我らの物語
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両足が、凹凸の目立つ堅い煉瓦を踏んだ。胸の内側に、竜が舞い戻ってくるのを感じる。空白に、あるべき質量の物がずしりと収まり、落ち着く感覚。湿った濃厚な緑と土の匂いを深く吸い込んで、ハイクは静かに目を開いた。
目の前に、セイファスとアザレアが立っていた。心配そうな二対の目がハイクをじっと見つめている。ハイクは穏やかに、二人に笑いかけた。瞼の裏には未だ、苛烈な西日の名残がちかちかと瞬き、火花を散らしている。
「ゆりかごは消えた。でもって、中で眠っていた魂達も、全員旅立っていった」
しかし、すべて説明するよりも先に、ハイクの異変に気付いたのはセイファスだった。まじまじとハイクを見つめる目が次第に驚愕の色を濃くしていくのを眺めているのは、愉快な気分だった。セイファスは、信じられないものを目の当たりにしたとでも言うように、ハイクに一歩近づいた。
「なんということだ」
あまりに驚きすぎた老人の声はほとんど吐息と言って差し障りがなく、それを見たハイクはついに噴き出して、笑い混じりに吐き出した一言は、セイファスとアザレアを大いに困惑させた。
「千年経ったら竜になった」
*
アザレアの操縦する飛行船の中で、ハイクはあらましを語った。巨塔を昇っていったこと、大鷲を撃ったこと、祖先達と再会を果たしたこと、そして、大鷲が竜に転じたこと。ハイクの口からすべてを聞き終えた時、セイファスは操縦席のすぐ後ろの長椅子に深く腰掛けて、ゆっくりと息を吐いた。
「アギラが言ったように、その事象は、おまえさんの魂と密接に関わっておるのだろう」
「ああ」
ハイクは頷いた。
「鋼玉と、青空だろ」
船はゆっくりと高度を下げ始めていた。排気音が低く変化し、振動が、薄い布張りの座席を通して太腿に伝わる。セイファスは、「もちろん、その二つの要素があればこそ、アギラはおまえさんの中に移り住むことができたのだろう」と言って、椅子にゆったりと背を預けた。
「だが、それはあくまで、竜がアギラであった時の話だ。錠としての特異な性質を備えていたアギラだからこそ、おまえさんとの融合も可能だった。しかし、錠が砕かれ、竜として完全な一つの個体となった者すら、おまえさんの魂は受け入れた……不思議だ。実に、不思議だ。本来、どれだけ相性が良くとも、他者の魂を取りこむなど不可能なことだ。……これはあくまでわたしの想像だが、青空たる内面と鋼玉たる器の作用に加え、おまえさんの魂には、記憶を読む力が備わっているだろう? あるいはそれが、作用しているのかもしれん」
「記憶を読む力……? 借り物の力のことを言ってるなら、そんな大層なものじゃないぜ」
「おお、おまえさんがもしもそう断じているのだとすれば、ハイク、それは大いなる早とちりだ」
セイファスがどこか楽しげに喉を鳴らし、ハイクはますます首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「おまえさんの力は、突き詰めれば、声なき者の声を聞く力、ということだ」
「でも、それは……他の力だって同じだろう?」
「いいや、違う。わずかかつ決定的な差だ」
例えば、フィデリオは水を、ルーミは風を、ウルグは月の声を聞き、その力を使う。画一的に、借り物の力とはそういう力のはずだ。しかし、セイファスが言わんとしているのは、それとは趣が違うようだった。
「実際に、形ある記憶を受け取ることができる、ということだ。不思議に思ったことはなかったか? おまえさんは、金属の性質を読み取ることはできるが、そのものの力を借りることはできん。ただ、読むだけだ。そうだろう? 疑問に思ったことは無かったかのう? どうして、自分は金属を自在に操ることができないのか? 周囲の皆が様々な物を思うまま操るように、鉄の剣を指一本で捻じ曲げたり、地面の砂鉄を集めて己を守る盾を作ったり……おまえさんであれば使い方は無数に浮かぶだろうが、ともかく、なぜ自分は、そういった力を、金属から借りることができないのか、と」
