飛翔(中)

<< 前   目次   次 >>

家に戻ると、セイファスが二階から下りてきたところだった。よく眠れたかね、と聞かれ、ああ、と頷いて、それだけだった。
支度を終えると、ハイクとセイファスは大通りに出た。太い通りの中央に、一隻の小さな白い飛行船が泊まっている。セイファスが呼んだ迎えとは、このことだったらしい。側に立っていた操縦士らしき男が、こちらに気付いて駆け寄ってくる。セイファスに似てすらりと背が高く、飛行士が好んで着る、道具入れが沢山付いた分厚い皮の外套を身に纏っていた。
「お待ちしておりました、長。そして、ルドラのあなたも」
「ああ、アザレア。苦労をかけるね」
「いいえ。お役に立てるのであれば、なんなりと」
ハイクは目を瞬いた。声が高い。女性だ。髪の短さと、体形が隠れる格好のせいで気付けなかった。
その反応には慣れているのか、彼女はハイクを見て声も無く笑った。
「私は一度、あなたを乗せて飛んだことがありますよ。王墓へ向かっていた時です。あなたは疲れて、ほとんど眠っていましたから、覚えていないでしょうけれど」
あの無口な操縦士か。ハイクは怒るというよりは呆れて、彼女の黒髪に目をやった。耳の後ろの一房が赤い。これならば、仕事中は飛行帽にすっぽりと隠れてしまうだろう。
「ほんと、物好きだよなあ、あんた達。他にも何人か張り付いてたんだろう」
「……無礼をお許しください」
操縦士が今にも腰を直角に折り曲げそうだったので、ハイクは急いで付け加えた。
「そっちの事情は聞いた。謝らなくていい」
「ですが」
操縦士は困ったような顔で、ちらりとセイファスに目線を送り、助言を仰いだ。老人は、「わたしも、彼には同じことを言われているのだよ」と、口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「さて、ハイクよ。これからおまえさんを森へと送り届けるが、奥の遺跡に、我らも同行してもよいだろうか」
「良いも何も、あんた達が見届けてくれなくちゃな」
「ありがとう。ゆりかごへは入れぬが、せめて近くに居させておくれ」

昇っていく朝日を右手に、白い船は飛び立った。八人乗りの小さな船内だった。アザレアの航路選びは的確で無駄が無く、定期便のように各町を経由しなかったことも手伝って、夕暮れ時には、北に城下町シュペルリングの輪郭が見えていた。彼女は舵を左に切り、山を迂回して、森の入り口に船を下ろした。
戻って来た。すべてが始まった場所に、すべてを終わらせるために。すべての因縁を断ち切るために。そして、大切な者に別れを告げるために。
この森全体が一つの大きな篩だと、セイファスは言っていた。然程広くもないのに、迷いの森と囁かれる由縁だ。しかし今は、アグニとルドラが居て、更にはアギラも揃っている。遺跡の入り口を見つけるのはわけもなかった。森が提示する道に従って進んでいった先で、五年前には得体の知れないトンネルだったものは、今やはっきりとした意義と役割を持って、ハイク達を待ち構え、真っ赤な日差しを浴びながら、ぽっかりと口を開けていた。
ハイクは立ち止まらなかった。迷って何度も行き来していた五年前の自分とフィデリオの影を追い越し、セイファスとアザレアと共に、荒廃した煉瓦の空洞を歩いて行った。両脇に点在する小部屋には目もくれず、木の根で盛り上がった煉瓦を踏み越え、曲がりくねった通路を無心で進んでいくと、やがて、最奥を示す壁が見えてきた。しかし今のハイクはもう、ここが最奥ではないことを知っている。かつては読めずに悔しい思いをした古代文字も、苦もなく読むことができる。ここでの一件がなければ、自分があそこまで熱心に古代語を学ぶことはなかったのかもしれない。トレジャーハンターとして一歩を踏み出した場所へと、すべては帰結し、完結する。何もかも、この日のために。
ハイクは振り返り、セイファスとアザレアを見た。二人とも、決然とした眼差しでハイクを見返したが、しかしその表情はどこか憂いを帯び、悲しげだった。アザレアは口を開き、ハイクに何かを言おうとしたが、結局何も言えず、そのまま口を閉じた。
文字を示し、ハイクはセイファスに尋ねた。
「読めばいいんだな」
「そうだ。さすれば、ゆりかごがおまえさん達を導くだろう」
「分かった」
頷いて、ハイクは再び、壁面に向き合った。細い横文字を読み上げる。

