果ての浜(後)

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海、というものを初めて教わった時、ハイクが思い描いたのは、青い海原でも、さざめく波打ち際でもなく、晴れた空を、ゆっくりと円を描いて飛ぶ、一羽の鳥の姿だった。
緑の丘には晴天が広がっていた。年に数日しか拝めないような雲一つない紺碧が、両手が浸せそうな場所にまで下りてくる。丘が世界のすべてだった当時のハイクにとって、青い色で満たされた場所というのは、目の前にあるこの青空以外にはありえないように思われた。分厚い雲に隠されたコバルトブルー。ごくごくまれに、ナイフで白い布をすうと裂いたような隙間から、きまぐれに姿を覗かせる群青色。そこへ浮かび上がった鳥を指でなぞって追いかけるのが、子どもはいっとう好きだった。
「昔の海は、水が空の色を映したから、同じように青かったのよ。だからそうね、海を泳ぐ魚も、あなたの言うとおり、あの鳥のような気分だったのかもしれないわね」
ゆえに、海は空に似ていると、子どもがそう結論づけたのは自然なことだった。ありきたりで幼稚な空想だ。しかしそれでもあの日、遥か遠くの青空を悠然と飛び回っていた一羽の鳥は、どこまでも自由だったのだ。いつまでも。
強く在りたいのなら、ただ自由であれ。
母が紡いだのは、古い言い伝えをさらに何十、何百という人々が語り継いで来たような、大昔の物語だった。海を泳ぎ、誰かを探し続ける者。星の底に届く深海、南の果ての澄んだ流れ、北極で泣いた熊の涙、この世のあらゆる海を泳いで、やがては母親の墓に辿り着く。
「僕達も、いつかはその話のように、行くべきところに行かなきゃならないのかもしれないね」
まだ自分達が少年と呼べるような年頃だった頃に、フィデリオが言った言葉だ。強く在りたいのなら自由であれ。その意味が薄っすらと分かるようになった頃。
自由とは、行くべき場所へ行けること。そうすることを選ぶだけの覚悟、あるいは、優しさ。
あの時の鳥は、高い空と遥かな地表とに挟まれたその瞳で、何を見据えて飛んでいたのか。
思い出は今も、まぶたの裏で、ぐずぐずと柔らかにくすぶっている。

     *

白き海に着いてから七日が経っていた。社の中に簡易な基地を設営し、外周に魔獣避けの香を据え付け終えると、その日のうちからフィデリオ小隊は地形の確認、水源の探索、魔獣の調査、ほかにも様々な調べものや細かな仕事に明け暮れ、今日になってようやく、慌ただしくも賑やかに一切の任務を完了させた。明日からは再び、南の村を目指しての長い移動が始まる。
夕方近く、浜の天気を日誌につけ終えたセリムは大きな肩に弓を担いで一人飄々と渓谷に入ると、ものの半刻もしないうちに、その手に山兎を二頭も仕留めて戻ってきた。一頭は腹のあたりに矢傷が、そしてもう一頭には足に傷があった。そちらのほうは、朝のうちに仕掛けておいた罠にかかっていたものだろう。セリムは狩猟に詳しく、幼少の頃に山里で学んだのだというその豊かな知恵は、こうして隊の食糧事情にも大きく貢献していた。ハイクやフィデリオにも野外生活の心得はあるが、セリムのそれには及ばない。セリムはこの七日間ですでに二度ほど、同じように兎を持ち帰ってくることがあった。栄養が必要な年ごろのジーナとジオンを気遣ったのだろう。それに、豊かな食事は気を明るくもする。白き海のような浮世離れした場所に長時間滞在するのであれば尚更だ。
セリムが鮮やかなナイフ裁きで兎を裁き、臭み取りと殺菌用の香草を中に詰めているあいだに、ジーナとジオンは砂浜で石と枯れ木を組んで竈をこしらえた。初日にフィデリオから火起こしの手ほどきを受けた姉弟は、すっかり慣れた様子でわいわいと笑いながら火打石を打っている。彼らにとっては初めての野営を含む任務で、特に少女のジーナには苦労を強いてしまうことも多かったが、二人とも教えられたことをするすると素直に吸収し、その成長速度には目を見張るものがあった。初めて見る物のすべてに目を輝かせる純粋さにはある種のほほ笑ましさすら感じる。おまけに、上があの男だ。これから先も、さぞかしてらいなく真っ直ぐに育つことだろう。
日中は曇っていたが、夕方からは晴れた。内陸と比べて海は晴れの日が多いようだ。橙に染まった塩の平原の、蜃気楼で濡れた地平線のむこうに、真っ赤な太陽が裸体をすべて隠しきると、鮮やかな紺の空に青白い星が次々と競うように浮かび出した。雪崩を起こして星屑が零れ落ちてきそうな満天の星のもと、ハイク達は焚き火を囲い、白き海での最後の夕食をとった。日中の熱さは引いて、空気は透きとおり、時間は沢の水のように涼やかで緩やかに流れていく。焼き上がった肉をセリムが切り分け、まだ油が滴るそれを、そこらで拾ってきた平たい形の岩塩の上にそれぞれ乗せ、全員に配った。過酷な地ではあるが貴重な塩にだけは事欠かない。こげ茶の皮手袋を外し、素手で肉を摘まんで口に運ぶ。淡泊な兎の肉は熱く口の中でほどけた。岩塩が効いて、素朴でうまい。
ハイクは、隣ですでに自分の肉を半分ほど平らげているジオンに、からかい交じりに声をかけた。猪の件以降、ジオンは何かにつけてハイクの近くに居ようと努めているようだった。
