羽紋(後)

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さて、棺の裏側には、小ぢんまりとした空間があった。舞台裏のようなその空間へと足を踏み入れる。先にハイクが覗き見た装置が、床から生えるようにしてにょきりと直立していた。場所の狭さもあって、余計に大きさが際立っている。
寄ってみれば、その奇怪な装置は、人形達と同様に黒い鋼鉄で出来ており、真四角の箱を縦に二つ積み上げた恰好をしていた。正面にはこまごまとボタンの付いた丸い操作盤があり、その隣に、主電源と思われる仰々しいレバーが取り付けられている。ルーミはこれを操作したのだろう。試しに本体に触れて呼びかけると、わずかだが装置は応えた。顔を上げる。上の箱は虫籠に似た形をしていたが、その両側に、千切れた鎖の残骸が引っかかっているのが浮かびあがってきた。箱の中身は空だ。手を離すと、数秒の余韻を置いて、輝く鎖は再び消えた。
ハイクが力を使い終わるのを待って、ルーミが尋ねる。
「何か分かりそうですか?」
ハイクは苦笑して、首を横に振った。
「特に真新しいものは、何も。こいつが人形の頭脳の代わりをしていたかどうかまでは、ちょっと分からないな」
「上には何が入っていたのでしょう?」
「うーん、人形と繋がっていたのは確かなんだが……なあウルグ、あんたはどう見る」
ウルグは静かに装置を睨んでいた。暗がりへ沈み込むようにして思考している。「ウルグ」ともう一度呼んでみると、「聞こえている」とため息交じりに返事があった。
「何もかも足りない。もう少し周りを探るぞ。だが、あの人形に関しては」
ウルグは一旦言葉を切り、広間を顎でしゃくった。次に吐き出されたウルグの声には、はっきりと揶揄する響きが混ざっていた。
「人を嬲り、殺すための兵器だということが分かっていれば十分だろう。何が“王”だ。あんな人形を使い、他人の命を好き勝手に弄ぼうとするなど、たかが人間が神にでもなったつもりか」
ハイクはウルグの横顔を見た。濃紺の瞳の奥深くで、冷たい、それでいて苛烈な怒りの炎が、ゆうらりと燃えていた。
かわたれの一端に触れた時。そこに憂いのにおいを嗅ぎ取った時。そういう時にウルグが見せる炎だった。目の奥に青い怒りが爆ぜ、ウルグの周りの空気だけが、その瞳に熱を奪われたかのように、しんと冷えこむ。ルーミが恐る恐る顔を上げ、ウルグを見た。ウルグは疑うことができる男だ。ともすればルーミは、人を信じることのできる少女だった。
確かに、そうだった。今の彼女と、ハイクの知るルーミ・アッティラが、同じであったならば。
いつも生き生きときらめいていたその銀色の瞳に、しかし今、希望の光は灯っていない。
「ウルグは、いつもそう言いますね。古の人々は、傲慢だったのでしょうか」
「今だってそうだ。いつの時代も人は傲慢で愚かで、身勝手なまま歳をとり、死んでいく。もっとも君の意見は違うのだろうがな」
問われ、ルーミは頷いた。だが、その表情はどこか晴れない。自信が無いのだと、誰が見ても分かる顔だった。
「……彼らが、人を殺めるためだけに作られたのだと、わたしは思いたくありません。この機械人形にも、守るべきものはあったのではありませんか? 遺跡の外に、石碑が沢山、沢山並んでいたのを、ウルグも見たでしょう? あそこに眠る人々を、かつてこの兵器を作った人々は、守りたかったのではありませんか。そのために、彼らは仕方なく、わたし達を襲ったのではありませんか」
「なら、逆に聞くがな。仕方がなければ、誰が何人死んでも許されるのか? 守りたかっただと? それが、傲慢だと言っているんだ。己の手で、己が欲するものすべてを守り通せると思っている。誰かを救うために、他の誰かを犠牲にしなければならない時は必ず来る。奴らを作った人間達は、甘美な力に酔いしれた挙句、その選択から目を背けただけだ。その結果が、これだ。守りたかった人間は全員墓の下に埋まり、跡には殺意の塊を宿した兵器だけが残された。誰も守れず、何も救えなかった。違うか」
ウルグの鋭い言葉が、石室に木霊する。ルーミは何も言い返さず、俯いただけだった。それを見たウルグの瞳から、たちまち炎がかき消える。口をつぐみ、どちらも黙りこむ。
重苦しい沈黙が場を支配する。まただ。ハイクは怪訝に思って、二人の様子を盗み見た。
何かがおかしい。ウルグは確かに皮肉屋だが、今の言葉は、ルーミに向けるものにしてはあまりにも鋭利すぎる。ルーミもルーミで、普段ならウルグの言葉に物怖じなどせず、むしろ正面から向かっていこうとするのに、今はそれができないでいる。
ハイクの預かり知らない場所で、二人に何か決定的な事件が起こったのは確かだ。だが、その正体が一体何であるのか、分からない。ぴったりと重なっていた歯車に、わずかな隙間が生じ、ぎしぎしと歪な音を立てている。その音がこうもはっきりと聞き取れているのに、ハイクがこの二人にしてやれることは、何もないのだ。
もどかしい、と思う。彼らの旅のほとんどを、ハイクは知らない。同じように、ハイクが見て、感じてきたものを、ウルグとルーミが知ることもない。必要以上の干渉はしない。そういう風にして、それぞれに舵をきり進んで来た。彼らが歩んできた道程やそこから彼らが見た景色を、知りたくない、とは思わない。隣に並んで、見てみたいと思う。彼らがその中で味わったのであろう感動や喜び、あるいは苦悩を、感じてみたいと思う。共有してみたい、とも思う。
だがきっと、知らないままでいた方がいいのだろう。何故なら、一度知ってしまったら、こういう時に二人の間に立ち、気楽にぱちりと指を鳴らすことのできる人間が、一人も居なくなってしまうからだ。
