1冊の専門書(博士論文)を書き上げるのが難しい理由
佐藤大朗(ひろお)です。早稲田の大学院生(三国志の研究)です。20年弱続けた会社員生活を辞めて、博士課程の学生をやっています。
文系の研究者にとって、「博士論文を書く」は「1冊の本を書き上げて出版する」とほぼイコールです。すべてのキャリアのスタート地点です。
しかし、これが簡単ではない。
卒業論文と修士論文で「1本の論文を書き上げる」までは、辛うじて到達することができるけれども、
博士論文(1冊の本)となると、突然難しくなる。
「博士論文は求められるレベルが高いから当然だ」という指摘は正しいのでしょうが、なぜ難しいのか?という要素に分解してみたい。※要素に分解することで、博士論文(1冊の本)を書き上げることができる成功の可能性が上がると思います。
この記事の結論
この記事でぼくが指摘したい、博士論文(1冊の本)を書き上げることの難しさは、3つの異なる種類の「論理性」を求められるからだ、です。
これが結論です。
卒業論文・修士論文を完成させるには、最低1つの種類の「論理性」を身につければいい。しかし、博士論文(1冊の本)を完成させるには、3つの種類の「論理性」を身につけなければならない。
単純に身につけるべき思考・叙述のパターンが3倍になるから難しい。しかも、相互に混同しないように思考を使い分ける必要があるから、恐らく難しさは3倍では済まない。「3!=6」で、6倍ぐらい難しい。
3種類の論理性とは何か
ぼくが唱えるところの、博士論文(専門書1冊)を書き上げるために必要な3種類の論理性とは何か。……いま、本を読んでいます。渡邉雅子『論理的思考とは何か』岩波新書、2024年。
この本には4種類の論理性のパターンが示されている。
本のオビに結論があるので、示します。
ひとくちに「論理性」といっても、論理の型は4つある。
博士論文(1冊の専門書)は、このうち、最低でも3つの論理の型を使いこなさなければいけない。異なる「論理性」を同時に行使しないと、書き上げることができないのだから、そりゃ難しい。
博士論文(1冊の専門書)を書き上げるために必要な3つの論理の型について、順番に(この話をする上で必要な範囲でのみ)紹介します。
(1)経済の論理(アメリカ)
アメリカ型の論理とは
効率的(経済合理的)に相手を説得するための文章の書き方。「序論」で主張し、「本論」で主張を支持する(裏付ける)3つの根拠・事実をあげ、「結論」にて主張を別のことばで繰り返せばOK。
大学で教わる「アカデミックライティング」はこれです。
もともとはアメリカの大学で、教授陣が効率的に学生のレポート・エッセイを採点するために、1970年代に考案されて定着したものらしい。日本人から見ると「世界標準」に見えるが、高尚な意義と歴史などはなかった。
メリットとして、形式にハメるので、訓練さえすれば誰でも習得できる。読み手は、序論もしくは要約(abstract)だけ読めば、著者の言いたいことを把握できる。その結論が、うまく本論で支持されて(支えられて)いるか、だけをチェックすればいいので、コスパがよい。
デメリットは、著者の主張に関係ないことが、一切、捨て去られること。話を単純化しすぎること。自分に都合のいいことだけをアピールする子供の言い分のようになる。
アメリカ型のつまずき
生まれて初めて1本の論文を書き上げることができるか?という最初の関門は、アメリカ型のライティングを身につけるか、と言い換えることができる。アメリカ型を習得することの難しさは、「考える順序」と「書く順序」が異なることにあるでしょう。
どんなアイディアでも、最初に結論を思いつくひとはいない。個別の情報を集め、テキストを読んだり、調査をしたりした結果、ようやく結論にたどりつく。
しかし、アメリカ型の書き方において、あたかも最初から結論を思いついていたように冒頭でミエを切らされる。そして、わが結論に都合がよい証拠・情報ばかりが、まるで手に吸い付くように奇跡的に集まったかのように「偽装」して表現する必要がある。
内容にウソはないが、書き方・構成にだましがある。
「アメリカ型」に成形するための手続きを、ちゃんと「これは表現上の約束ごとを守るためのフィクションなんだ」と見抜かないと、論文を書けなくなります。
先人の論文のアウトプット(刊行物)を見ると、天啓のように結論だけを効率よく編み出した天才たちの遊戯に見えるため、学生は混乱します。自信をなくすこともあるでしょう。※いい先生は、思考や論が形成されるプロセス、手の内を明かしてくれることがあります。※ぼくが早稲田で師事している先生たちは、手の内を明かしてくれます。
