ビヨンド
寝室と呼ぶには質素すぎる部屋だった。
西洋の映画でしか見たことのないようなコバルトブルーの壁が四方を囲い、中央には白いベッドがひとつだけ。他の調度品は見当たらない。真四角の窓の外はやけに明るく、海の遠景が薄ぼんやりと霞んでいる。今は春だったかしらと考えながら後ろ手にドアを閉めた。扉を開く前の記憶は無い。ただ長い距離を歩いてきたのだろうな、という疲労感だけは嫌味のように体にずしりと積み重なっていて、だというのに何故だかその場に座り込んでしまう気にはなれず、疲れた足をずるずると引きずるようにしてベッドに近寄っていった。
ずっと同じ夢を見ている。
ベッドの上には、少年が横たわっていた。春の温もりすら感じる部屋の中で、このベッドだけは機械のように冷たく思える。彼の口には大袈裟なサイズの呼吸器が取り付けられていて、隣では心電図が弱々しい心音をトレースし続けている。布の海に投げ出された体。色味のない顔。伸びかけた真っ黒な髪。シーツをかぶった胸がゆっくりと上下する。私は彼のことが好きでも嫌いでもないけれど、ここまで来てしまった手前、彼をこのまま放り棄てて部屋を出ていくのは少しばかり躊躇われた。
「あなたはこのまま死んでしまうのかしらね」
声は掠れていた。私はどうやら水すら飲まずに歩いてきたらしい。これじゃあ誰にも聞こえないわねと溜息を吐いたら、聞こえているよと返事があった。辺りを見回すと、私の立つすぐ横で、タイルの床から白い影が蜃気楼のようにゆらりと立ち始めていた。輪郭が明快になり、終いにはくっきりと人の形を成す。影は少年と同じ顔をしていた。いくらか血の気のある顔で、少年の影はわらう。
「そいつを俺にくれないか」
言われた途端、ズボンの右ポケットが僅かに重くなった気がした。探ってみると、小ぶりなガラスの鍵が入っていた。大量の海水が濃縮されたような青色の鍵。日に透かすと、青の内側で光の粒が躍った。柔らかく、暖かな光だった。もしかしたら私は、この鍵を届ける為にこの部屋を訪れたのかもしれない。何の為に?
「なあ良いだろう、その鍵を俺にくれよ」
嫌よ、と柄でもない意地悪が口をついた。私たちはそんなに気さくな仲だったかしら。彼は残念そうに、折角砕いてしまおうと思ったのにと苦笑を溢す。その顔を目の当たりにして、良かったこれで当たりだったのねと、なぜだかとても安堵した。
「全く、やっぱりこんなとこでもお前は変わらないな。いいよ、俺の負けだ」
両手を上げて降参のポーズ。一体何の勝負をしていたというの? という私の問いには返答せず、影は白いベッドに歩み寄ると、少年の身体に掛かっていた白いシーツをばさりと捲った。露わになった上半身。シーツと同じ色のTシャツを着た彼の左胸には、小さな小さな穴が開いていた。
「おまえは俺の嫌がることをするのが得意だよなあ」
ああ、なんだ、そういうこと。私はもう一度手の中の鍵を見つめると、それを慎重に彼の左胸の穴に差し込んだ。そっと回すと、かちゃん、と優しい音がした。溶けるように、命の色が彼の胸に吸い込まれる。呼吸器と心電図がぱきゃんと壊れる。ガラスのように透明になって、さらさらと光に消えていく。もうこの人には不要だものね。
「俺はおまえのことが好きでも嫌いでもないけれど、ここに来たのがおまえで、なぜだかとても安心したんだ」
影の輪郭は、既に揺らぎ始めていた。徐々に薄まっていく影に応じるように、本物の彼の頬に赤みがさしていく。生きている人の色だった。私の口元は自然と弧を描いていて、そしてそれは彼の影も同じだった。私たちがこんな風に笑い合うことは、おそらくこの先二度と無いのだけれど。
「起きなさい。もう帰るわよ」
仕方がないな、と影がわらった。
(ビヨンド)