嘆きの谷(後)
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歩き始めた廊下の床には、一つの国の興りと繁栄の様子が描かれていた。鉱脈を掘り当て、富を得た開拓民。集落は村へ、村は街へ、街は都市へと発展し、人々は財に恵まれ、生涯の豊かな暮らしを約束される。
「だが、それも長くは続かなかった」
絵の先を示し、セイファスは声を落とした。
「強大な帝国となった黒の谷は、より大きな富を求めるあまり、いつしか他国から略奪と搾取を繰り返すようになっておった。他者の恨みか、己の欲か、長く積もった種火はやがて巨大な炎となった。戦の始まりだ」
セイファスは、声も、表情も、落ち着いて冷静だった。明るい色調だった床の絵は、一歩ずつ歩を進めるごとに、赤と黒の二色で塗りつぶされていくようになった。絵が変わるごとに戦場は次々と舞台を移し、その度に争いは激化した。地獄の光景が、明るい白の廊下にあった。
だが、目を逸らす訳にはいかない。ハイクは己にそれを許さず、食い入るように絵を観察した。ハイクの中の大鷲もまた、無言で絵を見つめている。
銃剣はもちろん、戦争の中で頻繁に使用されていたのは、専ら現代において借り物の力として親しまれている力だった。生きたまま燃えている兵士や、ありえない大きさの巨石に押しつぶされる家が、何度も描写されていた。時代が進むにつれ、それに加えて魔術や錬金術までもが兵器として用いられるようになる。ハイクは唇を噛んだ。國を救うために奔走する錬金術師や、人の役に立ちたいと願う魔術師の少女の顔が浮かんだからだ。
セイファスの硬い声が、白い石壁に木霊する。
「長い戦争に、黒の谷は次第に疲弊し、兵が枯渇した。そこから先の戦いで、人間の兵士の代わりに何が用いられたかは、おまえさんも知っておろう」
「獣と、機械か」
「左様」
頷き、セイファスとハイクは歩を進めた。戦場の絵に、次第に機械人形や動物達が加わり始めた。その中のとある部分を指で示し、セイファスは立ち止まった。
「……ああ」
ハイクの呟きと、大鷲の発した声が重なった。老人の指の先に、獰猛に宙を舞う鳥の姿を認めたからだ。セイファスはそっと目を伏せた。
「アギラだ。だが、正確にはまだ、違う。この者は確かに大鷲だが、アギラではない」
「どういうことだ?」
ハイクはセイファスを見た。老人の顔に深い皴と共に刻まれていたのは、苦痛に歪んだ微笑だった。
「黒の谷は追い込まれておった。民の間で敗戦の二文字が囁かれ始め、疑念と不信が満ちた。そこで、谷の王は何としても戦に勝つために、以前から水面下で進めていた、とある計画を実行することにした」
再び、絵が変わる。しかし、次に描かれていたのは戦場ではなかった。それよりも遥かに不可解な光景だ。
どこかの部屋のようだった。清潔な、窓の無い、のっぺりとした四角い部屋だ。立方体の檻が二つ、中央に並んでいる。一方には鼠が、もう一方には、小さなトカゲが入れられているようだ。白い装束を纏った何人かの人間が周りに立ち、檻を眺めている。
「これは、一体何をしている所だ?」
老人は沈黙したまま、首を振り、手だけで次の絵を見るよう促した。
仕方なく、ハイクは隣の絵に移動した。全く同じ構図のようだが、最初の絵とはいくつか異なる部分がある。二つの檻の中身が、両方とも空だったのだ。そして——新たに中央に置かれた三つ目の檻の中で、それは蠢いていた。
ただただ奇怪なそれを、果たして生き物と形容すべきか、ハイクはすぐに判断することが出来なかった。ほとんど毛の抜け落ちた皮膚に斑の鱗が散らばり、目玉は一つ、足は五本ある。
「竜、と呼ばれる生き物を知っているかね。人の世が始まるよりも古い時代にこの世の頂点に君臨していたとされる、絶滅した幻の種族だ」
