魔法使いの休日
魔法使いに会った、という話を、信じる者はどれだけか。
この世界に、魔法は存在しない。杖を振っただけで樽に酒が沸くことはないし、小難しい顔でぶつぶつ呪文を唱えても、割れた皿は治らない。箒で空は飛べないし、猫は女に化けたりしない。もしも本当に酒が欲しいのなら、働いて金貨を稼ぐしかすべはない。割れた皿は捨てることだ。気球や飛行船に乗って空を飛び、路地裏の猫は身軽に鼠を追いかけるだけ。
では、魔法が存在しなければ、魔法使いもまた、存在しないのだろうか。
答えは否だ。気が遠くなるほど昔から、彼らは國に根付いている。他の人々となんら変わりなく、時には黄昏に怯えながら、今日までひっそりと暮らしてきた。
ただし彼らが扱うのは、魔法ではなく“魔術”だ。古くからあるこの術は、おとぎ話に出てくるような、湯水のごとくに金塊を生み出す力ではない。もっとささやかで、ありきたりで、有限で、優しい。彼らが使うのは、そういう種類の術だった。数多の文字と声で、人々に夢のような奇跡を見せてくれる術だった。そう、それはまるで、魔法のような。
ゆえにハイクは、あの中庭で出会った少女のことを、魔法使いと呼んだのだ。
*
ルーミ達とは、探索の翌朝、絶滅都市ゼーブルの入り口まで戻ったところで別れた。ウルグの拠点、もとい個人的な錬金工房が都市の中にあるらしい。丁寧に謝辞を述べるルーミと、こちらを見ようともしないウルグに簡単な挨拶をすると、二人に見送られながらハイクは都市を後にした。一度だけ振り返ったが、その時はウルグとも目が合ったので、無関心とか、自分は関係ないとか、そういう柄でもないのだろうと思う。
朝とはいえ、倒壊したかわたれの建物ばかりが並び立つ霧の都市に、爽やかな風は期待できなかった。おそらく上空から街全体を見下ろせば、大小さまざまな廃墟が烏合の群れのごとくに密集し、そこに黒々とした靄が絡みついている様子が、はっきりと分かることだろう。その様子を想像しながらハイクは都市を出てすぐの空き地に入り、泊めておいた気球に乗りこんだ。準備を整えてエンジンをふかす。気球はゆったりと上昇していき、ハイクが縁に肘をついて次第に遠ざかっていく都市を眺めていると、ひび割れた路地を歩いているルーミとウルグの姿を見つけた。彼らの姿が点になってやがて見えなくなると、ハイクはエンジンを操作して高度を調整し、南へと舵を切った。
依頼を受けた村まで戻ると、ハイクはその足でまっすぐ酒場に戻った。戸を開けるなり、むっとした安酒の匂いが立ち込めて、咄嗟に時計塔の毒霧を思い出す。ほんの二日前だというのに、熱気と酒精に満ちた喧噪がずいぶんと懐かしい。ざっと中を見回すと、奥の掲示板に一番近い丸机に、協力者達の姿を見つけた。こちらに気付いた虎の毛皮の男が、笑って片腕を上げる。初めに交渉をしたハンター一座の頭領だ。ハイクが椅子に腰を落ち着けるのを待ってから、男は切り出した。
「んで、どうだったよ」
ハイクは塔で見聞きしたものを手短に話した。全部で八つの層があること、頂上までの道が二通りあること、特殊な毒の霧があるので、通常の中和剤だけでは長時間の滞在は危険なこと。気球に乗っている間に、罠の種類と位置を記した簡単な見取り図も仕上げていたので、ハイクは料理の皿と酒瓶を端に寄せ、図を広げながら細かい部分を説明した。
「それから、こいつがその証拠。一番上で見つけた手記だ」
話の締めくくりに、ハイクは手荷物のザックから皮の手帳を引っぱり出して男に渡した。男は手記を受け取ってぱらぱらと頁(ページ)を確認し終えると、上々だ、と豪快に笑い、手記と一緒にハイクの手に酒瓶を押し付けて、背中を勢いよく叩いた。
はずみで中の酒を貴重な資料に引っかけないようにしながら、ハイクは付け足した。
「魔獣は居なかったけど、半魔獣は居た。襲ってくることはないと思うが、一応言っとく」