セイファスの話を聞きながら、ハイクは頭の中で、塔の籠にあった魂を思い出していた。継ぎ接ぎだらけの歪な形の鉱石。もしもそれが、現在のルドラの民にも脈々と受け継がれているとしたら。
「俺の魂が不完全だからか。だから、物を操るほどの強い力が使えない」
ハイクは顔を上げ、隣のセイファスを見た。セイファスは視線を合わせることなく、頷いた。
「そして、もしもそれが正しかったとしたならば、それも我々が負わせてしまった足枷の一つということになろう。借り物の力は、かつては戦いに用いられた力だ。戦のために造られたおまえさん達の借り物の力が不完全だったとは、皮肉なものだがのう」
セイファスは重苦しく息を吐き、視線を下げた。生涯治すことはできない。言葉にせずとも、伝わった。
「だが、おまえさんがアギラを竜へと転じさせたように、この五年間で、アギラの魂の影響を受け、おまえさんの力も少しずつ変質していったようだ。アギラの中にも、人の魂が混ざっておる。それはつまり、アギラにもまた、借り物の力が宿っていたということだ。おそらくそれが、不完全な部分を埋め合わせようと、ごく自然におまえさんの力に混ざっていったのだろう。水や熱が高い場所から低い場所に流れていくように……身に覚えがあるのではないかね。金属以外のものの記憶を、おまえさんは読んだことがあるのではないか?」
王墓の中で、知り得ないはずのマキナの記憶を見た。セイファスはハイクの目をじっと見つめ、まるでそうすることで、奥底に眠るハイクの記憶すらも捉えようとしているかのように、皴寄った目尻を下げた。
「わたしが思うに、アギラの力もまた、他者の声を聞く類のものだったのではないかな。その力が流れ込んだことで、おまえさんは意図せず、より強力な力の使い手となっていたのだ。不完全な魂同士だからこそ為せた技だったのだろう。操ることはできずとも、物だけでなく、時にはまったく他人の意志すらも、おまえさんは受け取ることができるようになってしまったのだ」
セイファスの推論は、なんの引っ掛かりもなくすとんとハイクの胸に落ち、いっそ清々しいくらいだった。「ハンター仲間だった奴が、俺を見て言ったんだ」ハイクは静かに言った。
「王墓で墓を掘ったあとだった。そいつには、俺の目が黄色く見えたらしい。そしてその直前、俺は」
無意識のうちに、ハイクは腰のガンベルトに手を持っていった。指が虚空を掴んで初めて、銃が砕けてしまったことを思い出す。
「先を言わずともよい」
セイファスが宥めるように囁いた。「その者の記憶を見たのだね」
「魂の中の内なる意志が、表に現れる時がある。もっとも、本人が気づくことはないだろうが、周囲の者なら自然とみなが気付くだろう。それがどこに現れるか、おまえさんはもう知っているね」
ああ、と、ハイクは肯定し、ベルトからそっと手を離した。
「目の中だ」
「そう、瞳だ。目と魂は繋がっておる。まみえた者の、何かを成そうとする意志の強さにおまえさんの魂が共鳴した時、相手の目に宿った強い意志を、おまえさんの鋼玉が映し取ったのだろう。感情が強ければ強いほど、石もより鮮明に映りこむ。おまえさんの目に鉱石の色が映りこんだということは、それほどに眩い意志が、その者の内面を燃やしていたということだ。特にその者の場合、おまえさんが見たのは“死”そのものだ。ゆえに、すべての記憶が飛び込んで来てしまったのだろう」
風に機体が揺れ、老人の朱染めの髪を揺らす。「あと半刻で里に到着します」と、アザレアが短く告げた。
