脈打つ嵐

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景気の良い掛け声と共にテーブルに運ばれてきたのは、湯気を立てる白ソーセージの大皿と、無骨なグラスに注がれたたっぷりの葡萄酒だった。賑わいの渦中に溶け込んで、遅い夕食を腹に入れていく。食事のあいだも、ハイクは頭の中で昼間のラブラドとの会話を繰り返し思い出していた。
「おまえでも、今回ばかりは焦ったようだな」
冷えたグラスを合わせたような大鷲の声が、胸中に木霊した。ここでなら一人で何を話していても喧噪に紛れてしまうだろうと、大して気を張らずに、そりゃそうさ、とフォークを振る。
「丘の外でルドラの名を知ってる人間に会ったのは初めてだったからな。結局、そんなに上手く手がかりが見つかる訳もなかったけど」
ソーセージを切り分けながら一人ごちる。ルドラはハイクの姓であると同時に、かつて大陸の東端にひっそりと暮らしていた、ある一族の名前でもある。広大な國のどこに誰がいるのか、そもそもどれだけが今も生き残っているのか、十年前に丘を出て以降、未だにハイクには掴めていない。
クリスの家を出たあと、ハイクはトレジャーハンターの仲介所に足を運んでいた。夕暮れに活気づく大通り沿いにある、天然の川石をそのまま積み上げて家の形にしたような、酒場の中でもひときわ目を引く無骨な面構えの店だ。派手好きなトレジャーハンター達が好んで通うこの店こそ、王都アッキピテルのハンター達の要、つまり、仕事の紹介所なのだ。國内のあらゆる遺跡の情報が舞い込む大動脈であり、ハンターと國、あるいは各種のギルドとを繋ぐ役目もあわせ持っている。だからこそ、長らく平穏を保っていた胡蝶の庭園にとうとう出現した魔獣については、ここに報告しておく必要があった。あの庭園が魔獣の園になるのも、時間の問題かもしれない。
「だが、とりあえず、俺達の当面の問題はこっちだ」
ハイクはガンベルトにぶら下げていた小さな紫紺の布袋を外し、中身を机の上に置いた。ごろりと転がったのは、小ぶりな柘榴ほどの大きさの、真っ黒な石の球だった。

「ルドラという言葉は、偶々酒場で相席になった御人が教えてくれたのです」と、ベッドの上でラブラドは語った。
「病に罹るよりも前のことですから、五年は昔でしょう。彼は尊敬すべき老人でした。温厚で、しかしながらその目にはどこか鋭さが宿っていた。彼はついぞ自分の名を口に出しませんでしたが、私が職を尋ねると、鳥使いだ、と答えてくれました。彼は話がとても上手かった。その語り口には自然と人を引き込んでしまうような魅力がありました。店の中でもずうっと外套を脱がず、仕事用の長手袋もはめたままで、なんとも不思議な雰囲気を纏っておる人だな、と思ったものです」
それから、と、ラブラドは手のひらでハイクの前髪を示した。
「彼の髪もまた、一房だけが染められていました。あなたと同じように」
ルドラの一族の誰かだ。最早それは疑いようもなかった。老人と聞いて頭に浮かぶ顔はいくつかある。ハイクが王都に拠点を構えてトレジャーハンターとして暮らしているように、國の片隅で鳥使いとして生き延びている者がいるのだろう。
「酒を酌み交わしながら、彼はさまざまな物語を聞かせてくれました。実に、実に多様な伝承に通じておられた。ルドラという言葉も、その話の中で彼に聞いたのです。嵐の化身、あらゆるものを巻き込む暴れ風の名前であると。そしてもう一つの意味が」
「声だ。咆哮をあげる者」
後を引き継いだハイクに、ラブラドは小さく首肯した。
「ええ、彼もそう話していました。とてもとても古い言葉だと」
ラブラドの言うとおりだった。丘を去る直前に長も話していたことだ。
——散った我らの呼び声は、一つの音となり、二つの節となり、やがて大きな歌になる。我らの風で嵐を紡ぎ、大気を震わせ音を奏でれば、いつか黄昏と踊れる日も来よう。
それがルドラの所以だ。そしてそれは同時に、名を持たない一族として生きてきたハイクが、ハイク・ルドラとなった瞬間でもあった。
