ふたえの針のさす方へ
ある朝のこと。絶滅都市ゼーブルからほど近い、とある切り立った崖の上。日の出と共に、突然機械仕掛けの巨大な塔がにょきりにょきりと生えてきた、という奇怪な話は、各地のトレジャーハンター達の間にもまたたく間に広がった。
当然だが、種から塔が芽吹いたわけではない。地底に隠されていた旧時代の遺物が、先に起こった地震で揺り起こされ、今になって立ち現れたということらしい。
ハイクが塔の話を聞きつけたのは、神殿での調査を終えた後に立ち寄った、ひなびた農村でのことだった。次に行く遺跡の目星をつけておこうと、依頼主との仲介を請け負う酒場に足を向けてみれば、掲示板に、塔の調査依頼が大きく張り出されていたのである。
通常、この手の遺跡が発見されると、まず初めにトレジャーハンター達の元に調査の依頼が下りてくる。王室や騎士団といった公の組織からの依頼もあれば、民間のギルドや組合からの依頼もあるが、請け負う仕事の内容だけを見れば、そこにさしたる違いはない。もちろん独自で目ぼしい遺跡を調べに行っても構わないのだが、“依頼書付き”には確実な報奨金が上乗せされるため、こちらを好むハンターも、割合に多い。
危険度の格付けは上級となっていた。魔獣が出る可能性が高いためだ。しげしげと依頼文を読み進めていたハイクに、すぐ横のテーブルから声がかかる。このあたりを縄張りとしている同業者達だ。
「やめとけ、ルドラ。そいつは一人じゃちと荷が重いぞ」
「そういうそっちは? 受けるのか?」
「どうすっかな。このとおり、まだ会議中なもんでね」
そう言って虎の毛皮を着た男は麦酒の瓶を掲げ、黄色い歯を見せてにんまりと笑った。まだ真っ昼間だが、ハンター達の間ではよく見られる光景だ。ハイクは肩をすくめ、再び依頼を一瞥した。巷では、ハンターは命知らずだ、蛮勇だ、などと言われるが、それは大いなる勘違いだ。トレジャーハンターは、危険を察知する嗅覚と、それらを回避するための極めて高い洞察力をあわせ持っている。確実な勝ち筋を見出せないのであればどれだけ高額な依頼であっても手を出さない、というのは当然の常識であり、それはハイクも、もちろん目の前の彼らとて心得ているところだ。
依頼書には、“最上部への到達及び塔内構造の全容把握”とあった。これが達成条件ということだろう。
単純だが、至難だ。特に後半、これが厄介だった。ハイクは男に尋ねた。
「全容把握ってことは、見取り図を起こさないといけないのか」
「ああ。それもただの見取り図じゃ駄目だ。構造の把握だからな。ひととおり探索し終えたあとで、建築屋と図面屋にも入って貰わにゃならん」
「そこまでする必要がある遺跡か? 王室からの依頼だろ、これ」
「お國が考えなさることなんて、学の無い俺らにゃ分からんさ」
男は瓶の中身の半分ほどを豪快に飲み干し、眉間に皴を寄せた。
「建築屋と図面屋の伝手はあるんだ。だがそれにしたって、塔の中身がまったく読めんから、手が出せねえ。せめてどっかに文献でも残ってないかと思って探してみたんだが、これも見つからねえ」
「なら逆に、大枠さえ分かればいけるってことか」
「そうだなあ。最上部までの道と、罠の有無と、出そうな魔獣の種類まで割り出せりゃあ上出来なんだが……おい、おまえ、ひょっとして」
男は軽く目を見開き、ハイクを見上げた。いつの間にか、卓を囲む他の者もハイク達のやり取りに注目している。ハイクは口角を上げ、男達を見返した。
「悪くないだろ? 一番槍は貰うけど、あとは全部あんた達がやってくれよ」
「やけに自信たっぷりだな」
「そりゃあ、機械仕掛けの塔、だからな」
「あ、そうか。おまえの“借り物の力”か」
「そういうこと」
男は酒瓶を机に置いた。酔っ払いが一転、一家の纏め役の顔になる。
「報奨金は」
「そっちに七割」
「見つけた宝は」
「早い者勝ち?」
「……よし、乗った。しっかり下調べして来い」
「出涸らしだけ残しといてやるよ」
