滴る記憶(後)
<< 前 目次 次 >>
「おまえって、あの像のこと?」
きょとんとしたギタの声が、ハイクを現実に引き戻した。ハイクは努めて平静を装い、言った。
「ああ、悪い。ちょっと意外な展開だったんでな。怪我はないか」
「うん、大丈夫」
ギタはまだ自分がハイクの服に掴まったままだということを思い出したらしく、慌てて手を放し、顔を赤らめた。
祭場は再び元の静寂を取り戻していた。先の光景を見ていなければ、巨大な陣の掘り込みも、その中央に立つ彫像も、ずっと昔から同じ形でこの場に佇んでいたと思い込んでいただろう。だがおそらく、これで終わりではない。なぜならハイクの手の中で、未だに珠が強く震えているからだ。
「鳥が持っていた、ねえ」
「どうしたの?」
「いや。ちょっと調べてくるから、ギタはここに居ろ」
「う、うん。分かった」
近づいていくと、石像と本物の大鷲との間にはいくつかの違いがあることが分かった。まず両方の目が開いていること。これが一つ。そして、像の方がいくらか輪郭が丸く、毛並みも若々しいように見えること。これがもう一つ。どうやら大鷲にとってもこれは予期せぬ出来事だったらしい。ハイクの目を借りながら、しげしげと像を眺めているのが分かる。
「なあ、わたしはてっきり、おまえの、つまりルドラの歴史を追っているのだとばかり思っていたのだが」
その意見にはハイクも全く賛成だった。像の台座に視線を移すと、鋭い鍵爪のある太い二本の足の間に、丸い水盆が堀りこまれていた。ちょうど昨日、ギタが茶を運んできた盆と同じくらいの大きさで、ただしこちらの盆には全体になみなみと水が張られ、その中央は円筒形に窪んでいる。
窪みの大きさから見ても、何が嵌まるかは明白だった。ハイクは水盆の前にひざまずき、黒い珠をそっと穴に嵌めこんだ。高さも大きさもぴったりだ。珠が完全に水面の下に落ちた瞬間、かとん、と水滴が落ちるような軽やかな音が響き渡った。珠の体積が加わったことで溢れた水が、外側へと流れ出す。岩の床に黒い染みを作るだけのように思われたその水は、しかしとめどなく次々と水盆から溢れ出し、大広間に薄く広がっていった。水が触れた先から、苔や汚れが消失し、石畳が青く変質していく。氷より透明で、藍染めよりも鮮やかに青い、見たこともない鉱物だった。
息を呑み、青色に染まっていく神殿を見渡す。今や遺跡のすべてが青い結晶へと転じようとしていた。脳裏に長の話が閃く。
かの神殿に滴るは希望の宝玉。つまり、遥か昔からこの地を潤してきたレイクァの山の水源とは、湖ではなくこの神殿の方なのではないのか? 山から水が減っていった原因は、湖のせいではなく、この神殿に欠陥が生じたからではないか? ただの憶測に過ぎないが、それはほとんど真実であるように思われた。この建物そのものが、豊穣をもたらすための巨大な装置、雨水を山に循環させる一本の数式……。
息つく間もなく、今度はぴしり、ぴしり、と、硬いものにひびが入っていくような音がする。手元の水盆からだ。レイクァの水は黒い珠にすら変化をもたらそうとしているのだ。珠の中央に細長い亀裂が入っていく。ハイクの目の前で次第に割れ目は広がっていき、次の瞬間、卵の殻が割れるように、黒の表層が跡形もなく砕け散る。
中から現れたのは、遺跡と同様に青く輝く、それは美しい硝子珠だった。内部に何か模様が描かれているようだったが、水のせいで霞んでいる。ハイクがもっとよく見ようと顔を寄せたその時、珠が一際強く発光した。盆の中央から丸い光の波紋が再び広がり、その波紋の広がりに合わせて、今度は四方の壁一面に絵が浮かび上がってくる。図面のように精密な絵だ。数多の文様と多様な線のありとあらゆる組み合わせが次々と描き出され、まるでそれらで何通りの幾何学模様を作れるか、試しているようだった。絵の広がりは留まる所を知らず、入り組んだ線は壁の隅々にまで及び、目まぐるしく展開されていくその内容に、ハイクは声を上げずにはいられなかった。
「ここは一体なんなんだ」