「ジオン、ここからまた数日は干し肉と氷砂糖の食事だ。じっくり噛みしめとけよ」
ジオンは口に肉を詰め込んでふごふごしたまま、威勢よく「ふぁい」と頷いた。隣のジーナが「行儀が悪いでしょ」とたしなめる。ジオンは自分なりにハイクの言葉を守ろうとしたのか、いつもよりも長いこと顎を動かして肉をよく噛んでから飲み込むと、油のついた指先をぺろりと舐めた。今は全員軽装なので、手甲もなければ重そうな鎧も着ていない。胸あて、肩あて、膝あてをそれぞれ付けているだけだ。
ジオンは頭上に流れる星の大河を大きく仰ぎ、ふはあ、と上に息を吐いた。焚き火がジオンの少年らしく尖った顎先を照らした。
「あーあ、海もこれで最後かあ」
ハイクのもう一方の隣に腰掛けているフィデリオが、ジオンのその言葉にふと顔を上げ、「また来てみたいかい」と聞いた。がばりと勢いをつけて起き上がったジオンは、珍しく難しい顔をしている。
「そりゃあもう。海っていうか、隊長が行くとこにはどこだって付いて行きたいですよ」
炎を睨んでいたジオンは気付いていないが、ハイクにはこの時、フィデリオが静かに息を詰めたのが分かった。それはジオンの口から、おそらくジオン自身も意図しないうちに洩れた、どこまでも素直な忠誠に他ならなかった。
「でも、今のままじゃどこに行ってもだめです。今回一緒にでっかい任務に連れてきてもらって、はっきり分かりました。俺ももっと強くならないと。隊長や、セリムさんや、ハイクさんみたいに」
どうやらハイクも、フィデリオやセリムと同列の扱いらしい。ハイクは白い砂にあぐらをかいて、後ろにゆったりと片手をついた。
「ありがとさん。けど、俺を手本にするのはやめとけ。せっかく覚えた騎士流の型が崩れるぞ」
「ええっ。けど昨日、剣の打ち合いしてくれたじゃないですか。あの時の剣のさばき方、もっと教えて欲しいっすよ」
「あれはほとんど剣に力を貸してもらったんだ。俺は見えたとおりに動かしただけ。残りは剣技というよりは剣舞の動きだし」
「剣舞?」
「剣を使った踊りだよ。昔ちょっと習ってな」
「昔って、隊長に会うよりも前ですか?」
「そうだな」
ハイクは頷いて、ちらりとフィデリオに視線をやった。
「剣舞を習ったのはがきの頃で、こいつと遺跡で出くわしたのは五年前だ。だからちょうど、ジーナやジオンくらいの年の頃だったよな」
「そうだね。きみ、最初はけっこう感じが悪かったから、てっきり盗賊かと思ったよ」
「お互いさまだろ。おまえもかなり融通がきかなそうな面だっだぞ。あ、今もか」
話を聞いていたジーナが、はっとした顔で身を乗り出した。
「もしかして、青い海を見たのもその時ですか?」
ジオンも両目をくるくると見開いて、ハイクとフィデリオを交互に見た。そこまでだんまりだったセリムも、食事の手を止めてこちらに視線を向けている。フィデリオが「そうだよ」と笑って頷いた。ここに着いた時と同種の、邪気のない笑顔。ジオンが岩塩の皿の淵を握りしめ、勢い込んで尋ねる。
「その時のこと、教えて下さいよ。忙しくて中々聞けなかったけど、俺達三人とも、あれからずっと気になってたんですから」
「長い話になるけれど、そうだね、今日なら構わないかな。むしろ今日を逃すと機会がなさそうだ。だろう、ハイク」
「俺が話すのかよ。言い出しっぺはおまえだろ」
「僕よりもきみの方が上手く話せるじゃないか。それにほら、ハンターになる前は、吟遊詩人みたいなことをしていたんだろう? 路端で物語を吟じたり、歌を歌ったり」
「一年と少しのあいだだけだけどな」
ジーナとセリムが興味深そうにハイクを見たので、ハイクは「大層な芸じゃないぞ」と苦笑した。フィデリオが焚き火に枝をくべ、はずみで炎の粒が小さく舞い上がる。
「あの遺跡で会った時、きみは初めての仕事で、僕は初めての任務だったんだ。懐かしいな」
「じゃあ、その遺跡に海が?」
ジーナがフィデリオに、そっと尋ねた。フィデリオは炎の中に当時の思い出を見出そうとするかのように、青い目に焚き火を映し、頷いた。
「今でも、あの海がどういう場所だったのかはよく分からないんだ。幻かもしれない。遺跡が見ていた、あるいは遺跡に見せられたただの夢かも。でもあの日、僕らは確かに、青い海に立っていた。呼ばれたんだ」
「呼ばれた?」と、ジーナが反芻する。「呼ばれたって、誰にですか?」
「それは……」
フィデリオがちらりとハイクを見た。正確には、旧友の目はハイクのガンベルトを捉えていた。ハイクはフィデリオの言葉を引き継ぎ、腰の銃に手を置いた。
「そうだなあ。鷲の骨に、かな」
確かに現実ではなかったのかもしれない。だが、夢だろうが幻だろうが構わなかった。あの青い海が、浜が何物であろうと、そこにハイクとフィデリオが迷い込んだこと、波を触り、潮騒を聞き、砂浜を踏んだ、そして哀れな一羽の大鷲に出会ったこと、それらは揺るがない真実だ。
ハイクは息を吸った。これは自分達がまだ、無鉄砲な駆け出しのトレジャーハンターと、かちこちの新米騎士だった頃の、空を追った海の話。埋められなかった骨の話。
そんな語り口で、物語は始まった。