軽口を叩いて、にやりと笑い合う。いつの間に注文していたのか、酒場の女給がハイクの分の麦酒と料理を運んできていた。にわかに活気づいた宴会に混ざり、掲示板から依頼書を引っぺがし、その場で署名と手続きを済ませて、その後の支度は早かった。
*
彼らから借りた気球を操り、二日後には、ハイクはゼーブルの地を踏み、塔の前へとやって来ていた。霧が深く、視界の悪いこの土地に、なぜこんな物を造ったのだろう。上方に目を凝らすと、辛うじて霞の奥に丸い文字盤が見て取れた。長さの違う二本の針は、今も正確な時刻を刻み続けている。
塔は、巨大な時計台だった。
狭い入り口をくぐって中に入るなり、目の前に細い石段が伸びていた。らせん状のその石段は壁に沿って上階へと続いており、見かけの大きさに反して手狭な造りだな、というのが第一印象だった。機械類が面積の大半を占めているのだろう。息を吸った瞬間、むせ返るような錆びた鉄のにおいが鼻孔をついて、ハイクは思わず腕で鼻を覆った。独特の血生臭さが、濃度の高い酒のように肺から全身に回っていくのが分かる。ゼーブルとその周辺に、人体に有害な霧が発生するのは珍しいことではないため、あらかじめ中和剤を飲んで手を打っていたのだが、ここの霧には効果が薄いらしい。なるべく息を大きく吸わないようにしながら、ハイクは階段を上っていった。塔は全くの閉鎖空間というわけでもなく、壁面にはぽつぽつと空気孔が空いてはいるが、換気には不十分な大きさだ。ハイクは穴から外を覗いた。しかし、塔の外は濃い霧で覆われ、現在の高さはおろか、長く居ると時間の感覚すらも失いそうだった。
空気孔を五つほど数えた所で、次の階層への扉に当たった。ドアノブに手を添え、耳を澄ますと、ごうん、ごうん、と、金属質で規則的な音がする。木扉を押し開けると、さして広くもない部屋には大小さまざまな歯車達がひしめき合い、お互い複雑に噛み合いながら回っていた。動力部屋のようだ。部屋に入ろうとした矢先、頭の中で、鋭い声が極北に吹く風のように響き渡った。ハイクの魂に住んでいる、大鷲の声だ。
「ハイク、居るぞ。右の奥だ」
ハイクは踏み出しかけた足を止め、言われた方向に目を凝らし、歯車の奥で蠢く影を見つけると、次の瞬間には扉の裏に身を隠していた。広くない部屋だ。見つかったら銃を抜く暇も無い。
そこから数秒と間を置かず、敵は姿を現した。ハイクは息を殺し、物陰に張り付いたまま魔獣の様子を伺った。小型な部類だ。数は一、おそらく元は犬だったのだろう。大きな耳と長い鼻、むき出しの牙からよだれがだらだらと垂れ、床に滴っている。骨ばかりが浮かび、皮が垂れ下がる首に鎖の輪がかけられているということは、かつては番犬として飼われていたのかもしれない。主を失った忠犬が、飢えと絶望から魔獣に姿を変えてしまうというのは、よくある悲しい話だった。
ハイクは迷わず腰の銃に手をかけた。魔獣は人の敵だ。救う手立てはなく、対峙すれば殺すしかない。最後に祈りの歌の一つでも歌ってやりたい所だが、どんな曲を選んだところで、もうあの魔獣には聞こえない。ハイクは音を立てずに銃を抜き、淀みなく安全装置を外した。目を閉じる。両手の感覚を総動員して、銃の重みを受け入れ、息を吐き出し、部屋の空気に全身を馴染ませていくと、だんだんと神経が研ぎ澄まされ、銃と、指先と、頭が、一本の線でまっすぐに繫がるようになる。
一発で、必ず撃ち抜く。ハイクは瞼を開いた。相手の額の中央にねらいを定めると、空中に一筋の弾の軌道が見えてくる。感覚の話ではなく、実際に白く光る直線が、視界に浮かび上がってくるのだ。そしてこれこそが、ハイクの “借りものの力”だった。人なら誰しもが持っている、一人に一つ、世界のあらゆる物から力を借りる力のことである。火の力を借りる者、水の力を借りる者、その種類は様々だが、ハイクの場合、その対象は金属だった。ハイクが呼びかければ、銃の鋼、弾丸の鉛が、己の扱い方を教えてくれるのだ。
ところが、いざ引き金を引こうとした瞬間、再び大鷲の声が響いて、ハイクは引き金に掛けた指をとめた。
「殺すのか」
銃を構えたまま、ハイクは頷いた。
「後が控えてるんだ。危険は絶っておく」