ハイクは、セイファスがこの先何を言おうとしているのか気付いた。ハイクはゆっくりと顔を上げてセイファスを凝視したが、セイファスはこちらを見なかった。
「創ろうとしたっていうのか」
沈黙のあと、セイファスは重く首肯した。
「そうだ。一匹の竜が吐き出した炎で、山一つが跡形も無くなったという伝承もある。たった一体で百の軍隊にも匹敵する力を持つ古代の生物の力を、谷の王は再びこの世に現出させようとしたのだ。都市を発展させた技術を惜しげもなく注ぎこみ、多様な動物達を足し合わせ、強力な合成獣を創ることによってのう。だが……先に結果だけを述べるなら、研究は失敗に終わった。どれだけ資金を投じ、試行を繰り返そうとも、完全な竜を再現することは不可能だった」
次の絵も、その次の絵も、研究の様子を記録したものだった。アグニの研究者達は、大量の動物を使い、竜を生み出すために何通りもの順列組み合わせを試していた。だが、そうして出来上がった者達は皆、竜と呼ぶには到底及ばない、奇怪な形をした、醜悪な生き物ばかりだった。
「しかし当時のアグニの民は、実験が失敗だとは全く考えておらんかった。実験の過程で生み出された個体のうちの数種は、竜という側面においては不出来ではあっても、戦場においてはすでに、一定の戦果を上げ始めていたからだ。より大きく、より強く、より従順な兵を求め、研究は日増しに加速していった。そして、不完全ではあれど、ついに彼らは、竜に非常に近しい生命を創り出すことに成功したのだ」
セイファスは、気遣うようにハイクを振り返った。
「とうに説明は不要かもしれんが……、そのうちの一体の魂は、今もおまえさんの中に宿っておる」
老人は、ハイクの内側に居る大鷲の姿を捉えようとしているようだった。そして、セイファスの背の向こう、これから足を踏み入れようとしているまさにその一区画に、見慣れた一羽の大鷲が、両翼を堂々と広げ、白衣の研究者達を圧倒していた。
気付けば、ハイクの足は勝手に動いていた。セイファスを追い抜き、絵に駆け寄る。セイファスは何も言わず、ハイクの動きを目で追っただけだった。
ハイクも、そして大鷲も、沈黙したままだった。背後から、セイファスの静かな声が聞こえる。
「鳥は、竜を祖としているとも言われておる。母体とした種族の名を取り、彼らは“大鷲(アギラ)”と命名された。実際の鷲を遥かに凌ぐ体躯と、大蛇の知性と怪力、その爪は虎より硬く、狼の目と鼻で夜を掌握し、翼で敵陣を薙ぎ払い、血肉に練り込まれた銃や剣によって、使い手の命に服従する、兵器としての素養を付加された。おまえさんのアギラが、銃としておまえさんを手助けしていられるのも、そのためだ。
だがのう、ハイクよ。この研究には、一つだけ大きな欠陥があったのだ。……アギラ達を用いた初めての野戦で、事は起こった。アギラ達が突然自我を失い、狂い、味方を襲い始めたのだ。それによって、アグニの陣営は、一晩であっさりと内側から瓦解した」
ハイクには最早、このアグニの一族の物語がどういった方向へと向かおうとしているのか、全く想像がつかなくなっていた。戦争、アギラ、実験動物、兵器。いくつもの単語が、次々と頭の中を駆け巡っていく。
「研究者達は考えた。一体何が間違っていたのかと」
いつの間にか、セイファスは再びハイクを追い越していた。ゆっくりと歩を進め、次の絵の上へと移動する。
「アギラの肉体は完璧だった。ならば、なぜ、アギラは暴走したのか。不完全なものがあるとすれば何か。そして、彼らはとある可能性に行き着いた。器ではなく、その中身……そう、つまり、魂が、繰り返された融合によって歪み、破綻してしまったのではないか、と。そして、至極わずかな時間で、彼らはその問題すら解決してしまう術を編み出してしまった」