     *

遺跡の入り口は、城下町から伸びる街道を下った先にある、緑の森の奥深くに存在していた。ずいぶん簡単に見つかったものだなと、まだ少年だったハイクは拍子抜けしたように息をついて、大口を開けた洞穴の前に立っていた。古いトンネルが大きく丸い弧を縁取り、足元から続く煉瓦の道は、一本の滑らかな曲線を描きながら、奥の方まで伸びている。道中に魔獣の気配もなく、ちっとも手応えがなかったが、不要な想像ばかり膨らませ過ぎたのかもしれない。
ハイクは懐から依頼書を取り出した。契約内容は、この遺構の全長の計測、それだけだ。最初の感覚を掴むため、王都の仲介所に上がっていた中でも最も簡単な依頼に手を出した。
冷たい風が急かすようにハイクの背中を押している。木立がさざ波のように揺れて、大きな生物がゆっくりと深呼吸をするように、空気が暗いトンネルの先へと吸い込まれていく。風にさらわれた枯れ葉が数枚、一緒に奥に消えていった。ハイクは依頼書を折りたたんで再び懐にねじこむと、ゆっくりと遺跡に足を踏み入れた。
長が息絶え、黄昏の謎を追うためだけにトレジャーハンターを目指し、ようやくここまで漕ぎ着けた。今日がその一歩目だ。
ところが、ものの数歩も進まない所で、後ろから聞こえてきた足音にハイクの歩は止まった。
「そこで何をしているんだい」
剣呑な声が響いた。振り返ると、驚くべきことに、銀の鎧を着こんだ自分と同じ年くらいの少年が、まっすぐにこちらを睨み上げて立っている。ハイクは目を見開いた。こんな場所に人。しかも騎士だ。いきなり出鼻を挫かれ、更に相手の第一声がそんなふうに喧嘩を売るような調子だったものだから、驚きはあっというまに引っ込み、代わりに少しばかり苛立ちが沸く。ハイクの様子など気にとめた様子もなく、今しがたハイクが抜けてきたのと同じ茂みから現れたその少年は、早速がさがさと草むらを掻き分け、勇ましくこちらに向かって進んで来た。鎧に傷が少ないから新米だろう。自分と同じだなとは思ったが、親しみはちっとも湧いてこなかった。ハイクはわざと口角を上げ、ほとんど挑発するように騎士に声をかけた。
「おや、これはこれは騎士様。そちらこそこんな廃墟で何をしていらっしゃるんですか」
「決まっているだろう、不審者に声をかけているんだ」
ハイクは鼻を鳴らし、意地悪く目を細めた。こんな仕事などさっさと終わらせて、早く黄昏についての調べを進めたかったのに、とんだ邪魔者が来てしまった。
「せっかくこっちがあんたの態度を流して友好的に聞いてやったっていうのに、冗談の一つも返せないのか。あんた、真面目すぎてつまんないって言われたことない?」
「それのどこが悪いんだ」
思わず手を叩きたくなるほどの優等生のお返事だった。どう思われようが関係ないというわけだ。長身の少年はハイクの退路を絶つように遺跡の入り口に立つと、値踏みするようにじろじろとハイクを眺めた。盗賊の類と決めつけているのだ。なんて分かりやすい奴。これがのちの唯一の親友との最初の会話となるのだということを、当時のハイクは知る由もない。印象は悪かったが、それでも少年の瞳が、目つきの陰険さに似合わない澄んだ青色だったことだけは褒めてやってもいいな、と思ったことは、今でもはっきりと覚えている。絶対に言わないが。
「悪いけど、俺は賊じゃないぜ。ただのトレジャーハンターだ」
今日からな、と付け足そうかと思ったが、やめた。騎士はどうして考えが読めたのかと言いたそうに軽く目を見張ったが、それすらもはっきりと顔に出てきてしまう所も含めて、色々と正直な人物らしかった。ハイクは仕方なしに騎士に歩み寄り、仕舞ったばかりの依頼書を再び取り出して、ほらよ、と騎士の目の前に突き付けた。きちんと上端に割り印が押しこまれた仲介所の様式の末尾に、ハイクの署名がある。字が上手いと丘では評判だったのだ。騎士は依頼書をよくよく観察し、署名を読み上げるとハイクの顔と見比べた。
「ハイク・ルドラ。じゃあ、きみは本当に賊じゃなくて」
「だからそう言ってるだろ。手柄を立てられなくて残念だったな」
そこまでして、ようやく騎士の誤解は解けたようだった。ハイクはこのいかにも頭の硬そうな騎士が次にどんな言いがかりをつけて来るのかと身構えたが、騎士がすまなそうに眉を下げて謝罪の言葉を口にしたので、ハイクはかえって驚いた。
「ごめん。この森は近ごろ被害の報告が多くて、つい疑ってしまった。ああ、僕、フィデリオっていうんだ。フィデリオ・アウシャ。よろしく」
あまつさえ名乗りすら上げた騎士は、まだ少年の幼さが残る表情で安心したように笑うと、右手をまっすぐに差し出した。数拍遅れて、ああ握手を求められているのか、と気付く。そして、気付いた時にはすでにハイクは自分の右手を差し出していた。不思議だ。ハイクが握手に応じたことでますます気の抜けた顔になったフィデリオは、早くもハイクのことを親しい友人だと思うことにしたらしい。僕、実は入団したばかりで、今日が初めての任務だったから、まだちょっと緊張していて、とかなんとか、聞いてもいない身の上話まで喋り始める。歳が近そうだから余計に賊ではなくて安堵したということらしい。今まで余程気を張っていたのか、それとも、単にずぶといだけだろうか。「見たところ、きみもハンターになったばかりなんだろう、お互いさまだね」と気さくに言われて、大きな肩すかしを食らった気分で「え、おお、そうだな」と、間の抜けた返事をすることしかできなかった。フィデリオに言われると、なぜかこちらも素直に応じてしまうようだ。
大丈夫か、こいつ。我に返って一番の感想がそれだった。気を取り直して、ハイクは長身のフィデリオを見上げた。先程から、まず気になっていることがある。
「それで、騎士様は一人で賊を探して見回りか。あんた、よほど腕が立つのかい」
新人を一人で森に放り込むなんて間違いを、かの騎士団が犯すはずがない。それはハイクにもフィデリオにも分かっていることだった。フィデリオは頬を軽く掻きながら困ったように言葉を探っている。どういう順序で説明すれば伝わりやすいか、考えているようだった。
「それが、僕にも状況が分かっていないんだ。小隊で見回りに来たはずが、数刻前に隊とはぐれてしまって、いくら探してみても誰の足跡も見つけられない。そんなに広くない森なのに、いくら歩いても端にたどり着かないし、おかしいと思って来た道を引き返していたら、この遺跡ときみが見えたから」
きみも誰かとはぐれたのかい。聞かれ、ハイクはだまって首を横に振った。
「いいや。街道から地図のとおりに森に入って、道なりに進んできただけだ」
お互いに顔を見合わせた。きっとハイクは今、さぞかし苦々しい顔をしていることだろう。明らかに奇妙だ。
「でも一番おかしなのはこの遺跡なんだ」
フィデリオはハイクの背に伸びる旧跡のトンネルを見上げた。
「森は一本道のはずだ。なのに、どうして来た時には無かった遺跡が、帰る時にはあるんだろう」
それが駄目押しの一言だった。なんてことだ。ハイクは己の迂闊さを痛感した。どうして簡単な依頼なのに誰も手を出さなかったのか、その意味までを考えていなかった。ハイクはそのあとのフィデリオの話でようやく、この森が昔から迷い人が出やすい場所であることを知った。魔術か、召喚術か、かわたれの高度な文明が残したなんらかの作用か。誘いこまれたことにも気付かず、怪物の腹の中を、うろうろと歩き回っていたのだ。
ハイクと同じように、フィデリオもまた黙りこくっていた。おそらく同じ考えに至っているのだろう。自分達の懸念が正しければ、この瞬間の迷い人は自分達に違いない。ハイクは一抹の期待を込めて、今しがた自分とフィデリオが通ってきた獣道を指差し、試してみるか、と聞いた。フィデリオの方も、あまり望みを持ってはいなさそうだったが、そうだね、と頷いた。
今はあまり、一人で動き回る気分にはなれなかった。

