大きな車輪

 特に何もしなくてもなぜか国語の成績だけは昔から良かったんだよなあ、というのが、友人がおれに漏らしたささやかな自慢だ。
 友人は名を葉(よう)という。葉とおれは、今年同じ大学に入学したばかりの同期生だ。葉は文学部で、おれは法学部だけれども、同じ英語の講義を取っていたので話をするようになり、二ヶ月ほどが経って今に至る。
 人と触れあうことを彼は恐れたことがないのだ。初めて葉と話した時の第一印象がそれだった。幼少期から引っ込み思案で、人見知りの気があるおれからすればその人懐っこい性格は羨ましいことこの上ない。誰かと話す時の葉はいつも心から楽しそうだし、それは今でも変わらない。
「法学部ってことは、弁護士志望なのか」
 初対面時、広々とした講堂で黒板の字を大判のノートに写し取りながら、葉はおれに尋ねた。外は抜けるような五月晴れで、人の密集する講義室は少し蒸し暑かった。
 「いや」とおれは言った。「警察官になりたい」
 おれのその言い方が葉は気に入ったらしい。その講義をきっかけに、葉は講義室や食堂でおれを見かける度に小走りでやってきて、隣の席に勢いよく滑り込んでくるようになる。互いに学生アパートで暮らし始めた身ということが分かってからは、葉はしばしば近所の弁当屋で買ってきた弁当やコロッケの袋をぶらさげて、おれの安アパートの扉を叩いた。大抵本を読んだりレポートを書いたりするくらいだが、中学高校と友達付き合いというもの全般に遠慮がちだったおれにとって、友人と一緒にほんのり暖かい弁当をつついたり、銭湯に行ったり、狭くてうるさいコインランドリーで洗濯が終わるのをだらだら待ったりするのはそれだけでも十分に面白いことだった。
 授業の空きが被ると、つるんで他の理数学部や歴史学部の講義を聞きに行った。発案は葉だ。しかし噂によると、葉はどうやら一人で二年や三年の講義にも顔を出しているらしい。三つ以上の同好会に出入りする姿を目撃したという話もある。妙というほどではないにせよ、入って間もない新入生が取る行動として葉のそれはいささか積極的すぎるようにも思えたし、実際目立ち始めていた。ほんとうに少しだが、根も葉もない想像を膨らませている人もいるようだった。あまりにも多くの授業や課外活動に出没するので、葉くんって本当はどこの学部の子なの、と見知らぬ先輩に声をかけられたこともあるくらいだ。
 そうした噂について本人に尋ねたのは、通学中の電車の中だった。
 午後からの講義だったので車内は空いており、途中の駅から乗ってきた葉は、教科書類が詰まった重いリュックを膝の上に抱えて座っているおれを見つけると、「お、渡里(わたり)」と隣の席に腰を下ろした。
「昨日先輩に聞かれたよ。葉くんはどこの学部なのって」
「え、マジか。それってあれか、俺が色んな場所ふらふらしてるから?」
「ふらふらはしてないと思うけど、どうしてかはおれも気になってた」
「うーん、大した理由じゃないんだけどなあ。いや、まあ、隠すほどのことじゃないんだけど」
 葉はなぜか少し恥ずかしそうに笑いながら自分の茶髪を何度か引っ張ったあと、ショルダーバックから大判のノートを引っ張り出した。
 おれが英語のノートだと思っていたそのノートに書かれていたのは、授業の内容ではなく、教授や講義室の様子について詳細な覚え書きだった。
「講義も面白いけど、人を見るのが好きなんだ。大学の人達ってさ、なんか今までと系統が違ってて新鮮っていうか。普段からそういうのを書き溜めておいて、小説を書くときの参考にするんだよ」
「小説?」
「そう、趣味。まだ始めたばっかりだけど」
 ノートの描写が人の外見だけでなく性格や内面の細かな部分にまで及んでいることにおれは驚いた。そういえば、前に部屋に来た時に心理学の本を読んでいた気がする。大学内でも人目を引くほどの葉の好奇心は、すべて小説を発端としていたらしい。ノートにはおれについての文章もあった。
 控え目と見せかけてかなり一本気。話していると、時々内側にある芯を感じるような気がする。誠実。部屋の居心地がいい。
 なんだか照れくさかった。葉がノートを覗き込み、「ああ、それ」とにやりと笑った。
「言っとくけど、感じたまんまだからな。脚色してねえから」
「これも小説になるの」
「ゆくゆくはな」
 電車を下りてホームから人気のない高架橋へ上がると、葉は初夏の日差しをさんさんと浴びて輝くビル群を眺めながら言った。じきに大学も夏休みだ。
「ファンタジーとかホラーとか、架空の話が好きでさ。でも、こうやって高いとこから街や人を見てると時々思うんだ。このごちゃごちゃした沢山の物の中に一つ二つはよく分からないものが紛れてて、俺たちはみんなそのよく分からないものと一緒に、昔から大きな車輪を回してきたんじゃないかって。それが俺たちにとって良いものか悪いものかは分かんないけど」
「現実でも空想でもいいから、そんな話が書いてみたいな」と葉は笑った。




(大きな車輪)