大学の授業の、切断・阻害・コスパ・タムパを逆手にとる
佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。
2022年度の秋学期(後半期)は、15週のうち6週が終わりました。
先週までに、5週が終了していた。すなわち、5週÷15週で、3分の1が終わっていた。あれから1週間が経過し、6週÷15週で、4割が終了したことになります。たった1週間分の授業を経ただけで、「3分の1終了から、4割が終了した状態へ」と進んだわけです。いざ4割が完了となると、かなり進捗した感じがあり、展望が開けます。ゴールが見えてきたというか。
1週÷15週=6.7%だから、そりゃあ、33.3+6.7=40.0だろうけれども。
いやいや、どれだけ大学院の授業がイヤやねん、好きで入学したんじゃないのか?というツッコミが入りそうです。ええ、好きで入学したし、大学院の勉強はイヤじゃないです。むしろ充実してます。
でも、短期間にタスク(to do list)を詰め込まれて、細切れの90分ごとに、目まぐるしく違う先生の話を聞き、違う題材のあいだを引きずり回されると、それだけで疲弊するんですよね。とてもつらい。「とりあえず回す」だけで終わります。
たびたび、ぼくが目のカタキにしていますが、大学教育の単位は、拘束された「時間の長さ」を認定するしくみです。
残念なことに、本来の学問とは、来歴・文脈が違います。単位を取ることは、学問とはあまり関係がない。さすがに、逆相関(単位を取るほどに学問から遠ざかる)ではないはずですが。
大学の単位とは、産業革命以降、資本主義の労働者(工場の作業員)を管理する方法を、流用しています。
いかなる意義があろうと(なかろうと)、実際に学習効果があろうと(なかろうと)、拘束された「時間の長さ」によって、ライセンスを与えますよ、という発想。これって、会社員として長く退屈な時間を過ごしてきたぼくにとって、ヘイトが厚くなります。
大学の学部や、大学院の修士課程で、「単位を揃えること」に忙殺され、コスパ・タムパを追及しながら、「一定の時間を費やしたことのアリバイ、証明書」を取りにいくわけです。
つまらなくて当然!!だと思うんですけど、このように、自分と対象とを切り離し、阻害された工場労働の形態を借りた「単位あつめ」は、一周回って、思わぬ効果を狙えると思っています。※ここからが新しい話です
単位を集めるため、自分だけでは、絶対に読まないようなテキストを読まされます。イヤイヤ、仕方なく関与します。現状の自分にとって、「興味がない」「つまらない」ものを学ぶというのが、のちのちになって、効果を生むことがあるかも知れない。
コスパ・タムパを重視しながら、しぶしぶ従事するので、うっかり深入りせずに、異分野を味見できます。つまらなかったら、「あーつまらん」と言って、さっさと単位だけもらって離脱すればよい。自己が侵食される度合いが少ない。ビールを飲んで、忘れてもいいわけですね。
あたかも、製品Aを組み付け、製品Bを組み付け、製品Cを組み付けて、ワケが分からないまま、「ともあれ、8時間は働いた」ってタイムカードを押したらおしまい、というのと同じです。
工場の労働管理に由来するところの、強制、離脱、切断、細切れ、機械的、無機質、最小コスト、最短時間……などの関わり方が、未知の題材に、刹那的に(お手軽に)触れられるチャンスとなり、いずれ効果を生むかも知れない。と、タスクに引き回されつつ、思うわけです。
もともと大学教育を設計したひとが、「(とくに若いひとに)バランスよく見識を持たせて、学問の裾野を広げるために、単位の認定という仕組みをつくろう」という、殊勝な発想をしたのではないです。
学問の進捗を学生ごとに管理するのは、実務的に不可能だ。客観的な指標に置き換えないと、判定が面倒くさ過ぎる。そこで、次善の策というか、次善ですらなく、、開き直るレベルで、エイヤーで決めたのが、単位認定制度であります。
不可避的に制度に巻き込まれるならば、派生的・副次的な効果を取りに行かないと、やっていられない。設計者が本来は想定していなかった効果に着目し、みずからを励まし、残りの9週間を、うまく回し切ろうと思います。メールや雑務をさばくときと同じ「脳」の部分をフル活用していて、なんじゃこりゃ、という違和感は継続していますが、今週末も予習をやり飛ばしてます。