三回、試した。三度とも、遺跡を背にして直進していたはずが、気付けば目の前にはあの遺跡があった。道を逸れてどんな経路を辿ろうとも、必ず元の遺跡へと戻ってきてしまう。東西南北、試せる方角はすべて試し、それでもついに術のほころびを見つけることはできなかった。まさに閉じられた輪だ。うんざりするほど見飽きた遺跡に何度目かの嬉しくない帰還を果たし、ハイクはフィデリオを振り返った。
「森に入った全員が全員、俺達みたいな迷い人になったわけじゃないんだよな」
「そうだね。何か条件があるのかも。遺跡に行ける人と、行けない人の条件が。それに、確か記録によると、迷い人は出ても、行方不明者までは出ていなかったはずだ」
「死ぬ前に全員抜け出せてるってことか。時間が経てば勝手に外に放り出されるか、そうじゃなきゃやっぱり、鍵はこの中だろうな」
ハイクは再び遺跡を見上げた。結論からすればふりだしに戻ってきただけだということになる。入り口は相変わらず湿った空気を吸い込んで、獣の唸るようなかすかな音を上げていた。
「まさか、行く気か」
驚いたように、フィデリオがハイクを止める。この騎士が自分から虎穴に入るような性格でないことは、短い間行動を共にしただけでも十分に分かっていた。
「俺は元々そういう依頼を受けてるしな。でもべつに、あんたにまで無理強いはしない」
あっさりとそれだけ告げて、構わずに中に入ろうとすると、フィデリオは慌ててハイクを先回りし、前に立ち塞がった。ハイクはフィデリオに習って、思ったことをそのまま言ってみることにした。
「でかい。邪魔だ」
「邪魔したいんじゃない。無茶をするなと言ってるんだ。奥に何があるのかも分からないのに。会った時から思っていたけど、きみ、そんなに軽装で、よくこの森まで来られたな」
言われ、改めて自分の恰好を見下ろしてみる。確かにフィデリオのような鎧も着ていないし、立派な剣も無い。武器は腰に差したナイフだけだ。常に隙間なく武装している騎士からすれば、確かに心許ない装備なのかもしれない。けれどハイクにとっては、防具も武器も軽い方が、よほどうまくやれるのだ。身体が重くなるのは好きではない。
「俺の装備の貧相さなんてどうでもいいだろ。戻る方法があるとしたらこの中しかない。セオリーだ、あんたも分かるだろ」
「セオリー? トレジャーハンターのか」
「いや。寓話の」
たちまちフィデリオは冷たい顔になった。こいつ大丈夫か、という目だ。最初まで時間が巻き戻されたかのようだ。ハイクはおどけたように肩をすくめ、「おお怖い怖い」と薄く笑った。
「あんただってがきの頃に聞かせて貰ったことくらいあるだろ。勇者の冒険とか」
「ない。僕が知ってる話は一つだけだ」
ハイクは改めてフィデリオを観察した。青目、騎士、アウシャ。
「おやおや、厳しいご家庭だこと。出身は?」
「ツィーゲだけど」
「海に面した崖の街か。ははん、読めたぞ。さすが高貴なおうちのおぼっちゃんは違うな」
ハイクが意味ありげな目を向けると、フィデリオはわずかに動揺を見せた。
「どうして分かったんだ」
「そりゃあ、ツィーゲ出身でその見た目、ついでに騎士とくれば、『海王と騎士』を読んだことがあるやつなら誰でもぴんと来るだろうさ。大方、あんたが聞かされた話ってのもそれだろ」
『海王と騎士』は、童話というよりは最早古典文学のそれに分類されるような物語だった。あまりの古さゆえに本一冊の希少価値が高く、決して民衆に有名とは言えないが、ハイクの故郷にはきちんとした皮綴じが一冊あり、一族の者なら誰もが必ず一度は目を通している。ハイクが朗々とあらすじを話しだすと、フィデリオはますます驚いた様子だった。
「昔々、かわたれよりも遠い神話の時代、まだ海に水が満ちていた頃、とある漁村に一人の男が居た。男は村に豊穣をもたらす青き海を深く敬愛し、そして、海を統べる王はそんな男を見て、自らの友として彼を選び、彼に海水から作った一本の剣を授け、おまえが海の騎士だ、と言った。昔から、村の海岸には時折巨大な竜がやって来る。その度に村は手酷い被害を受けていた。海を荒らすその竜を退けようと、海王と男は結託して戦った。死闘の果て、男の剣によって竜は倒されるが、同時に男も竜の爪に引き裂かれ、帰らぬ人となった。男の死を自らの死のごとくに悲しんだ海王は、生命に溢れる海の力を注ぎ込み、男を生き返らせた。男が次に目を開いた時、そのまなこは、青き海水のごとくに澄んだ蒼穹となっていたという」
ハイクの声は遺跡の湾曲した壁に反射して、舞台上のようによく響いた。ハイクは笑みを深くし、普段の声色と口調に戻ると、付け加えた。
「こいつは、実在するとある一族がモデルになった話だと言われてる。そうなんだろ、海(アウシャ)の家のおぼっちゃん」
静かに目を見開いたフィデリオの青い瞳は、暗い穴の中でもその鮮やかさを失わない。海の色というはちょうどこんな風だったのかもしれないと思う。
「でも、ならいっそうあんたはこの遺跡の奥に興味があるはずだろ。どうして俺を止めるんだ」
「奥に何かあるのか」
「なんだ、迷いの森は知ってても、こっちの遺跡の噂は知らなかったのか」
どうりで行きたがらないわけだ。ハイクはフィデリオの背後に広がる暗がりの道を指差した。迷いの森の話と総合すると、森に囚われ遺跡に遭遇するに至った者達の口から、徐々に広まっていった話だと考えられる。
「遺跡の奥には、かつての海が眠ってるって噂だよ」
やはり知らなかったらしい。フィデリオは「え」と間の抜けた声を上げ、後ろを振り向いた。
「いったいどういう意味だい。まさか本当に古の海があるわけじゃないだろう」
「だろうな。古代の海っていったら、おそろしく広い水たまりだ。塩辛い青い水の中に、大小いろいろな海洋生物が住んでいて、植物だって生えていた。そんな代物がこんな森のど真ん中にあるとは思えない」
「詳しいな。そっちの学問でも学んだのかい」
「古い物語にいくらでも出てくるからな」
「そうか。物語に」
「……あんた、本当に何も聞かせて貰えなかったんだな。半人半魚のお姫様って知ってるか? 剣一本で海水を真っ二つに叩き割った鷹羽の王様は? 世界樹の種を乗せて海を渡ってきた方舟は?」
「知らない。僕の家では、そうした本を読むと良い顔をされなかった。つまらない空想の産物だと。『海王と騎士』だって、一番上の姉さんが人目を盗んで少しずつ読み聞かせてくれたんだ」
「つまらない空想ね。あんたもそう思ってるわけ?」
フィデリオの視線が、一瞬だけ宙を彷徨った。
「ああ。立派な騎士は、國王様にのみ忠誠を誓い、他にうつつを抜かすようなことがあってはならないから」
「ふうん、そうか」
教本からそのまま抜き取ってきたかのような堅い一文は、それまでのフィデリオの言葉遣いからは浮いて聞こえたが、ハイクは何も言い返さなかった。どんなものにでも適切な位置が存在する。近すぎても遠すぎても、高すぎても低すぎてもだめだ。そうして他人との境界を探ってきたのだった。自分も、そしておそらくはこの騎士も。
だが、これはどうだろう。近すぎるだろうか。それでもどうしてか、この騎士の前では、ハイクは言わずにはいられないのだった。
「ならたぶん、こいつも知らないだろ。『海王と騎士』には、『騎士と墓』という続編がある。読んだことは……ないよな。聞きたいか」
フィデリオはここでもやはり躊躇いを見せた。聞きたいが聞いてはいけない。二つがせめぎ合っている。
湿った風が通路を通り過ぎていった。フィデリオはついに諦めたように、眉を寄せ、目尻を下げ、複雑な顔で笑った。
「うん。聞きたい」
「そう来なくっちゃな。だんだんノリが分かって来たじゃないか」
ハイクは再び話し始めた。小銭を投げない観客だが、これからは別の方法で稼ぎを得られるのだから、構わないだろう。
「男が目を覚ました時、海王はこつぜんと海から姿を消していた。一人の人間を生き返らせた代償は大きく、王はすでに力尽きていたんだ。だが、男はそれを知らず、また村の者からいきさつを聞いてもなお、自分のために王が死んだことを信じようとしなかった。男は海の剣を携え、彼を止めようとする幼い弟と母の手を振り払い、船を操り、王を探す旅に出た。長い長い旅だった。しかし王は見つからず、老いた男はついに嵐の中で力尽きた。海に投げ出された男の亡骸を拾ったのは、王の子たる小さな波達だった。彼らは男を故郷の村へと運んでやった。
そしてある朝、男の弟は、波に呼ばれて海岸の墓地に足を運んだ。すると、男の帰りを待ち続けたまま死んだ母親の墓の隣に、男の亡骸が流れ着いているのを見つけた。亡骸の側には、海の王の剣がある。その剣を手に取った時、弟は兄の旅のすべてを見た。海を泳ぎ、誰かを探し続ける者。星の底に届く深海、南の果ての澄んだ流れ、北極で泣いた熊の涙、この世のあらゆる海を泳いで、やがては母親の墓に辿り着く、その旅を。そしてその時、海王と兄の記憶を受け継いだ弟のまなこもまた、兄と同じく青色に転じた。弟は、兄と海王が手を取り合い、守ろうとした故郷を振り返った。美しい村だった。弟はその剣を腰に差して騎士となり、やがて一国を収める騎士王となり、彼の国は海の加護を受け、豊かに栄えた。その弟の墓には、墓石の代わりに今でもかの海王の剣が突き立っているという」
フィデリオの青い目が、水面のようにゆらりと揺れた。思うところがあったらしい。
話は終わりだ。ハイクはぱんと手を叩いた。まずはここから出なければ。
「正直に行こうぜ。どうせ誰も見ちゃいないさ」
フィデリオの横をすり抜け、ハイクは暗がりの先に立ち、明るく言い放った。行程は常に最短を選ばなければいけない。
「どうするんだ。あんたのルーツが待ってるかもよ。噂どおりに海があったらそれでよし、なくても脱出できればいい。簡単だろ」
いっそ開き直った様子のハイクに、フィデリオは短くため息を吐き出してみせた後、仕方ないなと苦笑を漏らした。海に憧れた子どもが、ここにももう一人居たらしい。明確に引かれたはずの水平線は、いつだってほんの少しの歪みを伴って揺れている。
「きみってやつは、少し考えが軽すぎるんじゃないのか」
互いに長い付き合いになりそうだと予感した、最初の瞬間だった。