「私が画家をしていると言うと、彼はとても興味を持ったようでした。ちょうど画廊に向かう道すがらでしたので、持っていた絵を何枚か見せると、たいそう気に入っていただけたらしく、ぜひ自分にも一枚譲ってはくれまいかと持ち掛けられました。元より売るつもりでしたから、私もすぐに了承しました。そうして、持ち合わせがないからこれでは駄目だろうかと、代金の代わりにある物を貰い受けたのです。……クリス、書斎の棚へ。一番上の引き出しだよ」
クリスは元からこの話を知っていたようだった。突然父親に話しかけられた彼女は、しかし戸惑う素振りもなく、むしろ話の途中からそれを予想していたかのようにしっかりと「分かったわ」と返事をして、早足に部屋を去っていった。数分後に戻ってきた彼女の左手には、小さな紫の巾着袋が収まっていた。受け取ってみると、大きさに似合わずずしりと重い。開けてもいいのか、と視線だけでラブラドに問う。ラブラドもまた、ハイクの手元を見つめたまま無言で頷いた。
慎重に金の網紐を引っ張り袋の口を開くと、その中から覗いたのは、得体の知れない真っ黒な丸い珠体だった。
袋から取り出し、目の前に持ち上げて何度か角度を変えながら観察する。初めは鉄球かと思ったが、ハイクの借り物の力に呼応する気配もない。ちょうどハイクの片手にすっぽりと収まる大きさで、触り心地は黒鉛のように滑らかだが、金属に見られる光沢はない。よく磨かれた鉱石だろうか。しかし石塊にしては、その珠はあまりにも奇妙な存在感を放っていた。珠から目を離し、静かにこちらを見ていたラブラドに視線を合わせる。
「これは?」
ハイクの問いかけは簡潔だった。これは何か。どういった意図で作られたものか。ラブラドは、残念そうに首を横に振った。
「見た目以上のことは私にも分かりません。彼の方はこの珠について何か知っている風でしたが、結局私には何も語ろうとはしませんでした。いわれを尋ねると、ただ笑って、鳥が持っていた、と」
当時のラブラドも、この黒い珠に不思議な威圧感を感じたらしい。あとで質屋にでも持っていこうと思いその時は了承したが、結局売るに売れないまま、こうして大事に仕舞い込まれてきたという訳だ。
「鳥使いのじいさんは、そのあとどこへ行ったんだ?」
「お互いに行きずりの席でしたので、そこまで込み入った話はしませんでした。彼に出会ったのはその一度きりです」
詰めていた息を静かに吐く。思っていたよりも自分が落胆していることに気付いて、ハイクは驚いた。
「そうだったのか。……礼を言うよ。今の話が聞けただけでも儲けもんだ。にしても鳥使いか。どうせなら、もっといい仕事に転職すればよかったのにな」
やれやれと大袈裟に溜め息を吐いて笑ってみたが、ラブラドは穏やかにハイクを見つめるばかりだった。ハイクはその視線に居心地の悪さを感じた。何もかも見透かされている気がしたのだ。望遠鏡で星を観察するような顔で、ラブラドはハイクを見上げた。
「トレジャーハンターと名乗る割に、あなたが財宝に無欲な理由が分かりました。金貨が不要というのなら、せめてそれを持っていきなさい。あなたが探しびとに会える日を、私達も心から願っていますよ」
ラブラドが浮かべていたのは、子を持つ親に特有の、慈愛に満ちた表情だった。ハイクはその優しさに戸惑いすら感じている自分を押しこめ、重い珠を軽く握った。

珠はこうしてハイクの手中に収まったのだった。テーブルに肘をついて、薄く水滴が張り付いている葡萄酒のグラスを傾けながら、空いた方の手で珠を持ち上げ、もう一度つぶさに全体を調べていく。珠は完全な球形で、一切の切れ目も凹凸もなければ、文様も彫り込まれていない。そのことが、反対に珠の特異さを際立たせていた。絵の対価として支払ったのだから、それなりの価値はあるはずだ。鑑定士に預けてみるべきか。いずれにせよ今のままでは、手掛かりが足りないのは明らかだった。
「あの人間は、鳥使いの男、と言っていたな」
ハイクと同じように、珠を見ながらラブラドの話を思い起こしていたのだろう。大鷲の左目が、ぱちり、と瞬く。
「鳥使いとはなんだろう?」
