アルバーダ
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上昇も下降もすることなく、雲の上を飛び続けている。茶色の両翼は少しの衰えも見せることはなく、砥いだばかりの剣のように、どこまでも鋭く空気を切り裂いていった。
おそらくこの身体の主には目的地が分かっているのだろう。ハイクはぼんやりと正面を見た。相変わらず視界の右半分は分厚い硝子を隔てたように霞んでいたが、それでも、普段の何倍も視力が良くなっているお陰で、遠くの雲が風に巻き上げられていること、そこに細長い切れ目があることが、簡単に分かった。
この飛行も、どうやら終盤に差し掛かろうとしているらしい。身体の持ち主は翼の傾きを器用に調整しながら、ゆっくりと切れ目に向かって飛んでいく。真上に到着したところで、穴から吹き出る風に乗り、凧の要領で大きく空に舞い上がる。最高点に達すると、翼を折り畳んで、降下の姿勢を取る。
ひゅうひゅうと体に当たる風からは、湿った水のにおいがした。
飛び込んだ、と思った瞬間、引っ張り上げられるようにして目が覚めた。
左右とも明瞭な視界には、見慣れた“蟻の巣”の天井が広がっている。窓の無い地下室は暗い。起き上がろうと体をずらした拍子に、腹の上に乗せていた古文書がずるりとベッドに落ちて、乾いたパンを噛むように、ぼそりと味気ない音を立てた。
「まだ横になって数刻だぞ」
あらゆる鳥のさえずりの美しい部分だけを重ねたかのような大鷲の声は、ハイクの脳内にくわんくわんと反響した。
「いい。もう動く」
「せわしないやつめ」
「おまえからすれば、誰でもそう見えるさ」
ブーツに足を突っ込んで立ち上がり、壁に掛かった水晶灯のランプの元まで歩いていく途中で、二つほど本の山に足を引っかけてしまった気がする。どさどさと紙の束が崩れる音がした。しまったな、と思いはしたが、直すのは面倒だ。床に積んでおいた本の数々は、すべて最近新たに調達してきた、西方の古代遺跡にまつわる文献だ。ハンター仲間、語る塔、古本屋、思いつく限りからかき集めた。
暗がりの中手探りで壁を探し、どうにか目当ての水晶灯を見つけ、つまみを何度か回すと、ようやく鉱石の内側に、蛍にも似た橙の光がぼうっと灯った。弱い光だが、眩しい。照らし出されたハイクのねぐらは、以前よりも雑然としていて、隅には蜘蛛の巣が出来始めている。ハイクは溜め息を吐き、倒してしまった山から本を一冊拾い上げ、付いた埃を払った。
プラトの村から帰還して以降、ハイクの生活はかなり変化していた。日中は蟻の巣に籠って資料を手当たり次第に読み漁り、“真なる史”や“三つの宝玉”を匂わせる記述を探し、日が暮れた後は仲介所の掲示板に通い、めぼしい遺跡が挙がっていればすぐに現地に足を運んだが、すべて不発に終わった。マキナやレオには「いつ休んでるんだ」と呆れられもしたが、ハイクからしてみれば、休息より足を動かしている時間のほうが余程心が安らいだ。大鷲はというと、そんなハイクの傍らで、だまって考え事をする時間が増えた。青の神殿の壁画や、かつて飛んでいたという戦場に思いを馳せているのだろう。
ハイクはベッドに戻ると、先程腹の上から落とした古文書を拾い上げ、本の山の一番上にぞんざいに放り投げた。大鷲は何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。そろそろ仕入れてきた本も読み尽くしそうだ。今日出掛けた帰りに、また新しい資料を探しに行かなければならない。
残り二つの宝玉の手がかりは、まだ見つからない。要領を得ない調査をしているうちに、気付けばすでに一カ月が経とうとしていた。
水を汲んできて顔を洗い、体と髪を拭いた。痺れるような冷たさで一気に目が冴える。着替えを済ませ、上着に手を伸ばすと、大鷲がおやと首を傾げた。
「今日は調べ物はしないのか?」
「ああ、外に出る。約束があるからな」
丈の短い白のジャケットに袖を通し、腰にガンベルトを巻き終わると、ハイクは作業机の上に出していた青の硝子玉に歩み寄った。珠の中で輝く針金細工のような針は、頑なに西を指して動かない。ハイクはそれを袋に戻し、慎重に道具入れの中に仕舞った。特段の理由は無いが、珠を持ち歩く癖が付いていた。
朝方から蟻の巣の外に出るのは久しぶりだ。地上へと抜ける階段を上がっていくと、出口からはすでに明け方の光が漏れていた。眩い朝日、と言えれば上等だったのだが、相も変わらず、太陽は分厚い雲の衣にその身を隠している。
王都は今日も曇天だった。
*
王城前の円形広場で、その人物はハイクを待っていた。鉛色の空の下、傷だらけの銀の甲冑が鈍く光っている。こちらに気付いたその男がにっこりと手を振ったので、ハイクも軽く左手を挙げてそれに応じた。
「おはようハイク、待っていたよ」
「よお、フィデリオ。相変わらず、朝っぱらから隙のないことで」
「何だかもう習慣になってしまってね。この重さがないと落ち着かないんだ」
「へえ、言うようになったじゃないか。小隊長殿?」
「はは……ちゃんとそいう風に見えていればいいんだけれど」
この時間にもかかわらず、フィデリオは完璧な騎士の正装に身を包んでいた。見るたびに窮屈そうな鎧だと思ってしまうのだが、昔からこの男は、それを事もなげに着込んで爽快に笑うのが得意だ。
