ある奏者の物語

 壇上に躍り出たその人に、僕は一瞬で心を奪われた。ドレスの白が極彩色のステージライトをスクリーンのように映し取り、目まぐるしく七色に変化していく。花びらを模したレースの生地と流れるブロンドの髪が、ステップを踏む彼女の軌道に光の尾を引いた。完成された微笑。どしゃ降りの雨のように降ってくる、顔も知らない人々の喝采と口笛。ピアノの鋭い音色がきらきらきらと鼓膜を貫く。少し痛い。ちかちかして眩しくて、一番眩しいのは踊っている彼女じゃないのかと思うのだけど、きっと彼女はそんなスポットライトなんて飽きる程浴びてきているのだろうから、今更なんとも思わないのかもしれない。
 人には誰にでも、生まれた時から踊るべきステージと演目が課せられていて、僕たちはいつだって、手の中の台本と自分の立ち位置を見比べ、慎重に、時には大胆に、他人のことを避けながら、死ぬまでくるくると回っていかないといけないんだって、昔物乞いのおばあさんが教えてくれた。その言葉は今でもちゃんと僕の根底に息づいていて、だから僕は今日も、魅力的な舞台から無理矢理視線を引っぺがし、息を殺して、拍手に夢中になっている客の尻に突っ込まれた財布から、数枚の紙幣を抜き取っていく。嫌になるよね。けれどもこれが、今の僕が選べる中で一番ましな立ち回り方だった。
 街で一番大きな劇場。それが今夜の舞台。僕なんかじゃ一生掛かっても手が届かない量の金貨が、ここではチョコレートよりもあっさりと溶けていく。仕事はとても楽だった。彼女のおかげで全員舞台に釘付けだったから。ステージをしっかり最後まで見届けてから、僕はいつもどうり、ゴミの回収の業者のふりをして裏口から外に出る。向こうはこちらに目もくれないから、出入りは自由だ。今日の稼ぎをまるごとつぎ込めば、彼女のチケットを買えるかもしれない。そう思うと何だかいい気分になった。万華鏡のような舞台を眺めていたせいで、やかましい装飾過多のネオンサインでさえ今は優しく感じる。人工の昼に追いやられた夜の闇が集まる、摩天楼の一番深い場所。臭くて不潔で不衛生で、人の命がチケットよりもうんと安値で売り買いされるこの路地裏が、言うなれば僕のステージだった。
 だから、すぐに気付いた。そんな影のような路地の、さらに影に居てもなお、漏れだしてきた光のにおい。本来ここにあるべきではない、痛いくらいのスポットライトの気配に。
 慣れた路地に入ってまず目に飛び込んできたのは、ネオンサインの残滓に照らされた、一人の女の子の姿だった。
 ひと目であの子だと分かった。鼻歌を歌いながら、彼女はくるくると回っている。あの劇場に流れていた曲とおんなじだ。けれど、夜露に濡れてきらきら光るスケート・リンクのような路面の上を、滑らかに舞い踊る彼女の姿は、あの極彩色のステージで見たときよりも、ずっとずっときれいだった。
「ここで何をしているの」
 気付いた時には、彼女の手を掴んでいた。彼女はとても驚いたようだったが、それは僕も同じだ。間近で見た顔は思ったよりも若い。僕と同じくらいかもしれない。地味な色の外套の下に、あの花のような白いドレスが覗いていた。
「あら、あなた」
 ふと、彼女は何かに気付いたようだった。悪戯っぽく笑い、優美な動作で僕を指差す。
「さっきあたしのステージに居た泥棒さんじゃない」
 見られていたのだろうか。けれど、警官を呼ばれる気配もない。上手い返事が思い浮かばず、咄嗟に「きみの食いぶちを減らしちゃったかな」と言うと、少女はちょっと目を見開いたあと、くるんと回ってけらけら笑った。ずいぶん印象が違う。なんだか夢を見ているような気分だ。
「へっちゃらよ! そのくらいじゃあ傷付きっこないわ、あたしもあの人達もね。ああそうだ、ねえ、あなたオルゴールを見た事はある?」
 馴染みはないが、一度だけ盗んだことがあった。ねじを巻くと、短い曲に合わせて人形がくるくると回るのだ。だまって頷くと、「どう思う?」とさらに聞かれる。つまり、オルゴールを見てどう思ったかってことかな。芸術に疎い僕は、昨日までなら、高値で売れる、と答えたのだろうけれど、今はちょっと違う。怒るだろうかと思いながらも、僕は正直に答えた。なんとなくそうしなければならないような気がした。
「少しきみに似ている」
 僕の返事を聞いたとたん、彼女がそれは嬉しそうに顔を綻ばせたから、心臓がどこりと変な動き方をした。「やっぱりあたしは間違ってなかったんだわ!」と、今度は僕の手を掴んでくるくると回る。想像とは反対の、咲き誇る花の笑顔。
「実はあたしね、あの劇団から逃げてきちゃったの。人の手の上でくるくる回るなんてもううんざり。あたしは綺麗でいたいけれど、オルゴールには成りたくないの。絶対よ。あたしはあたしの足で、好きなように踊るんだから!」
 あまりに晴れやかな顔だった。くるくる回って眩暈がする。彼女はこれからどうするつもりなんだろう。「行く宛があるの?」と尋ねると、花の笑顔がいっそう輝いた。
「そんなの無いわ! けれど今、あなたに会って分かったの、あなたもあたしと一緒に街を出ましょうよ! だってあたしのステージに釘付けにならなかったのも、オルゴールに似ているって言ったのも、あなたが初めてなんだから」
 悪くないでしょう? と、無邪気な瞳が僕を捉える。確かにそれはとても魅力的なことだった。けれど、僕には帰る家もなければ、頼りにできる人もない。それは台本には書かれていない。行く宛がどこにもないのだから、やっぱりどこにも行けないよ、そう呟いて首を振ると、「ばかね」とこともなげに一蹴されて、僕はぽかんと口を開けた。
「行く宛が無いから、ここから逃げるんじゃない。あなたは知らなかったのだろうけれど、目的地なんてそんなもの、生きていればいくらだって作れるんだから。……だからきっと、あなたはもう何も盗む必要なんてないし、あたしは誰かの為に踊る必要もないの。あなた、路上で暮らしているのなら、楽器の一つくらい弾けるんでしょう? あなたくらいの年の子は、皆そうやって凌いでるんだって聞いたことがあるわ。あたしが言いたいことが分かるわよね? あたし、踊っている間はギターもアコーディオンも演奏できないのよ」
 握りこまれた手に力が籠る。万華鏡のような舞台から逃げ出してきた彼女は、スポットライトなんて無くたって、眩しいくらいに奔放で自由だった。僕も演じられるだろうか。違うステージで、新しい演目を。
「それに、もう忘れちゃったの? 最初にあたしの手を掴んだのはあなたの方よ!」
 人形のものではない暖かな手のひらを取り戻した少女を、とても美しい、と思った。

 それが、とある奏者の始まりの全てだ。





(ある奏者の物語)