「そうか。まあ、そちらの方が確実か」
「……どういう意味だ?」
「いや。おまえ、あれに歌を聞かせてやりたい、と思っただろう。試さないのかと思ってな。うまくいけば、間に合うだろうから」
「間に合う?」
「あれはまだ、完全に魔獣へ転じたわけではない。だから、今ならまだ、音楽を解することもできるだろう。うまくいけば大人しくさせられるかもしれない」
静かに目を見開く。確信はあるのか、と問えば、出口の側を見てみろ、と大鷲は言った。目を向けると扉の側の床が一段高くなっていて、隅に、ぼろになった毛布が敷かれている。どうやら昔の寝床が残っているらしい。
そして、その布の上にある物を、ハイクは見つけた。小さな楽器だ。壊れてはいるが、ひと目で楽器と分かる特徴的な形だ。湾曲した弓のような躯体に、弦の名残が数本絡みついている。琴か、と呟くと、大鷲が頷いた。
「そうだ。あそこまで大事にされているということは、主との所縁の品だろうな」
ハイクはじっと、白目の無い魔獣の瞳を見つめた。
まだ届くのだろうか。人の声が、あの魔獣に。
ハイクは迷った。だが、当のハイクよりも大鷲のほうが、余程ハイクがどうしたいかを熟知しているようだった。鎮魂歌より、子守歌がいいだろう。大鷲が呟いて、ハイクはついに腹を決め、銃を下ろすと、いつでも撃てる体勢を保ったまま、その場に慎重に立ち上がった。
深く息を吸い、声帯を震わせる。ハイクが選んだのは三拍子の短い曲だった。
あけのひかり ともしびよ
名もなき夜に ぬくもりを
名もなきわたしに ゆくすえを
ハイクの姿を認めた魔獣は、背中の毛を逆立て、爪をむき出しにしてけたたましくがなり始めた。すぐさま飛び掛かってくる様子ではない。じりじりと横にずれ、一定の距離を維持しながら、辛抱強くハイクは同じ歌を繰り返した。淀んだ空気を深く吸い、徐々に肺が痛み始めていたが、ここで声を途切れさせてはいけない。三周繰り返したところで、魔獣は吠えるのをやめた。その黒い瞳から目を逸らさず、ハイクはひたすら同じ旋律を刻んでいく。体が熱い。顎の先から汗が落ち、背筋に悪寒が這いのぼる。魔獣は低く唸りながら、少しずつハイクとの距離を詰めてくる。逃げるか、と一度だけ大鷲が聞いたが、ハイクは慎重にその場に膝をついた。
手を伸ばせば届く位置まで魔獣が迫ってきたところで、最後の音を収束させた。歯車が軋む音だけが、余韻の代わりに互いの間を漂っていく。
ふいに魔獣が動いた。べろん、と、頬に暖かく湿った感触が広がる。大きな舌で顔を舐められたのだ。獣はその黒目を穏やかに瞬かせると、甘えた声で喉を鳴らし、ハイクの胸に頭を擦り付けた。試しに耳の裏を掻いてやると、魔獣はもっと撫でろと言わんばかりに体全体を押しつけてくる。
「おい、待てって。分かった、分かったからそんなに舐めるな。べろべろになっちまう」
届いたようだ。こうなるとそこらの犬と変わらない。毛のこそばゆさと、動物に特有の息の臭さに、ハイクの口からは、気付けば笑い声が漏れていた。
*
身体が魔獣に転じても魂までは黄昏に呑まれない者が、至極稀ではあるが、確かに一定数は存在する。ハイクはまだ目にしたことはないが、魔獣遣いという職もあるくらいだ。彼らは魔獣と心を通じ合わせるために特殊な笛を使うことがあると聞くが、この犬の魔獣の場合は、幸運にもハイクの歌が、その代わりを為したらしい。嘘のように大人しくなった魔獣は、ハイクにじゃれつくのに満足すると、そのまま自分の寝床へと踵を返していった。番犬の仕事から降りる気はないようだ。ハイクの頭に、酒場に置いてきた顔ぶれが浮かぶ。武闘派と名高い、全身筋肉の塊のような男達が、犬の前で四苦八苦しながら歌を合唱しなければならないというのは気の毒ではあるが、どう考えても面白さのほうが勝っている。こいつのことは教えないでおこう。ハイクは密かに心に誓った。寝床に収まり、すっかり寛いだ様子の魔獣に、二番手以降はお手柔らかに、と言ってみる。魔獣は「仕方ないな」とでもいうようにふすふすと鼻を鳴らして、尻尾を一度だけぱたりと振ってみせた。波乱の審査になりそうだ。
