アギラ(前)
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人の話し声が聞こえる。それを認識した瞬間、ハイクは自分が、今までとは全く異なる部屋に立っていることに気付いた。浜に落とされた時のような転移の術かと思ったが、そうではない。耳に入ってくるざわめきが、すべて古代の言葉だ。頭の中で翻訳するまでもなく、その言語は不思議とハイクの耳に馴染んだ。像の効果なのだろう。
銀色の広い部屋だった。先程絵で見た実験室に似ている。角ばった黒い装置があちこちに据え付けられ、その隙間を、沢山の人々がせわしなく行き交っていく。ふと、隣を見ると、セイファスが同じように立って居た。老人は、興味深そうに部屋をじっくりと見回し、突然現れたはずのハイク達には全く目もくれずに歩き去っていく人々をじっと観察した。部屋を行き交う人々は、男女問わず全員同じ白衣を羽織り、白いシャツと、ごわついたカーキのズボンをはいている。彼らの騒めきは不思議と遠く聞こえ、セイファスの小さな呟きの方が、かえってくっきりと耳に響いてくるようだった。
「さしずめこれは、像の中に保存されていた過去の記録、というところかのう」
セイファスはそっと、長手袋に包まれた右手を伸ばした。側を通り過ぎていく男の肩に触れようとしたセイファスの手は、しかし虚しく空を切り、男の肩をすり抜けた。男の身体が一瞬煙のようにぼやけ、元に戻る。やつれた顔をした、冴えない男だった。伸ばしっぱなしの汚れた黒髪は肩にかかりそうで、あごには剃り残した髭がある。男はそのまま、やはりこちらに気付く気配もなく、白衣を翻し、小走りで部屋の奥へと行ってしまった。セイファスは、右手を引っこめると、その感触を確かめるように何度か親指と人差し指を擦り合わせた。
「おそらくここは、“真なる史”の時代の谷だろう」
しかし、ハイクには、セイファスの話はほとんど聞こえていなかった。何故か今の男から目が離せない。そして同時にハイクは、自分にそうさせているのが大鷲だということも理解していた。男を目で追いかけながらハイクは口を開いた。今すぐに、走ってあの男に追い付き、もう一度顔を確かめたいという強い衝動が、頭の中を駆け巡っていた。
「じゃあ、こいつらは幻ってことか」
「ああ。しかし、現実だ」
尚も男を探していると、部屋の反対側の壁が、するするとひとりでに近づいてきた。男が向かった方角だ。しかし、ハイクが強く願ったからそうなったという訳ではなく、ハイクにも大鷲にも、無論セイファスにも、この世界は一寸たりとも動かせないようだった。これは場面が変わっただけなのだ。本の頁がめくれていくのと同じことで、ハイク達はただ観客として、流れていく話を見せられているだけに過ぎなかった。
自分の意思とは無関係に自分の体が強制的に部屋の奥へと進んでいくというのは、居心地の悪い体験だった。突き当たりの壁に、巨大な黒い檻が見えてくる。きっちりと四角い形をした空の檻だ。先の男が、こちらに背を向けてその正面に立っている。滑るように男の隣に移動し、ハイクと、そして大鷲は、食い入るように彼の顔を凝視した。大鷲が瞳を潤ませ、男に更に近づこうとでもいうように、ハイクの中で翼をはためかせた。
「ああ、あるじ、あるじ」
大鷲の切ない声は、子が親を求めるそれと同じだった。男がふいにこちらを振り向く。ハイクは一瞬、大鷲の声が届いたのか思ったが、そうではなく、男はハイク達の背後に居る研究者達に声を掛けたようだった。この部屋と同じ、温度を感じさせない無機物じみた声だ。