アメリカ型と進学の課程
卒業論文は、このアメリカ型につっこめば、「よく書けました」「とりあえずは非の打ち所が無い」と評価されがち。
修士論文でこれをやると、「小さくまとまりすぎ」「これだけでは、博士課程に進む土台としては足りない」と言われがち。でも、何も書けない、何もまとめられないよりはマシなんだが、という気はする。
博士課程におけるつまずきのポイントは、さすがに「アメリカ型ができない」ではない。つぎに進んで、博士論文(1冊の専門書)は、アメリカ型の論証だけでは完成させることができない、という点にある。アメリカ型の論文をバラバラと10本書いても、「で?」と言われる。
(2)政治の論理(フランス)
フランス型の論理とは
フランスのエリート教育では、フランス革命以降の伝統を継承し、成熟した市民として議論するための基礎力を培うそうだ。バカロレア(高等教育の機関)の入試では、4時間もかけて論文を書くことが求められる。論文をディセルタシオンという。
ディセルタシオンは、まず「導入」で、言葉・概念を提示する。つぎに、「展開」部分で、弁証法をする。
テーゼとアンチテーゼは、思いつきで何でも書いてよいのではない。思いつきで架空のキャラを喧嘩させるだけでは、小学生のディベート大会か、酔っ払いの極論の泥仕合となる。
正反対のデータを並記し、ぶつけるのでもない。正しく調査が設計されているならば、同時に正反対のデータは集まらないはずだ。
何と何をぶつけるのか。先人の著作を厳密に引用してぶつける。国家について論じるならば、ホッブズとスピノザはこう言っていますが(テーゼ)、マルクスはこう言っておりまして(アンチテーゼ)……と並べていく。これをするために、フランス型の文章を書くには、先人の著作を正確に暗記するという試験対策をするらしい。
ただし、自分の意見を放棄するのではない。「カントの説を要約せよ」という知識問題ではない。先人たちの著作を整理しながら、自分なりに言いたいことを浮かび上がらせる。論点や主張が浮かび上がるように、仮想的に先人たちが戦うように配置して、のちにジンテーゼへと導く。
敢えて(論証の手続きのために)正反対のことを言う。そのあとに、正・反の二者とは次元や観点をずらした統合的な結論(ジンテーゼ)を導くのだから、アメリカ型のような密接な論理のつながりはない。せいぜい、無関係なことを言わなければ、繋がりは十分とされる。
不可避のデメリットとして、読み手から見ると、難しくて長く、けっきょく何が言いたいのか分からない。よき弁証法なのか、それっぽいことを言って煙に巻いているだけなのか、客観的に判断できない。採点に時間がかかる。効率性は犠牲にしてよいのです。少数のエリート教育用なので。
参考までに、フランスの書き方は、この本で日本人用に説明されていました。読んだときは、よく分からなかったんです。いわゆるアカデミック・ライティング(アメリカ型)とは別の作法なんだ、ということを理解せずに読み始めたから、馴染めなかった。
フランス型とは先行研究の整理だ
これを日本の大学生、大学院生に当てはめると、先行研究の整理です。フランスのエリート教育なんて関係ないね、と開き直ることが許されない。
論文本体は、基本的にアメリカ型のアカデミックライティングが求められる。それにも拘わらず、なぜか内部に、フランス型の先行研究の整理がビルト・インされている。入れ子構造なのです。
アメリカ型とフランス型、異なる論理性、論理の表現方法を、同時に運用する必要がある。野球をしながらサッカーをするようなものだ。
ぼくが思うに、このことに自覚的なひとは少ない。あえて言語化して指導してくれる教員は少ないだろう(教員は経験則で自然と出来てしまうので)。
先行研究を正確に引用する。この点はフランスと同様です。引用の正確さは命です。ただし、博士課程の学生は、先行研究を丸暗記まではしなくてよい。見ながら引用してよい。
引用を通じて、あたかも先行研究同士が一定の対立軸をもって議論し、正反対の位置にあるかのように整理し(そのようなストーリーを演出・捏造して)、それをより高次元に解消するのが、私のこの研究なんですよ!!と示す必要がある。ジンテーゼ=私ですよ!!と示す。
逆にいえば、自分の研究がジンテーゼになるように(ジンテーゼに見えるように)先行研究を整理するべきだ。