ハイクは魔獣の頭を一撫ですると、その脇を通り、部屋を出た。
先には再びらせん階段が伸びていた。淀んだ空気は上層に行くほどに薄まっていき、しばらく足を動かしていると、刺すようだった肺の痛みも次第に和らいでいくようだ。大鷲は疲れて眠たくなったのか、大きなあくびを一つすると、再びハイクの魂の奥底へとひっこんでいった。この調子では、しばらく起きることはないだろう。
あけのひかり、ともしびよ。上機嫌に先の歌を口ずさみながら、ハイクは階段を上り続けていた。
しかし、予期せぬ事件というのは、大概にしてこうした時に起こるものだ。
「——あの、聞こえますか?」
驚いて思わず音が半音上がった。聞き間違いにしてはあまりにもはっきりと、少女の声が響いたからだ。かなり近い。どこからだ。前か後ろか。素早く銃に手を添える。ごく少数だが、人語を操る魔獣も居る。
「横だ」
今度は男の声がした。どうなっているのだろう。あたかもこちらの戸惑いを見透かしているかのような言葉だ。さっと内側の壁に視線を走らせると、天井近くに一か所だけ、外側のものと同じ正方形の孔が空いていた。少女の声が、そこから再び流れ込んでくる。王都の喧噪の中でもよく響きそうな、耳に心地のよい声だった。
「すみません、驚かせてしまって。ですが、先程と同じ歌声が聞こえて、つい」
声は慌てたようにそう付け加えたが、焦ってはおらず、喋り方にもまだ余裕があった。迷い込んだ様子ではない。ならば同業者だろうか。盗賊かもしれない。ハイクは唇を舐め、慎重に口を開いた。敵意は感じないが、姿が見えない以上は警戒すべきだ。塔の罠という可能性も残っている。
「ああ、驚いたよ。てっきりここには、俺が一番乗りだと思ってたんだが、まさか先客が居たなんてな」
まあ、客なのか、客を迎える側なのかは、知らないけど。わざとそう付け足すと、少女は何か言いかけたようだったが、それを遮るようにして落ち着いた男の声が響いた。壁に近寄ったのか、いくらか声が聞き取りやすい。
「安心しろ、信用する気がないのはこちらも同じだ。そうだな……俺はウルグ、もう一人はルーミ。こんな状況で、他に知らねばならないことも無い、そうだな?」
「まあ、ウルグ、そんな言い方はどうかと思います」
「得体の知れない相手に遠慮してどうする」
男はつまらなさそうに鼻を鳴らした。ぶっきらぼうだが、ずいぶんと明朗で、分かりやすい物言いをする。こちらの挑発に熱くなることもなく、冷静さを崩さない。遺跡に居るにしては珍しい人種だ。人、と見て、まず間違いはないだろう。少女の方も、口調に荒さがまるで無い。この礼儀正しさもまた、ハンターや冒険家の間では稀だった。
面白い奴らに出くわしたな、ハイクは純粋にそう思った。壁の向こうに居る、顔の見えない二つの声。しかもその声の片割れは、名前だけ分かればよい、などと言ってくる。シンプルなものは好きだ。ハイクは笑い混じりに、明るく言った。
「ならこっちも遠慮しないけど、いいよな。俺はハイク・ルドラだ。歌が聞こえてたんなら、さっきの部屋でも、あんた達はこんな風にして壁の向こうに居たってことなのか」
はい、と返事をしたのは、ルーミと名乗った少女の方だ。やはり、いい声だ。歌は歌わないのだろうか。
「あの時わたし達は、部屋を守っていた魔獣と戦おうとしていました。そうしたら、突然歌が聞こえきて、たちまち魔獣が大人しくなっていったんです。あの、あなたの歌にはそのような術が?」
「いや、ただの子守歌さ。相手が相手だったから通用した手だな」
「では、はじめから、彼らが黄昏に呑まれきっていないと気付いて?」
見えない大鷲が教えてくれた、とは言えない。
「ただの勘さ。でも、お陰でこっちもそっちもあいつらを殺さずに済んだってんだから、賭けてみた甲斐もあったよな。いやあ、上手くいって良かった良かった」
けらけら笑っていると、ウルグが疲れたようなため息を漏らした。
「命を賭けた直後の台詞がそれか? ずいぶん軽い命だな」
「重いから背負いたくないんだよ。分かるだろ」