「始めよう。七十と八回目だ」
男の声もまた、硝子を一枚隔てているかのようにくぐもって聞こえた。男の指示で部屋が一層騒がしくなり、台車に乗せられて、次々と様々な生物が運び込まれてくる。これから何が行われるのかを察し、ハイクは小さく呻いた。
巨大な檻の中に、まるで竈に薪でもくべるかのような乱雑さで、材料とされる生き物達が放り込まれていく。虎、狼、数種類の猿や爬虫類、猪……、皆、まだ息がある。しかし、抵抗できないほどに傷つき、弱っているようだった。続いて、塩や墨、何かの薬品類、大鍋になみなみと満たされた水が運び込まれ、そこへさらに何種類かの銃や剣、鋼鉄の鎧が投げ入れられていくのを見て、男の顔に初めて憂いの感情らしきものが浮かんだ。
「すまないな……。だが、これも帝国の為だ」
助手らしき若い女性が男に近寄り、準備の完了を報告した。男の顔から再び感情が消える。周囲をよく見れば、男だけでなく、その場の誰もが、今から自分達が行おうとしている実験の陰惨さに、微塵も気が付いていなさそうな表情をしていた。彼らの顔は皆仮面のようにのっぺりと平べったく、この行為の為に支払われる代償は、自分達の崇高な目的と比べれば小さな犠牲だとでも言いたげだった。少なくとも、ハイクの目にはそう映った。
ハイクははっきりと、この名も知らぬ研究者達を嫌悪した。セイファスもまた、ひどく苦々しげな顔で装置を見上げている。その横を、列から遅れた一台の台車が通り過ぎていった。
ハイクは目を見開いた。鷲だ。戦地から帰還したばかりなのか、全身を覆う茶色の羽は砂埃で汚れ、小さな頭部は蛇の紋章付きの兜に覆われたままだった。鷲はただじっと兜のすき間から檻を見つめ、翼を畳んだまま、羽の一本も動かさないでいる。鎧の奥の暗がりで輝く、賢そうな金色の瞳が一度だけ瞬いた。まるで自身の身にこれから起こることの一切を、この鷲は熟知しているかのようだった。ちらりと鷲を見下ろした男の眉がわずかに垂れ下がった。
「今回の母体は彼女か」
彼女、という呼び方だけが、機械じみた口調の中で柔らかく浮かんで聞こえた。鷲は一切の抵抗を見せないまま檻に入れられ、実験は淡々と遂行された。男の合図で、檻全体に稲妻に似た鋭利な光がほとばしる。閉じこめられたあらゆる生命、物質が、耳を塞ぎたくなるような阿鼻叫喚の中、雷電によって分解され、渦巻き、混ざり合い、ただ一つの、ハイクが良く知る姿へと変貌していく。
今や、部屋の誰もがその檻に注目していた。骨格が出来、そこに肉がつき、皮膚がつき、母体となった鷲と同じ茶色の羽毛を纏った。凶悪な爪、頑強な足と翼、賢く従順な頭、稲光が停止し、その金の両目が開かれる。未だ熱を持った檻へ、男はふらふらと歩み寄った。恐れと恍惚が入り混じった表情を浮かべ、痩せた喉が、ゆっくりと上下する。
「成功だ」
最初のアギラが、そして、ハイクの友が、誕生した瞬間だった。
景色が変わった。同じ施設の中のようだが、先程とは違う部屋だ。小さいが、温かく、清潔さが保たれている。ハイクの中で、大鷲が懐かしそうに喉を鳴らした。
「わたしが育った場所だ」
部屋は、透明な硝子の壁によって中央で二分されていた。その壁の向こうで、大鷲が羽を休めている。足音が響き、軽やかに部屋の扉が開かれた。あの男だ。男はスキップでもし始めそうなほどに上機嫌で、十分な睡眠と食事を摂ったあとのように見えた。服を着替え、髪と髭も整い、何倍も若返って見える。手に下げた木桶を目の高さに掲げ、男は柔らかく笑み、大鷲に声をかけた。
「さあ、食事だよ、アギラ」