「半魔獣? 珍しいな。黄昏に耐えるとはいい根性してやがる」
「ああ、人懐っこい奴だったよ。他に言っとくことは、そうだな……歌の練習をしておいた方がいいかもな」
なんだそりゃあ、と、男はとぼけた声を出して小さな目を丸くした。同じ卓からも不思議そうな視線が向けられる。
「おまえじゃあるまいし、俺たちゃ音楽なんざからっきしだぜ。塔の仕掛けか?」
「まあ、そんなとこ」
ハイクはわざと言葉を濁して意味深に笑い、立ち上がった。普通はここで依頼の達成報告と報奨金の受け取りまでを済ませてしまうが、今回は後払いだ。彼らが残りの依頼を完遂させれば、國に点在する“語る塔”経由で、ハイクにも料金が支払われるだろう。郵便だけでなく金貨の受け渡しもできるのだから、まったくもって便利な公共機関である。
「あ、そうだ。こいつは持っていっていいよな」
言いながら、ハイクは手記を持ち上げて、顔の横で軽く振った。男はまだハイクの台詞が気になるようだったが、いいぜ、と頷いた。
「おまえ、これからどうするんだ」
ハイクはちらりと掲示板に目をやり、暦表で今日の日付を確認してから、目線を男に戻した。
「王都へ戻るよ。借りた気球は元の広場に戻しといたから、そんじゃ、あとはよろしく」
気球はもう無いので、ここからの移動には飛行船の定期便を使わなければならない。余程地形の条件が悪くない限り、どんな村や街にも、大抵一つは発着場がある。この村なら、確か王都への直行便も出ていたはずだ。
村の発着場は、西の外れ、乾いた馬車道の終端にある広大な牧草地の一角に、土を平らにならして造られていた。隅のほうには、すでに二隻ほど小さな飛行船が並んで不時着しており、遠目にも数人の人々が乗ったり降りたりしている様子が見えている。その飛行船の向かい側に乳白色の天幕が張られており、そこが料金所だった。天幕をくぐると、予想以上に中が客で混みあっていたので、ハイクは首を傾げた。
理由はすぐに分かった。受付をしている若い女性の声が聞こえてきたためだ。
「たいへん申し訳ございませんが、飛行船の故障により、王都への直行便は只今欠航となっております。次の便は十日後を予定しております。お急ぎの方は、二番の受付からセルバート経由の便が出ておりますので、そちらをご利用ください」
早く王都に戻って、次の依頼を探すなり、手帳を解読するなり、黄昏についての調べを進めるなりしたかったのだが、予想外の出来事だ。仕方なくハイクは、大きく“二”の幕が垂れ下がっている受付に足を向けた。十日間も何もできない苦痛と比べれば、こちらの方がまだましだろう。ハイクの感情がぴりぴりと揺れ動いたのが分かったのか、眠っていた大鷲が目を覚まし、どうした、めずらしく焦っているな、と、あまり心配していなさそうな気楽な調子でハイクを宥めた。
「なに、ちょっとした休暇だと思って、楽しめばいいじゃないか。おまえは、無茶はしないが、少し暇を嫌いすぎる。それに、手記を調べたいなら、確かあの村には図書館があっただろう?」
傍から奇妙な独り言に思われないよう、ハイクは声を落としてぼそぼそと囁いた。
「もちろんそうするが、ただ……、おまえ、忘れてるだろ。アリアとの約束」
「うん? ああ、そろそろ王都を出てから一月か。気付かなかったよ」
大鷲は少し驚いたように、片方だけの目をぱちりと瞬かせた。昔から大鷲は右目が不自由だ。
「それで、さっき暦表を気にしていたんだな」
「そういうこと。急がないと間に合わないだろ」
セルバートは、この村から大きく西に行った地点に位置する農村だ。王都は北西の方角にあるため、つまり、本来なら真っ直ぐ北西に進めばいいだけの航路を、大きく時計周りに迂回することになる。陸路、とも考えたが、すぐに考え直した。山越えをしなければならないからだ。最近は特に、この近郊の山々で、山猫の魔獣の目撃情報が頻発している。