「じゃあ、行こうか。本当はジーナとジオンもきみに会いたがっていたんだけれど、急に他の任務が入ってしまってね。昨日から城下町に下りてもらっているんだ」
「そうだったのか。悪いな、忙しい時に」
「ああ、いや、そういう意味で言ったんじゃないんだよ。大事な親友の頼みだもの、協力は惜しまないさ」
「へいへい。ありがとさん」
恥ずかしげもなく正面から言ってくるのにも、もう慣れてしまっている。並んで広場を出て、王城へ続く石段へと歩を進めた。
「にしたって、まさか果て越えの部隊まで王都に戻されちまうなんてな。騎士団にも、いよいよ余裕がなくなってきたか」
「……最近は、どうにも國がきな臭くてね。皆働きづめだ」
果て越えとは、騎士団内で前々から計画されている、國の外に広がる乾いた塩の海を越え、そのむこうにあると言われている新大陸を目指す試みのことだ。フィデリオ率いる小隊は以前からこの作戦に参加していたのだが、國の情勢が悪化したことで計画は一時的に中断され、彼らもまた王都への帰還を命じられていたのだった。
「きみはとっくに気付いていると思うけれど、黄昏の進行が早まってきているんだ。確か、胡蝶の庭園で新種の魔獣を見つけたのはきみだったな。あそこだけじゃない。北東の山向こうに村があったんだけれど、そこにもとうとう魔獣が出た。ほとんど全員がやられたらしい。騎士団が駆けつける間もなかった。……いつかは来るだろうと、皆どこかで分かっていたのに」
ギタの故郷だった。眉間に深く皺を寄せ、歯を食いしばるフィデリオは、村が滅びたのは自分のせいだとでも言いだしそうな顔をしていた。きっと救えなかった人々に今でもひどく心を砕いているのだろう。素直に、眩しいな、と思い、ハイクは目を細めた。どんな修羅を潜り抜けても、未だにこの男は、國の全員の命を救う手立てがあると心の底から信じているのだ。こういう男が上に行ける騎士団なのだから、まだ希望はあると信じたい。
「魔獣以外にも、國のあちこちで土地枯れや水腐れが多発していると聞くよ。だから、今回きみが見つけた情報を最初に僕に……いや、騎士団に提供してくれたことは本当にありがたかったんだ。正直、僕らもかなり焦っていてね。可能性のありそうなものは、なんでも捕まえておきたいんだよ」
「真なる史、か」
ハイクは石段を上りながら、ぼそりと呟いた。巨大な城門が近づいている。
「うん。神殿の壁画が、黄昏の真髄への一手になればと、皆期待しているんだ。あそこまで詳細に当時の記録が残されているのは稀だろう。……それで、どうだい。きみの方は、進展はあったのかい」
「いいや、さっぱりだ。虱潰しに探し回ってるんだけどな」
ハンター一人の手に余る代物だという直感は、青の神殿で壁画が発現した時点で抱いていた。一月前、王都に帰還したハイクが真っ先に向かったのは、他でもない“語る塔”だ。フィデリオに手紙を送り、王都に戻っていると分かるや否や、神殿と壁画の情報を流し、國公式の調査を求めた。今日はその報告が上がって来る日だったのだ。
騎士の詰所は、國王の住まう城のすぐ傍ら、まさしく王の傍に控える騎士のように、かっちりと据え付けられていた。ハイクも中に入るのは初めてだ。二階建ての平たい建物だった。
忙しいと言うフィデリオの言葉の通り、広さの割に人影はまばらで、たまに鍛錬中の者を見かける程度だったが、フィデリオが通れば皆その場で足を止め、ぴしりと腕を定規のように直角に曲げて、騎士の形式の挨拶をした。慕われているようだ。二階に上がり、一般兵が寝る大部屋をいくつか過ぎて、フィデリオの執務室に入る。中にはそれなりに高価そうな調度品がしつらえられているものの、最近まで出ずっぱりだったフィデリオはほとんど使っていないようだった。埃一つない食器棚にきちんと整列しているティーカップを横目に、早々にハイクは切り出した。
「で、報告はいつ頃上がって来る予定なんだ?」
「もうここにあるよ」
フィデリオは机の上に置かれていた、紐で綴じられた分厚い紙の束を掴んで「ほら」と掲げてみせた。ほお、とハイクは目を見開いた。
「早いな」
「ああ、急いで貰ったからね。読むかい?」
「いや、いい。おまえのことだから、もう目を通し終わってるんだろう。要点だけ教えてくれよ」
「そう? きみがいいなら、僕は構わないけれど……相変わらずきみは、人を読むのが上手いよね。今回の調査だって、こちらが受けることまで予測して、プラトの村長に予め話を通しておいたんだろう。僕が断ったらどうするつもりだったんだい?」
「どうするも何も、元より無用な心配だろ」
指摘したお人好しは「あはは、そうかも」と照れ臭そうな笑顔でさらりと流され、言外に治すつもりがないことを伝えてくる。大鷲が「確かに、おまえよりは大きな男だな」と、くるくると喉を鳴らした。余計なお世話だ。
互いに打ち合わせ用の椅子に腰を落ち着けると、フィデリオは話し始めた。
「まず、“青の神殿”についてだけれど、きみの予想通り、あの神殿は、元は山の地下から水を汲み上げて村に送り、そして再び山へと戻すための、要は上下水道の設備の核だったらしい。宝玉は、今で言うところの竜核に近い働きをしていたんだろうね」
ハイクは腰の道具入れから珠を取り出した。こんな小さな硝子玉に、どれだけの失われた技術(ロストテクノロジー)が詰め込まれているのだろう。珠は淡く輝き、ハイクが手の中で揺らす度に、光の粒をきらきらと躍らせた。
「竜核ってことは、要は神殿の動力源だったってことか」