また妙なところに興味を持ったな、と、ハイクは口に含んでいた葡萄酒をゆっくりと飲み込んだ。だんだんと酒精が回り、体が暖かくなってくる。すべてを知り尽くしているような顔をしながら、大鷲はハイクの予想よりもずっと世の事情に疎い。長い間幽閉されていたためだろう。
「名前のとおりさ。鳥を飼いならして、色々な仕事をさせる職のことだ。鳩に手紙を届けさせたり、鵜に魚を捕らせたり」
「ならば、わたしのかつての主も、今でいうところの鳥使いにあたるのか」
その一言に、ハイクは内心でとても驚いた。大鷲が自ら過去の話をするのは、あの浜での会話を除けばこれが初めてだったからだ。出会ったばかりの頃にそれとなく水を向けてみたことはあったが、大鷲は固く口を閉ざしてしばらく表に出て来なくなってしまい、それ以降はあまり深く詮索しないのが決まりごとのようになっていた。魂の中に住まわせているといっても、大鷲の考えが読めるわけではない。
「おまえを使役してたっていうのなら、そうなんじゃないか」
「使役、か」
「ぴんと来ないなら、言い方を変えてもいい。例えば、主はおまえを守っていたし、おまえも主を守っていた、とか」
「わかるのか」
「分かるさ。何年こうしてると思ってるんだ? どうせだからこの際聞いておくけど、おまえ、どのくらい記憶がなくなってるんだ。主様のことはちゃんと覚えてるんだろ」
「……ちゃんと、ではないよ。はっきり分かるのは、自分が死んだ瞬間のことと、あとは、浜に居る主の顔だけだ」
大鷲は珍しく項垂れて、しょんぼりと小さくなった。掛ける言葉を探していると、背中から大声で名を呼ばれ、ハイクはぎょっとした。
「よお、色男! 一人で恰好つけてねえでこっちに来いよ!」
振り向くと、椅子に狭そうに尻を乗せた中年の大男が、にっかりと笑ってこちらを見ていた。短く刈り込まれた金髪に無精ひげ、こんがりと日焼けし、笑うと額と目じりにぎゅっと深い皺が寄る。シャツのボタンを三つまで開け、脇には大剣と荷物が転がっている。遺跡帰りなのか、登山靴には泥がこびりついたままだ。誘いに応じない訳にもいかない。ハイクは素早く珠を袋に戻し、ガンベルトに括りつけると、席を立って男に近寄っていった。
「誰かと思ったらマキナのおやじか。びっくりさせんなよ」
「いいじゃねえか。久しいな、トコソラの。仕事は順調か?」
「相変わらず懐が寒いよ」
違いねえ、と陽気にげらげら笑って、マキナは机の向かい側にハイクを座らせ、空のグラスを押し付けると、大ざっぱに麦酒を注いだ。
トコソラというのは、トレジャーハンターとしてのハイクに付いたあだ名だ。トコソラのルドラ。トコソラは、常空だ。ハンターに上がりたての頃に、ナイフと銃だけをぶら下げて片っ端から遺跡を踏破していたら、黄昏に呑まれない魂を持つ新人がいるらしい、と噂になったことがあった。暮れに蝕まれることのない、常なる空。もちろんそれはただの噂で、実際ハイクがこうも好き勝手に遺跡を動き回れているのは大鷲の助けによるところが大きいのだが、その大鷲が言うには、実際と大きな違いがあるわけではなさそうだったので、言われるままにしていたのだった。要するに、ハイクはこのあだ名が気に入っていた。
「んで、どうだったよ、庭園でべっぴんさんと踊ってきたか? 王都じゃ有数の手練れだって、ちゃんとふかしといてやったぞ」
からかうような声色でマキナがにやりと笑った。おかげさまで死にかけたよ、と呆れると、マキナは一体どこが楽しかったのか、大砲のような声で大笑いした。マキナの丸テーブルの上には、空になったジョッキがざっと五つほど積み重なっている。ハイクの顔ほどもある大ジョッキだが、マキナが持つと哺乳瓶のようだった。
「いいじゃねえか、あんなにかわいらしいお嬢さんが困ってるってのに、放っておく男があるかよ。まあそれはそうと、どうだ、久々に」
言うが早いか、マキナは足元の荷物をいそいそと探り始めた。黒いケースから取り出したのは、粗暴な男には似合わない艶めかしいヴァイオリンだ。本体は左手に、弓を右手に持ち、立ち上がって慣れた動作で楽器を構える。言わずもがな、ハイクが呼び止められたのはこのためなのだろう。