ハイクはおもむろに右の手袋を外した。ひっそりとほくそ笑む。右腕を高く掲げ、親指と中指を強く擦る。
狭い舞台裏に、軽やかな破裂音はよく響いた。風船が割れるようにして、湿気た空気が弾け飛ぶ。
驚いてこちらを向いた二人の顔が瓜二つで、思わず吹き出す。指をさし、笑った。
「間抜け面」
ふざけている場合か、と、ウルグは怒ったような、呆れたような顔でハイクを見た。ハイクはしばらく笑いに身を委ねていたが、急にふと笑みを消し、ウルグの目を覗いた。
「せっかく戦いに勝ったってのに、葬式みたいな顔で、後ろ向きな話ばっかりしなくたっていいだろ? なあ、ルーミ、嫌な時は嫌って、ちゃんと言った方がいいぞ。あんたが言えば効果てきめんだから」
「えっ……? てきめん、なのですか? ウルグ?」
「おい、やめろ。二人してこっちを見るんじゃない。ルーミ……、君もなぜこいつの言葉をすぐ鵜呑みにする」
珍しく狼狽を露わにしたウルグに、ハイクは再び笑みを溢す。たまにはこうして貸しを押し付けてみるというのも、悪くないだろう。返さなければならない借金の山は、まだまだ残っているのだ。
そのあとは、大したいさかいも起こらなかった。ただ、やはりルーミの表情は晴れず、調べる手を止め、ぼうっと地面を見つめていることもしょっちゅうだった。ウルグはわざと気付かないふりをしているのだろう。ルーミがそうしてぼんやりしている時、ウルグは大抵自分の手帳に熱心に何かを綴っていたり、調べ終わったはずの操作盤を、丹念に確認したりしていた。
三人がかりで装置をくまなく調べながら、ハイクはこっそりと周りを見回した。赤い硝子玉が、先程からしきりに道具入れの中で反応しているのだ。沸騰する鍋のようにぐらぐらと震え、触るとじわりと熱い。どこかに、あの大鷲の像があるに違いない。目を皿のようにして、装置の裏に回った時だった。
「……見つけた」
装置の影に隠れるようにして、奥にもう一つ、鉄の扉があった。鍵はなく、取手をひねれば苦も無く開きそうだ。
耳をそばだて、機械人形の駆動音が聞こえないのを確認してから、ハイクは扉をそっと薄く開き、するりと中に滑り込んだ。
ごく小さな、正方形の石室だった。天井も低く、縦にも横にも、十数歩あれば横断できそうだ。
一番奥に、あった。青の神殿で見た物と同じ、本物そっくりの大鷲の像だ。背中が静かに冷え、胃袋が、奇妙な具合にねじれた気がした。生唾をのんで、珠を取り出す。暗がりの中に赤い色が炎のように揺らめいていた。羽根の細工は真っ直ぐに大鷲の像を指している。美しい宝玉を握りこんで、ハイクは覚悟を決めた。
鬼が出るか、蛇が出るか。ハイクは、ゆっくりと像に歩み寄った。持つ手が汗ばむほどに、珠が熱くなっていく。
腰を落とし、足元の台座に珠をはめ込んだ。途端、宝玉がまばゆく輝きだす。青の神殿の時のように、水は流れなかった。代わりに水盆から噴出したのは、溶岩にも似た、粘度のある光だ。寄木のごとくに組み込まれた石材のすき間に流れ込み、赤い筋が血脈のように走り、床や壁や天井に広がっていく。光が部屋の隅々まで行き渡ると、さまざまな形をした黒曜石のうちの一つが、音もなく震え、するりと回転した。現れた面には、細かな古代文字が、一切のすき間もなく刻まれていた。
その一つをきっかけに、次々と石のパズルが回転し始めた。かたかた、ことこと、と壁面が再構築され、組み変わっていく。最後の一つが回転し終えると、珠の光は収束した。
現れたのは壁画ではなかった。しかしある意味では、壁画以上に狂気に満ちていた。右にも左に上にも下にも、部屋一面をびっしりと埋め尽くし、青の神殿で見た物と同じ古代文字で、短い単語が羅列されている。
人の名前だ。ハイクも、大鷲も、すぐに察した。墓群に埋葬されている者達全員の名が、ここに記されているのだろう。ぞわりと背筋が粟立つ。まるで、黒々とした羽虫の大群が、びっしりと壁に群がり、蠢いているようだ。それほどまでに、おびただしい数の死者だった。
もっとよく調べようとするよりも先に、背後で勢いよく扉が開いた。ハイクは驚いて振り返った。ウルグだ。後ろにルーミも居る。ウルグは訝しげに、文字がひしめく室内を見渡し、そうしてその一番奥にいるハイクに気が付いて、ぎょっと目を見開いた。
「おい、そこで何をしている。それに、何だこの部屋は」
ハイクは静かに立ち上がり、膝についた埃を払った。
「さあな。書いてあるのは全部、人の名前のようだけど」
流石のウルグでも、この古代文字についての知識は持ち合わせていなかったらしい。つかつかとこちらに歩み寄りながら、ウルグは部屋を仰ぎ見た。
「ということは、上の墓群の人間か? あの機械人形といい、かつてはここでも大規模な戦があったということか」
何か言うならここだと思った。しかし結局ハイクは何も切り出せず、機会を逃した。脳裏に浮かんだ青の壁画、その凄惨な光景が、ハイクの口を塞いでしまっていた。ウルグ達の方を向いたまま、壁を見ている二人の目を盗んで、ハイクは後ろ手で台座から珠を取り上げ、ガンベルトの元の場所に仕舞った。ルーミが、ハイクの真後ろの壁を指差した。
「では、こちらはなんの紋様でしょう。大きな羽のように見えますが」
ハイクは振り向き、そこにあるものに初めて気付き、絶句した。目の前の壁には、巨大な羽の紋様が描かれていた。壁の上半分を使う恰好で、宝玉の紋を何枚も重ねたような、荘厳で、複雑で、流麗な一対の翼が浮かんでいる。少し距離を置けば、ちょうど翼をたたんだ大鷲の像が、両翼を広げているようにも見えるだろう。
羽の上部に、古代語で数行の文章が書かれていた。目を通し、ハイクは再び押し黙った。