次の床に描かれていたのは、得体の知れない装置だった。天球儀に似ているが、それよりも巨大だ。その中に、小さな丸い物体が浮かび、光を放っている。天球儀の下端からは細い管が伸び、大鷲の肉体に繋がっていた。
「これが、魂だ」
丸い物体を指差し、セイファスが言った。
「魂の器は、鉱石の形をしておる。この奇妙な機械はのう、肉体から魂を抽出し、短時間ではあるが、石として現実に顕現させ、そうして取り出した複数の魂同士を、削り出し、繋ぎ合わせ、より強い魂へと昇華させる装置だ。理屈だけならば、合成獣と同じと思ってよい。優れた部分のみを寄り合わせ、より強く賢い、アギラの肉体にも耐えうる魂を製造しようとしたのだ」
ハイクは息をするのも忘れ、どうにかセイファスの話を理解しようとした。
「可能なのか。そんなことが」
セイファスは、沈痛な顔で笑った。
「可能にしてしまったのだよ、愚かにも。王墓の奥にある装置を見たかね? あれも、そうした研究の成果の一つだ。わたしが思うに、おそらくあれは、こうして作った魂を、機械人形につなぎ留めておくための装置なのだろう。ゆえに、竜核がなくなろうとも、己の意志で彼らは動くことができた。真の意味で、彼らは不死の兵士となったのだ」
一瞬、沈黙が流れた。ハイクは、悲痛な顔をしたセイファスが再び謝罪の言葉を口にしようとしているのを感じ、それよりも先に、「続けてくれ」と言った。セイファスは迷ったようだったが、話を再開した。
「より強い魂を求め、研究は続いた。種族を問わず多くの動物達の命が、肉体のみならず、魂の実験の材料としても、無残に消費されていくようになった。だが、愚かにも、それだけでは研究者達は満足しなかった。動物達の魂は小さく、そして非常に脆かったのだ。何をどのように繋ぎ合わせても、彼らの理想とするような、アギラの肉体に相応しい完璧な魂には到底、及ばなかった。そして……またしても、研究者達は閃いた。閃いてしまった。悪魔の囁きに耳を貸したのだ。非道で邪悪な、人の理の禁忌に、アグニは自ら触れてしまった」
「まさか」
呆然と、ハイクは隣の老人に顔を向けた。苦渋に満ちた面持ちで、セイファスが頷く。
「人の欲というものは果てを知らぬ。そして、……そして、アギラは完璧な肉体と、完璧な魂を手に入れた」
足元には次の場面が広がっていた。
……何人もの人間が、生きたまま、先程の装置に繋がれている絵だった。装置の中に描かれている魂は、先程よりも大きく、鮮やかで、宝石のように美しくきらめいている。側に、恍惚とした表情の研究者達が立っている。その隣には、抜け殻となった人々の、虚ろの肉体が積み上げられていた。……合成獣の、材料とするためだった。並んだ人間達は、物のように次々と別の機械にかけられ、他の動物と混ぜられ、巨大な爪や手足、鱗を持った、二本足の歪な怪物へと生まれ変わっていく。合成された新しい魂が、その体に入れられる。彼らは鎧も纏わず、戦場へと発って行く。
地獄と呼ぶにはあまりに事務的で、機械的だった。一切の躊躇も無駄もなく、理性的で、合理的だった。それゆえに、不気味だった。これが現実に行われたのだと理解することができない。
脳が、本能が、理解することを拒絶する。こめかみを汗が伝い、ハイクは小さく喘いだ。
無意識に寄る辺を求め、魂の中で、大鷲を仰ぎ見る。
「これは……、これは、間違いなく事実なのか」
残酷にも、大鷲は静かに目を伏せた。肯定だ。ハイクに言い聞かせるように、大鷲は告げた。
「事実だ、ハイク。わたしには、アギラとして生まれるより前の記憶はない。だが、今でも時折感じるのだ。わたしの内にある、わたしではない誰かが蠢く気配を。彼らの怯えや、命乞いを。……わたしの魂に、どれだけの数の生物や、人の子の魂が混じっているのかは、わたしにも分からない。そこの人間なら、知っているかもしれないが」