「もうちっと飲んでからにしようと思ってたが、おまえと喋ってると腕が疼いていけねえや」
マキナは酒が入るといつもこうなのだ。これから何が始まるのかを察して、ハイクはにやりと笑った。マキナに応えるように椅子から立ち上がる。
「俺が居ようが居まいが、どうせ遅いか早いかだけの違いだろ?」
マキナは底抜けに陽気な顔でげらげらと笑いながら調律を済ませていく。慣れた手つきだ。街の衆と同じく、トレジャーハンターの中にも、楽を嗜んでいる者は少なからず存在した。ただし、街の衆がきちんと師に習い、規則どおりに譜面をさらっていくのに対して、こちらは大半が独学、つまり見よう見まねだ。各々が癖の強い弾き方をするので、楽譜どおりに曲が進行する方が珍しい。
そして、目の前の大男もそのうちの一人だった。最後に弦の張りを確かめ、さあ行くぞと言わんばかりにハイクを一瞥すると、一呼吸分の間を置いてから、マキナは怒涛の勢いでヴァイオリンをかき鳴らし始めた。どしゃ降りの雨のような三連符。これで前奏だというのだから笑ってしまう。曲は大衆によく馴染んだ民謡だったが、案の定、かなりの即興が混じっているようだった。初めてマキナのソロを聞いた時は、白ソーセージよりも太い指が生み出す旋律の細やかさと激しさに耳を疑った。マキナは足で陽気にリズムを取るついでに、ちらりとハイクに目配せをすると、壁際に置かれていた酒樽をつま先で何度か蹴った。腰丈ほどはある葡萄酒の大樽だ。意図を察したハイクは、マキナと同じように口元だけで笑みを刻んで、軽く助走をつけると酒樽の上にひらりと飛び乗った。ハイクの曲芸じみた動きに気付いた周囲のハンター達が酒瓶を片手に周りに寄ってきて、「いいぞ、歌え歌え!」と囃し立てる。結った長髪を翻し、観衆に向かっておどけたように礼をしてから、ハイクは腹にめいっぱい息を吸い込んだ。

嵐の歌。この曲はそう呼ばれていた。古代の戦歌の様式に則ってはいるが、新しい時代の歌だ。だが、こちらも少し遊んでみたい気分になって、ハイクはその歌詞を古代語で歌い始めた。気付いた聴衆達から嬉しそうな歓声が上がる。職業柄、誰も彼も言葉の意味が分かるのだ。一つの音符にこめる語の数が格段に増える西方の古代語は、マキナの疾風怒濤の旋律に乗せるのにはうってつけだった。

まやかしを打ち払え 億の風雨は我が手の内
獣の叫びは万雷に消えた 轟く心臓よ!

マキナのヴァイオリンの音が、ハイクの背から追い風のように吹きすさぶ。どこまでも陽気に、周りを巻き込みながら、目まぐるしく駆け抜ける。ハイクの中を、熱い喜びが血潮に乗って駆け巡っていく。この瞬間だけは、他の一切のことを忘れてしまうようだった。抑えようもない、これがルドラの血なのだろう。
明るい音楽に誘われたのか、ハイク達の周りには更に人々が集まり出していた。そうこうしているうちに、俺も混ぜろと言わんばかりに左手の方から木笛が入ってきて、曲がぐっと厚くなる。次の節からギターが加わった。楽器はなんだっていい。ハイクが挑発するように低いアルトばかりを次々と並べ立てていくと、すぐに高音でコーラスが乗ってきた。当然、譜面になどないオリジナルだ。終いには打楽器の代わりに膝を打ち鳴らして裏拍を取り出す者まで現れて、とうとう酒場全体を巻き込んだ合奏が始まった。
型に嵌らないなんでもありの演奏会だ。前触れもなく三拍子が四拍子になったり、次々と調が変わっていったりするから、油断しているとすぐに置いていかれてしまう。演奏をしているというよりは、単に遊んでいるのだ。巻き上がるように音階が上がり、曲はいよいよ佳境に差し掛かっていた。クレシェンド、一番の盛りあがりだ。すべての楽器の音が竜巻のように渦を巻き、最高点でぴたりと静止する。わざと大袈裟に息を吸ってみせると、勘付いた各々がハイクの合図に合わせて、静かに最後の一節を奏でた。
それまでの調の速さが嘘だったように、酒場に吹き荒れていた風がゆっくりとほどけていく。嵐は終わり、風と雨が豊穣を連れて来る。
