魚の墓を抱いた
3月の海水は冷たかった。ジーンズの裾が水を吸って、ぐずぐずと重たく足にまとわりつく。寒い。冷たい。最初の頃感じていた痛みはいつの間にか消えていた。消えるほど長かった。忘れるほど進んだ。波を切るように水を蹴りながら、俺と彼女は歩いていく。無人の砂浜。靴はずっと前に捨てた。
「ありがとうね、ここまで一緒に来てくれて」
彼女は真っ白なワンピースを着ていた。俺よりも数歩先を歩いていた。今にも雪が降り出しそうな灰色の雲のした、真夏の恰好をした彼女はそれでも不思議とその場に馴染んでいて、むき出しの白い素足を波にさらして、水は馬鹿みたいに冷たいのに、彼女にとってはかえってそれが気持ちいいみたいだった。すすり泣くようなさざ波の音が何重にも重なって重なって膨らんで、それはある種の静寂に似ている。
「忘れないでね、海の泡には私が居るのよ。だからあなたは泡を見る度にきっと私を思い出すの。私は骨すら残らずに消えてしまうから、あなたの記憶の中に全部置いていくことにするわ」
「呪いみたいだな」
「そうかもね。だってこれは遺言なんだもの」
ああどうして彼女は悲しいことばかり言うのだろう。俺は彼女の言葉を聞く度に涙が溢れそうになってしまうのだけれど、男としてのちっぽけなプライドがそれを許すはずもなく、だから結局ぐっと眉間に皴を寄せ、唇を噛みしめることしかできなくなってしまうのだった。海がどれだけ芒洋と凪いでいようとも、その海面の下には凄まじい勢いで海流が流れていて、それはまるで俺たちの肌の下に血潮が流れているのと全く同じ現象であるように思えるのだけれども、しかしそれは海と人とが同じであるという証拠にはならないし、つまり彼女と俺が同じであるという理由にも、彼女が人魚であるという否定にも、彼女が泡にならないという保証にもなりはしない。覆ることもなく。何故ならこれは、約束された事象だからだ。
「どうしても戻っては来られないのか」
「ええ、駄目よ」
「なら俺も行く」
「馬鹿ね、駄目に決まってるでしょ」
くすくすと彼女が笑う。笑って首を横に振る。
「言ったでしょう。私は泡に還るの。泡っていうのは上へ上へと昇っていくものよ。だからあなたがこのままこっちに来て、波に溺れて沈んでしまったとしても、海の底には私は居ないの。居ないのよ」
ちいさな子どもに言い聞かせるように、彼女の両手が俺の両手を包んだ。温かく、ない。魚の温度。また泣きたくなる。あっという間に彼女は手を離した。俺の手が熱すぎて、触っていられなかったのかもしれない。ひとりでざぶざぶと水をかき分け、海の中に進んでいく。
「私の初恋の相手があなただったら良かったのにね」
彼女のその一言に、俺は限りない絶望を見る。けれども彼女は、跡形もなくこの世から消えていくことにこの上ない幸福を見るのだ。
その時点で、既に俺たちは違い過ぎている。
「ねえ」
たぶんこれで最後だ。続きは聞きたくなかった。俺は海水を蹴散らしながら黙って彼女の元まで歩み寄る。腰まで水に浸る。寒い、冷たい。腕を伸ばして抱きしめる。嫌だ嫌だと首を振る、泣きながら。腕の中で彼女が笑った。笑った気配だけが残された。
泡が消えた。風に昇った。ねえ、私は。私はね。
「あなたに会えて、とっても幸せだったのよ」
彼女の最期を、俺はきっと忘れない。
何故ならこれは呪いだから。約束された、人と魚の呪いだからだ。
(魚の墓を抱いた)