笑いかけると、ウルグも息だけで笑ったようだ。呆れたのかもしれない。今にして思えば、それは彼にしてはかなり珍しい反応だった。皮肉っぽく一度だけ鼻を鳴らすのが、この男のやり方らしい。あの時は本当に驚いたんですよと、ルーミが言った。
「あなたもこの塔の上を目指しているのでしょう。合流できれば良かったのですが」
「できないのか?」
「はい、おそらくは、そのように造られているのではないかと」
どういうことだろうか。後を引き継ぐようにウルグが続けた。
「二重らせんだ。つまり、こちらとそちらで、道がそれぞれ独立しているのではないか、ということだ。おい、おまえが塔に入った時、上の時計は何時を指していた」
「十一の刻を回ったあたりだったかな」
「なら、こちらも大体同じだ。それなのに一度も互いの影すら見ていないというのなら、そもそも入り口も経路も全く別のものがあると考えるべきだろう」
ウルグによると、かわたれの時代に建築された塔の中には、侵入してきた敵を欺くため、あえてそのような構造を取るものがあったらしい。塔の中に鏡映しの二本の道が巻き付いていて、それらの道は今のように交差することはあるが、決して繋がることはなく、それぞれ最上階まで続いている、という訳だ。
ウルグの説明を聞きながら、ハイクはゆっくりと壁に背中を預けた。まだ出会ったとも言えないような相手だが、不思議と二人を疑おうという気が徐々に霧散していくのを感じている。壁に寄りかかったまま、上の小さな空気孔を見上げると、四角く空いた隙間から、こちら側にあるのとそっくり同じ幾何学的な天井の模様が見て取れた。
「なら、俺もあんた達も、このまま昇っていくしかない訳だな」
「そういうことだ。……にしても、残念だな」
「何が?」
「おまえがどんな間抜けな面をしているのか、頂上に着くまで拝めないだろう」
「ふふん、驚くなよ。絶世の美男子だぞ」
「たかが知れているな」
もう一度鼻を鳴らして、ウルグは先に歩き始めたようだ。足音がハイクの背の方へと遠ざかっていく。鏡映しゆえに、階段の向きも逆になっているのだろう。数拍遅れて、ルーミの声が凛と響いた。
「それでは、またのちほど。お気を付けて」
「ああ、そっちもな」
ところが、結論から言うと、その後の行程は一筋縄ではいかなかった。階段の先は再び歯車だらけの部屋へと通じていたのだが、その部屋よりも上にあった五つの部屋のすべてにおいて、番犬よりも厄介な、趣向を凝らした多彩な罠が待ち構えていたからだ。塔の設計者は、余程他人にここを上られるのを嫌ったと見える。仕掛けの随所から、通してなるものかという強い執念が滲み出ているようだった。向こうとこちらで鎖を同時に引かないと開かない鉄格子や、飛び出す毒矢、落とし穴等々、機械類の隙間にそういったものがみっちりと仕込まれていて、仕込まれる側としては、辟易する者と、対抗心に油を注がれる者が居るのだろうが、ハイクは後者だった。ルーミとウルグも同じ性質のような気がする。一度、意図のよく分からない鎖が天井から垂れていたので、好奇心で引いてみると、隣の部屋がにわかに騒がしくなった。次いで滝のような水音が聞こえて、慌ててもう一度鎖を引っぱると、水音は止まった。すまん、俺だ、と謝ったのは良いが、笑っているのが筒抜けだったようで、ウルグにごつんと壁を殴られた。思いのほか厚みの無い壁だったらしい。
そうしてどうにか四つの部屋を抜けたところまでは良かったが、最後、五つ目の部屋に、またしても難所が待っていた。
巨大な鉄の扉である。しかし、取手がなく、それどころか、周囲を探ってみても、開閉装置が見当たらない。「そっちから開かないか」と、例によってハイクは側壁の空気孔に呼びかけた。すぐに、いいえ、駄目です、とルーミの声が返ってくる。
「こちら側にも、それらしい装置はないようです。どこかに隠されているのでしょうか?」