あるいは、先行研究に対して、これから自分がやることがジンテーゼになるように、自分の研究の方向性を定めるべきだ。このあたりは、ニワトリとタマゴ論争に近い。実際の思考プロセスと、著作内における表現が、なかばアリノママ、なかばフィクションのあいだを揺れる。
フランス型と進学の課程
学部生の卒業論文は、アメリカ型を身につけることで、エネルギーのすべてを使い果たす。
学部生がフランス型で先行研究を整理できないことが多い。しかし先生は、先行研究をあげろという。そこで必勝の手抜き殺法!!「この題材は、先行研究でやられていない」という説明持ち出して、先行研究の整理を実質的に放棄する。卒業論文ならばそれで可。
修士論文も、「先行研究で十分にやられていない」で乗り切ることができる場合がある。
しかし博士論文となれば、序章で、フランス型の先行研究の整理をしないことには、1冊の専門書として成り立たない。研究史のなかに位置を得る、位置を占める、研究史に貢献することが、専門書への期待です。
繰り返しになりますが、論文の本体(1本1本の論文、論証をしている)はアメリカ型で、序章の先行研究の整理はフランス型で、異なる原理によって貫かれている。この違いを明確に意識することが大事。
先行研究を整理するパートにおいて、もしもアメリカ型の延長で、自分の議論に必要な、自説を有利にするところの先行研究ばかりを効率的に引用したり、都合よく切り取ったりすると、「研究として成熟していない」という評価になります。
序章はフランス型で、先行研究を整理する。その際は、本論(アメリカ型)とは異なる論理性のモデルを用いるべし。
(3)社会の論理(日本)
渡邉雅子先生は、3つめの論理の型として、日本の作文指導、感想文をあげています。序論で「書く対象の背景」を書いて、本論で「書き手の体験」を書いて、結論で「体験後の感想、体験による変化」を書いてまとめよと指導されます。
こんな下らないものが論理性の型と言えるのか??と疑問に思いますけど、これをアメリカの「結論ファースト」と、フランスの「弁証法」と対等に並べています。
日本の教育を受けたひとなら心当たりがあって、修学旅行の感想文は、いついつどこに旅行に行くことになりました(背景)、どこに行ってこういう見聞を広げました(体験)、こう感じてこういう勉強ができました(感想)という構成を、国語教育で強いられます。
夏休みの読書感想文は、こういう経緯でこの本を選びました(背景)、どういう内容でした(体験)、こう感じてこう行動を変容しようと思いました(感想)という鋳型にハメると、高い評価が得られます。
日本型と進学の課程
日本の博士課程には、「課程博士」と「論文博士」があります。
明言されていませんが、課程博士のほうが博士号を取りやすい、という現実的な慣行や傾向があります。大学院生として教育を受けたプロセス、成長曲線、成長性と将来性、教員との信頼関係などが、結果的に反映されることがあるからだ、というのはオフレコです。※公然の秘密
日頃の研究態度と、「なぜそのテーマや問題関心を持ったか」「この研究を通じてどのように感じたか」「この研究を終えた上で、今後、どのように研究活動(や教員生活)を送りたいか」というパーソナルな変化を重んじるのが、日本の課程博士だと思われ、
それが日本人にとっては「課程博士のほうが易しい」「より日本的な教育方針になじむ」という学位発行になっているような気がします。
「うまくいかなかったけど、目の付け所がよい」「動機が誠実で、取り組む姿勢がまじめだ」が加点要素になる。
これ、アメリカ型、フランス型のいずれとも異なります。
大学院では、博士論文の本文には収まらないけれど、論文の外部(日頃の会話、口頭試問・面接試験)などに表れるほか、博士論文を専門書として刊行すると「あとがき」に登場します。
これも含めて「研究」と見なされます。ここまで揃って、はじめて研究ですし、世間にプレゼンテーションするときも、「なんでこの研究をやってるんですか」「研究をやってみてどうでしたか?」というパーソナルな部分を示してはじめて、「この先生の研究、おもしろい」となりがち。
(4)法の論理(イラン)
今回は関わりがないので省きます。
おわりに
博士課程に入学し、博士論文を完成させ、専門書を1冊刊行するというのは、「結論ファースト」のアメリカ型、「弁証法」のフランス型、「感想文」型の日本型、3つの論理が求められている。
そりゃあ、ひとすじ縄でいかないわけです。
ぼくは博士論文に引きつけて読み解いてしまいましたが、それだけに収まらない射程の長い本なので、皆さまもぜひどうぞ。