——ふたつのあいだにわたしはひらく
  我らが友に 歌よ祈りよ

ハイクは、自分の声に共鳴して、遺跡が、そしてゆりかごが、喜びに打ち震えるのを感じた。目の前の文字が薄く光る。ハイクは落下に備えて身構えたが、内臓が落ち込む感覚は訪れず、むしろそれとは反対に、体がみるみるうちに軽くなっていくような不思議な浮力が働くのを感じた。まるで何者かが、ハイクを上へと引っ張りあげようとしているかのようだ。急激な眠気に襲われ、柔い風が吹きあがり、体が遠くへと運ばれていく。
靴底が地面から離れた感触と同時に、ハイクの意識はふっつりと途切れた。

    *

何か固い物体が、頬にぶつかるのを感じた。さざめく波の音がする。どうやらハイクは今、柔らかい砂の上に身体を投げ出しているらしい。また、固い何かが頬をつついた。瞼を持ち上げるのはひどく億劫だったが、頬に当たるそれが繰り返し顔をつついたり、髪を引っ張ったりしてくるので、こそばゆさに観念して、ハイクは緩慢に両目を開いた。闇に沈んでいたハイクの視界は、たちまち、ふさふさとした焦茶の羽毛で覆い尽くされた。
「ああ、起きた、起きた」
声が、顔のすぐ横から響いた。ハイクの内側からではなく、外側からだ。こうして実体のある姿で対面するのは二度目だなと、未だにぼんやりする頭で考えていると、大鷲はハイクからそっと顔を離し、首を傾げた。
「体に異常はあるか、ハイク」
「……だるい」
応え、ハイクは片腕で目を覆った。青空が眩しい。
「なら、大事ない。初めてゆりかごに来た者はそうなる。体から魂だけが剥がされるからな。だが、じきに慣れるだろう」
ハイクは肘をつき、上体を起こした。確かに、少しずつ腕に力が入るようになっている。ゆっくりと首を動かし、辺りを見回すと、どうやら自分達は、三日月の砂浜の、ほぼ中央に落ちてきたらしかった。浜の先端のほうには、かつて大鷲が眠っていた石の祭壇も見えている。
足元に打ち寄せる、きらめく透明な海水をしばらくの間ぼうっと眺め、ハイクははたと思い当たった。
「俺達の体の方はどうなったんだ、つまり、肉体のほうは」
「 “おまえの”肉体だ、ハイク。心配せずとも、今はあの老人と娘が見ているだろう」
ハイクは再度、辺りを見回した。青き太古の海と、掴めそうなほど近くにある、雲一つない空。飛行船のように浮かぶ白い太陽、日の輪。それ以外には何も無いようだ。果たして本当に、ここがゆりかごなのだろうか。少なくともハイクには、この砂浜は、前に来た浜とまったく同一の場所であるように思えた。
「正確には、ここはまだ、ゆりかごではないよ」
「どういうことだ?」
「後ろを見てごらん」
ハイクは後ろを振り返った。そして、息を呑んだ。
塔だ。白い巨塔が、水平線の向こう、垂直に空を貫いている。先端は天空の彼方へと霞むほどに高く、その姿はまるで、天上から一本の生糸を垂らしたようでもあり、あるいは、空を支える一本の支柱のようでもあった。現実にはありえない絶景だ。知らず、ハイクの口からはため息が漏れた。
「……さて、まずは、あそこに赴かなくてはならないな。どれ」
言って、大鷲はその場で器用に巨体を反転させ、ハイクに背を向けた。座ったままそれを眺めていると、大鷲は顔だけをくるりとこちらに向け、じれったそうにかちかちと嘴を鳴らした。
「どうした、早く乗れ」
「え? 乗れって、おまえ、飛空艇じゃあるまいし」
いくら強い筋力を持つアギラといえど、大元は鳥のはずだ。お互い魂だけとはいえ、ハイクの体重に耐え、空中を飛行することなどできるのだろうか。しかしハイクの心配をよそに、大鷲は悠々と、どこか自慢げに翼を広げ、胸を膨らませた。
「わたしは、飛空艇よりもうんと速いぞ」
「いや、速さを比べたかったんじゃなくて」
「なんだ、もしかして、高い所は苦手か? だが、今まで見てきた限りでは、心配ないと思うが」
ハイクはとうとう説明を諦め、苦笑して手をひらひらと振った。
「ああ、もういい、分かった、分かった。乗るよ」
「そうか? なら、乗ってみてくれ。一度でいいから、人を乗せて飛んでみたかったんだ」
大鷲は大人しく前に向き直り、再び体を屈めた。ハイクがその背によじ登り、左右の翼の付け根に足をしっかりと挟みこんだのを確認すると、大鷲は澄んだ声を汽笛のように響かせて、艶めく翼を大きく羽ばたかせ、勢いよく青空へと舞い上がった。
おそらくそれは、先の時代には叶わなかった、大鷲の密かな夢だったのだろう。離陸の途中でよろめき、あたりに砂をまき散らしたが、大鷲が体勢を崩したのはその一度だけだった。大鷲の体を駆け巡る喜びが、触れた部分を通して、ハイクにも伝わってくる。今の大鷲の中には、早く行かなければ、という、かつてのような焦りは欠片も無いようだった。飛空艇より速いと豪語したにもかかわらず、大鷲はたっぷりと時間をかけ、味わうようにして空を飛び、時折きまぐれに海面の際まで下りてみては、爪先で水と戯れた。ハイクもまた、大鷲の背に掴まり、共に飛ぶ最初で最後の空を、海の深さを、触れた部分の羽毛の柔らかさを、その下で脈を打つ体温の暖かさを、己の中に刻み込んだ。