ふと反対側の側壁を見ると、そちらの空気孔からは西日が射し込み始めていた。高所のためか、霧も晴れている。四角に切り取られた細長い光の柱が、等間隔に部屋の中に斜めに落ちてきて、その中で、細かな塵がきらきらと踊っていた。夢中で歩を進めているうちに、半日近く経っていたのだ。探索の進行度合いによっては、ここで夜を明かさねばならないかもしれない。
「少し探ってみる」
ルーミ達にそう言うと、ハイクは扉に手をあて、集中した。ゆっくりと扉全体に意識を広げていく途中で、ハイクは眉間に皴を寄せた。扉の先に何も無い。つまり、偽の出口だ。なら本物はどこにあるのだろうかと、ハイクは更に意識を先へ先へと潜り込ませていった。偽の扉から繋がっている歯車、絡繰りを順番に辿っていくと、次第にそれらの機械が、部屋を包み込むようにして張り巡らされているのが分かってくる。部屋の全体を把握した瞬間、ハイクは弾かれたように目を開き、顔を上げた。
「分かった。ここが最上階だ」
「なんだと?」
ウルグの声を聞き終わらないうちに、ハイクは駆け出していた。先の四つの部屋と同じく、この部屋でもいくつもの歯車の塊が稼働し続けているが、その中の一部に、時計塔を動かす他の機構とは全く独立して動いている一群があったのだ。機械類をすり抜け、部屋のほぼ中央に位置するその一連の装置に走り寄り、床を調べ、そして、見つけた。石畳に見せかけた制御盤の蓋だ。開けてみればわけもない、古代語で開と閉と表記された、二つのボタンがあるだけだった。ハイクは迷わず、開と書かれた方のボタンを押した。
するとたちまち、じゃらじゃらと鎖が巻き上がる音が響き渡り、驚くべきことに、左手側の壁が少しずつ下がり始め、向こう側から夕焼け空が顔を出した。薄暗かった部屋に眩しい夕日が射し込んでくる。下がる壁の奥にあったのは、塔に入る時に目にしたあの巨大な文字盤だ。同時に、文字盤の対面にある、ウルグ達の部屋に繋がる仕切り壁も次第に下がっていくのを見て、ハイクはそっと息をついた。操作するのは、こちらのボタンだけで事足りるらしい。これでルーミ達とも合流できそうだ。
しかし、油断して注意を逸らしたのは失策だった。背後で、ばきん、と、鎖が千切れる音がした。
振り向いた時には遅かった。支えを失った壁が崩れ、こちらに倒れ掛かって来たのだ。元々限界が近かったのだろう、崩落はあっという間だった。
「……冗談だろ」
小声で毒づき、ハイクは素早く周囲を見回した。走って入り口まで戻るか、いや、間に合わない。なら、歯車の下に潜りこめるか。逆に瓦礫の下敷きになるだろうか。あるいは後ろの隔壁を乗り越えて、向こうの部屋へ逃げられるか。あれは跳躍が届く高さか。
どうする、どうする。雪崩れてくる瓦礫を見上げた瞬間。背後で強い風がいななき、次いで、数発の光球がハイクの頭上を凄まじい速さで飛び越えていった。暴風が瓦礫の崩落を押しとどめ、そこに光球がぶつかり、破裂し、膨大な光と熱が一気に膨らんで、壁を後ろの硝子の文字盤ごと粉々に吹き飛ばしていく。
ハイクはしばし唖然としていた。明らかに借り物の力と思しき風と、何らかの術と思われる光球を撃てる人間は直感的に分かっているのだが、すべてが一瞬のうちに片付いてしまったため、反応が追いついていかなかったのだ。もうもうと上がる土煙の中、やっとのことで背後を振り返る。二つの影。彼らの顔は、逆光でよく見えなかった。
「やはり間抜け面だったな」
覚えのある男の声だ。そのすぐ傍には、抜き身の剣を持った少女が立っている。
「もう、ウルグ、先に確かめることがあるでしょう」
少女は剣を鞘に戻すと、ようやく下がり切った隔壁を越え、ハイクに駆け寄って、「お怪我はありませんか」と心配そうに首を傾げた。
「早く助けなければと、乱暴な手を使ってしまいました。かえって余計な怪我などは……あの、ハイクさん? どうして笑っているのでしょう?」
ルーミが両目をぱちぱちと瞬かせたので、ハイクはとうとう吹き出した。堪えていたがもう限界だ。
「ふっ、ふふ、あっははは」
この二人と居ると、不思議と笑ってばかりいるようだ。目尻に滲んだ涙を拭い、目の前の二人を見やった。
「なんていうか、なあ、あんた達、いいよな。すごくいい」
