溶けない花弁
校庭の隅に、一本の古木がある。まだかすかに雪の残る、荒野のように荒んだ砂地のいちばん端。寒々とした冬の風に追いやられるようにして、その桜の樹はひそやかに佇んでいた。
長い冬が終わるね。短い春が来るよ。
呟いたその少年はずっとその樹の側に居た。黒い学生服が、地を這うような風を受けてふわりと膨らむ。私は彼と桜の横顔を見つめながら、同じように膨らみかけたセーラー服のスカートを片手で軽く抑える。吐き出す息はまだ白い。このまま冷え切ってしまったら、息も透明になるのかしら。頬と耳がこれだけ真っ赤になっているということは、彼は相当長い時間、ここで桜を見上げていたということなのだろう。
「桜、早く咲かねーかな」
彼の目は桜から離れない。寒さのせいで、瞳がすこし潤んでいる。「そうしてずっと待っているつもり?」と尋ねると、「止めに来たわけじゃないくせに」と、からからと笑われた。枝先にぽつりぽつりと見え隠れする蕾は、まだ小さくて固い。
「確かに冬は終わるけれど、まだこんなに寒いんだもの。咲いたら凍ってしまうかもしれないわ」
「そうかもな。この気温じゃ、花の先から凍りそうだ。でも」
少年はゆっくりと私の方を振り返り、顔の片側だけでぎこちなく微笑んでみせた。
「でも、それでもいいよ」
純度の高い氷のような、驚くほどに澄んだ瞳が私を見る。私はすぐに理解してしまった。
あなたは知っていたのね。次に春が来たとしても、もうこの樹が開花することはないって。
「それでもいいから」
少年は不器用な笑みを浮かべたまま、かじかんだ指先で、愛おしげに老木の幹を撫でた。
グレイのビルの隙間から漏れ出す、冷たい春の薄明かり。凍りついた花びら達が蕾から顔を出して、ガラス細工のようにひらひらと風に舞う。透きとおった桃色が、まだほのくらい水色の空に散らばって、彼と私に降り注ぐ。それはとても綺麗だろう。
「私も」
「え?」
「私ももう一度見てみたいわ。凍っていてもいいから」
私の呟きに、少年は今度こそ本当に可笑しそうに笑いだした。頭上で両腕を広げた桜の木が、明るい声を柔らかく反射する。私はどうしたって切ない気分になるのだけれど、反対に彼の顔からはさっきまでのぎこちなさは跡形もなく消え去っていて、涙の滲んだその横顔が見えないようにそっと目を伏せると、笑い声に混じって、ありがとう、と言われたような気がした。
冷え冷えとした冬の底の校庭で、凍った薄桃色の花が雪のように散る様子を、私たちは夢想する。
(溶けない花弁)