塔は、島の中央にあった。島は平たく、丸く、先の浜よりもずっと広い。それでも、大鷲がその周囲を一周するのに、数分もあれば十分だった。
大鷲は、塔のふもとの広場へと降り立った。純白の砂岩でできた巨塔は、世のあらゆる法則を無視して、目の前に超然とそびえ、遥かな紺碧の空へとその根を下ろしていた。世界を構成するすべてが美しく、穏やかで、平和だった。ハイクは、塔が、あるいはその中に封じられている魂達が、自分達を導こうとしている力を強く感じた。広場から続く数歩分の段を上った先、塔の入り口に扉はなく、来訪者を歓迎するかのように、広く開放されていた。
ハイクは、大鷲に向かって問いかけた。
「この上には、何があるんだ」
「分からない。わたしの知る塔とは、形が変わっているようだ。浜が閉じた影響かもしれない」
「登りきれると思うか?」
「みなが呼んでいる。きっと、力を貸してくれるだろう。だが、そうでなくても、行ってみたいな。見てみたい」
「……ああ。俺も」
大鷲は、それは嬉しそうにさえずった。
「じゃあ、進もうか。わたし達の、最後の探求地だ」

少しでも共に在る時間を伸ばしたかった、という感情を、否定することはできない。だが、そう思うと同時に、ハイクの中にも、巨塔への好奇心は芽生えていた。黄昏もアグニもルドラも関係なく、ただ純粋な好奇心から遺跡に入ってみたいと心の底から思えたのは、これが初めてのことだ。
入り口をくぐる。塔の内部は空洞だった。潮騒が木霊するだけの、がらんどうの空間だ。黒の谷の円形広場とほとんど同じ広さの広大な円筒の内側に沿って、手摺すらない、角ばった石段だけが延々と上へ伸びている。あまりの高さに目が眩む。どうしたものだろうかと、ハイクは思案した。自分は石段を登ればよいが、大鷲にそれは至難だ。かといって、この高さを一息に、それも垂直に飛び上がることもできない。
ハイクはだまって、無限に続く白い壁面を見上げた。せめて、大鷲が羽を休められる場所があればいいのだが。
そう思った時だった。まるでハイクの望みを塔が聞き入れたかのように、壁の上部に、どこからともなく木製の止まり木が現れた。大鷲の体躯すら受け止められそうな、太い支えまで付いている。ハイクが呆気に取られている間にも、止まり木はみるみるうちに等間隔に出現し、あっという間に、石段の真上に大鷲専用のもう一つの階段が形成された。どうなってるんだ、と思わず口に出したハイクを一瞥し、大鷲はゆったりとハイクの頭上を飛び越すと、白い止まり木に着地し、どこか面白そうにハイクを覗き込んだ。
「驚くことでもないさ。ゆりかごは有形だが、無形でもある。住人が望めば、いかようにも形を変える」
「住人? ……そうか」
ハイクは理解して、大鷲を仰ぎ見た。
「皆が力を貸してくれるってのは、こういうことか」
「そうさ。どれだけ時が経とうとも、おまえと皆の魂は繋がっている。途切れぬ血の絆だ」
血の絆。それは、一つの器を分かち合うよりも、強い繋がりなのだろうか。ハイクは石段に足をかけた。体のだるさは気付けば跡形もなく消え去っていたが、腰に下げた銃だけは、未だに己の重さを主張し続けていた。