時計回りにぐるりと一周、それが壁画の物語だった。正面にはこれまでと同様に平和な世界がある。ただし、今まで描かれていたものよりもずっと精巧で具体的だ。針葉樹に覆われた豊かな大地。堂々とそびえるレイクァの山嶺。神殿から脈々と流れる川の水。すべての頂点に立ち、剣を携え、光り輝く珠を掲げる人物と、それを讃え、水の恵みを受けて暮らす山の民。
しかし、次の壁からその光景は一変した。
村の家々が燃えている。戦の時代が始まったのだ。外からやって来た兵士達が、家に火をつけ、丸腰の村人に斬りかかっている。人々は山へ逃げた。彼らもまた、火の力を借りることにしたのだ。禍々しい紋様が刻まれたレイクァの山から火柱が上がり、炎の雨が、兵達に降り注ぐ。山の民は勝利したかのように思われた。
大鷲が狼狽えたように「ああ」と呻いた。その壁画は空想の絵でも、ましてや架空の伝承などでもなく、今の今まで誰の目からも隠されてきた、本物の歴史の記録だった。三枚目の壁へとハイクは視線を移す。激化する戦争、山の木々も家々もほとんどが焼け落ち、かつての緑豊かな霊峰は見る影もない。火を噴き続ける山、逃げ場を失った山の民達はそれでも逃げ惑い、先の兵士に加え、鎧を纏って武装した動物達までもが、彼らの首をへし折り、こともなげに落としていく。兵の数が足りないのだ。相手もまた、長きに渡る争いで疲弊しているのだろう。三枚目の壁画には、実に多様な種の動物達が克明に描かれていた。犬や狼、牛、象。獰猛に羽ばたく鳥の姿をハイクが認めた所で、大鷲が鋭く叫んだ。
「ああ、嫌だ、嫌だ、やめてくれ。もう沢山だ! わたしにそれを見せないでくれ!」
大鷲は異常なほど壁画に怯えきっていた。ハイクがどれだけ「どうした」「落ち着け」と心の中で呼びかけても、耳にすら入らないようだ。動転した大鷲は荒く尾を翻し、ハイクの魂の奥深くへと飛び去ろうとする。ハイクが慌てて止めようとした時にはすでに遅く、大鷲は逃げるように姿をくらませてしまった。
最後の壁画には、雨が降っていた。戦争はついに終結し、山の民は多くが殺されたが、生き残りもわずかながら存在した。彼らは珠の力で水を呼び、戦の火を消した。しかし、文明の炎はあまりに強大すぎた。炎をすべて消し去る代わりに、青の珠は黒く濁った。勝者となった敵国の兵士が、その珠を奪い立ち去っていく。時が経ち、山には新たな生命が芽生え、絶え間なく噴火を続けていたその火口は、いつしか雨水を貯える巨大な湖となった。麓の焼け跡に残された神殿は、珠を奪われたことでかつての美しさを失い、森の奥に沈んでいく。
壁画の最後は、古代語の詩によって締めくくられていた。
——かの神殿に滴るは希望の宝玉。されど、魔を打ち払わんとした光は今や魔となった。かわたれの裏より出でし、とこしえの影を破りし者。汝に青の羽紋の導きあれ。三の玉揃いし時、真なる史への道は開かれん。
村の伝承の大本になった詩だろう。さらにその下には、短い言葉でこう記されていた。
——我ら償いの道をゆく。
*
頭が痺れ、息が震えた。ハイクはどうにか右の手袋を外し、水盆に手を浸して珠を取り上げた。また何か起こるかと警戒したが、深い眠りから目覚めた遺跡は、珠を失っても元の苔むした岩へと戻ることは無かった。入り口に立ってぽかんと口を開けていたギタが、居てもたってもいられずにこちらへ駆け寄ってくる。ぼんやりとそれを見ていると、ギタは興奮と驚きで顔を赤くして、ハイクの周りをぴょんぴょんと走って回った。
「すっごいや! 青の神殿だ! ねえ、どうやったの。どうして分かったの」
ギタははしゃいで祭場の中をひとしきり走り回り、ハイクの元に戻って来ると、ハイクが握っている青の硝子玉に気付いて「うわあ」と両目を大きく輝かせた。
あれほど熱く揺れていた珠は、今やハイクの手の中でぴたりと沈黙を守っている。しかしそこにはあの黒い珠のような冷たさや重苦しさはなく、むしろ今の宝玉は、本来の輝きを取り戻してどこか満足しているようにすら感じた。あのハンターの言葉のとおりだ。珠の内側は澄んだ水で満たされていて、中央に浮かんだ白い紋様が、今はくっきりと見て取れる。鳥の羽を模した細長い紋様だった、針金細工のような細やかな装飾が施され、珠の中央でくるくると水平に回っている。ギタがそろそろと人差し指で青い珠をつつくと、羽紋は揺れ、白い光を粉雪のように散らせた。
