あらまし

「皆さん、虫を集めてはなりません」
 それが今朝テレビを付けて最初に報じられたニュースだった。
「集合した虫たちは大変危険です。一匹ではそれほどでなくとも、集合した虫たちには我々を遥かに凌ぐ知性と自我が宿るからです。皆さん、虫を集めてはいけません。虫を集める可能性のある行動を取ってはなりません。例えば、食べ残しを含めたゴミを外に5分以上放置してはなりません。人も動物も死んだらすぐに焼却しましょう。花は咲かせてはなりません。田畑を耕作してはなりません。食料は、一定期間を置いて順次配布されます。肌を外気に晒してはなりません。常に衛生的な身だしなみを心がけましょう」
 プエ、と変な声が突然画面の向こうから上がった。アナウンサーの目玉の内側から一匹の蝶が羽化していた。
 蝶の群れはたちまちそのアナウンサーの体の至る所を食い破って姿を現した。
 腹の穴からこぼれた小腸が炎天下の地面に滴り落ちた。食べ残しを含めたゴミを5分以上放置してはなりません。真夏なら、他の虫が気付くのに1分もかからない。しかし、人の体は1分で燃やしきれるものではないから、例え誰かが側に居たとしても、巻き添えを食わないように逃げるしか手はない。
 アナウンサーの末路を見届けてやれるほどの余裕が今の私にはあった。慣れてしまったのだ。たちまち黒々と蠢く小さな塊に変化したアナウンサーは、死んではいたが、まだ何か言葉のようなものを喋り続けていた。アナウンサーの死体に群がった虫たちが、言葉を発し始めたのだ。その高度な言葉を人類が理解できる日は来ないのだろう。そんな風にして、虫たちは世界中のあらゆる場所に、自分たちの体で巨大な塊を築き上げた。それが、人類に代わる新しい支配者の姿だった。
 世界が狂い始めたのは数カ月ほど前だ。つまり、春の訪れとともに、滅びが訪れたのだ。厳寒の冬が終わり、新しく暖かな季節の到来を誰もが歓迎したが、そのようにして我々が迎え入れたものはその実人類に対して最も過酷な時代であった。
 テレビを消し、食べこぼしのないように慎重に朝食を終えると、私は立ち上がった。梅雨明け以降、ピストルを肌身離さず持ち歩くようになっていた。虫ではなく、人の攻撃に備えるためだ。虫たちがもたらす飢餓は分裂を、混乱は社会の瓦解を招いた。恐怖は隣人を凶暴で疑り深くし、そしてそれは私も同じだった。
 誰もが分かっていた。私たちはもう生い先長くはないのだろうと。
 私は以前は大学に通ったこともあったし、ピアノも弾いたし、本も多く読んだし、チェスやトランプのようなゲームにも興じた。しかし、最近はそれらよりもより原始的な行動を優先させるようになった。捕食者から身を守るために。私は久しぶりに外に出た。本格的に夏が始まる前に、庭に新しいハーブを植えておく必要があった。ハーブは虫よけにもなる。種を調達して来なくてはならない。幸い、うちには昔からの井戸があるので、水が供給されなくなっても問題はないだろう。虫さえ湧かないようにしておけばの話だが。
 種を探しにホームセンターに行った。広い道路には車など一台も居ない。少なくとも生きた人間を乗せて走っている車は。店はすでに機能していない。割れたガラスをくぐって中に入っていくと、荒らされ放題の食料や殺虫剤の棚をすべて無視して、園芸コーナーに向かった。種は食べられないから不人気で、ほとんどがきちんと陳列されたままだ。必要そうなハーブの種を何種類かまとめてリュックに詰め込んだ。例え希望が全く見えなくとも、生きるための術で満たされたリュックを見ているといくらかは安心できる。
 異変が起こったのはその時だった。誰かがガラスを踏んで私の後ろに立った。
 私はすぐに振り向いてピストルを抜き、撃った。弾は当たりはしたが、効果はなかった。相手は人間の形を模した蜜蜂の群れだったからだ。
 蜜蜂は私に語り掛けた。今朝テレビで聞いた訳の分からない言語ではなく、私が使うのと同じ言語だった。
 私を殺すつもりはないようだった。蜜蜂は肉食ではないからだろう。
「種を植えるのか」
 私は恐怖に震えていたが、そうだ、と頷いた。
「植物の群体で砦を築くか」
 再びそうだと言った。蜂は言った。
「お前は他の者よりも長く生きることができそうだ。チェスをしよう」
「なんだって?」
 私は馬鹿正直に言った。蜂は再び言った。
「夏のあいだ、私たちとチェスをしよう。毎日、太陽が昇ったら、お前の庭へ行く」
 例え蜂どもが草食であっても、承諾するしかなかった。階段の上に立つ者には従うほかなかった。言葉のとおり、蜂たちは翌朝私の庭を訪れた。私は久しぶりに自分の部屋からチェス盤を引っ張り出してきて、庭の机に置き、駒を並べて待っていた。蜂たちは私の動きを見て、広い机いっぱいに自分で持ってきたチェス盤を置き、駒を並べた。私は絶句した。つまり、私はこれから、ひと夏をかけ、同時に十八の試合を行わなければならないということだ。
 蜂たちは毎朝私の庭を訪問し、チェスをして、昼より前にはどこかへ去っていった。蜂たちは私がどれだけ一手に時間を要しても、何も言わずに待っていた。私が一手指すと、蜂たちは数秒で次の手を指した。
 チェスをしているあいだに、人類はどんどん数を減らした。テレビも見られなくなった。水道は枯れ、食料は配給されなくなった。ハーブに守られ、私はどうにか生き延びた。夏が終わりそうだった。とある朝、私は最後の一手となる駒をキングの前に置いた。
 これが最後の盤で、私の勝ちだった。
 蜂たちは私にこう言った。
「私たちは人を食うが、人が嫌いではない。それを掴め。世界は多重だ。その糸がお前を他の場所へ連れて行く」
 ふと気付くと、私の目の前には一筋の蜘蛛の糸が垂れ下がっていた。
「次の世界は滅ばないといいな」と蜂は最後に言った。
 そうだな、と私は答え、その糸を掴んだ。



『あらまし』