幸い受付で訊ねると、ちょうど半刻後に出発する舟があった。ハイクはその便を使って村を発ち、巨大な世界樹の脇を通り過ぎて、セルバートの村外れに降り立った。繋ぎの便は明朝だ。元々本数の少ない航路にしては、かなり順調な乗り換えといえるだろう。のんびりとした飛行船の速度に身を任せているうちに、だんだん諦めもついて、ハイクは伸びをしながら発着場を後にした。大鷲の言うとおり、ここはありがたく降って沸いた休日を味わっておこうと思ったのだ。
*
連なるジャガイモ畑を、一人の農夫がのんびりと耕している。麦わら帽子の影になった顔が、作業を眺めていたハイクに気付いて、ふ、と緩む。
兄ちゃん、旅人かい。農作業で太くなった指が、伝う汗を拭う。「そんなとこかねえ」と返してから、少しばかり言葉が足りなかったことに気付いて、「トレジャーハンターなんだ」と付け足した。珍しいなと笑った農夫の足元で、苗は白い花を咲かせている。実を付けるのにはまだ時間が掛かりそうだった。小さくとがった形の花を眺めていたら、「星屑みたいだなあ」と、大鷲が眠たそうにあくびをこぼした。
なだらかな平野には、芋のほかにも、麦、瓜、人参、とにかく沢山の作物の畑が、とりどりの絨毯のように並んでいた。金銀財宝はないけど、まあ、飯でも食ってゆっくりしていけや。声に手を振って、土のにおいを嗅ぎながらゆったりとあぜ道を流していくと、やがてひかえめな木の門に、セルバート、の文字が見えてくる。“やさしき小鹿”と例えられることもある農村は、どこかぼんやりとした暖かさでもって、ハイクを迎え入れた。
セルバートには何度か足を運んだことがある。この村の図書館は、ハイクが気に入っている場所の一つだった。大鷲も、そこを踏まえてハイクに休息を促したのかもしれない。懐具合にはまだ余裕があることだし、少し寄り道してもいいだろう。そう思い、ハイクは村の門をくぐると、市の立つ方角へと足を向けた。
市場といっても、家の軒先に布を張り、木箱を積んで商品を並べただけの簡単なもので、通りに並んだ出店のほとんどが、農家と職を兼ねている。王都の定期市と比べれば人の出入りは少ないが、昼食時の市場は楽しげな活気に満ち、そこここの出店から料理の匂いが漂ってきて、賑やかだった。ハイクはぶらぶらと店を覗きながら、探索用の携帯食を買い足し、足りなくなっていた道具類を補充した。ついでに屋台で買った、まだ湯気の立つ、たっぷりのチーズを包んだ蒸し饅頭をかじりながら、ハイクは賑わいを抜け、当初の目的地を目指した。
出店が並ぶ大通りを抜けて右に折れると、たちまち喧噪は遠ざかり、古びた灌木が並ぶ狭い小道に出る。細かい砂利を踏みながらその小道を進んでいくと、両脇の伸び放題の灌木が、次第にきちんと手入れされた高い生垣に変わり、道幅もいくらか太いものへと戻る。その生垣に囲まれた道の先に、ひっそりと、目的の施設は建っていた。
村立図書館。立て札がなければ、ただの古びた洋館にしか見えなかっただろう。実際ここは、元々村一番の地主の邸宅だったのを、壁を抜き、図書館として造り変えたものらしい。図書館とくれば大抵、鼻につんとくる紙の匂いと、鋭く眼光を光らせる司書、さらには光と風を締め切った陰険な書庫が揃っているものだが、驚くべきことにこの図書館にはそれらが一つもなかった。大きな窓は開け放たれ、天井は広く明るく、子どもも大人も自由に出入りする。
しかし今日ばかりは、人々も先の市場に出払っているのだろう。足を踏み入れた館内は、ぽっかりと空いて、広々としていた。顔見知りの司書以外に人気はなく、その司書も、机に頬杖を付いて、のほほんと暇を持て余している様子だ。調べ物にはうってつけの静けさがひたひたと満ちて、これはこれで心地がよいなと、ハイクは息をついた。