——すべて葬送の儀は終わった。かくして、我らはこの地より発つ。探しにゆかねばならぬ。自由を奪い、その身に終わりなき罪を背負わせた者達を、探しにゆかねばならぬ。
真なる史は、つみびとの史。いつの日か、白日のもとに暴かれるその時まで、歴史の闇に落ちぬよう、我らは守り続けよう。
一の珠、滴る青の社に。二の珠、この地、赤に焼けた王墓に。三の珠、綴られし黒の谷に。紋を刻みし者。紋を刻まれし者。深き黄昏の最後(いやはて)に、約束された再会は、必ずや。

さらに、右翼と左翼の下には、飾り文字でそれぞれに短い単語が記されていた。ウルグがハイクに問う。
「おい、この左側には、何と書かれている」
上の詩に比べ、こちらはいたって短く、簡単な言葉だ。だが、その音の並びの意味するところは、ハイクにもまったく見当がつかなかった。
「 “アグニ”」
「アグニ? どんな意味がある」
「さあ。聞いたことのない言葉だな」
「なら、こっちはどうだ」
ウルグの指が、今度は右の翼を示した。
その飾り文字を目にした瞬間、ハイクは三度凍りついた。ウルグの片眉が上がる。
「どうした?」
「いや……」
もう一度、確かめるように文字に目を走らせる。目に見えて歯切れが悪くなったハイクに、ウルグが苛々と詰め寄った。
「なんだ。さっさと言え」
「あー、うん。そう。そう、だな」
不自然に近い心臓の音を聞きながら、ハイクはゆっくりと、その言葉を読み上げた。
「 “ルドラ”」