当たり前だが、セイファスはハイクの中の大鷲を察知することはできても、その声までは聞こえていない。薄い肩に罪の重さを抱え、ハイクの隣で絵を見下ろしている。
「人間の魂は、動物達よりも遥かに豊かで、大きく、様々な力に満ちておる。初めにアグニが求めた、アギラの肉体を制御しうる強靭な魂も、大量の人の魂を使うことで容易く合成することができた。そしてわたしは、もう一つ、おまえさんに告白しなければならん。許されることではないと分かっておる。だが、それでもこの事実を伝えねばならん」
ゆっくりとセイファスは顔を上げ、ハイクを、そしてその目の奥を、じっと見据えた。
「彼らはのう、つまり、こうして生まれたアギラ以外の者達のことだが……彼らもまた、十分な力を持つ兵として、幾度も戦場へと送り込まれ、肉体が死せばその魂は回収され、新たな肉体を与えられた。ここに描かれておる、実験の元となった人々は皆、捕虜として捕らえられてきた、何の罪もない敵国の民達だ。だが、ひとたび魂と肉体が他の命と交われば、彼らのほとんどが、人であった己のことを忘れ、知性を失い、敵を破壊する以外の欲求を失った。我々がそうさせたのだ。反乱を防ぐために」
「何が言いたい」
「気付いておるのだろう」
そう言って、セイファスはゆっくりと瞬きをした。静かな声が、告げる。
「 “ルドラ”というのは、元は我らアグニの国の言葉だ。人であり動物であり、しかし、そのどちらにも属さない彼らは、最早人の言葉を話すことすらままならなかった。その口から漏れ出すのは、意味を持たぬ、けだもののような咆哮だけだった」
次に発された老人の言葉は、ことさらに大きく、石の廊下に反響した。
「 “咆哮を上げる者”だ。 “ルドラ”は、そうした意味合いを込めてアグニが命名した、被験者の総称だ。……それが、おまえさんの一族の根源なのだよ」
*
完全な沈黙が、その場を支配していた。どれだけの間こうして黙りこくっていたのか、ハイクは覚えていなかった。一瞬のような気もするが、数刻だったような気もする。
「自由を奪い、その身に終わりなき罪を背負わせた者達を」
ハイクがようやく発した声に、セイファスの肩がわずかに揺れた。自分のものとは思えないほどに乾ききった声だ。ハイクの視線は、足元で蠢くおぞましい生物達に注がれたままだった。
「あんた達がしたことは、よく分かった。つまり、ルドラとアギラは両方とも、同じ実験の被験者だったんだな」
「そうだ」
「もう一つ、教えてくれ」
「おまえさんが望むなら、喜んで」
例えば、今ここでハイクが罵倒の言葉を叫んでも、セイファスは一言も反論せず、甘んじてそれを受けただろう。実際ハイクは、咄嗟に出そうになったいくつかの台詞を、溢れそうになる感情を、残った理性でどうにか抑え込んでいた。
依然として実験を続けている足元の絵から、ハイクは苦労して顔を上げた。どれだけアグニが、罪の意識に苛まれ、惨めに暮らしてきたとしても、同情することはできない。しかし、怒りに身を任せる時は今ではない。ハイクにはまだ、確かめなければならないことが残っている。
「罪は分かった。なら、あんたたちが言う償いの道ってのは何だ」
白い廊下には、まだ先があった。光の霞の向こうに、四角い出口の輪郭が徐々に見えてきている。
「この先に描かれているのか?」
冷静に、ハイクは尋ねた。セイファスは、しっかりした口調で、そうだ、と答えた。
「教えてくれ」
ハイクは繰り返した。一度に与えられた膨大な情報の山に、頭の奥がきりきりと痛んでいたが、ハイクはそれ以上に強く、話の続きを知りたいと渇望していた。セイファスは、しっかりと頷いた。
「承知した。すべてを語ろう」
始めに「すべてを伝える用意がある」と言った時と同じ、決意に満ちた、重い声だった。この老人はきっと本当に、己の知り得るすべてをハイクに明かすつもりだ。