     *

外の光が入り込んでいるせいか、想像していたよりもずっと内部は明るかった。壁の外側と同じく、内側にも多くの蔓が垂れ下がり、木の根のせいで煉瓦の道はあちこちが盛り上がって、でこぼこと歩きづらかった。森と同じように、遺跡の中も一本道が続いているらしい。道はぐるぐるとあちこちに折れ曲がり、奥へと進んでいる気はしたが、あまり手ごたえは感じられなかった。
途中にはいくつかの脇道と小部屋があった。手分けをして調べてみたが、すべてもぬけの殻だ。なんの用途かも判然としない。小さな子どもが気ままに線を引いたような道を前進し続け、そうしてついにこれ以上無いというところまで来て、ハイクとフィデリオは顔を見合わせた。唐突にぶつかった行き止まりの壁は、不思議とそこだけ一切の植物がなく、細い文字で何かが刻み付けられている。古代語のようだった。しかし、ハイクにもフィデリオにもこの一文を読み下すだけの知識はなく、ハイクにはそれがひどくもどかしく思えた。
「どうする、ハイク。引き返してみようか。見落としがあったのかも」
「いや、待ってくれ。あの文字さえ読めりゃあな」
どうにも大切な意味を持っている気がする。文字をもっとよく見ようと一歩踏み出すと、その瞬間に、背後から再び湿った風が吹いた。入り口に吸い込まれていったあの空気と同じ、濡れた草の匂いがする。
ふと、ハイクは首を傾げた。
ここが行き止まりだというのなら、この風は一体どこへ流れている?
ほんの一瞬、注意を逸らした。それがいけなかった。
ぐらりと体が大きく傾いた。自分達を支えていたはずの床が、霞のように消えたのだ。罠だ、と、その言葉だけが脳裏を電流のように貫く。
一瞬の浮遊感。ハイクは悲鳴を上げるでもなく、体を庇うでもなく、その一瞬で考えた。本能が考えろと叫んでいた。死にたくないなら考えろ、考えろ。どうする。どうすれば乗り切れる。掴まれるものは見当たらない。下には何も見えず、暗闇が広がるばかりだ。着地はできるだろうか。高さはどのくらいある。受け身が間に合うか。無理なら、せめてあいつを庇えないか。そんなようなことが、音よりも速く頭の中を巡っていく。
フィデリオに手を伸ばしたところで、時間切れだった。けれど地面に叩き付けられる衝撃はいつまでたっても襲って来ず、代わりにざばん、と激しい音が耳元で鳴って、水に落ちたのだと分かった。驚いた拍子に口を開けると、がぼりと大きな泡が出ていく。痺れるように水が塩辛い。冷たくはなかったが、服があっという間に水を吸って、ひどく重たい。これだけ近くに水源があって、音も匂いもしなかったというのはおかしな話だが、それは後だ。ハイクは水面を見上げ、思わず目を瞬いた。
おかしい。向こう側がきらきらと明るく光っている。先程まで自分達が居た室内とは様子が明らかに異なっていた。
ハイクは思い切り水を蹴って、勢いよくざばりと水面から顔を出した。新鮮な空気が急激に肺に入って、たまらず咳き込む。
肩で息を吸いながらあたりを見回す。ここはどこだ。今度はどこに連れてこられた。
まず、水の青色が視界に飛び込んできた。運河や沼の濁った緑色とはまるで異なる、どこまでも透きとおった瑠璃色だ。
見渡す限りの水の平原。遺跡の中外といった区別など、もはやひどく微細なものでしかなかった。あまりの衝撃に頭が痺れ、ちっとも働いてくれない。眩しいと感じたのは太陽が出ていたせいだった。
状況が掴めないまま、ハイクはなんとか顔を上げる。途端に視界を塗りつぶした群青色と、空、という言葉が頭の中で結びつくのに、数秒の時間が必要だった。白雲のひとかけらもない、見事に晴れ上がった昼の空。水の浮遊感と相まって、どちらが上でどちらが下か分からなくなりそうだった。眩暈が、する。
海だ。青い海と、そして空だ。世界の中に、その二つだけがあった。
呆気にとられ、ハイクはただただぼんやりと辺りを眺めていたが、だんだん目が覚めてきて、あっと声を上げる。そうだ、フィデリオ。きっとあの鎧では浮き上がって来られない。慌てて潜ろうとしたが、ハイクの心配は杞憂に終わった。
「ああ、いた、いた。ハイク!」
驚いて振り向くと、件の騎士殿が、安堵の笑顔を浮かべて手を振っていた。驚いたことに、あちらは水の上に立っている。成る程、お似合いの力だった。フィデリオはそのまま水上を駆けてくると、ハイクが返事の代わりに挙げた右手を、そのまま掴んで引き上げた。フィデリオが作ったらしい水の床は、少しばかりふわふわとして、時折大きく上下に揺れ動いた。これが波という物なのだろう。
 興奮を抑えきれないのか、フィデリオの声はいくらか上ずっていた。
「すごい、きみの言った通りだった! それに、海ってこんなに青くて深いんだ。僕ぜんぜん知らなかったよ!」
濡れそぼった長髪を絞りながら、ハイクは頷いた。
「おかげで濡れ鼠だけどな。……うへえ、重いな。さすがに現実じゃないんだろうが、ただの幻って訳でもなさそうだし、どうなってんだ、全く。ここからどうすりゃいいのかさっぱりだ」
するとフィデリオは「あっち」と言って、まっすぐに左側を指差した。目を凝らすと、どうやら小さな浜辺があるようだ。太陽が中点にあるので、どちらが北かも分からない。
行くだろう、と分かりきったことを聞くので、よろしく、と答えてハイクは立ち上がり、騎士の背を叩いた。
思いのほか近かった。フィデリオが作った水の橋を渡り、ざばざばと波を蹴りながら、浜に上がる。いいかげん濡れた服が重い。ハイクはさっさと上着を脱いで、軽く絞ってから腰に括った。この日差しだ、すぐに乾いてしまうだろう。
浜は然程の広さではなく、ただ、かなり細長い形状をしていた。ハイク達が上がったのは相当端のようだ。真白い陸地が大きな弧を描きながら、白昼に光る三日月のように、海の上にぽっかりと浮かんでいる。フィデリオの水の橋と同じくらい、ここの地面もひどく柔らかく、長く歩くと体力を消耗してしまいそうだった。ずいぶんとさらさらした塩だなと思ったものは、驚くほどにきめ細やかな、真っ白な砂だ。
どうしてかハイクには、浜に上がった時からずっと、ここだ、という不思議な確信があった。きっとこの浜の先に居るのだ。……居る? 誰が?
考え込んでいると、辺りを観察していたフィデリオがハイクを呼んだ。
「ねえハイク、とりあえず向こう端まで行ってみようか。というより、行くべきなんじゃないかなって思うんだ。上手く言えないけど、なんだか僕達、最初からここに来るようになっていた気がするよ。誰かに誘われていたみたいに」
どうやら向こうも同じことを感じていたらしい。この海が遺跡の果て、本当の終点なのだろう。
三日月の下端から上端へ、滑らかな海岸線をなぞりながら、眩しいくらいに白い砂浜を、夢を見るような気分で歩いた。砂粒が太陽の光を弾いて、遥か彼方では、水平線が空と混じる。砂を踏みしめるたび、きゅ、とかすかな音が鳴る。時折群青の空を見上げながら、フィデリオと並んで、ただただだまって足を動かした。水は透明で、波は音がする。空は青い。たったそれだけのことが、どうしてか深く胸を打つ。時折振り返ると、自分達のつけた足跡が消えずに長く伸びていて、そんなことすらも、美しい、と思えた。
先端には小さな遺跡があった。石造りの簡単な祭壇のようなそれは、田舎の村でよく見られる、小さな円形の舞台に似ている。着いたな、とハイクが呟くと、長かったね、とフィデリオが頷いた。祭壇は、短い階段の先にある。何かに導かれるように、ハイクの足は自然と階段を上っていった。
階段の上は、ただの平坦な丸い広場だったが、その中央には、異質なものが一つだけあった。
巨大な丸い鳥籠だ。砂でできたそれの入り口は錠前で固く閉じられ、全体に砂の鎖が厳重に巻き付いている。そして、その籠の中には、フィデリオの身の丈を優に超える、巨大な一羽の鳥が眠っていた。
短剣の先を思わせる、曲がった黄色い嘴。太い両足。太陽と潮に焼かれてくすんだ茶色の羽。平たい頭。間違いなくその生き物は鷲だったが、あまりにも身体が大きすぎる。魔獣かもしれない。隣でフィデリオが、静かに剣を抜いた。金属が擦れるわずかな音でも、牢屋の主を起こすには十分な大きさだったらしい。石像のようだった巨体が、軋むような音を立ててぎこちなく震えた。ハイクもまた、腰のナイフに手を添える。
