ほんとの空を掴まえに

「不思議だと思わないかい。世間にはこんなに沢山の絵の具があふれているのに、あの空と同じ青色が一色も存在しないだなんて」
 黙ってじいっとカンバスに向かっていた彼がいきなりそんなことを口にするものだから、私は頬張っていたハムと卵とマヨネーズのサンドイッチを、ごくん、と思い切り飲みこんでしまった。
 いきなりどうしたのと、喉のつかえを紅茶で流してクラスメイトを仰ぎ見る。彼は普段どおりに淡々と筆を動かしていたけれど、その眉間にはちょっぴり深めのシワが寄っていて、私ははてと首をかしげた。どうやらこれは彼にとって深刻な悩みであるらしい。
 椅子をがとがとと引っ張って、彼の隣に移動する。カンバスにはお昼の美術室が写し取られていた。汚れた木の床に、紙が散乱した机。窓の外は快晴。几帳面な彼らしい、ていねいに絵の具が重ねられたライトブルーがとてもとても眩しかった。なんだかもっと上等なアトリエみたい。彼にはここがこんな風に見えているのかと思うと少しだけ羨ましい。ちょっと出歩けばきれいな景色はたくさんあるけれど、彼が選ぶのはいつだってこのぼろっちい教室で、気付いた時にはもう、第2美術室は私たちのお昼休みの縄張りになっていた。
 こっちの空もすごくきれいだと思うけどなあ。思ったままを溢すと、彼は静かに首を横に振った。
「きれいなだけじゃダメなんだ。それならいくらでも描ける。同じでなくちゃ」
「同じ?」
「そう。今こうやって僕達が見ているのとまるきり同じ空を、いつか描いてみたいんだ」
 いつもは冷静な目に熱がこもり、潤んだ瞳が窓に注がれる。夢中になれることがあるっていいな。なんだか彼と居ると、羨ましいことばっかりが増えていくみたいだった。パレットを置き空を見つめる彼にならって、パンをかじりながら窓の外に顔を向ける。たとえば彼が、彼の見たままの青色をほんとうに描けたとしたのなら、そのカンバスにあるのは一体どんな気分の空なんだろう。私は絵も下手くそだし、テストだっていっつも赤点すれすれで、頭の良い人の考えることなんてさっぱり分からないんだけど、スマートホンでパシャリとやった写真よりも絵の具と筆を手に取った彼の気持ちはきっといっとう大事にしてあげないといけないんだって、理由もなく使命感に燃えてみたりするのだった。つまり、私は彼のことが好きなのだ。
「どうしたらいいんだろう。ねえ、どう思う?」
 昼練に励む野球部の声にまじって、きん、と澄んだバットの音が遠くのほうで響いた。初夏にさしかかった冷房のない教室は汗ばむくらいの陽気に包まれている。彼の問いに、もともと考え事をするのが苦手な私は、サンドイッチの最後のかけらを口に放りこんでからよいしょと立ち上がって、ふしぎそうな顔をする彼の視線を感じながら窓の鍵に手をかける。分からないならまずは近寄ってみたらいいんじゃない、とか笑う、こんな勢いだけが私の取り柄だったから。てきとうな掃除だけで何年もやり過ごされてきたガラスはざらざらしていて、触った場所には指の形に跡がついた。ひょっとしてこれのせいで色がよく見えなかったのかも。手が汚れるのも構わず思い切り窓を開け放つと、思いの外強い風が飛びこんできて、私は思わず目をつむった。冷たくって気持ちがいい。
 満足して振り向くと、まん丸に目を見開いた彼と視線が合った。なんていうか、唖然、って感じ。あれ、私はいま、何かそんなに特別なことをした?
「……ねえちょっと、ねえってば」
 おういと目の前でひらひら手を振る。彼は何度か瞬きをしたあと、数拍置いて急に「分かった」とだけ呟いて、そそくさと色塗りの作業を再開した。ものすごい集中力。こうなるとしばらく放っておくほかない。絵を描く人って皆こんななのかなあ。やがて昼休みも終わり、放課後にもう一度美術室を訪ねてみると、午後の授業を丸ごとサボったあげくに気力と体力を使い果たしたらしい彼が椅子にもたれてぐっすり眠っていた。隣のイーゼルには完成した絵が素っ気なく立てかけられている。何気なくそれを見て私は思わず笑ってしまった。ちょっぴり恥ずかしかったけれど、これが彼の描きたかった景色だっていうのなら、こんなに嬉しいこともない。
「なによもう、あんなに空の色にこだわってたくせに、さっきとぜんぜん変わってないじゃない」
 画面の中には、絵を描く男の子と、窓を開けて微笑む女の子が、それはていねいに描きこまれていた。





(ほんとの空を摑まえに)