肩を並べ、ハイクは再びセイファスと共に歩き始めた。しばらくは、再び場面が戦場へと戻った。ただし、アグニの側の軍隊の大半は、人間ではなく、恐ろしい異形の者達で占められるようになっていた。彼らは敵を圧倒したが、それでも、戦の回数を重ねるごとに、谷の陣営が返り討ちにあう描写が増えていった。どれほど体と魂を強化しても、同じように時代を経て強化されていった巨大な術に単独で対抗し得るほど、彼らは頑強ではなかった。
小さな亀裂が一気に広がり、不落の城があっけなく崩れ落ちていく。ものの数分ほどで、ハイクはそれを体感した。
「最早、谷が滅ぶのは時間の問題だった。そして、それを好機と取ったのは、敵国の民だけではなかった。長きに渡って虐げられ続けたルドラ達は、ついに反逆の狼煙を上げたのだ。ああ、ちょうどこの絵だ」
次の絵では、谷の都市を背景に、谷の兵とルドラが戦闘を繰り広げていた。だが、その展開は一方的だった。ルドラに戦いを挑もうとする者が、あまりにも少なかったのだ。ルドラの方も、殺戮が目的ではないようだった。列を成し、都市を駆け抜けているだけに見える。羽根を持つ何人かが、尖塔の頂に立ち、都市の人々を脅かすような咆哮を上げているようだったが、彼らの手にもまた、武器は無かった。自由を求める彼らの劈くような叫びが、ハイクの耳にまで届いたような気がした。
「一晩だけの、おそらく谷の歴史の中で最も血が流れない内乱だっただろう。ルドラはただ、牢を破り、同胞達を引き連れて、谷の外へと脱出しただけだった。だが、ルドラがアグニに与えた打撃は、他のどんな攻撃よりも効果的だっただろう」
「一晩で兵士がごっそり消えたんだから、そうだろうな」
「ああ。ごく一部ではあるが、ルドラの中には、生まれつきの強靭な精神力でもって、人としての自己の意識を保っていた者もおったようだ。そうした者達が、皆を導いたのだろう。各々に備わった様々な能力を駆使し、彼らは見事、アグニの前から完全に姿を消した」
「アギラは、ルドラと共に逃げなかったのか」
「わたしも詳しくは知らないが、彼らは谷に残ることを選んだようだ。そして、その翌日、谷の戦は終結した。白く燃える、灼熱の星によって」
廊下の終わりが近づいていた。残された絵は二つだけだった。
一つ目の絵に使われていたのは、白と黒の二色のみだった。現在の様子とほとんど違わない、誰も居ない廃墟が広がっている。だがハイクは、ただの建物と、山と、空があるだけの風景を、これほど恐ろしいと感じたことはなかった。
「その後、生き残ったアグニは、谷を離れた。自らの罪を“真なる史”としてこの場に刻み、鍵を隠し終えると、とある目的の為に旅立った。それが、これだ」
再び、床の景色が一変した。透きとおるような青空と、水で満たされた海。三日月の形をした、白い砂浜。
忘れたことなどない。あの日、大鷲と出会った場所だった。
「そう、浜だ。最後に、この浜について語ろう。我らがルドラの民を求めた理由と共に」
青い絵の中心に立ち、セイファスは浜を見下ろした。きっと何度もここに来て、こうして浜を眺めているのだろう。そう思わせる仕草だった。
「一言で言い表そうとするなら、この浜は、切り取られた時間そのものだ」
「待ってくれ。今なんて言った?」
突拍子もない言葉に、ハイクは素っ頓狂な声を上げた。セイファスはゆっくりと、同じ言葉を繰り返した。
「切り取られた時間だ、ハイクよ。もちろん、偶発的に生まれたものではない。アグニが生み出した施設だ。何のためのものか、分かるかな?」
ハイクは正直に肩をすくめた。「ならば」と、セイファスは背後を振り返った。