ゆっくりと開かれた双眸は、左が黄色く、右目は白く濁っていた。この世の果てを見届けたような深い知性を湛えた隻眼と目が合った途端、ハイクはこれまでの疑問がすべて腹に落ちたような、やけにすっきりとした気分になった。
気づけば、ハイクは無防備に大鷲に話しかけていた。自分が今から何を言おうとしているのかさえ、この時ハイクは意識していなかった。
「俺達をここに呼んだのはおまえだな」
大鷲も、まるで初めからその問いを予想していたかのように、一度だけ緩慢にまばたきをしただけだった。それが答えのすべてのようだ。しかし、不思議と怒りは湧いてこなかった。
「ずいぶん困らせてしまったね。だが、心配ない。必ず帰すと、約束しよう」
大鷲の声は、男とも女ともつかないほどにしゃがれていた。申し訳なさそうに、大鷲はハイクとフィデリオを見た。
「ずっと探し続けていた。この浜に至る素養のある者を。近しい者を、何人も呼んだ。しかし、森に遺跡を、遺跡に浜を見出した者は居ても、浜にわたしを見出したのは、おまえたちが初めてだった」
フィデリオが、真っ直ぐに大鷲を見た。
「どういうことだい。その、素養というのは」
ハイクには、海の名と目を持つフィデリオがこの場に引き寄せられた理由が、ぼんやりと分かるような気がした。しかし、自分はどうなのだろうか。なぜハイクは、ここに呼ばれたのだろう。
まるでその考えが伝わったかのように、大鷲は首を下げてハイクの顔を覗き込み、おまえは青空、と言った。おまえのなかにも揃っていたよ、と。
「俺の中?」
「そうとも。つまり、魂の話だけれどね。おまえの魂には青き空が、そしてそちらのおまえには青き海が宿っているから」
「おまえは一体……」
「何者か、と聞きたいのなら、残念だが、明確な答えはわたしにも分からないよ。だが、そうだな、死にきれなかった魂の成れの果て、という言葉で、説明できているかな」
波が寄せては返す音が、ハイク達を包み込んでいた。檻の中、大鷲は身じろぎもせずに、抑揚のない声で話し続けた。
「場とわたし。意志と記憶。魂と体、血と絆。すべてが浜の鍵であり、錠であり、楔だった。揃えていたのはおまえたちだけだった。浜が開かれるこの時を、わたしはずっと待っていた。こういう場面で、人の子はなんと言うのだったかな。ようこそ、かな。おかえり、かな。浜を渡る二人の過去を渡ったよ。燃える丘を翔け、塩の墓標に花を添えた。戦わなければ前にも後ろにもゆけぬ、哀れな人の子どもたち。……酷な道を、来たね」
心臓の深い部分に、やさしく銃口をあてがわれたような気分だった。だというのに、大鷲からは欠片の敵意も感じられず、その眼差しや口調からは、ハイク達に対する労わりが滲むばかりだった。いつの間にかフィデリオは剣を鞘に戻し、ハイクもまた無意識のうちに、ナイフの柄から手を放していた。
ハイクは重ねて大鷲に問いかけた。
「俺達を呼んだ目的はなんだ。その檻からおまえを助け出せばいいのか」
「いいや。もはやそれは望むまい。仮に檻から出たとして、わたしにさえ分からない、わたしの行く先を誰ぞ知るや? その代わりに、一つ、頼まれてはくれまいか。そして、それを話すために、おまえたちの時間を少しだけ分けてほしい。……ああ、よかった。二人とも、物語は好きなようだね」
大鷲はゆっくりと、そして苦しそうに身じろぎをし、羽毛を震わせた。病床に伏した老人がそうするように、嘴を薄く開き、それ自体が苦行であるかのように息を吸う。大鷲の喉から、枯葉をこすり合わせるようにがらがらと空気が漏れる音をハイクの耳は拾った。この大鷲は弱っているのだ。それだけの時間、檻の中で、人が来るのを待っていたということか。不思議なことにハイクには、大鷲が何者であるか、どんな目的でハイク達を呼んだのか、そうした謎がひどく些細なことに感じられ、その代わりに、大鷲はいったいどれだけの歳月を檻の中で過ごしたのかという、ただそれだけが、今最も大切で、気にかけるべきことのように思えるのだった。
大鷲はハイクのように、意識して声色を変えたりはしなかった。
演じる必要がないのだ。それは大鷲自身の物語だった。
「その昔、わたしは一羽の鷲だった。幼くひ弱な、原初の鷲だった。ある日、飛翔したわたしは風に砕かれた。翼が海に落ちたから、海はわたしの亡骸だ。多くの者がそうして海に消えていったが、しかし、わたしは上手に死にきれなかったようだ。海の底を漂い、そうして気付けば、この浜に流れ着いていた。墓場たるこの浜に」
聞いたことのある話だった。自分は、否、自分達は、これによく似た物語を知っている。丘で母が教えてくれたのだ。思わず顔を見合わせたハイクとフィデリオを、大鷲は静かに見つめていた。
「似ているな、この話は、かの話に。似ているが、違うよ。わたしはあの人の元には辿り着けなかったから。今までも、これからも、それは変わらないことだから」
大鷲は遥かな天空を見上げた。太陽は未だ、空の最も高い位置にある。塵一つない青空は、あの日の丘の空によく似ていた。
「ここは、空に上がれなかったわたしたちの終の住み家だ。まことの海から水は消えた。黄昏、黄昏。それでもこの海は消えなかった。迷える魂たちが最後に行き着くのがこの海だ。墓場であって終着ではない場所。昔はどうにかして、ここから出ようと試みたこともあったが……だが、できなかった。いくら呼べども誰も来ない。そうするうち、いつしか声も枯れ、空の飛び方すら忘れてしまった。眠って、目覚めて、また眠って、わたしはわたしをやめてしまった」
話の間、大鷲は一度たりとも顔を下げなかった。鳥の表情など読めるはずもないのに、ハイクには大鷲の顔に惨めな諦めが滲んでいるのが、はっきりと分かった。
「浜は飛べないわたしを飛べぬ者と断じ、閉じた。それがこの檻だ。記憶は風に削れ、薄れていくばかりで、そうして檻の中にいるうちに、いつしかわたしは、死への恐怖すら忘れ去ってしまったようだ。だが、元よりそれが正しかったのだろう。はじめから、ただの亡骸だったのだから」
そして、話し終わると、大鷲はゆっくりと鳴いた。するとハイク達のすぐ足元に、大鷲の頭の形をした、大きな骨が立ち現れた。
「もう頭の分しか残っていない。頼みというのは、これだ」
この骨を埋めてくれないか、と、大鷲は頭を下げた。
フィデリオは口を開き、なんと声をかけるべきか躊躇っていたが、しばらくしてからそっと、丁寧に問いかけた。
「つまり、きみの墓を作って欲しいと、そういうことかい」
大鷲は静かに頷いて、すまない、と項垂れた。
「墓などと、そんなぜいたくなことは望まない。わたしに代わって、その骨を、外の世界の、どこかの地面に埋めてくれないか。骨はやがて正しい形で地に還るだろう。依り代が消えれば、わたしもただのありふれた魂として、同胞たちと同じように、この海で眠ることができよう」
「ほかに何か、望みはないのかい」
「ありがとう、優しい騎士の子よ。だが、これ以上のものはない。わたしはここに沈んでいきたい」
大鷲の願いは簡単だった。しかし、そんな簡単なことすら、大鷲は自分では叶えることが出来ないのだ。フィデリオがだまってハイクを見る。どうする、という目線だけの問いかけにハイクは顔を上げたが、はっきりとした答えは出せていなかった。眠らせてやるべきなのかもしれない。一番の望みなのだと、何より大鷲自身が言っている。
しかし本当に、そうすることで大鷲の望みは叶ったと言えるのだろうか。
あの鳥は、あれだけ高く、晴れた空を縦横無尽に飛んでいたというのに。
ハイクの沈黙を肯定と取ったのか、フィデリオは大鷲に向かって「分かった」と頷いた。大鷲はもう一度礼を述べ、フィデリオはそのまま屈んで骨を持ち上げようとしたが、ハイクは咄嗟にそれを手で制した。
「どうした?」
フィデリオの質問には答えず、大鷲の隻眼を見据える。大鷲は初めてハイクから目を逸らした。破滅の足音はいつだってささやかで優しい。そして死は時に、生きるよりもひどく容易い。