カウンターに立ち寄って司書と世間話に興じてから、ハイクは早速、奥の書架から古代語の辞典を引っぱり出してきて、どさりと机の上に置いた。一口で古代語といっても、その種類は非常に多様である。これらの古代語が用いられていた “かわたれの時代”は、一般に、國が今の王家によって統一されるよりも前の時代のことを指す。当時の大陸には、異なる言語を使う民達が隣り合わせになって暮らしていたらしい。言語が沢山あったということは、それだけ多くの文化や風習、民族が、この広い大陸でせめぎ合っていたという証に他ならず、かつて起こったとされる大戦も、大元は、そういった異なる文化同士の軋轢が生み出したものではないか、という説を説く者も、ハンターや界隈の学者達の間には多く居る。
元々知っている言語だったこともあり、さして時間も掛からずに、ハイクは手記を読み終えた。大半は時計塔の管理者の日記帳だったが、興味深い頁も数か所見つけたので、こちらは王都に戻ってからじっくりと読み込むことにしよう。ハイクは石畳のように大きく重い辞典をさっさと棚に戻し、手記を荷物の中にしまい込むと、今度は違う書架へと歩み寄った。やっと休む気になったのか、大鷲が澄んだ声で呟くのを聞きながら、ゆっくりと目で題目を追っていく。不思議とそれだけで、心が落ち着き、気分が弾んでくるようだった。
実は、この図書館にある学術書の数は、他と比べて極端に少ない。古代語やその他の学問に関する本が収められているのは、ハイクが先程まで居た隅の一角のみで、そこを除けば、図書館の棚という棚を埋め尽くしているのは、古今東西の物語だった。それらの本はすべて、この屋敷の元々の蔵書だ。屋敷のかつての当主は、たいへんな文学好きであったらしい。古典や詩に、戯曲の果てに至るまで、数々の古書がところ狭しと並んだ空間は、ハイクにとっては非常に魅力的なものだった。目の前に広がっているのは、まさしく物語の森だったのだ。
かねてから読みたかった原書を数冊重ね、ついでに詩集も一冊上に乗せると、ハイクは鼻歌まじりに中庭へ向かった。こんなことをして咎められないのも、ハイクがここを好いている所以だ。回廊伝いに外へ出て、足取りも軽く、さくさくと芝生を踏んでいく。見上げた四角の空からは、珍しく晴れ間が覗いていた。黄昏の影響は國の空にも及んでいるため、こうして雲が薄くなることは稀だ。さらさらと気持ちの良い風が吹いて、イチイの若木が揺れる。ハイクの足音に驚いた一羽のセキレイが、慌てて屋根に飛んでいった。
中庭の中央には、小さな東屋があった。その東屋に腰掛けて日が傾くまで読書に没頭するのが、この図書館に来た時のハイクの定番だ。白い石づくりの東屋は、古いだけあって少しばかり傾いているが、ハイクにとってはかえって馴染んだ遺跡に居るようで丁度いい。丸い屋根に向かって進んでいったところで、ハイクはおや、と目を瞬いた。てっきり無人だと思っていたが、どうやら屋根の下には、すでに先客が居たらしい。
そこに腰掛けていたのは、藤色の髪をした一人の少女だった。帽子つきのローブを羽織り、長い三つ編みが、ゆったりと左右から垂れている。誰だろう。初めて見る顔だった。
小柄なその少女は、年に似合わず、なにやら分厚い本を読んでいる。集中しているようで、こちらに気付く様子もない。その隣に、彼女の身長の半分はありそうな長くて太い木の杖が立てかけられているのを見て、思わずハイクは、お、と声を上げた。
「あんた、ひょっとして魔術師か?」
よほど本に熱中していたのだろう。少女は肩をことさら大きく震わせ、驚いたように顔を上げた。いつの間にか目の前に居たハイクに、紫の目が見開かれる。少し、悪いことをしたかもしれない。うっかり本に没入してしまう気持ちはよく分かる。けれど話しかけてしまった手前引くわけにもいかず、「そこ、いいかい?」と、苦笑いで向かい側を示すと、少女は「あっ、すみません、気が付かなくて」とかえって恐縮したようになってしまったので、いや、悪かった、俺も急に声を出したからなと、ハイクは再び苦笑して、頬を掻いた。