     *

地上に出ると、すでに夕方に近かった。分厚い雲の底が薄紅に染まっている。明るいうちに森を抜けるのは難しいだろう。日没までの時間を推し量りながら、「今晩は野営だな」とウルグが溢した。ハイクは頷き、「それならあてがある」と言って、前に立って木立の中を進み始めた。

幸い、レオ達のテントは、獣に荒らされることもなく残っていた。傍らにある崩れかけの広場は、おそらく葬送の儀式に使われた祭殿なのだろう。昔は屋根が掛かっていたのだろうが、今は崩れ、折れた柱が散乱し、薄い水たまりがいくつもできていた。テントはその祭壇の隅に、水たまりを上手く避けて建てられ、折れた柱の陰に天幕を隠して、目立たない工夫が施されている。この森には魔獣は居ないが、用心するに越したことはない。持ち寄った保存食で食事を済ませ、火番の順序を決め、その日は早々に体を休めることとなった。

月も星も見えない、曇った夜だ。以前にも増して、近頃はこんな天気が続くようになってきている。厚い雲は鉛の蓋のごとくに光を完全に遮断し、その色は濃く黒い。連日の曇天に辟易しきってふらふらと飛んできた小さな蛾が、焚き火に飛び込んで、またたく間に燃え落ちた。
炎の前にあぐらをかいて座り込み、その赤い色をじっと見つめていたハイクは、夕方のルーミとの会話に思いを馳せていた。夕食を摂る前、ちょうどこのあたりで話をしたのだ。祭殿の周囲を調べに、ウルグが出かけていた時だった。