雲は流れゆき、その跡には、光降る豊かな大地が残される。
一瞬の静寂のあと、波紋のように広がっていった拍手と口笛に、マキナや他の奏者と視線を交わして笑い合う。歓声を両手でいなしながら大樽から飛び降りると、今度は待ち構えていた観客から遠慮なく背中や腕を叩かれた。この酒場に仕事の用事以外で顔を出すことはほとんど無いが、マキナのような奏者とつるんでいることが多いせいか、ハイクがいっぱしの歌うたいであることは、すでに酒場の常連の知る所であった。

挨拶や軽口を叩き合いながらハンター連中の輪をようやく抜け、カウンターで一息つく。思い切り歌ったせいか酒の回りが早く、ハイク自身も酔いを自覚していた。椅子に腰かけても歌っていた時の浮遊感が抜けない。マキナはといえば、早くも先の木笛吹きやギター弾きをテーブルに引っ張ってきて、盛大に杯を合わせている所だった。一通り騒いだ後でもう一曲という算段なのだろう。
ゆらゆらと揺れる視界に思わず眼頭を抑えていると、左側から、すい、と一杯のグラスが差し出された。中は透明な液体で満たされている。しばらく見つめて、ああ水か、と思い当たった。グラスを持っている手を辿るようにして、のろのろと顔を持ち上げたハイクの隣には、燃えるような橙色の髪をした一人の女性が腰掛けていた。
「大丈夫?」
……赤い。突然現れた彼女に対して、ハイクが抱いた最初の印象はそれだった。
いつの間にこれほど近くに寄ってきていたのだろう。酔って気が付かなかっただけなのか、それとも彼女の足運びが素早かったのかは、今のハイクには分からなかった。身に纏っている赤い上着や短い丈のスカートは、怪我の多いハンターにしてはいささか露出が多いようにも思える。細い首に巻かれた薄手の襟巻は一見白っぽいように見えたが、彼女が微かに動いたとたんに虹色に揺らめいて、その色合いを豊かに変えていった。装いもさることながら一際ハイクの目を引きつけたのは、彼女の真っ赤な瞳だ。その色合いに、ほとんど無意識のうちに警戒心が持ち上がる。
幾多の魔獣に触れてきたハイクがまずその色から連想してしまったのは、絶命した獣の皮膚の下からぬらりと覗く、血のように赤い紅水晶だった。
「酔ってる。酔って歌うと体の水が足りなくなる……から、水を飲むといい」
派手な装いとは裏腹に、彼女が発した声がひどく落ち着いたものだったので、ハイクは驚いた。こんなハンターが王都に居ただろうか。もしかしたら、普段は別の街を拠点にしているのかもしれない。
「ああ……ええと、この水を俺に?」
「ええ。……さっきの演奏を聞いてた。あなたの歌はまるで、刃の声。心臓を掴む鷲の爪。雷と風が咆哮をあげていたよう……」
鷲に、咆哮。思いがけず飛び出してきた言い回しに呆気に取られ、ただただ彼女の顔を見つめていると、「……ああ、いえ、気にしないで。癖のようなものだから」と、やはり淡々とそのハンターは告げた。どうやら特に他意があった訳ではないらしい。よく考えれば当たり前だ。伺うようにこちらをじっと見ているので、どうしたのかと思って赤い目を見返していたら、「……水。貰って」と言われて、差し出されたまま所在なさそうにしているグラスにようやく気が付いた。慌てて受け取ると、赤い目がどこか安心したようにわずかに緩む。今度は心もざわつかなかった。
きっと水差しから入れてきたばかりなのだろう。水はきんと冷たく、身体に染みこむようなうまさだった。そのままグラスの半分ほどを一気に空ける。喉が渇いていたのだと、ハイクはその時になってようやく自覚した。人心地ついた気分で笑いかける。
「ありがとう、ねえさん。助かったよ」
「いえ、気にしないで。いい演奏を聞かせてくれたから、そのお礼。……ところで、歌を聞いている時から気になっていたのだけれど……その布袋には、一体何が入っているの?」
彼女が言う所の袋が、ハイクの腰にぶら下がったままの紫紺の袋であることは明らかだった。彼女の赤い目がちかりと光る。ラブラドのそれはたゆたう水面のようだったが、彼女の赤い瞳の奥で音もなく燃えあがっていたのは、たぎるような情熱の炎だった。この目をハイクはよく知っている。獲物を見つけたトレジャーハンターが見せる表情だ。