「借り物の力で記憶を読み、鋼玉の魂がそれを映し、空の中に蓄える。そうして、おまえさんの魂は他者の意志を取りこんでいった。旅の中で多くの人、多くの魂に触れ、おまえさんの魂はその分だけ、様々な色を吸収していった。そしてその旅の果て、塔の上で、錠を撃ったおまえさんはさらに多くの魂と邂逅した。肉体を解さず、直接に触れ合った」
見えなくなるだけだ。居なくなるわけじゃない。
父の言葉の意味を、ハイクは悟った。今や父が、母が、長が、丘の皆や金髪のルドラやアギラ達が、ハイクの魂の一部となり、その礎となったことを。皆の魂が、少しずつハイクの中に在ることを。
「意志っていうのは」
ハイクは続きを引き継いだ。
「要は生き物を生き物たらしめる、生命力の結晶みたいなもんなんだろう。俺が前から蓄えていた、そして塔で俺が受け取った大量のそれが、あの瞬間、俺を通して砕けたあいつの銃に流れ込んだ。空になった骨の銃の中に」
「そう、遠く離れようとも、おまえさん達の魂は繋がっておった。骨たる銃にわずかに残されていた竜の血が、おまえさんと、塔の魂達の助けによって、灰の中から蘇る不死鳥のごとくに目覚め、育ち、現出したのだろう。そして、大量の魂は、アギラだけでなく、おまえさんの魂の様相すらも変容させた。一体の竜すらも飛び回れるほどに、より広く、強く、さまざまに、大きく」
「そんなことがあり得るのか。魂が変わっちまうなんて」
「もちろん、十分にあり得ることだ。魂は移ろいゆくと、ルドラの長も言っていたのだろう。特別なことではないよ。自身の外側にある様々なものに触れ、魂は刻々と己の色や形を変容させるものだ。絶望に暮れれば、砕けることもあるだろう。反対に、希望を感じた時には、よりいっそうの輝きを見せるかもしれん」
「あんたにはそれが見えているのか?」
「むしろ、見えないのは本人だけ、と言った方がいいのかもしれんなあ。今のおまえさんの魂は、言うなれば、そう、青空から大空へ、といったところかのう」
セイファスに同意するかのように、竜の声が高らかに響いた。
「曇り、雨雪が混じり、おまえの気分次第で、夕方にも夜にもなるようになった、ということだ。だから、わたしの鱗もこうなった。周りを映す、鋼玉の性質を受け取って」
ハイクの目を覗き込み、セイファスは眩しそうに眼を細めた。
「おまえさんも、アギラも、実に大きくなったことだ」
*
飛行船が降り立ったのは、濃霧を纏う山岳地帯だった。地図上では空白となっている高原であるが、アザレアの先導で山を登っていった先には、霧の中に身を包むようにして、小さな村が存在していた。アグニの隠れ里である。険しい山肌は階段状に削り取られ、そこに洞窟のような家々が張り付いて、家の周りには、ささやかな畑や棚田があり、小ぶりな作物を実らせていた。
セイファスは、村の最も高所にある屋敷へとハイクを案内した。長が代々住まう決まりなのだという。
午後には霧が晴れ、屋敷の窓から、ぼやけた世界樹の遠景が見えた。浜の塔に負けず劣らずの長大さを誇る世界樹は、有り余るその巨大さゆえに、遮るものの何もない雲灯りを全身に浴び、まるで自分が太陽の代わりであるとでも宣言するかのように、曇天の下でその緑の葉を燦然と輝かせている。
「こんな所からでも、世界樹は見えるんだな」
外を眺め、ハイクは独りごちた。この高原は、浜から三里ほど南へ下った山嶺の頂上付近に位置している。世界樹からはまだ相当の距離があるはずだ。手ずから紅茶を運んできたセイファスが、縦長の窓をちらりと見遣った。
「今の世の旅人にとっては、曇ってばかりの星空より、よい指針となるだろう。そのような意味では、あの樹は天文学が衰退した遠因であるのかもしれないのう」
ドアをノックする音が聞こえて、アザレアが客間に入ってきた。後ろに一人の少女を連れている。顔立ちはアザレアに似て端正だが、長身のアザレアと比べると一回り以上背が低かった。
「私の妹です」