「俺はハイクっていうんだ。ハイク・ルドラ。あんたは?」
「ノエルといいます。おっしゃる通り魔術師で……あっ、ここ、どうぞ座って下さい」
勧められるまま、「悪いな」と石の長椅子に腰を下ろす。持ってきた本を隣に下ろすと、「よく来るんですか?」と、ノエルが重ねた表紙を覗き込んだ。
「近くに寄った時、たまにな。ほんとはずっと居ても良いくらいなんだが」
「本がお好きなんですね」
「ああ。といっても難しい本はさっぱりなんで、こうやって物語ばっかり読んでるのさ。ノエルのそれは……魔導書か?」
ノエルははにかんだように、はい、と頷いて、開いていた頁をハイクに見せた。ノエルの狭い膝には余るほどの、分厚く大きな皮の本は、まるでそのものが老齢な賢者であるかのような風格だ。覗いてみると案の定、細かい文字が蟻の行列のように並んでいる。魔術師、という人種は、遠目に何度か見かけたことがある程度だったが、彼らは術を行使するために、おびただしい量の知識を頭に溜め込んでおくらしい。この年でこんなものを読みこなしてしまうのだ。ノエルもきっと、たいそう頭が良いか、たいそう勤勉な性格なのだろう。ひょっとしたら両方かもしれない。
「ここにある本はほとんどが文学や古典ですが、よく本棚を探せば、まれにこういうものが紛れていることがあるんです。それにこの魔導書、とっても貴重なものだったから、見つけた時は嬉しくなっちゃって」
つい読みふけってしまいました、と、こぼれる花のような笑顔でノエルはほほ笑んだ。見ているハイクの方も、自然と表情が緩む。
「魔術が好きかい?」
「ええ、とっても。だってほら、術がかかる瞬間って、素敵でしょう? 見たことがありますか?」
「残念ながら、そっちにはあんまり馴染みがなくてな。錬金術なら、つい最近見たんだが」
というより、そんな優しい過程をすっぱり通り越して、威力を肌で体感したと表現した方が正しい。ウルグが飛ばしていた光球、あれはおそらく錬金術によるものだろう。
術の類に興味が無いと言えば嘘になるが、ハンター業の傍らで、そうした術を一から学ぶのは難しい。ハイクが正直に言うと、ノエルは少し考えてから、思いついたように顔を上げた。
「なら、少しお見せしましょうか」
「いいのか?」
はい、と頷いて、ノエルはちらりと、庭に戻って来ていたセキレイに目をやった。これほど近くで、生の魔術を見るのは初めてだ。何をするのかと眺めていると、ノエルは机の上に小さな紙きれを一枚置き、そこに万年筆でさらさらと文字を綴り始めた。
「それは?」
「遊の紋です。この紋に、決まったまじない言葉をかけることで、術が発動するしくみなんです」
ノエルは仕上げに、筆をくるりと大きく動かして、書いた紋を円で囲んだ。そうしてふつり。目を閉じ口をつぐむ。集中しているようだ。
白い東屋に風がそよぐ。ゆらゆらと葉が揺れ、雲から光が抜ける。
なんだか、ハイクはこの瞬間に覚えがあるようだった。例えば、物語を読む時。本の表紙を開き、未知なる世界の最初の頁に手を掛けた時の、あの静かな高揚感。何が来るのか、じりじりと始まりを待つあの感覚を、今まさに、ハイクは味わっていたのだ。
すう、と、ノエルは静かに息を吸った。その声が唱えたまじないは短いものだったが、一体それがどのような意味を持つ言葉であるのか、ついぞハイクには分からなかった。
「あ」