大鷲は男に気付くと、未発達で獣じみた、何種類もの銀食器を同時に引っ掻いたような喜びの声を上げ、餌をねだった。ハイクは最初、この男が大鷲を大切にしていたというのは大鷲のまったくの勘違いで、彼は満足のいく研究結果としてしか大鷲のことを見ていないのではないのかと思っていたが、大鷲がそうであるように、この男もまた、確かに大鷲を愛し、慈しんでいたのだった。ハイクとセイファスは男の内側から彼の考え、感情を感じると同時に、外側から男を俯瞰してもいた。男が壁に取り付いた盤にぺたりと手のひらを当てると、硝子の壁は溶けて消えた。
「朝から実験室にこもって、おまえの弟妹達を作っていたんだ。順調だよ。何もかも順調だ」
体は大きくとも、大鷲はまだほんの赤ん坊だった。仕切りの向こうへと男が入っていくと、大鷲は小動物のように喉をきゅるきゅると鳴らし、ぱかりと嘴を開けた。男はおかしそうに肩を揺らし、桶の中の生肉をつまみ上げ、嘴の中に落としてやる。それを繰り返してあっという間に桶の中身が空になると、大鷲は男にすり寄り、があがあと何度も鳴いては、巨体をぐいぐいと男に押し付けた。大鷲の羽に埋もれ、重さで倒れそうになりながら、男がのんびりと笑う。
「おまえの言葉が分かれば良かったんだがなあ」
先の実験からは想像もつかない程、平和で穏やかな光景だった。だが、同時にそれは、何かが確実に終わっていくような閉塞感と絶望感を孕んでいた。じゃれつくアギラの嘴を撫でてやりながら、男は両目を細めている。
「戦場に出ることはないけれど、わたしもまた、この帝国の兵士だ。西大陸を統べる列強国の民として、その名に恥じぬよう、国のためにこの身を捧げたい。おまえは……おまえには、残酷なことだとは分かっている。でも、もう少ししたら、わたしはおまえに戦う術を教えなくちゃならない。おまえはそのために生まれたのだから……」
男が遊んでくれると思ったのだろう。大鷲が無邪気に翼をばたつかせたので、男は慌てて飛びのき、その猛攻で身体の骨が折れるのを避けなければならなかった。楽しげな笑い声が、閉じられた部屋にいつまでも響いていた。
また、場面が転じた。初めに見た大きな実験室だった。男の指示で、アギラが次々と量産されていく。数人の部下に同時に指示を飛ばしたあと、男は部屋の全員に聞こえるよう、声を張り上げた。
「急げ。次の戦闘は十日後だ。それまでに、あと五体、生成する。国王様からの勅命だ」
そして、彼らは命令通り、無事にアギラの軍隊を完成させた。準備を整えたアギラ達は、帝国から離れた場所に位置する、最も前線の基地へと送り出された。
夜が訪れた。戦いの前日だろう。敵の目から隠れるために、基地内の明かりは一つ残らず落とされていた。すべてが闇の中だ。だが、不思議なことに、ハイクにはその場に何があるのかが、例えばここが、十体のアギラ達が眠るテントの中であることも、足場の地面が乾燥し、踏み固められて平らであることも、ともすれば、アギラの檻に積もる砂粒の一つ一つさえ、残さずつぶさに視認し、観察することができた。どうやらそれは、セイファスも同じのようだ。最初の部屋以降、セイファスは無言のまま、集中し、見た物すべてを網膜に焼き付けんとするかのように、窪んだ両目をしっかりと見開いていた。