アザレアの言葉に合わせて、少女が前に進み出た。「カルミアです。初めまして」と、しとやかに頭を下げる。
「ハイク・ルドラさん、先にお名前を存じている無礼をお許しください。あなたが来るかもしれないと、昨日の星に出ていました」
「それじゃあ、あんたが星詠みの?」
「はい。しかし、昨夜の時点では可能性は未知数だった。だから、あなたに会えてよかったと、心からそう思います」
大人びた敬語で、地底湖に水滴を落とすように、静かに話す少女だった。物語に出てくる、老いを知らない魔女のようだ。
「ふうん。星詠みにも、見えないものがあるんだな」
「見えないという表現には、少々齟齬があるかもしれません。私達には、一つの可能性しか分からないのです。その可能性を束縛する力もありません。あなたの選択次第で、分岐の枝葉は無限に広がります。あの世界樹のように」
少女は、つい、と、小さな鼻先を窓へ向けた。霞んだ樹に向かって飛んで行く鳥の群れが、縦長の窓に横一線に伸びている。
「でも、そいつをなるべく意図した方向に向かわせようとしたのは確かなんだろう」
「そうですね。画伯の御人に宝玉を渡すよう長に頼んだのは、十に満たなかった当時の私です。赤目のハンターに、青の神殿の伝承を教えるように頼んだのも。そして、まさにその神殿のことについて、あなたに知っておいていただきたいことがあり、こうしてご足労いただいたのです」
ハイクは、小さくなっていく鳥の群れから目を離し、少女の白い顔を見据えた。
「俺もちょっと、そのことで気がかりがあったんだ。もしかして、俺の心配事はあんたと同じかな」
「おそらくそうなのでしょう。私達は二度と、誰の物語をも途切れさせてはならない。……長、準備は出来ています」
セイファスは頷き、腰を上げた。
「では、皆で参ろうか。カルミアよ、どこまで進んでおる?」
「つつがなく順調です。あと十日もあれば終わるでしょう」
「そうか。ならば……済まないがハイクよ、それまでの間、この里に滞在していてはくれまいか」
ドアノブに手を掛け、セイファスはハイクを振り返った。ハイクは腰を上げつつ、首を捻った。
「構わないが、俺は何を待てば良いんだ?」
カルミアが、「修復です」と簡潔に答えた。
「修復って何の」
返って来た答えは、至極単純だった。
「もう一つの“青の宝玉”の、です」
*
屋敷の勝手口から裏庭に出ると、そこは小さな菜園になっていた。奥に古井戸があるように見えたが、近寄ってみればそれは井戸ではなく、地下へ続く階段だった。窮屈でほとんど梯子のような石段を下っていくと、次第に空気が冷え、濡れて籠った岩の匂いが辺りに満ちてくる。先は鍾乳洞に繋がっているらしい。
下まで下りきると、日の光はすっかり途絶え、辺りは夜のように暗かった。アザレアが手持ちの燭台に火を灯したことで、ハイク達の周りだけがぼうっと明るく浮き上がる。顔の近くに燭台を掲げ、アザレアが言った。
「ここは、里が拓かれた当時に掘られた洞穴です。私達星詠みの家の先祖が、水脈を読み、探し当てたようです」
そう言いながら、アザレアは燭台で道の先を照らした。
ほんのりと照らされた洞穴の突き当たりには、乳白色の鍾乳石に囲われた泉があった。不思議なことに、その泉の水は星を沈めたように自ら青く光っており、ほとりまで歩いていくと、然程の深さではないが、水灯りがゆらゆらと天井を照らすので、燭台の火が不要なほどだ。慣れた様子でカルミアはスカートの裾を捲り、泉に足を踏み入れていく。靴のままの足首を水に浸しながら、カルミアはハイクを手招いた。
応じて付いていくと、泉の中央には石の台座が置かれていた。水は、その丸い台座からこんこんと湧き、泉に流れ落ちている。台座へ向かって進みながら、少女はハイクの顔を見上げた。
「あなたが気に掛けているのは、プラトの民のことでしょう?」
そんなとこかねえ、と苦笑して、ハイクは視線を台座に向けた。