まさに今、ハイクが背もたれ代わりにしている柱の残骸に腰掛けて、ルーミは呟いた。
「魔法が在れば、よかった」
その時ハイクは、彼女の隣に腰を下ろしていた。少女の口からそんな言葉を聞くことになる日が来るとは思わず、ハイクは驚いて、ルーミの顔を見つめた。
そんなハイクの様子にも気付かず、ルーミは前だけを見ていたが、その濁った銀色の瞳に、目の前の緑の遺跡が見えているとは思えなかった。
「魔法、ねえ……」
魔法。ただの石くれを宝石に変え、無限のパンとミルクを出現させ、死をも治癒する黄金の水を生成する力。確かにそんな力があったのならば、枯れた土地を再生させることも、魔獣の大群をその一薙ぎで砂へと返す剣を打つこともできるだろう。黄昏すら容易に打ち倒すことができるのかもしれない。
しかし、現実のどこにも、そんな力は存在しない。そして、そんな夢を見続けていられるような易しい世界もまた、存在しないのだった。だが、だからこそ人は “術”を編んだ。魔法のような力は持てずとも、触媒、円陣、文字や言の葉、それらすべてを己の声とし、この世の森羅万象に語りかける術だ。その根源として魔術があり、そこから分岐し、枝を伸ばしていったものとして、錬金術や召喚術の系譜があるのだと、以前にウルグから聞きかじったことがある。
そう、ウルグだ。あの少しばかり理屈っぽく、意固地で不遜で、しかし天賦の才に溢れた錬金術士。何よりも誤魔化しを嫌い、誰よりも真摯に己の術と向き合うあの男が傍らに居て、その背を最も近くで見てきたであろうルーミから、「魔法があれば」という言葉が出た。ハイクには、それはとても無情なことのように思えるのだった。彼女にそんなことを言わせるこの國が。いいや、黄昏が。
だが、空にあるのは太陽だけではない。太陽が見えなくなってしまった時、途方に暮れて空を仰げば、きっとルーミは気付くはずだ。ずっと昔からそこにぽっかりと浮かんでいた、いつまでも、どこまでも、彼女の歩幅に寄り添う、白く輝く月の存在に。他の何よりも、その月明かりこそが、自らの標となることに。
今、この場面で、ハイクが少女に問うべきは、ただの一つだけだった。台本を読み、体内に染みこませた台詞を口に出す時と同じように、自然とハイクの口は動いていた。
「あんた自身は、結局、何を信じていたかったんだ?」
黄昏の謎を解こうと決めたその瞬間、昔のあんたは、そこから何を見ていた。傍に居たのは誰だ。そうまでして成し遂げたかった悲願は何だ。それは一体、何のためだった、誰のためだった。
「わたしが、信じていたかったのは……」
少女の思考が再び闇の中に埋もれそうになる気配を感じて、ハイクは銃を取り出し、ひょいひょいと弾を抜いて空砲を撃った。リズムよく、一発、二発。陽気な歓声を上げた銃に、シュロの木に止まっていた小鳥がばたばたと慌ただしく飛んでいく。驚いたルーミの瞳の霧が、つかの間、晴れた。きっとまた曇るだろう。だが、今はそれで充分だった。
「……真面目に話したら肩凝ったな。よし、踊るか、ルーミ!」
ひらん、立ち上がり、ハイクは軽快に笑った。
「なあ。時計塔、覚えてるか?」
話し始めてから初めて、ルーミはハイクを見た。ハイクは指をぱちりと鳴らし、ブーツの踵で石畳を軽く叩いて、その場で優雅なターンを決め、一礼した。顔を上げると、未だにルーミは両目をぱちぱちさせている。ハイクは右手を差し出した。
「続きをしよう」
今なら止めるウルグも居ない。とっておきのダンスを教えて差し上げましょう、とハイクが付け足すと、ルーミは誘われるように、おずおずとハイクの手に自分の手を乗せた。
「で、でもわたし、ダンスはあまり」
「大丈夫、大丈夫。任せとけって」
ハイクは早速ルーミの手を引いて立ち上がらせると、腰に手を添え、灰色と赤の空には不釣り合いな朗らかな舞曲を口ずさみながら、広場の中央に躍り出た。折れた柱の間を縫い、二つの影がくるくると回る。
「ほい、右足を前に出して、次でターンだ。で、さっきと同じステップをもう一度。よし、筋がいい。もう一回。……上手いな、心得があるのか?」
「昔少しだけ習ったことがあります。あまりいい生徒ではありませんでしたが」
照れたようにルーミは笑った。本人の言う通り、ほんの少しぎこちなさは残るが、それでも十分、上出来だった。水たまりをターンでかわし、軽やかなステップを刻んでいく。薄く張った水面に、ハイク達の姿と、赤く滲んだ雲の腹が映っていた。
風は凪いで、日は沈み、月はまだ昇ってこない。夜と昼の間に移ろう安らかな時間だった。黄昏とは本来、そういうもののことを指す言葉だったはずだ。だというのに、どうしてこの國はこんなことになってしまったのだろう。