「おや、驚いた。あんたお目が高いんだな」
「そうね、目はかなりいい方。……それに、その紫色は結構目立つ」
そうみたいだな、とハイクは笑った。布の内側に隠されていたはずの不思議な気配を、彼女の眼はいともたやすく見破ってしまったらしい。
「ああ、確かにそうだな、そのようだ。だがこいつが宝と呼べるような代物なのかは、実はまだ怪しい所なんだ。……見てみるかい? 折角だから、あんたの見立ても聞かせてくれよ」
彼女は即座に頷いた。こうして再び机の上に置かれた珠はやはり黒々と重苦しく、酒場の明かりを無言で吸い込んでいた。暖かな場の中でただ一つ、この珠だけが妙な具合に冷えきっていて、そのことが珠を余計に異質に見せている。まるで動の中の静。生の中の、死。我ながら、嫌な飛躍の仕方だ。ハイクは無言で頭を振った。
ハイクの隣で、彼女はひたすら身を乗り出すようにしてだまって珠を見つめ続けていたが、ふいにぽつりと声を漏らした。
「これ、汚れているみたい」
そうだろうか。ハイクにはやはり、ただの黒い石の珠にしか見えない。彼女の視線は未だ熱心に珠に注がれている。まるでそうすることで、冷えた珠に熱を集めようとしているようだった。
「宝石の原石を見たことがある? 一見ただの石くれのようなのに、割るときれいな鉱石が出てくるの。……この珠は、なんだかそれに似ている……ような気が、する」
真っ赤な瞳は静かに笑っていた。ただ黒いだけの塊に見える珠の中に、彼女は一体何を見ているのだろう。少なくともハイクには推し量れない広い荒野が、今この狩人の目の前にはひらけているようだった。
彼女はそれからしばしの間、机に肘をついて何事かを考え込んでいたが、突然思い出したようにぱっと顔を上げた。ひらりと虹の首巻がゆらぐ。次に彼女の口から発された一言に、ハイクは両の目を見開いた。
「そういう伝承の残る場所を知ってる、かも、しれない」
え、と思わず声を上げる。ハイクが二の句を継ぐ暇もなく彼女は懐から小さな手帳を取り出し、素早く頁を捲り始めた。仕事用の記録帳のようだ。ほどなくして、やっぱりあった、という呟きと共に、中身を静かに読み上げる。
「——かの神殿に滴るは希望の宝玉。されど、魔を打ち払わんとした光は今や魔となった。眠らぬ魂、いずこにあらん。……北東に、山岳があるでしょう。天気が良ければここから見えることもある。その山を登っていった所にある遺跡に、そんな言い伝えが残ってる」
手元の手帳に視線を落としたまま、彼女は続ける。
「かわたれの時代の、小さな神殿よ。飛行船がふもとの村まで出ているから、行くのも簡単」
「行ったことがあるのか?」
「ええ。でもあそこには、女王蜂も働き蜂も居ない」
「蜂?」
それは魔獣か何かだろうか。ぽかんとしているハイクに気が付いたのか、彼女は「ごめんなさい、また変なことを言った」と言って、きまり悪そうに指先で橙の髪をいじった。先に自分で言っていたとおり、詩のような表現をしてしまうのが彼女の癖らしい。物語を読むのかもしれない。
「つまり……宝も罠もない、ただ伝承だけが残る、大昔の神殿だった、ということ。けれど、そうね、あなたが行ったのなら、きっと違うわ。その珠を持つあなたが行くのなら。そんな気がする、それだけ。……じゃあ、私はそろそろ往くわ、声の人」
言い終えると彼女はおもむろに立ち上がった。声の人というのは、どうやらハイクのことであるらしい。虹色の襟巻を巻き直し、あっという間に身支度を整えて、彼女は最後に机上の珠を一瞥した。
「……大丈夫。私は運がいいから、この予感もきっと当たる」
「運、ねえ。そういうの、俺もけっこう好きだぜ」
ハイクが笑うと、彼女の回りの空気も少しだけ緩む。笑ったようだった。そのまま踵を返して、彼女は真っ直ぐに出口へ向かって歩いていく。迷いのない背中に向かって「次は一緒に飲もうぜ、水のねえさん」と呼びかけると、返事の代わりに後ろ手に一度だけ手を振って、彼女は店を後にした。