突然、沈黙を引き裂く叫び声が、檻の一つから上がった。怒りに満ちたおぞましい叫び声だ。音の波にびりびりと天幕が震え、外の兵士達が起き出す音が聞こえてくえる。ハイクは咄嗟に理解した。追憶の観察者としてではなく、実際に大鷲と共に時間を過ごし、魂を分かち合った者として、ハイクにとっては、叫んだアギラが他でもなくハイクの大鷲であることも、そして大鷲が何故我を忘れたのか理解することさえ、とても簡単なことだった。施設の中しか知らなかった大鷲にとって、夜の闇は未知の恐怖に等しかった。それまで辛うじて形を保っていた混ぜものの魂が、恐れが生んだわずかな振動でひずみ、崩れたのだろう。まるで自分の魂が今まさにその崩壊を体験しているかのように、ハイクは大鷲の中に押し込められた、数多の生命の叫びを聞いた。大鷲の材料に使われていたのは、かつてこの地を駆け、そして敗れていった戦士達だったのだ。大鷲の叫びには、彼らが死の直前に抱いた恐れと悲しみ、そして怒りが凝縮されていた。
何故、我らは死なねばならなかった。何故、我らは再び同じ場所で死なねばならぬ。死にたくない、殺されたくない、殺したくない。
荒々しく翼を広げ、我を忘れた大鷲はついに自身の檻を破り、天幕を引き裂き、飛翔した。
灯りのない空には、満天の星屑が燦然と輝いていた。怒りに狂った大鷲の影が、星空に神々しく両翼を広げた。ハイク達は、地上からそれを見上げていた。翼の一薙ぎで、駆け付けてきた人々が無残に薙ぎ払われていく。悲鳴と混乱、逃げ出す者は風に切り裂かれ、歯向かう者は鎧ごと砕かれていった。大鷲に触発された他のアギラ達も暴れ出し、檻を破り、次々と飛び上がり、無差別に人を襲った。倒れた兵士の手から松明が転がり落ち、辺りは炎の海となった。兵士達ががむしゃらに撃った銃弾のうちの一発が、ついに大鷲の右目に当たった。大鷲がぐしゃりと地に落ちる。他のアギラも、弾の雨を浴び、次々に撃ち落されていく。
大鷲が動かなくなったあとも、弾は執拗に、その巨体に撃ち込まれ続けた。
一瞬で夜が消え、銃声が止み、炎と土煙が消失した。ハイク達は再びあの研究所へと戻っていた。うなだれた男が、肉塊と化した大鷲の前に立っている。頬があまりにもげっそりと痩せこけているので、少なくとも三日以上は何も口にしていないのではないかとハイクは思った。男の衣服はあちこちが破け、そこから生傷や火傷がいくつも覗いている。
ハイクには、なぜ戦地にも出ていない男がこれほどに負傷しているのかが分からなかった。だが、セイファスには、思い当たる節がある様子だ。セイファスは悲しそうに目を伏せた。
「この男はのう、自分の研究が失敗したので、責任を取らされたのだ」
信じられない。ハイクはまじまじと男を見た。
「味方にやられたっていうのか。この傷全部?」
「左様。これが、かつての谷における制裁の方法だった。我々には想像もつかんことだが」
だが当の男はといえば、あまりに呆然自失としていて、自分の怪我の痛みなど忘れ去ってしまっているようだった。涙の溜まった虚ろな瞳に、大鷲の遺体が映っている。扉が滑らかに開き、軍服を着た数人の男達が部屋に入って来た。先頭に立つ、最も位の高そうな軍人が男の隣に進み出て、封書を取り出し、中身を読み上げていく。男は身分を下げられ、アギラを含めた一連の研究からも除外される、ということらしい。男は、果たして本当に軍服の男の話を聞いていたのかは定かではなかったが、視線を大鷲から逸らさずに、一度だけ頷いた。軍服の男は軽く息を吐くと、薄い布の上に横たわった大鷲を指差し、控えていた部下達に、「連れていけ」と命じた。
初めて、男が動いた。軍服の男の足元に縋り、男は言った。
「待ってください。何をするつもりです」
軍服の男は、嘲るように鼻を鳴らし、縋ってくる男の手を足でうっとおしそうに払った。
「アギラの暴走の原因が特定された。原因は肉体ではなく、魂の不完全さにあった。だが、それゆえにこの “竜もどき”は再利用できると、おまえの後任はお考えになっている」