ふと顔を上げると、火にくべていた薬缶から、ふつふつと白い蒸気が上がりはじめていた。鉄のカップに湯を注ぎ、一口すする。熱い液体が胃に落ちて、ハイクは息をついた。
そろそろ夜半に差し掛かる頃合いだったが、珍しく、大鷲もまだはっきりと起きていた。墓を見たあとで、眠る気になれなかったのかもしれない。湯気の立つカップを両手で包み、ハイクは呟いた。
「あの時、青の神殿で壁画を見たおまえが、俺に何も言えなかった気持ちが少し分かったよ」
「昼間の、石室でのことか?」
そうだ、と頷いた。
「心積もりはしてたつもりだった。だけど、俺達が殺したかもしれない大量の死者の名をああして真正面から突きつけられたら、どうしても二人には言い出せなかった。ひるんで、逃げた」
「……よく聞け、ハイク。おまえ自身には、なんの罪もない。そんな風に、罪悪感に苛まれずともいい。おまえは、わたしとは違うのだから」
否と、ハイクは首を振った。また一匹、炎の中に蛾が飛び込んだ。くすんだちっぽけな羽根が焼かれ、灰になる。
「同じだ。ルドラとして生きていくと決めた以上、逃げられない。なのに臆した。結局、ウルグとルーミには、何も話せなかったな」
もたれた柱の後ろで、草を踏む音がした。振り返る。カップの湯が波打ち、ぱしゃりと地面に零れた。
木立の影に紛れるようにして、ウルグが立っていた。ハイクがあまりに急に振り向いたので、向こうも驚いたようだ。闇の中にあってもなお、深い青の目が丸く見開かれたのが分かる。
「おい、なんだその顔は。俺が来たのがそんなに意外か?」
炎が照らす範囲に足を踏み入れながら、ウルグはむっつりと言った。どうやら、奇妙な一人会話は聞かれてはいなかったようだ。密かに胸を撫で下ろし、安堵した自分に気が付いて、また嫌悪する。
ウルグはそのまま、ローブの裾もさばかず、ハイクの向かいにどさっと腰を下ろした。神経質そうな見た目に反して、ウルグは錬金術以外の大概のことに対しては、かなり大ざっぱだ。
「そう怒るなって。煙草か?」
「ああ」
ハイクは笑って、新しいカップに湯を注ぎ、ウルグに手渡した。
「ほら、上等な紅茶も、ビスケットもないけど。これはこれでけっこううまい」
ウルグは湯気の立つカップを受け取ると、一口すすり、軽く目を見開いた。カップの中をじっと見つめる。
「甘い」
「だろ? そこの小川から汲んで来たんだ。土の栄養が流れ込んでるから、甘くてうまい」
「土、か。ゼーブルの地下にも水道はあるが、そこの水とは、味が全然違うな」
「ゼーブルの地下? おいおい、そんなとこの水、飲んでも平気なのか? 毒でも混じってそうだけど」
「無論そう言って飲まない奴もいる。だが、まあ、成分上は飲用としても問題はない。俺のねぐらにも井戸がある。一見死んだように見えるあの都市も、水だけはまだ生きているというわけだ。いつ枯れるかは解らんがな」
「ふうん。で、どうしたんだ? あんたの当番はあと半刻以上先だろ。恋愛相談なら、喜んで受けるけど」
飲みかけの湯が気管に入ったらしく、ウルグは咳き込んだ。些細ないたずらが成功した気分で、くつくつと喉を鳴らす。ウルグは恐ろしい顔でハイクを睨んだが、やがて諦めたように、首を横に振った。
「違う。分かっているだろう」
「何が?」
「 “ルドラ”」
ああ。
やはり、来た。
ハイクは時間を稼ぐため、わざとゆっくりと白湯を飲んだ。
「そうだな。気になるよなあ」
「当たり前だ。おまえ、一体何が目当てでこの遺跡を探りに来た」
強い眼に射抜かれる。逃げられない。ハイクはカップを置き、両の手のひらを組んだ。
「負の遺産ってやつかな」
負の遺産、と、ウルグが含むように反芻する。
「そう。どうやら我がルドラの一族も、かわたれの系譜を継いでいるらしいというのが分かってきたんだ。ご立派な戦人(いくさびと)だったようだぜ」
「その証拠が、石室に記されていたあれらだと?」
「多分な。やれやれ、子孫に尻を拭わせるなんて、全く困ったご先祖様だよ。会って蹴っ飛ばしてやりたいくらいだけど、できないから、根こそぎほじくり返して、あの世に行った時に叩き付けてやろうと思ってな」
探るような視線を感じながら、へらへらと笑ってみせる。ウルグはにこりともせずに、夜の闇を溶かしたような声を滑らせた。
「上手くいきそうなのか。その尻ぬぐいとやらは」
「どこで成功か失敗かを決めれば良いのかは分からないけど、とにかくもう少しで、何かは掴めそうだ」
青の神殿、赤の王墓、そして、黒の谷。王墓の詩文が正しいのなら、三つ目の珠は必ずそこにあるはずだ。鍵はすでに手の中に揃いつつあった。だが、何故だろう。まだ何かが足りない気がする。あと少し。あと少しで、真実にたどり着けそうだというのに、まだ何かが決定的に欠けている気がするのだ。