青い目を珠に向けながら、フィデリオは頷いた。
「そうだね。ただ、残念だけどこの珠にはもうそんな力は無いし、今の技術では復元もできないらしい。壁画を記した誰かも、そのことを知っていたのかもしれないね。……で、きみが知りたいのは、きっとここからだと思うけど」
フィデリオは紙束をぱらぱらと捲り、真ん中あたりで手を止めると、ハイクにもよく見えるように開いた頁を机の上に置いた。
薄茶色の羊皮紙の上には、あの凄惨な壁画の写しが印刷されていた。大鷲が一瞬びくりと震えたが、ハイクは構わず中を覗き込んだ。
「この壁画は、かわたれ末期の時代の物のようだよ。今の王家が國を統一するよりもずっと前にレイクァの一帯を統治していた小国の、繁栄と滅亡の記録だ」
「滅亡の方を、かなりご丁寧に描いて下さったみたいだけどな」
ハイクが鼻を鳴らすと、フィデリオが困ったように眉根を下げた。
「いずれにせよ、貴重な資料だよ。きみ達ハンターなら知っているだろうけれど、あの時代の戦争について、こうも客観的に淡々と、まるで何かを観測するみたいにして記録している例は少ないんだ。普通はどこの文献も、その国の主観が混じるから、史実は歪むものだけれど。……きみが苛立つ気持ちは分かるけれどね」
同情するような眼差しで、フィデリオはハイクを見た。決めつけるようなその口調に、ハイクは憤慨した。
「おい、待てよ。俺は別に苛立ってなんか」
「いいや、苛立ってる。だってきみ、今朝はまだ一度も笑っていないじゃないか」
気付いてなかっただろう、と苦笑された。そう、だっただろうか。ハイクは咄嗟に、左手にあった食器棚に顔を向けた。
傷一つない硝子窓には、見慣れた灰色の髪と目を持つ男が映っていて、驚くほど強張った顔で、こちらをひたりと睨み返していた。「今朝からじゃない、先月からだ」と、大鷲が息をふんふんと吐く。ハイクは、無意識のうちに身の回りの人や物を不満のはけ口としていたことに気付き、自分の言動を恥じた。
「あー……。悪い」
「気にしないよ。今回の件、ルドラの一族に関わりのあることなんだろう」
「気付いてたのか」
「どんなことも自分でやりたがるきみが、騎士団を頼ってくるなんてね。それに、きみをそこまで追い込むことができるものは、そんなに多くないだろうから」
確かに昔、酒を飲みながらぽろりと明かしたことはあった。丘のことや、散らばった一族のこと。それをフィデリオは今日まで覚えていたのだ。
「で、きみの一族は、一体この壁画にどう関わっているんだい。教えてくれるんだろう?」
「気乗りしないと言ったら?」
「元より無用な心配だと思うな」
どうして今まで忘れていたのだろう。目の前のこの男が、おそらく一番ハイクの過去に近しい所に居たことを、どうして今まで思い出せなかったのだろう。それ程までに視野が狭まっていたということか。笑っているフィデリオの目が、まるでなんでも飲み込む底なしの海のように思えて、ハイクはついに、自分からふいと目を逸らした。両手を挙げ、首を左右に振る。
「ああもう、分かった、分かったよ。降参だ」
「きみに初めて口で勝った」
フィデリオは嬉しそうににっこりと笑った。得意げな顔が腹立たしく、悪態の一つでもついてやろうとしたが、口からは先に溜め息が漏れていた。「少し緩んだな」と、大鷲がけらりと鳴く。何が、とは、悔しかったので聞かなかった。
「ルドラは大昔、ここに居たのかもしれない」
壁画の兵士を指差す。推論の域を出ないので、曖昧な言い方になった。そうでなければ良いのに、という期待もわずかにある。旧友がわずかに息を呑んだ。
「その報告書にも、詩の訳は載ってるだろ。“償いの道”ときて、この壁画だ。あとはまあ、分かるだろ」
フィデリオは次第に難しい顔になっていった。これ以上は説明する必要もなさそうだ。目の前の男は、ゆっくりと言葉を区切りながら、確かめるように呟いた。
「じゃあ、それでもきみ達は、“真なる史”を暴こうというのかい」
きみ達、という言い方はつまり、ハイクと大鷲のことを示していた。ルドラと大鷲、両方がこの壁画に関係していることを、フィデリオは暗黙の内に了解していた。
隠された壁画、見えなくなった歴史。ありのままの真実はいつだって誰かにとっては不都合なものだ。そんな真実が、血塗られた歴史の上に立つこの國には、いくらでも埋まっている。……ゆえに、この壁画の特殊な点はその内容ではない。神殿も、珠も、歴史から抹消されたのではなく、ただ隠されていたのだ。守られるべき宝物のように、幾重の手順を踏むことでしか開かれない扉の奥に、後生大事に仕舞い込まれていた。それが何を示すのかはまだ分からない。だが、ルドラであることを選んだ以上、大鷲と共にあると選んだ以上、必ず解き明かさねばならない。自分が何者であったのかを知らなければ、この先ハイクは何者にもなれず、どこにも行けない、そんな気がする。
ハイクは顔を上げ、フィデリオの視線を受け止めた。そういえば、こうしてしっかり青い目を見るのも、今朝は初めてだ。
「ルドラは歴史の破壊を望んでいなかった。世に知られれば都合が悪い真実を、彼らは何故か手厚く保護していた。どうしてだ。何のために。フィデリオ、俺はそれが知りたい」
「きみ達がきみ達であるために?」
「そうだ」
予想していた答えだったのだろう。フィデリオは肩の力を抜き、息を吐くように、ふ、と笑った。
「……もう一つ、報告が残っているよ」