「借り物を壊しちまったからなあ。でも、あんた達は、珠はあそこで修復中だって言うじゃねえか。神殿にあった方の珠は複製か?」
「模造品、という意味なら、違います。珠は二つとも本物です。もともと一つだったものを、清浄な部分と穢れた部分とに分け、前者は神殿に戻してその機能を維持するための力の源泉とし、プラトの民を、黄昏による水枯れから守り、後者はここで元の状態へと浄化していたのです」
ハイクは追憶の最後に一瞬だけ浮かんできた光景を思い出した。青の珠と赤の珠、どちらも始めは黒い外殻で覆われていたが、ハイクが神殿を目覚めさせたことにより、殻が剥がれ、元の姿に戻った。
「なぜ、清浄な方の珠まで、わざわざ黒く染めたんだ」
「二つとも、……一つは半分でしたが、それでも人を惹きつける力のある宝石ですから。魅入られた人々が二度と争いごとを起こさないようにと、私達の祖は考えたのでしょう。台座を覗いてみて下さいますか」
漲水鉢のような台座を覗き込むと、水底に青く輝く珠が据え置かれていた。羽の紋は無いが、ハイクが手に入れた青の宝玉と、同一に見える。ハイクはカルミアを振り返った。
「國の黎明期から、あんた達はずっとここで珠を守ってきたのか」
「ええ。数多の不浄を吸い、穢れていたものを、術を絶やさず、清浄な湧き水にさらし、浄化を続けてきました。ですが、それももうじき終わるでしょう」
「それが十日後なんだな」
「はい、長が待って欲しいと言ったのはその為です。プラトの民の元に、珠を返していただきたいのです。鍵の珠のほうの力は十分ではありませんでしたが、この珠であれば、神殿は完全に回復するでしょう。神殿に珠が戻れば、湖と沢の水も蘇り、あの里は今後数百年は水枯れに苦しまずに済む」
「あんた達が行った方が喜ばれるだろう、それは」
ハイクが肩をすくめると、カルミアは視線を水盆の底に落とし、だまって首を横に振った。伏せた瞳に、丸い宝玉が映っている。
「よいのです。元より、帝国がプラトの民から略奪した宝玉を、彼らに返すだけのこと。謝辞を期待するものではないのですから。それから、あなたにもう一つ、依頼が。真なる史のことです」
青い水灯りに照らされた顔を、カルミアはゆっくりとハイクへ向けた。
「そいつは、トレジャーハンターの俺にってことでいいんだよな。……いいのか?」
二度目は長であるセイファスに向けた質問だった。セイファスはただ、後ろに手を組み、穏やかに微笑んでいる。
「俺は自分の食いぶちのために、すべてを白日の下に晒すぞ」
「そうであろうとも」
「べつに、あんた達は裁かれはしないだろう。情報は國の書庫に保護されるから、人々に広まることもない。だが、歴史として記録される以上、いつかその名で後ろ指を指される日は来る」
「史が真実である以上、避けられないことだ」
しばし無言で、互いを見ていた。セイファスのほほ笑みも、決然とハイクを見上げてくるカルミアの表情も変わらない。浮かべている表情は違えど、二人とも揺らがなかった。ハイクはゆっくりと息を吐いた。
「両方、承った」
その瞬間、初めて、カルミアの顔に笑みが浮かんだ。曇り空に日がさしたような顔だ。そういえば子供だったと、ハイクはふと思い出した。
「ありがとうございます」
「それで、あんた達はこのあとどうするんだ。十日後には晴れて自由の身ってことなんだろう」
「何も変わることはありません。この里で星を読み、誰の目にも触れず、鷹達と共に暮らします」
「アグニの名と共に?」
「ええ。あなたがルドラであるように」
その後、カルミアから聞いた話によると、青の神殿はあくまで術の出入り口に相当する部分であり、水を貯え、血脈のように山の隅々に行き渡らせ、汚れた水をろ過して再び蓄えるための装置の大半は、神殿の地下に眠っているらしい。あの神殿は、水面上にわずかに飛び出した氷山の一角に過ぎないというわけだ。黒の谷と同様に、この途方もなく巨大な機構もまた、密かにアグニが守り続けているのだという。彼らはこれからもプラトの民に悟られないよう、こっそりと神殿を守り続ける、そういう腹積もりのようだった。二度と、誰の物語をも途切れさせてはならない。それが、幼い少女さえも口にする、アグニの民の髄たる信念だった。