「どういうことですか」
明らかな侮蔑を含ませた口調で、軍服の男は続けた。
「まったく、あなたがたのような高尚な研究者というのは、時にどんな拷問よりもおぞましいことを平気で考えなさる」
「まさか」
男の顔に、はっきりとした焦りが浮かんだ。ただでさえ血の気がなかった顔が一層青ざめ、丁寧な口調すらも忘れて、男は大声で言った。
「待ってくれ。あの装置を使うつもりか? あの装置は未完成で、生きた人間を繋がなければ、起動させることすら不可能なはずだ。一体どうやって」
話しながら、男は何かに気付いて絶望の顔で軍服の男を見上げた。軍服の男は、まるで今、目の前の男に一足す一の答えを尋ねられたとでもいうように、そんなことも分からないのか、と呆れた様子で答えた。
「敵国の捕虜がいるだろう」
「条約を知らないのか」
男の悲鳴に似た叫びが部屋に響いた。立ち上がった男は今や、軍服の男の首を絞めそうなほどの勢いだった。話す度に自分の声が大きくなっていくことにすら、男は気付いていなかった。
「国際条約、第三条だ! “捕虜は、いついかなる理由があっても、拷問や人体実験によって、その生命を脅かされることがあってはならない”!」
「ほう」
冷めきった顔と声で軍服の男は言った。
「科学にしか興味がないと思っていたが、国際条約を知っているとはな」
「当然だ」
男は吐き捨てるように付け加えた。
「これを破れば、いくら強力な武力を備えた我が帝国でも、あっという間に列強から孤立するだろう。付け入る隙をくれてやるようなものだ。殺戮に目がくらんで、そんなことも分からなくなったのか、愚か者!」
軍服の男の膝が、男の腹部に深くめり込んだ。男はくぐもった呻きを上げ、その場に倒れ、なす術もなかった。大鷲は部屋から運び出され、男の鼻先で無情にも扉が閉じられる。一人その場に残った軍服の男は、男の前に屈みこみ、下品な冗談を聞いたように、冷笑を漏らした。
「良かったじゃないか。奴らの協力と、おまえの研究のお陰で、おまえのかわいい成果品は生き返るんだからな」
その言葉がとどめとなった。これ以上抵抗することは無いと思われたのだろう。男を部屋に残し、軍服の男は出ていった。だが、男はまだ諦めてはいなかった。よろよろと男は立ち上がると、最早そうしているだけでもやっとのようだったが、ぼろきれのような出で立ちのまま、部屋から出て、壁伝いに廊下を進んでいった。ようやく目的の部屋の前にたどり着き、震える腕で扉を押し開ける。
そこは大鷲が生まれたあの実験室だった。部屋が静寂で満ちていたので、ハイクはほんの一瞬、男は間に合ったのかもしれない、と思ったが、そんなささやかな希望は一瞬にして掻き消された。間に合ったのではなく、すべてが終わった後だった。
まず、部屋の右手奥の隅の、何かがうず高く積み重なった山が視界に入った。肌色のその山は、極めて異常な存在感を放っている。それが魂を抜き取られた捕虜達の屍の山だと気付いた瞬間、ハイクは全身の毛が怒りで逆立つのを感じた。ただの肉塊となった彼らの肉体は、数体の小型の機械人形によって抱えられ、隣室の扉を潜っていく。ハイクは直感的に、その扉の先を見たくない、と感じたが、またしても体がするすると勝手に前へ前へと移動してしまったが為に、ハイクは、そしてセイファスもまた、嫌応なく、自動で開閉を繰り返す扉の奥にあるものを見てしまった。あの王墓の機械人形の腹に埋め込まれていたものと同じ、しかしそれよりも巨大な丸い炉だ。床に空いたその灼熱の焼却炉に、無造作に遺体が投げ込まれていた。炉の炎に触れた瞬間、屍は真っ黒な煤になった。ハイクは必死に胸のむかつきを堪え、服の上から、ねじ切れそうなほどに痛む胃を抑えた。これ以上悪化することは無いだろうと思っていたのに、ハイクの内側には、新たな憎悪がこみ上がり始めていた。
