きんいろの帰路

 やわい秋草が頬をくすぐった。閉じた瞼の裏、真っ黒な視界にちらつく日の輪。清流みたいな風のおと。誘われるように瞼を持ち上げると、淡いエメラルドグリーンの空に浮いたやわらかそうな羊雲が、風に撫でつけられて渦のようにくるくると形を変えていた。流れが速い。そのうち雨が降るかもしれないなと、半分眠った頭のまま、とろけたバターみたいに空へと滲んでゆく白い雲を、夢の続きを見ているような気分で眺めていた。
 すこしだけの休憩のつもりが長いこと眠ってしまっていたらしい。ぶるりと身震いをひとつして、僕はようやく体を起こした。秋の暮れは冷える。シャツを軽くはたいて草きれを落としてからくあっと大きく伸びをして、落ちていた麦わらの帽子を拾ってかぶり直した。背中では、果てしなく広がる広大な小麦畑が、金色の波をうねらせている。
 僕が昼寝をしていたのは畑が一望できる小高い丘の上で、すぐ下には小さなトラックが止めてある。後ろに藁を山のくらい積み上げた僕の青い中古のKトラックは、乗りこんで鍵を回すと、かならず一度、ぶるん、と大きくエンジンを震わせる。振動が鍵から直接手につたわって、すこしのあいだを置いてからようやく座席が震えだす。ここにあるものは何もかもが古いのだった。タイヤがぶれないようにハンドルをぐっと握って、アクセルをゆったりと踏みこみ、土を簡単に均しただけのあぜ道を右に曲がる。がとん、と大きく車体が揺れて、僕の体も一緒に弾む。家に帰って積み荷を降ろしたら、今日の仕事はおわりだ。明日は早起きして、隣村の牛飼いのおじさんの所へ藁を届けに行く。この村で暮らしている人の大半は何代も前から小麦を育てていて、だから今くらいの、ちょうど収穫が始まる頃になると、ここら一帯の平野はすっかり黄金色の穂波に包まれてしまうのだった。

 きらめく麦のあいだをゆっくりと流していると、見知った人影があぜ道の端を歩いていた。きっと学校の帰りだ。僕はウインドウを大きく開けて身を乗り出し、おうい、と手を振った。声に気付いた女の子が、驚いたように振り返る。こっちを向いた拍子に、きちんと括られた金髪がきれいな角度で翻った。
 ブレーキを踏んで隣に停車する。ぎぎ、とブリキのおもちゃみたいな音が鳴って、彼女はすこしだけ驚いたように肩を震わせた。
「やあ、おかえり。ええと、よかったらその、乗っていかない? いっしょに帰ろうよ」
 ほんの一瞬、断られるかな、と思ったけれどそんなことはなかった。彼女は戸惑いがちに頷いて、車の反対側に回ると、助手席のドアを開けた。彼女がちゃんとシートに収まったのを確認してから、なるべく静かにトラックを発進させ、学校はどうだった? と尋ねてみる。僕と彼女の年は同じなのだけれど、僕は畑があるから、学校に通っているのは彼女だけだった。
「……今日は、歴史の授業があったわ。それから、お昼に持たせてもらったサンドイッチ、とてもおいしかった。あとでおばさまにお礼を言わなくちゃ」
「そうしてくれたら、きっと母さんも喜ぶよ。君はサンドイッチが好きなの?」
「おばさまの料理はおいしいから、何でも好きよ」
 糸が切れるようにぷつりと会話が途切れて、エンジン音だけが狭い車内を揺らす。彼女は都会からやって来たばかりだった。戦争が始まったから、両親と離れて地方へと逃げてきたらしい。ガクドウソカイってやつだ。僕が知っている中では、かなり難しい部類に入る言葉。でも住んでいた世界があんまり違うからだろうか、彼女はまだこっちでの暮らしには馴染めていないようだった。家に帰ってきたときの顔がほんのちょっぴり緊張していることとか、ささいな不満を言わないこととか、きっとほんとうはもっとおおきな声で喋ったり笑ったりするんだろうなとか、短いあいだでも気付くことは沢山あって、つまり僕たちはまだぜんぜん家族になれていないのだけれども、それでもいつかはこの一面に実った小麦の穂のように、太陽をたくさん浴びて、少しずつ実を膨らましていけるって、僕や母さんや、それから父さんやじいちゃんやばあちゃんだって、ちゃんと信じているのだった。今までだってずっとそうしてきたんだから。
「君がただいまを言えるようになる日が早く来ればいいのにな」
 あぜ道の終点。なだらかな丘の上では、金色の夕焼けに染まったあたたかな家が、煙突から晩ごはんの煙を上げて僕らの帰りを待っている。今日の夕食は、母さんとばあちゃんが麺から作った、トマトソースがたっぷり絡まったパスタと、甘くふかしたジャガイモだ。車の中にまで入りこんできたおいしそうな匂いに、ぐう、と腹が鳴る。彼女が声もなくくすりと笑って、それがちょっぴり恥ずかしかった。確かそう、このときが、彼女が僕に笑いかけてくれた初めての瞬間だったのだ。
「いい匂いね。きっとトマトのパスタよ」
 ああ、この子も好きなんだな。それはなにかとても大事なことのような気がして、僕は頭の隅にパスタのことをそっと書き留めると、トラックと彼女と一緒にごとごと揺れながら、丘の坂道を登っていった。

 小麦畑の帰路を、僕たちは今日もゆく。





(きんいろの帰路)