フィデリオは資料の紐を解き始めた。そうしてばらした紙を二枚、隣り合うようにして横に並べる。籠手で守られた右手が、左側の資料を示した。壁画の一部を大きく拡大した物らしい。
「見ての通り、この壁画は複雑な紋様、つまり、ものすごく沢山の種類の線の組み合わせで出来ている。けれど、その組み合わせ方は無秩序じゃない。ちゃんと法則があったんだ」
描かれているのは、戦が終わった場面だ。両腕を広げ、受け止めるようにして雨に打たれている人間が立っていた。雨の水滴や服の模様、それらの隙間にすら何かしらの線が刻まれていて、まるで空白が出来るのを極度に嫌っているかのような描きこみ方は、脅迫じみたものすら感じさせる。
「法則ねえ。そんなものがあるなんて信じられねえな」
「僕も、最初はそう思った。でも、こっちならどうかな」
フィデリオは、続いて右側の紙を指でとんとんと叩いた。左の図をさらに大きく拡大したものらしい。青い煉瓦数個分が、紙の枠の中に収まっている。
「あ」
「気付いたかい?」
「ああ……、この模様、隣と繋がってないんだ」
というよりも、不自然に線が途切れている、と言った方がいいのかもしれない。遠目から眺めた時は複雑すぎて気付かなかった。だが、こうして見ると、煉瓦の継ぎ目で線は突然ぶっつりと切られ、隣の煉瓦と全く繋がっていないのだ。納得して、顔を上げると、細まった青い目がきらりと光ってこちらを見ていた。嫌というほど見覚えがある。これは、あれだ。この男、おそらく今、内心とても面白がっている。
「当たりだ、ハイク。次にこれを見て欲しい」
銀色の指が、煉瓦の右上を指差した。細かくて見づらい。顔を近づけると、フィデリオの指の先に、同じく指の先くらいの大きさの印が彫り込まれていることに気が付いた。
一筆描きの簡単な物だ。羽根箒のような形をしたそれに、ハイクはその昔広く使われていた、とある地方の“F”という古代文字を連想した。
ハイクははっとして、珠の中の針と、その印とを見比べた。似ている。とても。
「神殿の壁の煉瓦のうち、きっかり四分の一に同じ印があった」
四分の一。つまりあの壁一枚分だ。口を動かしながら、フィデリオは再び紙の束を数枚捲った。先に並べた二枚の下に、せっせと新しい資料を並べていく。
「その印付きの煉瓦だけを抜き出したのがこれとこれと、これ。で」
しまいには大判の図面が出てきた。今まで並べた資料の上に被せるように、フィデリオはばさりとそれを広げてみせる。
「線と線が繋がるように煉瓦を並び替えたものが、これだ」
ハイクは大きく目を見開いた。ぐ、と喉が鳴る。
「 “汝に青の導きあれ”。そうなんだよハイク。青の導きは、珠だけじゃなかったんだ」
それは、かわたれの世の、きめ細やかな地形図だった。
*
西へ向かう飛行船に、乗客はまばらだった。船が街に下りるたびに人は減り、しまいにはとうとうハイクと操縦士だけが残された。ここより先に、もう街は無い。
珠はコンパス、壁画は地図。羽根の紋はその両方で旅人を導いていたのだった。珠の中に一本だけのように思われた羽が無数の広がりを見せた時、心臓の奥が、ざわり、と泡立った。興奮だったのだろうか。しかしそれは、後に起こる出来事の前触れだったのかもしれない。
「 “王墓”という場所の存在が、この地図には示されていた」
騎士団の執務室。机上にでかでかと広がる地図の上に、國の北西部が丸ごと乗っている。“王墓”と思しき場所はすぐに分かった。さざなみのように精密に引かれた等高線の上に、丸く印が付いている。記載された地名は、古代語でもそのまま、“王の墓”と読めた。
西海岸から吹く温暖な風の影響が強いこの一帯には、確か未開の密林が広がっていたはずだ。
「王っていうのは、壁画に描かれてた、あのプラトの王のことか?」
「そうかもしれない、としか今は言えない。旧世界に王は沢山居たからね。でも確かに、“王墓”は今も実在している」
地図を元に団が現地を調べた結果、新たな墓群が見つかった。まだ、どこのギルドにも調査依頼は出していない。
どうするんだい。伺うように、フィデリオはハイクに投げかけた。地図を見たまま、こいつの写しをくれ、と言えば、友人はどこか諦めた様子で、ただ苦笑し、机の引き出しから折りたたまれた図版をハイクに差し出した。
「きっとそう言うと思って、もう用意してあるよ。なんなら僕も行くし」
「いや。せっかく小隊長殿が直々に手を回してくれたんだ。ここから先は、本業のトレジャーハンターにお任せあれ、ってことさ」
騎士には騎士の、ハンターにはハンターのすべきことがある。これ以上をフィデリオに頼るのは過分だろう。
「これだけ揃えてくれりゃあ十分だ。戻ってきたら連絡する」
「分かった。だけど、密林の奥地だ。何が待っているか予想できない。それでも一人で行くつもりかい」
「まあ、人間は一人だけどな」
ちらりと銃を見る。ああ、と了解したようにフィデリオが頷いて、ハイクのガンベルトに向かって「よろしく頼むよ」と笑いかけた。銃は力強く、がたり、と震えた。
融通をきかせてもらった分の上乗せがあるから、今回の探索に報酬はない。ただ、仮にあったとしても受け取らなかっただろう。森の入り口へと向かう飛行船はゆっくりと高度を上げ、街から遠ざかっていく。空をたゆたう飛行船の、四角く空いた小さな窓から覗き見た最後の街は、広い大地の上に拠り所もなくぽつねんと佇んでいて、まるで片付け忘れた玩具のようだった。終点までは、まだしばらく時間がある。