こうしてまた一つ、この國の絶望を見る。
ハイクは自分でも、どうしてこれほどまでに自分が迷い、傷つき、苦しんでいるのか分からなかった。たかが他人、たまたま遭遇しただけの相手だというのに、どうしてなのだろう。大鷲は、そして大鷲の話は、不思議と懐かしく、ハイクの魂の最も深い部分を穿ち、涙すら溢れてきそうだった。その理由は、今でも上手く説明できない。
どうして、どうしてなのだろう。どうして大鷲はこんな場所に囚われなければならなかったのだろう。どうしてハイクは檻の外に居るのに、大鷲は檻の中に居るのだろう。そんなのはあまりにも理不尽だ。……待て。理不尽? 理不尽って、なんだ。どうしてそんな言葉が浮かんできた。フィデリオが、じっと俯いているハイクを覗き込み、軽く目を見開いた。
「……ハイク?」
その時自分がどんな顔をしていたのかは分からない。それでも、大鷲を助け出さなければならないと思ったことだけは覚えている。自分でもなぜこれほどまでにさまざまな思いが浮かんでくるのか分からなかったが、とにかく今は、目の前のこの大鷲と話をしなければならないと思った。そうしなければという強い使命感があった。ハイクは顔を上げ、強い目で大鷲を睨み、言った。
「おまえ、本当にそれでいいのか。外に出たかったんだろ。それでも、ここを選ぶのか」
大鷲は俯いていた。おそらく、この大鷲が忘れてしまったのは、空の飛び方ではない。飛び方が分からないのではなく、飛ぶ方角が分からないのだ。だが、ハイクからすれば、その答えははっきりと目の前に提示されていた。分からなくなったのなら、新しく探せばいいだけのことだ。
大鷲を殺したくなかった。諦めさせたくなかった。それは、それだけは、あまりに悲しいことだった。ただ、助けたかった。ハイクは今や、その一心で動いていた。
「なあ、ただの思い付きなんだけどさ」
ハイクは、一歩ずつ、大鷲に歩み寄っていった。
「おまえ、言ったよな。自分は死に損ないの魂だって。でもって、こうも言った。俺の魂には青空があると」
大鷲には、ハイクの言葉の先が読めたようだ。驚愕に目を見開き、大鷲は小さく叫んだ。
「まさか。本気か」
ハイクは足を止めなかった。その選択の結果自分がどうなるかということよりも、大鷲を助け出すことのほうが重要に思えたからだ。
助けなければならない。囚われているのなら、助けなければならない。傍から見れば奇妙に思われるほど、ハイクは自分でも意識しないうちに、その考えに固執していた。自分がなぜそう考えたのかも、五年経った今でも、上手くは説明できない。歩みを進めるハイクに逆らうように、大鷲は檻の中を、じりじりと後ずさった。
「わたしのために、自分の魂を差し出すというのか。失敗すれば、おまえの魂は砕けて、おまえは魔獣になってしまうかもしれないんだぞ」
「それは困るな。俺は黄昏の真相を解き明かさなくちゃならないんだから。そんなことにならないように、上手くやってくれ」
多分、この大鷲となら、そんなことにはならないだろう。なぜなら、この浜はすでにハイクを、その魂を選んでいるからだ。奇妙な確信を持って、ハイクは唖然とした大鷲の顔を見て、笑った。フィデリオすら、予想だにしなかったハイクの提案に、言葉が見つからないようだった。
「俺は決めたぞ。だから、おまえも決めろ。この海と俺の魂、おまえが行きたいのは、どっちだ」
長い沈黙が流れた。だが、沈黙が流れているという時点で、大鷲が本心ではどちらを欲しているのかは明らかだった。
ハイクは檻の前に立った。さらにしばらくして、大鷲はようやく、巨体を縮め、許されないことをしてしまった子どものように、か細い呟きを漏らした。
「でも、出られないよ。何度も試した。この檻は開けられない」
「内側からはだろ。それに」
ハイクは鎖を掴み、大鷲を見上げた。砂の鎖は、一本がハイクの腕ほどの太さもあった。
「最後に試したの、何年前だよ」
ハイクが鎖を強く引くと、潮風で劣化した鎖はあっけなく引きちぎれ、ばらばらになった。
ずっと不思議でたまらなかった。丘の上で、遠い鳥は何を見据えて飛んでいたのか。その目線の先には何が見えていたのか。
奇跡みたいな紺碧だった。高く上がったあの鳥のように、黄昏にも、人の死にも怯えることなく暮らしたい。もう一度別れた皆に会いたい。共に歌を歌いたい。きっかけなど、それだけだった。だからこそハイクはここに来たのだ。大鷲だってそうだったはずだ。望みがあったはずだ。巻き付くしがらみなど関係なく、ただ己が己として生きていくためだけの、願いがあったはずだ。
忘れたのではない。思い出せないだけだ。こんな……こんな檻と鎖があるせいで!
ハイクはすべての鎖を乱雑に取り払うと、檻に掛かった巨大な錠を見下ろし、無言で片膝を上げた。大鷲やフィデリオが何か言うより先に、さっさと足を振り下ろす。
大鷲の目の前で、かしゃん、と音を立て、砂の錠は砕けた。
「出てこいよ。どんな姿だろうとおまえはまだ生きてる。生きてるんなら、進み続けるしかないんだ」
だからここに来たのだろう。生に縋り、飛んで翔けて墜ちて泳いで、最後にはこんな浜まで逃げ果せた。
「俺だって、フィデリオだってそうだ。俺達は行く。だから、おまえ。おまえは」
「わたしは」
「飛べ」
助けを呼ばれてここまで来た。だというのなら、為さねばならない。沈ませてはならない。生かさねば、ならない。
ふわり、ハイクと大鷲の周囲に、小さな風が立ちのぼった。
「本当に、いいのか」
「いいって言ってるだろ。そのでかさじゃ、ちょっと手狭かもしれないけど、そこは目をつむってくれ」
鉄格子を掴む。手の平に力を籠めると、それだけで砂の格子は砕けた。
かしゃんと折れる。ひびが入って崩れていく。
檻が割れる。風が立つ。
体は沈んだ。魂は自由だ。
壊してくれ。
飛んでくれよ。
「さあ!」
突風が吹いた。大鷲の翼が巻き起こした、一迅の風だ。思いだした、という歓声が、轟く風の中で聞こえたような気がする。ハイクによって檻は破壊され、ついに大鷲は解き放たれた。そしてハイクはその瞬間、大鷲が空の飛び方を思い出したことを悟った。大鷲は何度か翼を上下に動かし、飛び方を確かめているようだった。翼が生み出す暴風に、残っていた檻の残骸が粉々に砕けて散っていく。ようやく大鷲の巨体が地面から離れる頃には、ハイク達がその場に踏み留まっているのがやっとなほどの強風が、その場に吹き荒れていた。大鷲はいったん高く空に上がってから、両翼で空気を切り裂き、真っ直ぐにハイクに向かって飛んでくる。
ハイクは逃げなかった。ただ、だまって両腕を広げた。ぶつかる、と思った瞬間に大鷲の身体はふわりと溶け、風に混じって、ハイクの身体は祭壇から吹き飛ばされた。
「ハイク!」
フィデリオが叫んだ。その姿すら、一瞬のうちに消し飛んだ。
胸に飛び込んできたのは、無限の大空を縦横無尽に舞う、一羽の鷲の記憶だった。
老人が泣く。鷲を抱きしめて泣く。おまえを愛しているのだと。
砂浜に、飛ぶ。
気付くと空の中にいた。失敗するはずもなかった。選択は為された。ハイクの魂は大鷲を受け入れた。胸の内側から、喜びが溢れ出してくる。血脈よりも遥かに速く、強く、熱く、体中をどうどうと駆け巡る。もはやそれが自分の感情なのか、大鷲の感情なのかも判然としなかった。どちらでもよかった。奔流のような感情に体を預けて、ただただ、ハイクは笑っていた。全身を打つ風が、目に染みる空の青が張り裂けそうなくらいに心地よかった。大声で歌い出したい気分だった。
呼んで呼ばれて選ばれた。そうだ。そうだった。悲しいばかりで忘れていた。炎。黄昏。紺碧。青空。失われた海。水は澄んで輝いていた。白い浜は美しかった。美しかった、美しかった美しかった美しかった。別れを言わなければならない。旅立ちを恐れなければならない。
泣いているのか、と、大鷲が鳴いた。そいつはおまえだ、と叫んでいた。涙は流れていなかったが、胸が張り裂けるように痛かった。
そして、ハイクの意識は途切れた。