じ、と何かが燻る音がした。顔を上げる。いつの間にか、ウルグが煙草を取り出し、先端に火を付けていた。漂う紫煙をぼんやりと目で追っていると、ウルグがぼそりと呟いた。
「おまえの考えていることは、俺には分からん。いつもへらへら笑っている」
「おやおや。錬金術師殿にも、分からないことがおありで」
「茶化すな。俺は真面目だ」
「おっ、なんだよ、ひょっとして心配してくれてるのか? 俺からすれば、あんた達の先行きの方がよっぽど心配なんだがな。久しぶりに会ってみれば、ルーミの剣は折れてるし、あんたはあの子に妙によそよそしいし」
ウルグの指先がひくりと痙攣し、煙草の灰が、はらはらと落ちた。灰の塊は、地面に着くより前に生ぬるい夜風に粉にされ、あっけなく消えていく。
「あいつの剣が折れていると、いつ気付いた? あいつはおまえの前では一度も剣を抜かなかっただろう」
ハイクは落ちていく灰から目を離さないまま、言った。
「抜かなかったからだよ。機械人形に囲まれて、あんたが窮地に陥ってたあの場面ですら、あの子は剣を抜かなかった」
「……確かに、以前までのあいつなら、迷わず斬りかかっていたかもしれんな」
「どうするんだ。あのままルーミを放っておくつもりか」
「あいつはもう子どもじゃない。自分のことくらい自分で何とかするだろう。無論、足手まといになるようなら置いていくまでだがな」
本当にそんなことが、あんたに出来ると思うのか。出かかった言葉はしかし、ハイクの喉を震わせることはなかった。
「冷たいねえ。まあ、俺には関係ないけどな」
「薄情な奴め」
ウルグが口の端をつり上げた。ハイクはけらけらと笑って、背もたれ代わりの柱に寄りかかった。
「そうさ。俺は薄情なんだ。自分の得になると思ったことしかやらないし、危険だと思えば、さっさと自分だけ、とんずらする。だから、あんた達が一体どこの誰だろうが、どんな面倒ごとに巻き込まれてようが、俺にとっちゃあどうでもいいことなんだよ」
「見上げた根性だな。例え俺達がどこで野垂れ死のうが、か?」
ああ、関係ないね、と、ハイクは気楽に腰の銃を叩いた。
「他人を気にしてる暇なんて、こいつの弾の先ほども残ってないのさ。だから、そうだな。しょうもない尻ぬぐいなんかさっさと終わらせちまえば、あんた達とも、もう少しまともに話が出来るようになれるのかもしれないな」
自分が何者なのか分からない。自分のことなのに、己の底を己で窺い知ることができない。一族の名を背負って生きていくことを決めたハイクにとって、それは紛うことなき恐怖だった。
危険だ。ルドラという名の裏に、何が潜んでいるのか分からない。ひょっとしたら血に飢えた魔獣が潜んでいるかもしれないし、底なしの沼がぶくぶくと奇怪な泡を立てて、近寄る者を引きずりこもうとしているのかもしれない。だから、まだ、その正体を掴むまでは、この二人と関わる訳にはいかない。まだ、深く繋がるわけにはいかなかった。フィデリオに関してもそうだ。例え一族の持つ歴史が、國の裏側に触れるような危険なものであったとしても、それが及ぼす被害は最小限に留めておかなければならない。ただでさえ、すでに四人も死んでいるのだから。
大鷲の溜め息が、すぐ近くで響いた。熱くなりかけていたハイクの魂を冷やしてくれる、冷たい風のような声だ。
「おまえが先月から極力人と関わらないようにしていたのは、そのせいか」
その通りだ。胸の中だけで返事をする。ウルグは静かにハイクを見ていた。
「決着がついてからだと言いたいのか、おまえは」
「そういうこと。全部終わったら、その時にはあんた達にも、ちゃんと事のいきさつを話すことにするよ。まあ、そうなる頃には、とっくに笑える昔話になってるだろうさ。酒場で酒でも飲みながら、情感たっぷりに演じてやろう。俺達二人の物語を、ありのまま」
「二人?」
ウルグは怪訝な顔だった。ハイクは含みのある笑みで、応、と答えると、人差し指を軽く振った。
「そう、二人。ここから先はまだ秘密だ。続きが気になるんなら、その時までに、そっちもきっちり落とし前を付けておくことだな」
「ふん。……偉そうに」
「友達に似てきたかもな」
「減らず口は元からだろうが」
短くなった煙草を焚き火に放りこみ、ウルグが鉄のマグを持ち上げたところを見計らって、ハイクは自分のマグをウルグのそれにぶつけた。がちり、と、いささか乱暴な音がする。ウルグの驚いたような顔は、しかしすぐに、にやりとした笑みに変わった。
「うまい水で誤魔化そうとしたって、無駄だぞ。次の酒はおまえの奢りだ。忘れるな」
がちり、と、再びカップをぶつける。
絆の代わりに交わされた、あまりに不確かでおぼろげな、未然の明日への誓いだった。