「先の記録で、戦場で散った魂を、新たな肉体に宿すという話をしたことは覚えているだろう。だが、体を失った魂は脆い。ただそのまま放っておいたのでは、焼いた鉄板に落とした水滴のごとく、すぐに消えてなくなってしまう。浜は、そうして肉体を失った魂を瞬時に呼び戻し、次の肉体が用意されるまでの間、保管しておくための施設だったのだ。強化された魂は、当時の技術をもってしても貴重で、作れる数にも限りがあったからのう」
「だが、その話が本当でも、戦場には、体から離れた魂なんて山ほどあるだろ。どうやって、特定の魂だけを呼び戻したっていうんだ」
「ああ、それはのう。羽紋だ。王墓の奥にあった紋だよ。あれと同じ紋が、創られた魂には刻まれておる。浜は、いわば紋を引き寄せる巨大な磁石のようなものだ。そして、浜の仕掛けに関係するかわたれの英知の一端に、おまえさんはもう触れておる」
「……神殿と、王墓か」
「左様。大量の水を一か所に集め、循環させる術と、死者の魂をその場に繋ぎ止める装置だ。……さて、扉の前で、わたしはこう言ったな。すべての鍵と条件を揃えた者を、浜は本来の“ゆりかご”の姿で迎える、と。鍵はもちろん、宝玉だ。では、“ゆりかご”に入るための条件とは何か? 我らの伝承では、こうだ。魂に羽紋を受け継いでいること。そして、“ゆりかごを破壊する術を持っている者”だ。その条件を持たず、しかし少なからず繋がりがある者には、“ゆりかご”はこちらの」
セイファスは、床に広がる青い海と浜を示した。
「三日月の仮の浜の姿を取る。わたしのようなアグニや、あのアウシャの若者や、事情を知らなかったおまえさんは、ゆえに、ゆりかごからは弾かれたが、仮の浜に入ることはできた」
鳶色の瞳が、ハイクをじっと見つめた。
「だが……、ハイク・ルドラ。おまえさんはもうじき、“ゆりかご”に入る資格を得ることだろう。そして “ゆりかご”を開き、破壊することこそが、アグニとルドラの両者が、目的は違えど、心底望んだ悲願なのだ。アグニは償うために。ルドラは救うために」
「何を?」
「友を、だ」
一文字一文字確かめるように、セイファスは丁寧にその単語を発音した。
「ルドラやアギラの同胞達、と言い換えてもよい。終戦の折、滅びの星によって、谷の研究所もまた灰塵へと帰した。だがその時、己の危機を悟った“ゆりかご”は、外敵から自己を守るために、自らその入り口を完全に閉ざしてしまったのだ。保存されていた多くの魂達を、中に残したまま。彼らは生きることも死ぬこともできず、ただ思念のみの存在となって、牢獄と成り果てた “ゆりかご”の中で、今も眠り続けておる。……ゆえに我らは、“ゆりかご”に囚われた魂を解放することを、自らが負うべき使命としたのだ。これが、償いの道だ。使命を忘れぬよう、密かに歴史を守り、継承しながら、國のどこかでひっそりと生きているルドラの一族を見つけ出し、接触しようとした。……だが、ようやくルドラの隠れ里を見つけた時、そこはすでに焼野原だった」
「十年前だな」
「ああ。我らはルドラがすでに滅んでしまったのだと思い、己の無力を恥じ、軽蔑した。我らのせいで、ルドラの一族は異形の存在となり、自由に外の世界で暮らすこともできず、黄昏に脅かされても、逃げることすらできなかった。我らは、二度も彼らを殺めてしまったのだと。だが、それから五年が過ぎたある日、突然何者かによって三日月の浜が開かれた。それまでも何度か浜に引っ張られた者は居たが、彼らは正真正銘、浜に呼ばれ、招かれた特別な人間だった。星の導きによってそのことを視た我らは、すぐさまその者達を突き止めた。驚くべきことに、彼らはまだ年端もいかぬ少年達だった」
「じゃあ、それがつまり」
「そう。おまえさんと、騎士の若者だ。騎士の方は、瞳の色でアウシャの末裔だとすぐに分かった。だが、おまえさん、おまえさんのほうは、初めは何者なのか分からなかった。どこからどう見ても、おまえさんはただの普通の少年に見えた。だが」
