ロシア人への考察Ⅱ
シベリア鉄道で出会った人々、鉄道員たちもみな優しかった。特に、ロシア人家族3人と同室になった際、まるで家族の一員として扱ってくれた。ロシア人家庭にホームステイしたようだった。それから、途中で一緒に下車したロシア人教授も、見ず知らずの自分に「これでもか」というぐらいの助けをしてくれた。身に余るほどでこちらが恐縮するぐらいだった。
しかしよく考えると、こうしたロシア人の優しさを「ロシア人は優しかった」とのみ分析するのは、雑なような気がした。思うに「優しさ」とは二次的なものであって、その根源になにがあるのかを考える必要がある。それにより、優しさの持つ意味は変わってくるような気がした。例えば、優しさの裏に「見返り」を求める気持ちがあれば、それをそのまま優しさと言い切っていいかどうか、疑わしい。また、商業におけるサービス的な優しさだって、金銭の対価としての、表面的なものでしかないのだから、それを本当の優しさとは言えない。
最初にサンクトペテルブルグに降り立った時、「ここからはまったくの外国、それもロシアであり、細心の注意を払おう」と、警戒心をかなり高めていた。空港から市内へはタクシーを使用した。おじさんはなぜか煙草を分けてくれたり、エロ本をくれたり、本当にきっちりとホステルの前まで届けてくれたり、してくれた。が、内心ぼったくられるのではないかという疑念を抱いていた。その言いがかりとしての、サービスかと思っていたのだ。しかしそんなことはなかった。それに土産屋では、観光地特有の「買わせよう」という雰囲気がまったくなかった(商売が上手くないという理由もあるかもしれないが)ように感じた。
街中・タクシー・シベリア鉄道・お店などで出会ったロシア人の「優しさ」の根っこの部分はなにか、考えた。それは「純朴さ」から発せられる優しさなのではないかと思う。本屋で自分がチェブラーシカの絵本を読んでいた時に声をかけてくれたロシア人は、本当につたない英語であったが、なんとかしてロシアのアニメーションについて説明しようとしてくれた。あの懸命さは直接話さないとわからないと思うが、話せばよほど鈍感でない限り、否応なく伝わってくるぐらいの懸命さだった。前述したように、シベリア鉄道で出会った人々からも、紛れもなく純粋な優しさしか、自分は感じ取ることはできなかったのだ。