ルーミの側に歩み寄ったウルグが、憮然とした顔で言った。
「助けない方が良かったか」
「いいや、助かった。ありがとう」
素直に礼を言ったので、ウルグは驚いたようだ。その落ち着いた気配や抑揚の少ない口調から、何となく暗い色を連想していたのだが、その男は本当に体に黒を纏っていた。夜色の髪と浅黒い肌に、白のローブがよく映える。わたし達の方こそ、お礼を言わねばなりません。清々しい声を発した少女は、男とは反対に色素の薄い外見をしていた。短く揃った薄緑の髪と、色白の肌、銀の瞳である。男の黒が夜であるなら、彼女の持つ色彩は、日が沈む直前の、淡く滲んだ空のようだった。
ルーミは背筋を伸ばすと、改まってハイクに向き直った。思わずこちらも姿勢を正す。彼女が話をするだけで、不思議と部屋の埃っぽさが減っていくようだった。
「わたしはルーミ・アッティラ。こちらが」
「……ウルグ・グリッツェンだ」
ウルグの方は、ルーミに促されて渋々、といった調子だ。ルーミはどこか嬉しそうにそれを眺め、目を細めると、にっこりと笑ってハイクを見上げた。
初めまして、ですね。ハイク・ルドラさん」
*
手分けして部屋を調べ、ルーミとウルグは隅の棚から一冊の手記を、ハイクは壁に掛かっていた金色のゼンマイを見つけた。上まで上った証拠が必要だからとハイクが申し出ると、ルーミは快くハイクに手記を手渡した。
塔の最上階は、すっかり橙色に染まっていた。夕日を吸って膨らんだ空気はかすかな熱気をはらみ、その中に体を浸していると、温かい湯の底に沈んでいるような心地になってくる。文字盤に空けられた大穴から入りこんでくる風が心地よい。どちらの入り口から見ても正面に見えるよう、文字盤は塔の両面に付けられていたらしい。ハイクの側は壊れてしまったが、もう一方は健在だった。きらめく薄い硝子の手前で、丸く並んだ十二の古代文字の上を、機械仕掛けの二本の針が、ゆっくりと、時代の経過を感じさせない滑らかさで動いていく。巨大なそれらの影が透け、複雑な模様を描いた黒い文字盤が、そのままの恰好で、部屋とハイク達に覆い被さってくる。
長針と短針は、同じ場所を回っていても、決して交わることはない。それは、自分達が歩いてきた二重らせんの道程を暗示しているようにも思えた。すれ違うのはほんの一瞬で、触れ合いはわずか、すぐに別れてまた進む。繰り返し。なぜなら、自分達は全く別個の人間だからだ。ウルグとも、ルーミとも、あの犬の魔獣とも、同じ場所に立つことはあれど、同じ針に乗ることはなく、それでも同じ盤の上を、それぞれの速度で進むしかない。
ハイクの手の中のゼンマイを覗き込んで、ルーミが不思議そうに尋ねた。
「このゼンマイ、一体どこの物なのでしょう」
「ああ、そういえばまだ見てなかったな」
「見る?」
「そういう力なんだ、俺のはな」
ハイクはルーミに片目を瞑ってみせると、ゼンマイを握りこみ、集中した。おまえは誰だ。なんのために造られた。念じると、瞼の裏に一つの光景が浮かび上がってくる。ハイクは目を開け、天井のさらに向こう側を仰いだ。ああ、そこか。呟いて、今度は視線を壊れていないほうの文字盤へと移す。
「……見つけた。こっちだ」
ハイクは自身の長い影を引っ張りながら、文字盤の真下に歩を進めた。十二あるうちの六番目の文字。真鍮製の巨大な数字の中央に、小さな丸い穴があった。ゼンマイを差し込み、回していく。一回、二回、三回。
四回目で音が変わった。頭上で、かちゃんと鍵が外れたような音が響く。顔を上げ、ハイクは待った。
長針が回り、真上を指した。短針が回り、真下を指した。
緋色の部屋に、鐘の音が大きく鳴り響いた。ルーミは驚いて、ウルグは何かを察したように、それぞれ目線を上に向けた。
「成る程な。屋上にある時告げの鐘が、まだ生きていたのか」
「そういうこと」
ハイク達はしばらくの間、だまって鐘の音に耳を傾けていた。音が止み、再び部屋に雪のような沈黙が下りてくる。短く息を吐き、ハイクは立ち上がった。
「そういやずっと不思議だったんだが、あんた達、一体どんな関係なんだ?」