まじないに反応して、くしゅ、と紙が歪んだ。誰も手を触れていないのに、その小さな紙はひとりでに空中に浮き上がり、ゆっくりと折り目を付けていく。やがて出来上がったのは、一羽の小鳥だった。小鳥は紙の翼を上下させ、すいすいと東屋の中を飛び回る。術というよりは、まるで夢でも見せられているような気分だった。
「ふふ、どうです、かわいいでしょう」
小さな指に紙の鳥を止まらせながら、ノエルが笑った。心なしか、小鳥も笑ったように見える。ハイクはすっかり感心して、しげしげと小鳥を見つめた。
「見事だな。これが魔術か」
「ええ。古くさいとか、複雑だとか、怪しいだとか言う人もたくさんいるけれど、魔術って、本当はたったこれだけの術なんですよ。紋を記して、言葉で動かす。魔術の根にあるのは、たったそれだけです」
「古臭くて怪しげか」
「なにぶん昔の術ですから、そういう風に見えてしまう人も多いのだと思います」
「なんだ。だとしたら、ずいぶんと味気ないことだな」
「はい。けれど、それでもいいんです」
言葉を区切って、ノエルはふわりと立ち上がった。長い杖を手に取り、慣れた様子で、とんとん、と地面を軽く叩く。少女の魔術には続きがあるようだ。
「だって私は、この術が皆の役に立つと知っているもの」
ノエルの杖に合わせて、紙の小鳥がひらりと舞った。杖の最後の一振りで、小さな嘴がかちりと動く。やがて耳に届いた柔らかなさえずりに、もう一つ、別の鳴き声が、ハイクの後ろから軽やかに響いた。どうやら、小鳥の声に誘われて、先のセキレイが寄って来ていたようだ。紋様の刻まれた紙の小鳥と、その白と黒のセキレイは、並んでみれば姉弟のようによく似ていた。
「一羽だけでは寂しいでしょう」
ノエルは柔和に笑った。この村、私の故郷なんです。何気なく付け足された言葉の奥に滲んでいる、どこか憂いを帯びた言い方に、ハイクはただ、そうか、としか返せなかった。
「いい村だな」
「はい、私もそう思います。だから守りたいんです。きっと魔術は、その助けになってくれますから」
聞くまでもなく、黄昏から、彼女は故郷を守ろうとしているのだろう。この長閑な農村にも、黄昏は時折影を落とす。不作の年が増えた、川の水量が減った、峠の先で小規模な山火事が起こった。日常の中のそうした些細な変化の裏には、必ず黄昏の姿がある。セルバートの農民は、自然の変容に抗うこともできず、戦うための力もなく、ただ滅びに怯えながら、日々を過ごしていくしかない。
長いローブをふわりと風に遊ばせながら、手を伸ばし、二羽の鳥達と戯れている少女を眺め、ハイクは目を細めた。今のノエルには、魔術師よりも似合いの呼び名があるのではないか。すっかり放っておかれていた手元の古典を持ち上げる。
「魔法使い」
「えっ?」
「いや。似てるなと思ったもんでね。ここに出てくる魔法使いに、あんたがさ」
丁度一冊、借りてきていた。自らの危険を顧みずに人を助け、皆に勇気を与える、魔法使いの戯曲だ。魔法は確かに想像上のもので、架空の存在でしかないが、ならばその使い手は。魔法使いはどうだろう。本の中の魔法使いと、目の前の少女の、人の役に立ちたいと言ったその言葉、その声に、いったいどれほどの違いがあるというのだろう。
本を開くと、ハイクはノエルを見て笑い、それからがらりと声色を変えた。深く掠れた老人の声だ。
「おお、おお、なんと慈悲深き理(ことわり)か! 魔すら愛せし法の者! ってな」
ハイクは内心、真面目そうなノエルはこういった子供じみた物語にはあまり関心がないかもしれないと考えていたのだが、彼女の紫色の目が期待以上の輝きを見せたことにより、その心配は杞憂に終わったのだった。
「もしかして、語り部さんですか?」
「いや、ただの趣味。どうだい。術書もいいけど、たまには物語の世界に浸ってみるっていうのは」
「いいんですか?」
「もちろん。今は休暇中だからな」
大鷲がぼそりと、アリアが怒るぞ、と囁いたが、聞こえないふりをした。
(魔法使いの休日)