無口な操縦士に甘えて、ハイクは最後尾の座席に深く腰掛け、少し眠った。夢は見なかった。
*
王墓は森の奥地に位置しているが、そこに至るための道は騎士団によってしっかりと印付けがなされていた。墓群と表現したフィデリオの言葉の通り、道中にはいくつも、角ばった石碑が連なっている。先に進むにつれ石碑の大きさと数は増していき、旺盛に絡みつくシダ植物と合わさって、その場に異様な光景を作り上げていた。木も、花も、草も、その葉は皆分厚く、攻撃的な緑色で、蔦や根は大蛇よりも太かった。育ちすぎた植物は過分な水と果実をもたらし、黄昏によって行き場を無くした動物達を呼ぶ。飢えた彼らは森を貪り、あるいは互いに貪り合い、そうして死んだ動物の亡骸を、森が再び食らう。暴走と呼べるほどの生と死の循環が、ここでは繰り広げられていた。
やがて、鬱蒼とした木々の隙間から巨大な岩山が覗いた。輪郭だけで、人工の建造物だ、とハイクは判断した。
自分が生きた証を後世に残したい、とは誰しも一度は考える事だが、古来の権力者はかなり強引な方法でそれをやってのけていた。それがつまり、目の前のこの遺跡だ。規模や様式は文化によって様々だが、大半が、巨石を三角の山のように積み上げて築かれる。ただの墓と呼ぶには大きすぎるその建造物達は、しばしばトレジャーハンターの間で、死者の宮殿、と呼ばれる。
しかし、この“王墓”は他の宮殿と比べても奇妙だった。この手の遺跡の入り口は、普通固く閉ざされているか、外から見えないよう巧妙に隠されているものだが、王墓のそれはすでにぽっかりと開け放たれている。加えて、少し荒れているようだ。偽の入り口だろうか。ハイクが入り口に上って中を覗いていた、その時だった。
どおん、と地鳴りがして、王墓全体ががたがたと震えた。直後、通路の奥から、何者かが転がるように駆けてくる。魔獣か、いや、人間だった。しかも、見知った人物だ。
「レオ?」
小柄なそのトレジャーハンターは、こちらに気付いた途端、泣き出しそうなほどに顔を歪めた。ぜい、ぜい、と荒い息で、ルドラ、と悲痛な声に呼ばれる。いつも無邪気ににっかりと笑うレオの顔は、今や見る影もなく青ざめ、泥に汚れ、額からは血が流れていた。服はあちこちが擦り切れ、数えきれない傷を負っている。どうしてレオがここに居るのだろう。他のハンター達に、まだここの情報は流れていないはずだ。ハイクが駆け寄っていくと、すがりつくようにレオは叫んだ。
「助けてくれ」
内部の道は緩やかな下り坂になっており、そのまま地下へ伸びていた。二人でほとんど飛び降りるようにして階段を駆け下り、長い石廊を突き進みながら、レオの説明は続いた。
レオは長いこと、マキナと同じハンターギルドに籍を置き、行動を共にしている。最近彼らがどこか西方の調査依頼を受けたらしいという噂は、酒場に通い詰めていたハイクの耳にも届いていた。そして、彼らは無事に仕事を終え、帰路についた。そこまでは良かった。
「この森の傍を通った時だった。たまたま騎士団の調査隊を見かけて、そいつらが森の奥から出てきたんで、ちょっと行ってみようってことになったんだ。奴ら、新しい遺跡の在り処を掴んだんだろうってさ」
あとはわけもなかった。その先で、レオ達は未発見の墓群を見つけた。おそらく騎士団は遺跡に手を付けずに去ったはずだ。騎士団の仕事は、あくまでも國の治安を守ることだ。だから騎士団は、ハンターに依頼を出すために、まず遺跡の位置だけを特定して、道に印をつけ、あとはそそくさと戻っていく。今回はフィデリオが言い添えてくれていたお陰で、ハイクは先んじてその情報を入手できたが、あくまでもそれは裏技だ。そしてレオ達は、思いがけず発見した、未知なる遺跡に乗りこんだ。意気揚々と。
「初めは順調だった。けど」
言いかけたレオの声に被さって、奥から爆発音が響いた。空気が歪んで、びりびりと顔に当たる。
「機械人形だ」
叫ぶように、レオが言った。
ハイクとレオがようやく駆け付けた時には、すべての決着がついたあとだった。広い石室は、不気味なほど静寂で満ちていた。酷い有り様だ。床は滅茶苦茶に抉れ、壁はビスケットでも叩き割るように簡単に叩き潰され、外側の土砂が中にまで雪崩れかかっている。そして、破壊の限りを尽くした張本人であろう、一体の巨大な機械人形は、広い部屋の中央で四肢をばらばらに投げ出して事切れていた。家一軒分は下らない大きさだ。人型の機械の胸の中央には、深々と大剣が突き刺さっている。マキナが愛用している剣だ。剣に貫かれ、機械人形の竜核は、見事に真っ二つに割られていた。
戦闘のあとの静寂がどんな意味を持っているのか、知らないわけもない。ハイクとレオは走り出すと、瓦礫の中で生存者を探し始めた。声を張り上げ、目をこらし、人の気配がしないか、部屋中を見て回る。
やがて、隙間風のような音をハイクの耳は拾った。巨人によって叩き壊された壁の下方からだ。ハイクは鋭くレオを呼び、二人がかりで慎重に瓦礫をどけていった。その下から現れた金髪、日に焼けた顔。胸から下を岩に埋める格好で、マキナがうつ伏せに伏していた。
「……よお、常空の。奇遇だな」
声が出なかった。常から音に敏感な耳が、わずかな呼吸の違いを聞き分けてしまった。
内臓の一部、あるいは、全体。
立ち尽くすハイクの横で、レオが嬉しそうに声を上げ、顔いっぱいに喜色を浮かべた。
「マキナ! 良かった、今出してやるからな!」