正直に言って話題はなんでも良かったが、どうしてか彼らとは、ここで言葉を交わしておかなければならないような気がした。気になっていた疑問を咄嗟に口に出すと、ルーミは口を開いたが、彼女が何か言うよりも早くウルグが「俺は保護者だ」と断言したものだから、ルーミは「もう、また」と、顔を微かに赤くした。ルーミからふいと顔を背けたウルグの手には、いつの間にか煙草が握られ、白い煙をくゆらせている。仕返しとばかりに、ルーミの白い指がぱっと煙草を奪った。
「……返せ」
「だめです。身体に悪いと、いつも言っているでしょう」
そう言って腰に手を当てた少女は、心なしか弟を叱る姉のようである。ハイクはにやりと笑った。
「保護者ねえ」
「煩いぞ」
ウルグの眉間に深々と皺が寄った。煙草について言い争いを始めた二人の声を聞きながら、ハイクはルーミに消された後のシガレットの煙が赤い斜陽を伝ってゆったりと上昇していくのを、ぼんやりと眺めた。この國の夕暮れが美しいというのは、唄の題材にすらならないほどに有名で、自虐的な話だ。
落日だ。ある種の凶悪さすら滲ませる真っ赤な太陽が、回る針の向こう側で、ぽっかりと口を空けている。ぼそりとハイクは尋ねた。
「逃げないのかい、お二人さん」
「いいえ。わたし達はあちらに用があるのです」
黄昏の謎を追って旅をしているのだと、少女は毅然と続けた。彼女の纏う色を、ハイクは最初こそ夕暮れ時の色だと思っていたが、違っていたらしい。これはきっと朝焼けの色なのだろう。射し込む夕陽を吸い込む黒の男と、光を受けて、いっそう輝きを増す少女。こうして並び立つウルグとルーミに、ある種の必然さを感じるのはなぜだろうか。
「黄昏の謎、ねえ。若いのにずいぶんと殊勝なことを考えなさる」
「ええ、お互いに」
「おやおや、これはまた、良い目をお持ちで」
ハイクは悪戯っぽく笑って、俺はただの貧乏なトレジャーハンターさ、と付け加えた。
「そんなに歌がお上手なのに?」
「踊りもできるぞ」
ブーツの踵で石床を軽く打ち、指をぱちりと鳴らし、その場で優雅なターンを決めて一礼してみせる。「試してみるかい、お嬢さん」と手を差し出すと、ルーミは口に手を当てて可笑しそうにころころと笑った。それに合わせて、頭の赤いリボンが揺れる。ウルグが低い声でハイクを睨んだ。
「……ふざけるのはそのあたりにしておけ。ここは酒場じゃないんだぞ」
「おっと、失礼。旦那様のご命令とあっちゃあ、従わなくちゃな」
「誰が旦那様だ。胡散臭いハンターなど雇った覚えはない」
なるほど、なるほど。ハイクは内心で頷いた。この手の話は深追いしない方がよろしい。
「つんけんしてばっかりの男は嫌われるぞ」
「なんだと?」
「だから、そういうとこがだよ」
「あら、二人とも、喧嘩はいけませんよ。それに二人だけ仲良くなるのはずるいです」
どこか拗ねたようにルーミが言うので、ハイクは笑って肩をすくめた。
「心配しなくても、帰りにたっぷりお喋りできるさ。紅茶が無いのは残念だけどな」
お互いに、どこの誰とも知らない間柄だ。正直、この二人とはこれきりだろうな、と、この時のハイクは考えていたのだが、どんな因果か、この先も彼らとの交流は続いていくことになる。黄昏という共通の敵によって、自分達は、自分達が思うよりもずっと深く繋がっていたようだ。
國王すらもその果てを知らないと言われる広大なこの國で、人々はすれ違う。長針と短針が永遠にぶつからないのと同じように、交差はすれど、交わることは消してない。しかし、ひとたび針が重なってしまったのならば、出会ってしまったのならば、二度と他者には戻れない。これもまた事実だ。交差してしまったから、無関係ではいられない。それは多分、とても幸福なことなのだろう。
そんな経緯があって、旅先の遺跡で彼らに出くわす度に、ハイクはいつも、この時眺めた、大きな文字盤を思い出す。
(ふたえの針のさす方へ)
!ルーミ・アッティラさんとウルグ・グリッツェンさん(@Hello_my_planet)をお借りしました