再利用。再利用と、あの軍服の男は言った。つまりルドラは、今は焼却されているあの遺体の山から生み出されることになる、竜の生産の過程で発生した余剰の人間と余剰の動物を繋いだだけの存在だったということだ。資源をただ廃棄するだけでは勿体ないからと、それだけの理由で大量生産された、副産物に過ぎなかったというわけだ。そんな取るに足らない理由だけが、自分達の根源であり、この世に生まれた意味だったのだ。
正面には、連れ出された大鷲が横たわっていた。この短い時間で何をされたのか、その傷は塞がり、撃たれた右目を除けば、完全で健康的な肉体を取り戻している。後ろには真なる史に描かれていたのと同じ、天球儀に似た装置があった。実験は成功だった。入り口で呆然としたままの男が、そして多くの研究者達が見つめる中、目覚めた大鷲がゆっくりと上体を起こす。右目だけは潰れたままだったが、残った左目を見ただけでも、大鷲の中に自意識と精神が宿ったことは明らかだった。何かを探すように彷徨っていたその左目が、最も離れた位置に居る男を見つけて、ひたり、と静止する。人の魂を得てばらばらだった意識が一つに結束されたことで、大鷲の声は、複数の獣の呻くような声から、飛躍的な変質を遂げていた。黄色い曲がった嘴から、何度も聞いた、氷のように澄んだ声が響き渡った。
「ああ、あるじ、あるじ」
皮肉にも、男の願いは、男が最も望まない形で叶うこととなった。
再び、景色が変わった。先程から数年以上経過しているようだ。いくらか歳をとった男が、ハイク達の目の前を通り過ぎていく。隣にはもう一人、別の女性が肩を並べて歩いていた。追憶の冒頭で、男の補佐をしていた人物だ。肩できちんと揃えられた茶髪を振り、しきりに周囲を気にしながら、彼女はどこか焦った様子で男にひそひそと話をした。
「もうじきここにも人が来るわ。ねえ、それで、どこまで進んだの」
彼女の言葉を受け、男はしっかりと彼女に頷きかけてみせた。ハイクはこの男が、大鷲の死と、そしてその復活という二つの絶望から立ちあがったのだと悟った。
「あと少しだ。監視が厳しくて長いこと手が出せなかったけれど、君が研究資料を流してくれたお陰で、ずっと早く始められそうだ」
「私だけじゃないわ。あなたの考えに賛同した皆の力があったからよ」
「ああ、そうだね。その通りだ。アギラやルドラ達の様子はどうだ?」
「変わらないわ。どうにかしてルドラの方にも、アギラくらいの知能を取り入れられないかって、上は考えているようだけれど、彼らはアギラほど身体が頑丈じゃないから、強い魂を入れても耐えられなくて……」
その先を口に出すことを、女性は躊躇った。男はそっと頷き、先を促した。
「私、見ていてとてもつらいわ。だから、彼らに人として……いいえ、命あるものなら誰もが持っていて当たり前の権利を取り戻そうっていうあなたの考えは、とても素晴らしいと思うの」
「ありがとう。君達には本当に感謝している」
「あなたが居てこそよ」
女性の手が、そっと男の肩に置かれた。励ますような彼女の口ぶりに、男は弱々しく笑い、首を振った。
「研究の発端はわたしにある。こんなわたしに出来るのは、今の彼らの状況を、少しでも良くすることぐらいだ。さあ、この一月の彼らの様子を聞かせておくれ」