マキナはすぐに答えようとしたようだが、息継ぎが上手くいかず、弱々しく咳き込んだ。溢れるように口から血の塊が落ちる。ひゅう、ひゅう、と、破けた気管から空気が漏れる音がする。
「レオも無事だな。悪いが二人とも、もうちっと、寄ってくれや。いまいち、顔が見えなくてな」
「何言ってんだよ。そんなことより、今こいつをどけてやるって言って」
「大丈夫だ、レオ」
断定する言い方に、とうとうレオも気付いた。マキナが大丈夫だと言っているのは、体のことではない。
「助けなくて、いい。大丈夫だ」
参ったように力なく笑うマキナの左目は、血で真っ赤に染まっていた。ハイクは言われた通りマキナに近寄ってから、他の奴らは、と尋ねた。マキナはただ、だまって首を横に振った。
「半分、だ」
「え?」
「半分だった。この遺跡は、ここで、まだ、半分だ。あいつが守っていたのは、あの扉だ」
マキナの目線を辿った。石室の最奥の壁には確かに薄い切れ目が入っている。あの壁全体が、巨大な仕掛け扉になっているらしい。
「奥を拝めねえのは残念だが、まあ、あとの手柄は、若いもんに譲ってやるとするかねえ」
おい、ルドラ。呼ばれて、耳をマキナに寄せる。うっすらと、これから何を言われるのか分かる。
「おまえの歌で、俺を殺してくれないか」
何言ってんだよ、と、震えながらレオが叫んだ。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ! そんなことさせてたまるかよ! おいルドラ、どうして止めるんだ、なんで!」
力ずくでレオが瓦礫をどかそうとしたが、ハイクはだまってそれを押し止めた。無理に岩を動かせば、傷を塞ぐものがなくなって、そうなればマキナはひとたまりもないだろう。どこか面白そうにその様子を眺めていたマキナが、のんびりとレオを見上げた。
「やめとけ、レオ。余計に崩れちまう。おまえらまで死なせたくねえ。……なあ、頼むよルドラ。魔獣になるのだけはごめんだ」
また、マキナは咳き込み、口から血を溢れさせた。その体内からしゃり、しゃりと硝子片がこすり合うような音がして、マキナの顎を伝っていた血液が見覚えのある紅の水晶に変わる。レオが怯えた声で「嘘だろ」と呟き、ハイクは自分がすべきことを悟った。答えは一つしかなかった。請われたのなら、応えねばならない。
「分かった。あんたが望むなら、喜んで」
どこか安堵したように、マキナは息をついた。らしくもない、弱々しいばかりの微笑。なあ頼むよと言いたいのはハイクの方だった。
「すまねえな。こんな役を押し付けちまって」
「高くつくぜ、旦那」
「心配すんな。報酬は、そいつでどうだ」
マキナは、側に転がっていたザックを顎でしゃくった。紐が緩んで、いくつか中身が外に散らばっている。その中に、日用品に紛れて一際きらめく赤いものがあった。
「扉と一緒に、人形が守っていた。台座はもうやられちまったが、そいつはまあ、大丈夫だろう」
「……ああ」
ああ、そうか。あれか。ハイクは屈んでそれを手に取った。
苦いものが喉の奥からこみ上げてくる。部屋に入った時にはすでに、道具入れの中で、青の宝玉が脈を打っていた。
誰に向けてでもなく問いかける。“真なる史”を掴む為の、これがその対価だとでも言うのだろうか。真実と命と、天秤にでもかけて、どちらが重いか判断しろとでも言うのか。
青の宝玉とそっくり同じ造りの、赤く輝く硝子珠を拾い上げる。
二つ目の宝玉を、ハイクは手に入れた。
「確かに、受け取った」
「交渉成立だな。そんじゃ、まあ、見届けてくれや」
死に瀕しているだなんて信じられないほど、柔らかな声だった。雨の直前に吹く風に似ていた。
マキナの正面に両膝をつく。背筋を伸ばし、ハイクは言った。
「では、お客人。ご注文は」
マキナは軽やかに告げた。
「最期に朝焼けが見てえな」
頷いた。後ろでレオが嗚咽を堪えている。
「聞き納めだ。とっておきのを頼むぜ」
「得意のヴァイオリンはいいのかよ」
せめてもの冗談を絞り出すと、マキナはけらけらと笑った。
「いいんだ。もう、聞かせたいと思った奴らには、たらふく聞かせてやったから、それでいい」
まだ血に濡れていない方の金の瞳が、涙に光る。
歌う曲は決まっていた。在りし日の酒場での出来事を思い出しながら、ハイクは息を吸いこんだ。
「おうい、おまえ、そうそう、そこのおまえだよ。暇ならちょいと相手してくれや」
話しかけてきた大男は、グラスを二つ持っていた。忘れもしない、五年前の仲介所だ。自分でもどうしてそんな気を起こしたのかは覚えていない。しかし、その口調があまりに自然だったので、ハイクは気が付いた時には「いいよ」と頷き、テーブルの向かいに腰掛けていた。
当時のハイクはまだ少年だった。出会って間もない大鷲と二人きり、一日でも早く黄昏に関する情報を集めようと躍起になり、國を駆けずり回っていた。黄昏を打ち倒し、世界が平和になれば、皆にまた会える、頑なにそう信じていた頃。突然仲介所の門を叩いた身元不明の少年の、まるで駆り立てられるようなその様子に気圧されて、周囲のトレジャーハンター達はハイクから距離を取っていた。
酒を一度も飲んだことがない、と言うと、男はぽっかりと口をあけ、次の瞬間には大声でげらげらと笑い出した。むかっ腹が立って、俺にはそんな暇はねえんだ、と吐き出すように言うと、大男は憐れむような視線をハイクに向けた。その金色の目が思いのほか優しい色を帯びていたので、ハイクはぐ、と押し黙った。