     *

ぱちん、と焚き火が爆ぜた。いつしか隊の誰もが、息を殺してハイクの話に聞き入っていた。話を一旦区切って一息ついたハイクを、ジオンが急かした。
「そのあと、ハイクさんと大鷲はどうなったんですか」
白湯で喉を潤してから、ハイクは続けた。残っているのは短いエピローグだけだ。

     *

目が覚めると、ハイク達は森の入り口の近くに倒れていた。やけに身体が軽く、すっきりとした気分だったのを覚えている。
起き上がった拍子に、ごとりと重い音がして、胸の上から何かが滑り落ちた。拾い上げてみると、それは一丁の古い拳銃だった。合わせ鋼と木製の回転式だ。かなりの骨董品のようだが、奇妙なまでにぴたりとハイクの手に馴染む。
「ああ、それはな、わたしの骨だ。魂を借りるかわりに、わたしがおまえの武器になってやろうと思ってな」
頭の中に直接、大鷲の声が響き渡った。あれだけしゃがれていたのが嘘のように、その声はどんな楽器よりも透明で、晴れやかで、澄んでいた。ハイクは苦笑した。
「ナイフだけじゃだめか」
「騎士が言っていただろう。あの意見にはわたしも賛成だ」
大鷲は、「おまえ向きの武器だ。ナイフより強力で、剣より軽い。どうだ、すごいだろう」と言って、得意げに胸を大きく膨らませた。
「楽しそうだね」
横を見ると、いつの間にかフィデリオが起き上がっていた。あちこちに砂粒を引っ付けたまま上機嫌に笑っている。ハイクは「おまえも十分楽しそうだぜ」と言って鎧を指差し、新品が台無しだなとまた笑った。かく言う自分の服もまだ濡れたままだ。だが、さして気にならなかった。あの浜は本物だったのだという証に他ならなかったのだから。
「でも、きみが魔獣にならなくてよかった。本当に……あれ、きみ、銃なんて持っていたっけ」
「あいつに貰った。頭の骨なんだとさ」
「じゃあ、大鷲は本当にきみの中に……」
「そうみたいだな。今なら空も飛べそうだ」
ハイクがにっと笑うと、フィデリオは心底嬉しそうな様子で、あの鷲はきみを選んだんだね、と目を細めた。どことなく、目の青さが増したような気がする。あの海を見たせいかもしれない。
「でも一応、銃は鍛冶屋に見て貰ったほうがいいんじゃないか。暴発したら危ない。あ、伝手が無いなら紹介しようか。きみ、友達少なそうだし」
「余計なお世話だ。おまえこそ、詰め所で一人で飯食ってるんじゃないのか」
そうして騒いでいると、おうい、と人の声がして、木立の奥から数人の騎士が歩いてきていた。フィデリオの小隊だろう。
良かったな。じゃあ俺は先に行くから。ハイクがひらりと手を振って歩き出すと、フィデリオが慌てて振り返りながら、「またな」と言うので、ハイクは仕方なく「またな」と返した。すっかり忘れていたが、騎士団もハンターの仲介所も拠点があるのは王都だ。そう遠くないうちに互いの顔を見ることになるに違いない。最初の予感が確信となった瞬間だった。
ハイクは去り際に一度だけ森を振り返ったが、木立はしんと凪いで、あの湿った風はもう吹いてはいなかった。
話は、それでおしまいだ。

     *

一夜が明け、出立の朝となった。荷を纏め、最後に少しだけ海に下りようという話になって、小隊は揃って砂浜を下っていった。ひび割れた白い大地。これもまた、海の一つの姿には違いない。
空は涼やかに晴れている。風はぴたりと止み、一面の塩の地平にはジオンとジーナの笑い声だけが響いている。どうやらセリムが、砂トカゲを捕まえて二人に見せているらしい。離れた場所でそれを眺めていると、後ろから鎧の足音が近づいてきて、ハイクの隣に並んだ。
セリム達に顔を向けたまま、フィデリオが穏やかな声で言った。
「ハイク、ありがとう。今回は本当に助かったよ」
同じく正面を見たまま、ハイクが「忘れるなよ、最初の条件」と返すと、フィデリオは「そう言うと思ったよ」と苦笑いした。
「王都に戻ったら、そのあたりはちゃんと隠して報告をまとめるよ。僕の報告が上がったら、すぐに次の調査隊が南の海に出る手はずになってるんだ」
「忙しないな。けど、おまえんとこは、また城下町の警護に戻るんだろ」
「しばらくはそうなるかな。でも、前から考えていたことがあって」
「小隊のことで?」
「そう。元々この隊は、数合わせの為に残されただけだから。きみには話していたっけ」
「おまえからは聞いてないけど、噂なら知ってる。確か、前任の小隊長が殉職して、副隊長だったおまえがそのまま繰り上がったんだろ。どこまで正しいかは分からないけどな」
前にジュスがそういう話を溢していた記憶がある。ジュスは噂好きなので、正ギルドや、正ギルドと繋がりのある騎士団の話が、大麦亭では頻繁に話題に上る。
「うん、それで合ってるよ。前に、南で大雨が降っただろう。救助のために山あいの村に行ったんだけれど、そこでひどい土砂崩れがあってね。隊で生き残ったのは、僕とセリムだけだった。遺体を探すことすら出来なかったよ」
「その村は、どうなったんだ」
ハイクは変わらず前を向いたままだったが、それでも、フィデリオが力なく首を振ったのが分かった。遠くでジオンが、急に飛び上がったトカゲに驚いて悲鳴を上げていた。ジーナがおかしそうに笑っている。
「ジーナとジオンが加入したのは、その事件が終わったあとだ。小隊としての正規兵の頭数が揃うまでは、城下町に戻って、町内巡回の任務に回っていたんだ」
つまりそれが、アリアの事件の時期と重なったのだろう。「さらに追加の兵が欲しいと上申はしているんだけれど、今は中々難しくてね」と、フィデリオは苦みのある声で続けた。近年、もっとも死傷者の数が多い職の筆頭に上がるのが騎士だ。その姿に憧れを抱く若者は大勢居るが、蓋を開けて数字を見れば、年を追うごとに志願者は確実に減ってきている。
「それで、おまえが考えてることっていうのは?」
「実は、今回の任務を受ける直前に、果て越え本隊の総隊長から声をかけて貰ったんだ」
「総隊長って?」
「各小隊のさらに上に立つ、作戦そのもののまとめ役さ。僕が新人の頃からよくしてくれた人でね」
「へえ、引き抜きか。しかも果て越えとは、おまえ、とことん海に好かれてるな。受けるんだろ」
「うん。そうしたいと思ってる」
大方、城下町でくすぶっているフィデリオを見かねたのだろう。「あの三人はどうするんだ」とハイクが聞くと、フィデリオは「気に入った部下がいるなら、連れてきていいと言われてる」と答えた。
「連れて行ったらいいじゃないか。昨日だって、ジオンがああ言ってただろ」
「そうだけど、でも……果て越えはかなり特殊な作戦だ。彼らにだって、騎士としての目標や目的があるだろう。果て越え隊に来てしまえば、叶えられなくなってしまうかもしれない」
心配性な隊長だ。他でもないフィデリオに必要とされて、あの三人が断るわけがないというのに。
「まあ、黙ったままでもいられないだろ。心配するなって。断られたら一緒に飲んでやるから」
「ああ、頼むよ。次はちゃんと、鎧を脱いでから行くからさ」
「ぜひそうしてくれ」
どちらからともなく、並んだまま笑いを漏らした。話して胸がすいたのか、フィデリオは幾分かすっきりとした声でハイクに言った。
「実は、話を受けると決めたのは昨日なんだ。きみの話を聞いて、それを聞くみんなの顔を見て、あの時のことを思い出して、一晩考えた。……結局僕は、昇進して家名を守ることより、僕自身の憧れを取ってしまった。家からは勘当されてしまうかもしれないけれど、それでも、捨てられなかった。今回のことだけじゃない。きみには感謝しているんだ、心の底から。あの時、きみとあの浜に出会えていなかったら、僕はそもそもここにはいなかっただろうから」
ハイクは思わず、まじまじとフィデリオを見上げた。五年経っても背丈の差は健在だ。こちらを向いたフィデリオは、普段と変わりない苦笑を浮かべていた。
「正直に行こうと言ってくれただろう。誰も見ていないからいいんだ、って。あの言葉がどれだけ僕を楽にしたか、きみは知っているかなあ」
「……知ってるも何も、初めて聞いた」
「初めて話したからね。というか、こういう時じゃないと言えないから」
「そうか……ずぶとい奴だと思ってたけど、おまえ……けっこう繊細だったんだな」
「子どもの頃は、姉さんの後ろに隠れてばかりだったよ」
ジオンがこちらに手を振っている。すっかり慣れたらしく、反対側の手に砂トカゲを乗せていた。
「かわいい部下が呼んでるぞ、隊長」
「うん、そうだね。砂トカゲに名前でも付けたのかな」
フィデリオは朗らかに手を振り返して「今行くよ」と言うと、三人の元へと向かっていった。数歩遅れてハイクが後ろにつくと、フィデリオは顔だけをこちらに向けた。青い目が笑っている。
「本当は、果て越えにきみも引き抜きたいところではあるんだけれど」
「せっかくだけど、遠慮しとくよ。騎士団のお役目なんて、俺には荷が重すぎて務まらない」
「きみが嫌なのは鎧の重さのほうだろう。でも確かに、重すぎて飛べないのはいけないね。やっぱりきみ、大鷲に似てきたんじゃないのかい」
「そうか?」
「絶対そうだよ」
ふむと首を傾げ、長年使い込んだ愛銃に手を当てる。木と鋼の滑らかな感触に、鳥の羽を触っているような気分になった。大鷲の巨大な両翼に包まれ、いつだって魂は共にある。その様子を眺めていたフィデリオが、可笑しそうに首をすくめた。
世界の果てのような海のただ中で、空と地平を背負いながら。
「僕らは先に行っているから、きみ達はゆっくり飛んでくればいいよ」





(果ての浜(後))

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