老人は一瞬目を閉じ、俯いた。ハイクは低く聞いた。
「視たのか。その、占いとやらで」
「ああ」
「……悪趣味なことで」
「すまない」
セイファスは、静かにハイクに歩み寄った。隣に立ち、手を伸ばし、繊細な蝋細工に触れるように、そっとハイクの背に触れる。
“——それを、一族以外の者に見せてはいけない。己を守るために、どんなに親しい友であっても、生涯黙し、隠し通さなければならない。”
丘から出たあと、長が頻繁に口にしていた台詞だった。そして今も、ハイクはそれを守っている。
セイファスが触れているその位置に、しかし指が当たる感触はない。感覚が無いからだ。背中の中央、子どもの手のひらほどの大きさ。セイファスは目を閉じ、その固い感触を確かめた。
「鱗、だな」
「ああ」
ルドラの一族の者であれば、誰しもが持っていた。帰って来た男衆の魔獣化に最初に気付いた長は、丘向こうの森の木の本数すら数え上げることができたし、母の声があらゆる者を魅了したのは、鳥の血が多く出たためだ。ハイクの場合は、退化した鱗の名残と、優れた聴力だった。歌や音楽が盛んになったのも、元々は、上手く言葉が話せない者が居たためだと聞く。
「まあ、さっきの絵と比べれば、かなり人の姿に戻ってきてはいるんだろうがな」
ハイクはすっと、老人から離れた。長時間他人に触られるのには抵抗がある。
「だが、それならあんた達は、なぜ俺がルドラの一族の生き残りと分かった時点で、すぐに会いに来なかったんだ? こんなに回りくどいことをする必要があったか?」
「……当然、すぐにおまえさんに接触し、この谷に連れてきて宝玉を渡す方法もあった。おまえさんを疑ったことを、どうか許しておくれ。わたしはのう、事実を知ったおまえさんが、怒り、協力を拒否するかもしれないと思ったのだ。わたしは、それだけを……浜に封じられた魂が、永遠に苦しみの枷に囚われ続ける可能性だけを恐れた。正直に告白するとのう、今日のこともまた、わたしにとってはある種の賭けだった。おまえさんが、共に役目を果たしてくれるかどうか……、だが、おまえさんは、我らの告白を受け止めてくれた。わたしは再び、己の不信を恥じた」
「……アグニのことは、まだ信じた訳じゃない」
「当然だ」
「だが、セイファス、あんたの話は信用する。それに、あんたは言った。魂の解放は、ルドラの悲願でもあると。俺も、それは正しいと……、そうするべきだと思う。皆を自由にしてやらないと」
セイファスの左目から、一筋の涙が零れた。老いた皴の峰を伝い、着物の上を転がっていく雫を、ハイクは目で追った。
「ありがとう、ありがとう。なんと高潔な青年か」
セイファスが手放しにハイクを賞賛するので、ハイクはむず痒くなって、話題を逸らした。
「そういや、魂を解放する方法を、まだ聞いてない。それがないと、最後の条件を満たせないんじゃないのか」
「わたしの知る限りでは」
着物の袖で溜まった涙を拭いながら、セイファスが言った。
「この廊下の先に、綴られているらしい。だが、その内容までは、我らにも伝わっておらん。羽紋の付いた魂が触れた時にのみ、最後の真実は開かれるようになっておる」
ハイク達が立っている場所からも、すでに廊下の先にある部屋は見えていた。小さな部屋だ。中に、三体目の大鷲の像が立っている。
「さて、支度をするかのう」
呟いて、セイファスは着物の袖をまくり上げ、己の肘までを覆う手袋を丁寧に外していった。露わになった両腕の様相に、ハイクは目を疑った。
古木の枝のような腕一面を、隙間なく刺青が覆っている。皮膚に直接穿たれた、呪いにも似た術の紋だった。
両手をハイクに差し伸べ、セイファスは厳かに告げた。