すっかり話しこんでから洞窟の外に出ると、すでに夕方近くになっていた。裏庭の崖の際に立つと、里と夕焼けが一望できる。鉛色の雲のすき間から緋色の光が幾筋も零れ落ち、遥か遠くの世界樹を赤く染め上げていくさまを見下ろして、カルミアが目を細めた。
「黄昏は忌むべきものかもしれませんが、それでも、ここから見る夕焼けは好きです」
たそがれの國。滅びゆく落陽の國。厄災をもたらす落日に怯え続ける國。けれど、この國の夕焼けは美しい。美しいと思える。
ふと、浜での竜との会話を思い出した。憎むべき相手とも、共に、共に。
友、に。
できるだろうか、あるいは、なれるだろうか。
「私は、黄昏とは、嘆きだと思っています」
「嘆き?」
「そう、嘆きです。戦渦が呼んだ人々の負の感情、その渦が、やがて厄災となり、終わらない嘆きの連鎖を引き起こしたのでは、と。黄昏の中には、アギラの悲しみ、ルドラの怒り、アグニの憎しみ、私達も含め、國のすべての人々の痛みが、少しずつ混ざりあっているのではないか、と。けれどだからこそ、黄昏は終わるとも思います。いつか、必ず」
「それも得意の予言かい」
カルミアは夕日を見つめたまま、ゆったりとほほ笑んだ。
「確たる未来ではありません。可能性は高くないかもしれない。それでも、私はきっと信じています。それが、“彼らの物語”が迎える結末であることを」
「彼ら?」
「ふふ、誰かは秘密です。彼らもそれを望んでいる」
「一番盛り上がったところで煙に巻くのかよ……。あんた、いい語り部になれるぜ」
「あら、ありがとうございます」
果ての浜の技術は、おそらく今もこの里に残っている。その技術があれば、一時的に黄昏から逃げることはできるだろう。しかしそれが誤った回答であることは、この場における誰もが知っていることだった。
「……待てよ、技術、か。技術ねえ」
何か、閃きの糸口を掴んだような気がする。ハイクは顎に手を当て、頭を動かし始めた。「どうしましたか」と、カルミアが首をことりと傾げる。ハイクはにっと口角を上げてみせた。
「なあ、カルミア。さっきの依頼の話、どうやら俺よりももっと適役が居るようだぞ」
次第に組み上がってきた考えを追いかけるようにしてハイクの中を飛んでいた竜が、「悪知恵だなあ」と言って、陽気な笑い声を立てている。
急に、十日後が楽しみになってきた。
*
嘘のように穏やかな十日間だった。初めは因縁や確執渦巻くぎこちなさがあるものと身構えていたが、アグニの人々は元来の聡明さと大らかさでそれらをさらりと受け流し、ハイクの方が拍子抜けするほどだった。ハイクはセイファスの屋敷の一室を間借りし、午前中は書庫の本を読み耽り、午後は里をぶらぶらと散歩した。三日もそうしていればすっかり馴染んで、里の子ども達に童話を聞かせたり、畑仕事の手伝いをしたりするようになった。また来い、また来い、と帰り道の弁当まで持たされて里を発ち、アザレアの舟で王都に帰還すると、しばらくぶりの蟻の巣はものの見事に埃だらけで、ハイクは丸一日かけて部屋を掃除しなければならなかった。
心地よい疲労感に浸り、ベッドの上、洗って干したばかりのシーツに腰を下ろし、ハイクはふと、カルミアが言っていた「黄昏が終わる」とはどういうことだろうと考えた。翌日からハンター業を再開し、再びあちこちを飛び回るようになってからも、その疑問はずっとしこりのように胸の隅に残っていた。
かの世界樹が魔獣である、という、王城からの突然の御触れが國中を雷光のごとくに駆け巡ったのは、それから更に半月が過ぎた頃のことである。