どれだけ上っても、息は切れず、疲れも感じなかった。それでも、ハイクは一歩一歩を踏みしめながら、この場における何物をも見落とすことがないように、少しずつ石段を上っていった。
階下の地面が霞み始めた頃だった。上の方、真ん中に、何か大きな物体がぶら下がっているのが見えた。大鷲は先に飛んで行ってしまったが、ハイクは走らず、歩いて、その何かがある場所と同じ高さまで歩を進める。どうやら鳥籠のようだ。塔と同じように白く、てっぺんから鎖が一本だけ伸びている。鎖の先を辿っていくと、どうやらこの上にも、同じような籠がいくつもぶら下がり、数珠繋ぎになっているらしい。一足先に止まり木の上で籠の中を覗き込んでいた大鷲が、ぽつりと溢した。
「わたしの、一番目のきょうだいだ」
籠の中には、あたたかな光と風が降り、清潔な水飲み台や擬木が置かれていた。追憶で垣間見た谷の地下牢よりも遥かに安全で、快適そうだ。中の者を閉じ込めておきたいというよりも、保護し、休息を与えたいという意志の方が強く滲み出ている。大鷲の主がここを家と呼んだ訳が分かった気がした。
しかし、肝心の籠は空だった。いや、初めは、空のように見えた。ハイクは籠の中央に、歪な紫色の岩石が浮かんでいることに気付いた。言葉で聞いたことは数あれど、実物を目にするのは初めてだ。
そうか、これが。この小さな石こそが。
「魂の結晶」
「ああ、そうだ」
大鷲は頷いた。
「呼び戻された魂の石は、次の肉体の用意がされるまでの間、ゆりかごの中で、かりそめの体を得ることができた。だが、今は」
どこか残念そうに、大鷲は石を見つめた。止まり木から階段の淵に下り、可能な限り籠に顔を寄せる。そうすることで、石が再びアギラとして蘇り、大鷲に親しく語りかけてきてくれるのではないかと、期待している様子だった。
「おい、きょうだい、聞こえるか。わたしだ。わたしが帰ってきたぞ。……だめだな、やはり。おそらくこれも、浜が閉じた影響だろう。籠の戸も閉まったままだ。以前は扉など、付いていなかったのだが」
ハイクも大鷲の隣に歩み寄り、おい、と声をかけてみたが、やはり反応はなかった。石は一見紫水晶の塊のように見えたが、近寄ってみるとその表面はでこぼこと傷だらけで、下半分が大きく欠落していた。その欠けた部分を補うようにして、緑や、緋色の石がでたらめに嵌め込まれ、錆びた金具で繫がれている。遠目から石が歪に見えたのはこのせいだったのだろう。中央には、あの羽紋が浮かんでいる。ハイクは自分の胸に、言いようもない悲しみの泉が沸き起こるのを感じた。ハイクの中に受け継がれたルドラの魂は、どうやら己の中にある古傷の存在を、そして、それが未だに時折軋んで痛むことを、思い出したようだった。自分の魂もこんな形をしているのだろうか。眠らぬ魂、いずこにあらん……その魂がハイク自身のことでもあると、考えるよりも先にハイクは理解した。大鷲が帰ってきたように、ハイクもまた、家へと帰ってきたのだ。それだけのことなのだ。
再び、ハイクと大鷲はらせん階段を上り始めた。次々と見えてくる籠は大きさも形状もさまざまだったが、そのすべてに、魂の結晶が一つずつ封じられていた。塔は果てしなく、また、籠の数にも際限が無かった。時折現れる格子窓から外を見れば、コバルトの海は今や遥か下方にあり、無限に続く水平線は、弓のように緩やかな弧を描きながら、彼方でぼんやりと空に混ざって、蜃気楼のように霞んでいた。
すべての均整が取れた美しい光景だった。美しい、美しい、青き人工の世界だった。いつまでも見ていたくなるほどに。だが、ハイクは窓辺に長く立ち止まらなかった。きっと、一度そうしてしまえば、体の疲労に関係なく、足が竦んでしまうだろうと分かっていた。どれほど穏やかで、平穏で、優しかろうと、この階段は天への道だ。死へと通ずる道であり、そして残される側のハイクにとっては、死と同等の痛みを伴う、別れの道だ。
死を前にし、そしてその死を受け入れた者とは、一般的に、いったいどんなことを話すべきなのだろう。あとになって後悔することはあれど、いざこうしてその場に立ってみると、愛している、とか、おまえのことを忘れない、とか、天国から見守っていてくれ、とか、そういうすでに互いに了解し合っていることを面と向かって言うのは、かえってその者の死を強調するようで、増やさなくてもよい悲しみが増える儀式のようで、ハイクはどうしても、口に出すことに躊躇いを覚えた。しかし、話題に迷う必要はなさそうだった。大鷲が普段の数倍は饒舌だったからだ。姿形は違えど、かつての仲間達に再会したことで、大鷲はある種の安心感を得たようだった。一体何を話すのかと思えば、大鷲の口から次々と飛び出したのは、ハイクと過ごした五年間の出来事だった。階段を上りながら、おそらく今までで一番多く、大鷲とハイクは言葉を交わした。ハイク達は会話の中で、出会ってから今まで、自分達がこれまでに経験してきた冒険の数々を、順番にもう一度辿っていった。遺跡の謎を解き、輝く財宝を手に入れた。さんざん顔を突き合わせ、時には感覚や感情すら共有してきたにもかかわらず、こうして本当の意味で素直に、正直に過去をさらけ出し、自分のことを語り合うのは初めてだった。大鷲が笑えばハイクも笑い、ハイクが笑えば、大鷲もつられてけらけらと翼を動かした。