「行っちまったなあ」
ぼんやりと呟く。まだ彼女の通った跡に、虹布の余韻が波打っているような気がした。ふと、彼女の名を聞き忘れていたことに気が付く。
座ったまま扉を見つめていたハイクの元に、今度は酒瓶を手にした一人の青年が近づいてきた。先の彼女とは違い、こちらの足音は分かりやすい。さっきの演奏会でいの一番に混ざってきた木笛吹きのハンターだった。マキナと同じように、彼もまたハイクとは顔なじみで、なおかつ今回の火付け役でもある。
「ルドラ。今の彼女、知り合いかよ」
男は名をレオといった。小柄なレオはひょいひょいと軽快に、先程まで彼女が座っていた丸椅子に腰を落ち着けると、丸っこい緑の目でハイクの顔を覗き込む。今の今までマキナと騒いでいた筈だが、どうやら先程からハイク達の様子をこっそり伺っていたらしい。件のハンターはもう居ないのに、やけにこそこそと話しかけてくる。今にも彼女が戻ってくるのではないかと思っているようだった。
また一目惚れでもしたのだろうか。笛の音を聞けば分かることだが、レオはどうにもお調子者でひょうきんで、なおかつかなり惚れっぽかった。
「いや、初対面だ。なんだ、好みだったのか?」
「ばか、違うよ。知り合いじゃないならいいんだ、うん」
なぜか安堵した様子で、レオはほっと胸を撫で下ろした。ずいぶんと含みのある言い方だ。眉をひそめたハイクに、レオは一段と声を落とす。
「やっぱり知らなかったのか。まあおまえはあんまりここに顔を出さないから、仕方ないけど。とにかくさ、あんまり彼女には近寄らない方がいいよ、危ないから」
思わず眉間の皺が深くなる。ほんのひととき会話をしただけだったが、すでにハイクは彼女に好感を持ってすらいた。なぜだと問いただすと笛吹きはわずかに言い淀んだが、やがてハイクの視線に観念したのか、口をすぼめ、渋々といった様子で話し始めた。
「ちょっと有名なハンターなんだよ。何考えてるか分かんねえし、ほら、あの赤い目もおっかないしさ。とにかく変わり者だって皆言ってる。ついこの間も、別の街の “溜まり場”で乱闘騒ぎを起こしたって」
溜まり場とは、ハンター間での仲介所の愛称だ。
「……そんなに血の気が多いようには見えなかったけどな」
「まあ、乱闘っていうか、単に盗人を捕まえただけらしいけどな。店のど真ん中でいきなり派手に動いたから、ちょっとした騒ぎになったんだってさ。ま、おまえが大丈夫だっていうんなら、多分平気だろ。それにしても彼女、かなりの美人だよな。今度は俺も話しかけてみようかなあ。まだちょっと怖いけど」
やはりレオは結局そこに落ち着くようだ。いいんじゃないかとハイクは気のない声で答えた。トレジャーハンターは皆元より人見知りをするような性格ではないが、現場で命をはることが多いせいか、他の職と比べて身内同士の結束が人一倍強く、それゆえに異質な者に対してはいささか敏感で、排他的なきらいがあるのだ。周りに溶け込むのが得意なハイクのことすらも、最初の頃はよく思わない者も居た。少しばかり彼女には同情する。
「で、さっきは二人で何を話してたんだ?」
いらぬ期待のこもったレオの視線に呆れつつ、ただの仕事の話だよと応じる。口ではいくらでも軽口を叩けるが、この重みがきっとルドラの一族に繋がればいいと、思わずにはいられない。
「一つ遺跡を教えてもらった。明日にでも行ってみる」
「相変わらず仕事熱心だな」
「いんや、俺が探してるのは、仕事じゃなくて宝物だよ、お客さん」
いまひとつ意味が分かっていない同僚に軽く片目をつむってみせると、ハイクは酒場を後にした。感触を確かめるように腰の銃に手を添える。大鷲の隻眼がゆっくりと瞬いた。
「行くのだな」
「ああ」
自分の瞳に、名も知らぬ彼女と同じ種類の真っ赤な熱が宿っていることには、ついぞ気付かないままだった。





(脈打つ嵐)

!イリス・アウディオさん(@Hello_my_planet)をお借りしました!

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