月光

 喋らぬ狸と目が合った。
 馴染みの骨董屋の陳列棚にいつの間にか並んで居たそいつは、両手で抱えられるくらいの大きさの、小ぶりでかわいらしい狸の置物の姿をとっていた。ただの焼き物かと思ったが、そういう訳ではなかったらしい。陶器でできたつやつやした腹をぷくりと膨らませ、どこを見ているんだかいまひとつわからんような真っ黒な両目が、この時ばかりは俺のことを、じい、と掴んで離さない。どうにも俺は、昔から怪しいものに引かれてしまうたちであった。
「おい小僧、おれの声がきこえているな」
 カウンターに目を走らせると、店主は届いたばかりの夕刊にすっかり集中しているようだった。それを確認してから、渋々「応」と答える。
「悪いが、お喋り相手なら他を当たってくれないか。妖ものと関わって、白痴のような扱いを受けるのにはうんざりしているんだ」
「ふん、人の事情など知らん。いいからおれの話を聞け」
 小さいくせに高慢ちきな狸だ。俺はそれ以上は何も言わず、顔をそむけてさっさと店の出口にむかった。後ろでぽこぽこ騒ぐつんつるてんの狸など気にするものか。引き戸をがらがら開けて外に出る。
 ところが、気が付くと俺は再び店の中に立っていた。目を瞬く。確かに外に出た筈だったが。
「話を聞けと言っただろうが」
 むっつりとした声に振り向くと、目の前の棚にはやはりあの置物があった。思わず眉間を抑えたが、そんなことなど歯牙にもかけずに狸は勝手に話を続けている。愛くるしい見た目のくせに、説経をする坊主のように低い声だ。
 これに封じられているから、おれはここから動けんのだ。とりあえず、お前、今すぐおれを買え。そうすればこの店から出してやろう。そう言って子狸の置物はごとごとと揺れた。

 十七年の人生で最大のため息を吐きながら、俺は骨董屋を後にした。腕には小さな狸を抱えている。これほど身にならない買い物はした事が無い。俺は倹約家なのだ。もろもろの諸悪の権現は、満足そうな様子で俺の腕に収まっている。
「で、これからどうするんだ」
「なんだ、随分と素直じゃないか」
 意外そうな様子で、ぽこぽこと置物は言った。俺はしかめ面で狸を見下ろす。
「お前がそうさせているんだろうが。それに、一度手を貸したなら最後まで付き合うのは当たり前だろう」
 狸はふむと押し黙った。どこか嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。また妙な術を使ったら井戸に沈めるからなと鼻を鳴らすと、口の減らない小僧だと不貞腐れた。
「どこでも良いから広い場所に連れて行け」
 なにぶん田と山しかないような田舎だ。候補はいくつか浮かんだが、結局俺は裏山のススキ野原に足を運んだ。
 ふわふわと顔に当たるススキをざくざくかき分け進んでいく。上り坂で息が上がっている俺に、置物はいたって涼しい声で止まれ、と命令した。
「そろそろ頃合いだな」
「何がだ?」
「時間だよ」
 振り返ると、ちょうど真っ赤な太陽が山の嶺に顔を隠したところだった。夕闇を裂くようにカアカアと烏が飛んでいく。ススキの合間からぼんやりそれを眺めていると、ふいにするりと置物が手から離れた。夜になると力が増す手合いのようだ。置物は紙風船のようにふかふか浮かんで、高く上がった丸い狸に、丸い月が重なった。
「ふむ、満月か。悪くない」
 つるりとした月明かりを、狸の腹が鏡のように反射する。
 眩しさに目を臥せると、次に瞼を開いた時、そこに浮かんで居たのは狸ではなく、銀色の鱗を鎧のように身に纏った、堂々たる巨大な一匹の龍だった。
「ああ、やっと出られた。まったく憎たらしい容れ物め。月の力を溜めるのに百年も掛かってしまった」
 轟く雷鳴のような声をあげ、実に愉快そうに銀の龍は笑った。そうしてふと、下で阿呆のように口を開けている俺に目を止めると、にたりと笑って野原に下りて来る。その巨体でくるくると器用に俺の周りを囲んだかと思うと、小山ほどもある顔をずりずりと寄せてきた。縦に鋭く裂かれた瞳孔が、突き刺すように俺を捉える。
 狸の黒目とは訳が違った。青白い虹彩に浮かぶ筋の、一つ一つがはっきりと見て取れて、まるで二つの丸い月を眺めているようだ。つむじ風のような鼻息に、袴がばさばさと靡く。
「ふん、つまらん小僧め。威厳あふれるこの姿に腰も抜かさんとは」
 どうやら取って食おうとした訳ではないらしい。無意識に詰めていた息を吐き出し、俺は何度目かのため息をついた。
「見せびらかしたいのなら、妖ものに慣れていない奴にやってみることだな。ほら、もう俺なんかに用は無いんだろう。さっさと好きなところへ飛んでいけよ」
 ところが龍は動かない。どうしたのかと首を傾げていると、輝く鱗をしゃらしゃら鳴らしながら、月の龍は呟いた。
「なあ小僧。おれにはおれのことが良く分からんのだよ。封じられた時に記憶も失くしてしまったようだ。帰る場所も分からない」
「……迷子?」
「たわけたことを言うな。ちょっと忘れただけだ。名前とか、いろいろ」
 終わりの方は尻すぼみだった。こうなると威厳もくそもない。俺はほとほと呆れた。
「だから小僧、お前がおれの名を考えてみろ。もし気に入れば、使ってやらんでもない。光栄に思え。おれを助けた礼だ」
 それは礼とは言わないのではないか。しかし、龍が身体をどかす気配は無い。名前を考えるまで帰して貰えなさそうだ。
「そうだなあ。……じゃあ、月光?」
「ゲッコウ? おれの身体が月のように美しいからか? それとも月の光を食うからか?」
「いいや。腹を空かしたお前に月が食い尽くされてしまわないように。いつまでも光り続ける月」
 それを聞いた途端、龍は大鐘楼のような声で盛大に笑いだした。合格だったらしい。不思議と悪い気はせず、俺はやれやれと頭を掻いた。帰る場所が分からんと言っていたし、もしかしてこいつはしばらくここに居る気じゃなかろうか。そんな俺の予感は、このあと見事に的中することとなる。

 俺と月光の奇妙な関係は、こうして幕を開けたのだった。





(月光)