     *

また、あの夢の中に居た。
ハイクは猛烈な風の濁流に襲われていた。黒い大粒の雨が混じった風は、重い湿気をはらんで、一筋一筋が質量を伴ってこちらに向かって殴りかかってくる。体が木っ端微塵に砕けてしまいそうだった。自分の鳴き声すら、ここでは耳に届かないようだ。
飛び込んだ雲の下は、大嵐のただ中だった。
凄まじい風と雷雨だ。気を抜けば、その瞬間に体勢を崩して彼方へ吹き飛ばされてしまうだろう。だが、翼はまだ折れていなかった。一刻も早くあそこに行かなければという強い思いが、ハイクを前へと突き動かしていた。
はやく、行かなければ。
はやく、あそこに、行かなければ。
視線の先で、赤い稲光が走った。いや、稲光ではない。炎だ。地上の戦いが激しさを増しているのだ。速く、もっと速く飛ばなければ。あそこに行って、為すべきことを為さねば。片方だけしかない目を懸命に見開き、ハイクは翼を大きく羽ばたかせた。
再び眼下で、巨大な赤い光が弾けた。爆音が轟く。熱風が大きくうねり、渦を巻き、こちらに向かって吹き上がってくる。自然現象ではない。それは人によって作り出された炎の竜巻だった。あっという間に、視界が真っ赤に燃え上がる。羽根が焦げ、肉が焼かれ、痛みを越えた痛みの中で、それでもハイクは一心不乱に飛び続けた。行かなければ。行かなければ。はやく、行かなければ。だが、ハイクはすでに飛んではいなかった。ハイクはただ、落ちていた。暴風に嬲られ、墨と化した翼が引きちぎれ、焚き火に消し炭にされた蛾のように、燃える渦の中に消えていった。何も感じない。何も分からない。誰かの声が聞こえる。数多の風と数多の歌声が交じり合ったような、悲鳴にも似た、張り裂けるような声だ。煉獄の中で幾重にも反響する。近くて遠く、広くて深く、悲しげで、美しい。それが己の声だということにも気づかないまま、ハイクは落ちていく。下へ、下へ。
ああ、行かなければ。
はやく、行かなければ。

     *

目を開けた。明け方だった。虫も動物達も森も、まだ寝静まっている。ウルグはあのあと、何だかんだと理屈をこねてルーミの分の火番も勝手出たようだったから、おそらく今も、煙草をくわえながら消えかけの墨をつついていることだろう。ハイクは起き上がり、上着は羽織らないまま、こっそりと天幕を抜け出した。
ウルグに気付かれないようにテントの裏から森に入り、向かったのはマキナ達の眠る墓だった。朝露の滴る草むらを抜け、見晴らしの良い崖地に足を踏み入れる。まだ新しい四つの石碑が、しっとりと湿り気を帯びて、均等に並んでいた。ハイクはわずかに盛り上がった土の上に、途中で摘んだ白い花を数本ずつ供えた。そのままテントに戻る気にもなれず、墓前に座り込み、ぼんやりと朝を待つ。澄んだ緑のにおいが、冷水のようにハイクの体に染みて、頭を目覚めさせていく。
しばらくそうしていると、やがて森と空の境界がじわりと滲み、弱々しい太陽が顔を出した。まだ低い位置にあるせいで、垂れこめる雲が反射板の役目を果たし、薄紫の光の両腕が、黒々とした森の輪郭を撫でる。
朝霧の向こう側で霞む朝日は、ハイクを奇妙に落ち着かせた。ただ静かに、淡々と、頭の中で考えが巡っていく。
緑の丘。そこで暮らしていた名もなき一族。ルドラ。かわたれ。大鷲。歴史と戦渦。宝玉と羽の紋。そして、アグニ。今までに歩いてきたすべての道程、見てきたすべての事柄が、目の前に展開し、一つの推論として組み上がっていく。しかし、これだけではまだ足りないのだ。ハイクの推論は希薄で、根拠も足りず、すべてを説明できていない。一番大切な部分が欠けている。
だが、それでも確信していることがあった。
「なあ」
語りかける。返事をする代わりに、大鷲はだまって首を持ち上げた。
「おまえ、記憶が無いなんて、嘘だろう」
はっきりと、大鷲が身を固くしたのが分かった。徐々に高度を上げていく太陽を眺めながら、答えを待つ。
「なぜ、気付いた」
「やっぱりな」
「……仕掛けたのか」
「勝ちは勝ちだ。さあ、知ってることを話してもらおうか」
大鷲は再び黙した。しばらくして、男とも女ともつかない声が、冷たい空気と一緒に、ふわりとハイクの中に流れ込んだ。
「黒の谷へ行こう。待ち人は、おそらくそこにいる」
マキナ達の墓の向こうで、遠い太陽は、再び雲の中へとその身を沈み込ませていった。





(羽紋(後))

!ルーミ・アッティラさん、ウルグ・グリッツェンさん(@Hello_my_planet)をお借りしました
『飛ばぬ弾丸、折れた剣(綿谷真歩 様)』と同じ時系列のお話になります

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