「この時のために、アグニの長が受け継いできた陣だ。どれ、宝玉を貸してくれるかのう」
何をするつもりだろう。ハイクは腰の道具入れから二つの珠を取り出し、手渡した。セイファスは左右の手でそれを一つずつ受け取り、ゆっくりと目の高さに掲げる。
「一の珠、二の珠」
呟きとともに、セイファスの入れ墨と、二つの珠の紋が呼応し、光り始めた。これまでにハイクが目にした輝きとは比べ物にならないほど、苛烈な光だ。反射的に手で顔を覆う。だというのに、老人は瞬き一つせず、食い入るように珠を見つめている。
ゆっくりと、セイファスは二つの珠を近づけた。珠同士が触れ合うと、そこから光が弾け、硝子の境界が溶けだしていく。セイファスはそのまま手の中で二つの珠を合わせると、両手をきつく組み、握りこんだ。老人の顔に汗が流れる。顎や鼻の先から汗が落ち、石畳に染みを作る。腕がぶるぶると震えている。
光は最早、熱の領域に達していた。しゅうしゅうと、老人の入れ墨から幾筋もの煙が上がる。焦げるようなにおいがした。ハイクは急いでセイファスの手を掴み、珠を離させようとした。
「おい! あんた、腕が」
「構わん。触れるでない」
有無を言わせぬ口調だった。次第に光が弱まり、セイファスの指の中へと収束していく。やがて完全に光が消え去ると、浅い呼吸を繰り返しながら、セイファスはゆっくりと、入れ墨を纏った指を解いた。
「これが、三の珠だ」
老人の手の中にあったのは、完全な球形をした、今までに見たどんな宝石よりも美しい、透明に輝く硝子玉だった。
*
中で虹が躍っている。珠を見た瞬間、そう思った。
それはあながち的外れではなかった。王墓に刻まれていたものと同じ一対の精緻な翼の紋が、さまざまな角度から光を反射し、虹の色にきらめきながら、珠の中でゆったりと回転している。
ゆらり、と、セイファスの体が傾いた。ハイクが伸ばした手は、今度は拒まれることなく受け入れられた。腕を掴み、支える。
「……おお、済まないのう」
弱々しい声だ。術の行使によって、セイファスは手酷く消耗していた。呼吸は荒く、苦しげで、着物の背中にまで汗の染みが広がっている。そっとその背に触れ、ハイクは驚いた。セイファスの体が、想像よりも遥かに痩せ衰えていたからだ。
急に、目の前のこの老人がひどく脆い存在のように思えた。背を擦るハイクに何度も謝辞を繰り返しながら、震える手で、セイファスはハイクに宝玉を手渡した。一切の質量を感じないほどに三つ目の玉は軽く、正しくそれは羽のようだった。
セイファスは肘まである手袋を嵌め直すと、よろめきつつもどうにか腰を伸ばして立ち上がった。
「……どれ、次へ行くとしよう」
老人の意志は揺らがなかった。だがその様子は、今はいっそ意固地で頑ななようにも思える。ハイクは、細い腕を支えたまま、眉をひそめた。
「まだ動かない方がいいんじゃないか」
「いや……心配には及ばん。それに、ここでどうして倒れることができようか。ゆりかごへの道は、すでに目と鼻の先でわたし達を待ち受けているというのに」
部屋に入った。廊下も明るかったが、それと比べても、部屋はことさらに明るかった。溢れんばかりの日光が直接降り注いでくるような錯覚すら覚える。
ハイクは珠を持ち、大鷲の像の前に屈んだ。セイファスが後ろから言った。
「珠を台座に嵌めれば、当然、何かが起こるだろう。だが、何が起こるのかは、わたしにも分からん」
ハイクは、台座にそっと透明な珠を嵌めた。
すると、驚くべきことに、目の前の真っ白な大鷲の像がゆっくりと翼を広げた。生きているような淀みのない動き方だ。嘴が開き、像が喋り出す。
「追憶を見せよう」
大音量が部屋に響いた。間を置かず、大鷲の像は大きく羽ばたいた。部屋の光が強くなっていく。何も見えず、何も聞こえない。
そこでハイクの意識は途切れ、目の前から、すべてが消えた。