信じられなかった。大切な友との最期の瞬間が、これほどに明るく、今までのどんな場所よりも穏やかで、普通で、満ち足りたものであるなんて。
「そういえば、おまえに話したことはなかったがな」
話が時計塔のくだりに差し掛かった時、大鷲はふと、真面目な顔でハイクを見下ろした。
「おまえがあの時、犬の魔獣を鎮めることができたのと、浜でああも容易くわたしの牢屋を壊せたのとは、まったく同じ現象だよ」
「えっ。そうなのか?」
ハイクは驚いて、大鷲がいる止まり木を振り返った。
「そうとも。ほら、おまえの魂は、鋼玉の姿をしているだろう? 鋼玉がどんな性質を持つ石か、知っているか」
「そりゃ、いちおうトレジャーハンターだからな」
鋼玉。コランダム、ともいう。灰色がかった、ごつごつとした岩石だが、ごく稀に結晶化し、磨けば宝石として高値で売れることもある。そして。
「鋼玉は、その成分が出す色合いの違いによって、ルビーとも、サファイアとも呼ばれる」
満足のいく回答を得たとばかりに、大鷲は頷いた。
「そうとも。そして、正にその性質こそが、おまえの魂の本質となり得るのだ」
「本質?」
「同調だ」
大鷲は、母親のような、父親のような慈愛の眼差しで、ハイクをじっと見つめた。
「おまえの魂は人一倍、他者の魂に敏感だということだ。他人の魂の色をよく映し、時には同調して、響き合う。魔獣の中に辛うじて残っていた犬の魂に共鳴すれば、その鋼玉は音叉のように相手の魂をも振動させる。ゆえに、おまえが歌った歌は、あの犬の真髄にさえ到達し、わたしや浜に共鳴すればこそ、あの牢を壊すことも可能だった。そして、わたしという他者を受け入れることさえも。もちろんそれについては、おまえの魂の、もう一つの姿が必要だったが」
「青空……」
「そうだ。鋼玉と青空、どちらが欠けていても駄目だった。だから、なあ、ハイクよ。ルドラの民の他の誰でもなく、おまえが浜に呼ばれたのは、きっと偶然などではない。そのせいでおまえが負った物の重さはよく分かる。それでも、宿命を、現実を、おまえの祖を、恨まないでおくれ。おまえでなくてはならなかったんだ。わたしに奇跡をもたらしてくれたのは、それができたのは、おまえだけだったんだよ」
奇跡、果たして本当にそう言えるのだろうか。ハイクの行いは、かえって大鷲の死への恐怖と苦しみを増やしただけではないのか。ハイクは、それと同等以上のものを、これまでの旅の中で、大鷲に見せてやれたのだろうか。
「おまえは、俺を選んだことを後悔していないのか」
「したことはある。だが、それも、懐かしい思い出だ」
「死ぬのが怖くないのか?」
「今はむしろ、歓迎している。わたしは死を恐れていたのではなく、孤独を恐れていたのだ。それが分かったから、もう怖くはない。みなが居て、おまえが居る。ならば、どこまでも飛んでゆける。なあ、ハイク、空の先には何があると思う?」
想像もつかなかった。空はどこまでも空という空間であり、さらにその向こうに何かがあるなどとは、考えたこともない。ハイクは短く唸った。
「太陽、とか」
「太陽! そうか、そうか。じゃあ、塔を発ったら、まずはそこへ向かうとしよう。そのあとで、月や星を目指すのもいいかもしれない」
大鷲が、期待に満ちた眼差しを上へ向けた。つられて、ハイクも顔を上げる。どれだけ上って来たのだろう。数里、いや、もっと、もっとだ。疲労もなく、外の明るさも変わらないので、あまり実感がない。それでも、見上げた視界には、すでに塔の天井が見えていた。階段は屋上へと通じているようで、四角く抜かれた天井の先が、ぽっかりと青い。
あの、青い空の先。生き物では到達することができない世界。
大鷲は。
大鷲は、今からそこへ、行く。
そう考えた時、ごく自然に、ハイクは理解した。頭の中に風が吹き、物の見え方がくるりと反転した。大鷲は飛んで行くだけだ。丘の皆や、母や、マキナがそうであったように、一本の永い道を歩き終えた大鷲は、今まさに、新しい場所へと飛翔しようとしている。より高い、未知なる場所を目指して、また旅に出るのだ。それはつまり、ハイクと大鷲がこれまでしてきたことと、全く同じことだった。まるきり、同じことだ。ただ、互いの目的地が変わるだけ。それは悲しいことではあるけれど、嘆くことではない。