「おまえさんみたいな前途ある若者が、さみしいことを言うんじゃねえよ。それにここじゃ、酒は必修事項みたいなもんだぜ」
そういうことだから、まあ、まずは飲んでみろ。言われた時には、目の前のグラスに並々と注がれていた。男の目と同じ色をした、黄金色の麦酒だ。手を付けないでいると、「毒じゃあるまいし、そんなにびびるようなもんでもねえよ」と、くつくつと喉を鳴らされ、つい「びびってない」と反発したと同時に、しまった、と思ったが遅かった。男はしたり顔で、言ったな坊主? とグラスをハイクに押し付けた。
初めて口に含んだ酒は、強い苦みを伴っていた。それに、舌の上で泡がしゅわしゅわと弾けて、ハイクはその食感に内心でとても驚いたが、ここで咳き込むのはプライドが許さない。どうにか堪え、無理やり飲み込んだ。気泡がまだ残っているのか胃の中が落ち着かない。端的に言って不味かった。あからさまに微妙な顔をしたハイクを、男は面白がるように眺めていたが、ならこっちはどうだ、と、カウンターから別のグラスを持ってきた。飲んでみるととろりと甘い。白桃、という果物を潰して、アルコールと混ぜたものらしい。こういう酒なら昔、故郷で大人達が舐めているのを見たことがあった。
すべて飲み終わる頃には腹の底がじんわりと温まっていて、常より口も回るようになっていた。酒と言葉を交わすうちに本来の明るい一面を覗かせ始めた少年を、男がどう思ったかは分からない。ハイクが元々歌で日銭を稼いでいたと分かると、大男はたいそう喜んだ。
「そいつあいい。ちょっと歌ってみろよ、なんでもいいから」
少し考えてから、ハイクは口の端をつり上げた。酒の勢いというやつだ。すい、と立ち上がり、不思議そうに見上げてくる大男をちらりと一瞥してから、腹に息を溜め込んで、最初の音を静かに押し出した。踵で拍を取り、堂々と、朗々と。ゆっくり一回、舞うようにターンして、晴れやかな少年の歌声が、酒場の喧噪のただ中に流れていく。靄のようにこもった酒精の中を、ハイクの歌は一筋の風となって吹き抜けていった。周囲のハンター達は動きを止め、驚いた様子でハイクを見やった。
それは、嵐を呼ぶ風。咆哮と呼ぶには幼い、しかしそれでも、ルドラの声。ハイクにとっては歌は誇りに等しい。どうだ、とにんまり笑って振り返ると、大男はぽかんとその場に静止していたが、次の瞬間、朝日に照らされたような顔で盛大に笑いだした。
「アルバーダ! 上等だぜ坊主!」
アルバーダは夜明けの歌という意味だ。ひどく嬉しそうに、男は「よしよし」と頷きながらザックの中から黒い皮のケースを引っぱり出した。蓋を開いて出てきた楽器に、ハイクは目を丸くした。てっきりここの連中は、そういったものを軽んじると思っていたのだ。
「ほら、もっぺん歌えよ。酔っ払い連中の湿気た面を、俺達の音で吹き飛ばしてやろうぜ」
あ、忘れてた、と、ヴァイオリン弾きの大男は呟いた。うっかり、あるいは、たまたま。そうして互いの名を知った。
「俺はマキナってんだ。おまえは?」
その時に歌った歌だった。初めてルドラ以外の同胞と奏でた曲だった。
歌い終わった時、あの日飲んだ麦酒の苦みが、ふわりと鼻筋を抜けたような気がした。
誰も、何も言わなかった。何も言えなかった。マキナの体の組織が魔獣へと転じる無情な音だけが、滅茶苦茶になった大広間に空しく響く。
ひどく時間をかけて、ハイクは銃を抜いた。歌で人は死なない。マキナが望んだのは、こういうことだ。
いつもの武器が、持ち上げようとするハイクに逆らおうとしているのかと思うほどに重く感じた。その重量が、ずしり、と、手の中で落ちる。握りの部分を両手で包みこみ、その上に自分の額を押し当て、ハイクはきつく目を閉じた。
……おまえの過去を知りながら、それでもここでおまえを使う俺を、どうか許してくれ。
大きな一対の翼に体を包まれたような気配がして、それが大鷲の答えだった。
「殺すのではない。救うのだ」
自分にだけ聞こえる優しい声に、分かってる、と呟いて、ハイクはマキナを見下ろし、静かに告げた。
「マキナ・ギレンバート。あなたに心からの敬意と、感謝を」
「ああ。楽しかったぜ」
それだけ言って、マキナはほほ笑み、そっと瞼を閉じた。その額の中央に、ハイクは寸分違わず照準を合わせた。
もう、目は瞑らなかった。
「よい、旅路を」
忘れてはならない。己の放った弾丸が、大切な友の頭蓋を割り、脳を貫き、命を砕いたその音を。かすかな火薬の香りを。引き金の感触を。一人の男の体から、魂が抜け落ちたその瞬間を。
すべてこの目に焼き付けなければならない。記憶し続けなければならない。
撃った反動が手の細胞の一つ一つに染みこんで、血管を通り、心臓を揺らす。全身に巡る。
その時ハイクの中に、何かが流れ込んで来た。ぐわん。大きく響いて、視界が白く飛ぶ。借り物の力に似ていたが、それは今までのどんな記憶よりも膨大で、鮮明で、そしてとても暖かく、眩しかった。
目の前に金髪の子どもが立っていた。街角に佇み、恨むような目で道行く人々を睨んでいる。
孤児だ。ハイクはすぐに察した。
ある日露店で盗みを働いた少年は、運悪く店主に掴まってしまった。彼らは夫婦だった。日が暮れるまでこんこんと叱られ、けれども最後に彼らは、はあ、と息を吐いて、うちに来い、と言って笑った。