「……何も変わらないわ。昨日も、働きが不十分だったという理由で、北部戦線から帰ってきたルドラが二人、撃ち殺されてしまった。どうにか一人は庇えたけれど、あんなの、ただの憂さ晴らしなのよ。躾だとか、どうせ魂は地下牢に戻るんだからまた入れ物だけ作ればいいだとか言って、まるで家畜みたいに……本当に許せないわ、私、私……ごめんなさい」
耐えきれず鼻をすすり涙ぐんだ彼女に、そうか、と優しく相槌を打ち、男は険しい顔で言った。
「一人、チームの中心に居る研究者に、以前からわたしを故意にしてくれている人が居る。幸運にも、こんなわたしの頭を買って、考えにも賛同してくれた。だから、もうじきわたしも、研究への復帰が許可されると思う。そうしたら、始めよう。大丈夫だ、きっと上手くいく」
「ええ、ええ、そうね、きっと」
白衣の袖で涙を拭いながら、女性は何度も頷いた。真っ直ぐ顔を上げた男の強い眼差しが、目の前から次第に遠ざかっていく。
「帝国の方針に逆らうつもりはない。大戦に負ければ、国は亡び、皆が死んでしまうから。それでもこれは、わたしに出来る、わたしなりの反乱なんだ。一刻も早く、彼らが安心して過ごせる場所を作ろう」
次の舞台は、戦場でも研究所でもなかった。飛びこんで来た青い色と風に、ハイクは己の胸にわだかまっていた黒い怒りが、ほんのひととき吹き飛ばされるのを感じた。雲一つない見事な紺碧の空と、澄んだ海、あの三日月の浜かと思ったが、違う場所のようだ。ハイクとセイファスが立っていたのは、五年前に見た物よりももっと広々とした砂浜だった。初老の男が、白砂を踏み、横を通り過ぎていく。波打ち際で気持ちよさそうに潮風を受ける男の頭上に、大きな鳥の形の影が落ちた。影はそのままどんどん大きくなり、周りに砂と波しぶきを舞い上がらせながら、男の前に優雅に着陸する。降り立った大鷲の羽毛にそっと手を滑らせながら、「どうだい」と、男はとびきり嬉しそうに笑んだ。
「美しいだろう? せっかくだから、君達が好きな晴れの空と海を選んだんだ。誰にも害されることのない、君達だけのゆりかごだよ」
大鷲が、きょとりとして言った。
「ゆりかご?」
「そうとも。ここにはアギラと、ルドラと、わたしが仲間と認めた者しか入れない。君達の為に造った、不可侵の、時間にすら脅かされない魂の世界だ。表向きは、新型の魂の回収と貯蔵の装置ということになっているけれど、この浜の真の役目は、休息と安らぎにある。だから、ゆりかごと呼ぶことにしたんだ」
男の顔には生気が溢れ、喜びが満ちていた。髪には所々に白髪も混じっていたが、それでも男は今まで見た中で最も若々しく、才能に溢れ、堂々と胸を張っていた。おそらく今が、男の人生の中で最も輝かしい瞬間なのだろう。ハイクは大鷲の感情を差し引いても、自分がこの男のことを……すべての始まりを築いたはずの男のことを、セイファス同様に強く憎むことが出来ないと、認めざるを得なかった。誰かを憎めないということが、ここまで苦しいことだとは思いもしなかった。
「入り口の場所も、入る方法も、帝国には隠してある。それに、もしも軍が浜に介入しようとしたとしても、浜は自動的に彼らを拒絶するだろう。君達の魂は、帝国には行かずにここに呼び集められ、次の戦闘までのあいだ、癒され、安全に保護される。ここに居れば、君達は自由だ。最後の肉体の形を取ることにはなるけれど、好きに動き回ることができる。このゆりかごからならば、新しい身体に入る際の負担も格段に減るはずだ。わたし達が今まで君達に味あわせてしまった苦痛に比べれば、こんなもの、些細なものでしかないけれど」
大鷲を振り返り、男はにっこりと笑った。
「今日からここが、君達の帰る家だ」