最後の一段を、ついにハイクと大鷲は登り切った。
視界が群青に染まる。何もない、本当に何もない、白い塔の天辺だった。青を通り越し、紺に染まった空のただ中だった。太陽をより近くに感じるのに、気温は地上のそれよりもずっと低い。吐く息は口から零れた瞬間に白く凍りつき、時折風に混ざって、遠くで氷の粒がきらきらと光っていた。
最後の探索は終わった。大鷲が、背後で大きく翼を広げた。伸びやかにハイクの頭上を飛び越し、屋上の中央へと舞い降りる。
黙したまま、ハイクは進み出た。大鷲は何も言わず、じっとハイクを見つめていた。氷が混ざった風が、前進する度にハイクの皮膚や衣服に細かな傷を付けていたが、その痛みは、今のハイクからは遠く乖離していた。
立ち止まり、大鷲の前に立つ。体に大鷲の影がかかる。大鷲は、ハイクに身を寄せ、静かに頭を垂れた。受け止め、腕を回す。温かな体温だ、しなやかな身体だった。
大鷲が、穏やかにささやく。
「最後に、あれを言ってくれないか」
「あれ? ……ああ」
ハイクは腕の力を強めた。振り絞るように、告げる。
「よい、旅路を」
大鷲が、晴れ晴れと言った。
「ああ。おまえもな、ハイク」
すると、大鷲の中から、暖かな風が立ちのぼった。驚いて体を離すと、大鷲の体内、胸のあたりが、七色の光を放ち始めている。弾と同じ色だ。小さな銀の錠の形をしている。大鷲は、ふむ、と喉を鳴らして、興味深そうに自分の胸元を見つめた。
「前に見たよりも小さいな。わたしに合わせて縮んでしまったようだ。狙いにくい的だが……、おまえなら、外さないだろう」
次に何をすべきか、互いに理解していた。大鷲はハイクの肩にもう一度だけ額を擦り付けると、ゆっくりと離れていった。風が止み、空はとても静かだった。氷の粒がきらきらと光っていた。ハイクは大鷲の方を向いたまま、足を動かし、後退した。
足を止める。右腕を持ち上げて銃を掲げる。中の弾が今にも飛び出さんとしているのを、その震えを、銃を通してはっきりと手のひら全体で感じている。
一瞬だけ、ハイクは目を閉じ、大鷲の旅の幸福を祈った。目を開ける。遥かな大空に抱かれて、大鷲はハイクを見つめ、笑っていた。それで、最後だった。それが最期だった。

ハイクは引き金に指をかけ、そして、引いた。





(飛翔(中))

<< 前   目次   次 >>