーライダーを排斥する動きは取れます。しかし、排斥運動をした側も、相応の手傷を負います。返り討ちに遭うこともある。必死の抵抗で、泥や返り血を浴びる。「あいつは、気に入らない人間を排斥するやつ」という汚名をかぶります。悪評は独り歩きします。「和を乱すやつ」と言われ、評価が落ちます。つぎに排斥されるのは自分です。
会社にいるからには、不満を押し殺し、フリーライダーを野放しにしたほうが、なぜか不利益が少ないという、奇妙な生態系を観察してきました。
会社の内部で、「みんなを勝たせよう」というひとは、ウソツキか、妄想癖のある妖精でした。もしくは、フリーライダーの餌食になって潰れてゆきました。骨も残らない。
ところが…、
会社を飛び出し、アーティストや発信者として独立した場合、ルールが変わるんです(三国志の専業の研究者=ぼくも同じです)。
フリーライダーは、「適切に」、徹底的に嫌われます。先輩や権威者、仲間、同業者、アウトプットの受信者から見ると、フリーライダーは容認できない。さっさと追放することができるんです。
独立して活動している人(noteの発信者たちも同じですね)は、
「私はフリーライドしません。利益や喜びをシェアします」という態度を持たないと生き残れない。発信を続けることができない。これは、マジです。リアルです。
態度を示すだけじゃなくて、実践がともなわないといけない。だから、「全員を勝たせる」っていう発想になるし、実践を目指すのだなって。極めて合理的で当たり前の判断でした。
発信者であり続けるために、気をつけたいと思いました!!
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