やがて少年は成長し、トレジャーハンターになった。生まれて初めて見つけた財宝のきらめき。高揚して、仲間達と手を叩き合い分かち合った喜び。あっという間に虜になった。忙しく仕事をこなす日々。そんな中、青年は一人のヴァイオリン弾きの少女と出会う。青年は稼いだ金貨で楽器を買い、必死になってヴァイオリンを練習した。見よう見まねの演奏。それでも笑ってくれた少女。おずおずとした告白に浮かんだ涙。やがて迎えた結婚式。美しい妻、舞う花弁。子どもはできなかったが、二人は幸せに年を重ねていく。
ある日、妻が病に倒れた。黄昏の影響で汚れた水を飲み続け、知らず知らずのうちに、妻の体は毒を溜め込んでいた。気付いた時には遅かった。出稼ぎが多かったせいだろう、あんたはまだ、大丈夫だ。医者の言葉に吐き気がした。
白いベッドの上。愛した妻は、もう息をしていなかった。指は弦を押さえていられないほどに痩せ細り、顔は老婆のように皺だらけだった。生きなければならなかった、しかし、生きる目的はもうなかった。ただただあてどなく、男はそれでもハンターを続けていた。
そして、場面が王都の酒場に転じた時、ハイクは息を呑んだ。灰色の髪を一房だけ白く染めた少年が、目の前を足早に通り過ぎていく。五年前のあの日だった。いつかの子どもによく似た目。何かを恨むような、それでいて何を恨むべきか迷っているような顔つき。手近な杯を引っつかみ、思わず男は呼びかけていた。
出会った少年は、歌うたいだった。殺気立った気配は酔いと共になりを潜め、光を取り戻した灰色の瞳に、男はひどく安堵した。いっちょまえの歌声に誘われて、久しぶりにヴァイオリンが弾きたくなった。アルバーダ、夜明けの歌。演奏が終わった時、二人はハンター達の歓声のただ中に立って居た。肩で息をしながら、少年と拳を突き合わせる。
ふと、男は思い出した。
病床の上で、妻はなんと言っていたのだったか。
宝物を追いかける、そんなあなたが好きだから、と、そう言ってはいなかったか。
なんでもなかった。気付いてしまえばなんともなかった。生きる意味は、最初からここに埋もれていた。
男の魂に、再び黄金色の太陽が昇る。
日は昇るのだ。何度でも、繰り返し。ハイクの視界が金に歪んだ。
「ありがとよ、ルドラ」
暖かな声を聞いた気がした。
瞬きをして、次にハイクが見ていたのは、朝日に照らされたような顔で眠る、マキナの亡骸だった。
*
レオ達は遺跡の裏手に立てたテントを探索の拠点としていた。中に入れば、採掘用の道具も一通り揃っていた。
レオとマキナ、他に三人居たらしい。二人がかりで全員を掘り出すのに半日、彼らを外に運び出して墓を掘るのには、もう半日必要だった。
テントのすぐ近くに、見晴らしのよい平らな崖地があった。遮る物がなく、広大な森林の果てには、うっすらと塩の大地が霞んでいる。ここがいいな。レオが呟いて、彼らの眠る場所は決まった。
二人で堅い地面にシャベルを突き刺し、一心に穴を掘った。すでに日没が近かった。巨大な太陽が西へ西へと傾いていく様子は、空が真っ赤な口を開き、昼の光を飲み込もうとしているかのようにも見えた。
作業は続いた。休もうとはどちらも言い出さなかった。
ずっと無言だった。土を掘る音だけが、ざり、ざり、と辺りに木霊していた。シャベルを動かす合間に、時折レオのすすり泣きが聞こえた。体は土にまみれ、上着と手袋はとうに脱いでしまっている。落ちる袖を乱雑に捲り、両手にはマメが出来、潰れた。そうしているうちに星は巡り、空が白んだ。
穴を掘る間中、ハイクの頭の中では、マキナの最期の瞬間が繰り返されていた。
墓標の代わりに手ごろな石を並べ、名を刻んだ。摘んで来た白い花を添えていると、レオがテントから酒を持って来て、墓標の上に少しずつかけた。昇っていく日の中で黙祷を捧げる。白い朝焼けは美しかった。
レオはこれからどうするのだろう。ギルドに戻るのだろうか。
「なあ、ルドラ。ずっとだまってたけどさ」
苦笑して、レオはズボンの左裾を捲った。解けかけた白い包帯から覗いた足首が、赤黒く腐っていた。
「前からだったんだ。魔獣と戦った時の傷なんだけど、へんな毒があったとかで、塞がらないままこうなっちまった。薬で騙してたけど、やっぱりそろそろ切らなくちゃいけないらしくて。今回だって、まだ動けるって言って、無理矢理付いてきた。……多分こいつらは分かってた。助けを呼んで来いなんて言って、ほんとは俺だけでも逃がそうとしたんだ。だから、さ、ほんとに、情けないんだけど」
最後は嗚咽の中に消えた。レオは呟いた。だから自分は、ここより先には進めないのだと。それがこいつらから貰った最後の物だから、と。
「おまえなら、きっとちゃんとやってくれるって思うから。だから、後は頼んだ」
「……そいつは俺の台詞でもあるんだよ、レオ」
え、と口を開けたレオに、黒いケースを押し付けた。ハンターでなくとも、継ぐことができる意志はある。マキナのザックに入っていたのを、墓に供えようと思って持ってきたが、涙で皺だらけになったレオの顔を見て、気が変わった。
「黄昏が終わったら、またここに来よう。思いっきり掻き鳴らして、俺達の音で全員叩き起こしてやろうぜ」
いつかの大男に似た言葉遣いで、ハイクは腰に手を当てた。その顔を見たレオが、あれ、と呟く。「どうした?」と尋ねると、レオは不思議そうに首を傾げた。
「おまえの目、そんなに黄色かったっけ?」
結局本人にも、その時どうしてそんなことを口走ったのかは、分からなかったらしい。