「じゃあ、この珠が伝承にあった珠だったんだね。ねえ、こんなのどうやって見つけたの? もともとはここにあったものなんでしょ?」
「いや……。俺も、人づてに偶然譲り受けただけだ」
混乱する中、ハイクはどうにか言葉を絞り出した。ハイクの頭の中では、あの奇妙な夢が延々と反芻されていた。聞こえるはずのない鐘の音が耳鳴りのように鳴り響き、あの言葉が繰り返される。我らは罪を犯した。我らは探しに行かねばならぬ。我らは嵐。我らはおまえだ。再び壁画の詩を読むと、恐ろしい推論が稲妻のような速さで組み上がった。
途方もないことだ。だが、ありうることだった。この珠を持っていたのがルドラの一族だということが、何よりも決定的な証拠だろう。ここに描かれた、鎧で表情の見えない敵国の兵士達が、何の躊躇いもなく人々に刃を突き立てる略奪者が、ルドラの祖先だったとしたら。温和で賢く、争いを好まない人々。ハイクが信じていたそれこそが実は、嘘に塗り固められた虚像ではなかったと果たして言い切れるだろうか。幼い頃、丘で穏やかに歌を歌っていた皆は、本当はどんな顔をしていた? その目に獰猛な光は宿っていなかったか? かく言う自分はどうなのだ? この壁画の兵士達のような、無情な仮面を纏ったことはなかったか? 獣になりかけたギタはあの時、ハイクの言葉にではなく表情に怯えたのではないか? 猪に立ち向かった時にフィデリオも言っていたではないか、「笑っていた」と。
霜が降りるように、心臓が凍りついていく。体が冷え込み、自分の中に血が流れていないのではないかと思った。実際にそうなのかもしれない。こうして足を踏ん張り、地面に立っていられるのが不思議だった。
「あっ、ねえお兄さん、ほら見て、羽が止まるよ」
ギタの明るい声に、ハイクは大袈裟なほどびくりと体を震わせた。慌てて手元を見ると、確かに珠の中で回り続けていた羽の紋が、次第に回る速度を落とし、そして、ついにある方角を示してぴたりと静止した。それはちょうどこの神殿の出口の方向であり、顔を向けた途端に両目を射た西日に、思わずハイクとギタは眉をひそめた。
日没の時刻が迫っていた。木々の隙間から、森の底に斜陽が幾筋も幾筋も射し込み、神殿は今や巨大な氷の彫刻のように、夕日を受けてまばゆく輝いている。緋色の光が青の壁や床のつるりとした表面に当たって拡散されていく光景はひどく幻想的なものだったが、今のハイクの目には、ただただ空恐ろしい景色として映った。赤い照り返しに染まったことで、壁画はその凄惨さをいっそう際立たせていた。描かれた血も炎も、まるで本物のようにハイクの視界を覆った。
夜の淵の冷えた風が吹きこんで、ギタがぶるりと体を震わせた。
「うわ、ちょっと寒くなってきたね。どうする? もう少し調べてみたら、また何か見つかるかも」
ハイクと宝玉とを見比べながら、興奮ぎみにギタが言った。いいや、と軽く手を振ってハイクは宝玉をガンベルトの道具入れに戻した。自分でも、どうしてこれほど冷静さを装えているのか不思議だった。
「今日は終わりにしとこう。長にも報告しないといけないだろ。ここには明るくなってからまた来ればいいさ」
「じゃあ、明日もまだ村に居るの?」
「そうだな。少なくとも、あと二、三日は厄介になるつもりだよ」
「ふうん、そっか」
心なしかギタは嬉しそうだった。ギタは壁画の方にはあまり興味が無いようだ。難解な古代文字と幾何学的な壁画は、ギタにはまだ難しかったのかもしれない。この時のハイクは、確かにそんな風に考えていた。
だが、本来の落ち着きを欠いていたハイクは気付けなかった。初めに壁画を目の当たりにしたギタが、「僕のふるさとみたいだ」と呟いていたことにも、その幼い顔が、憎しみで歪んでいたことにも。
*
翌日は、再び長と神殿に赴いた。初めて真の姿となった青の神殿を目の当たりにし、長はたいへんに驚いたようだったが、それ以上に驚きを露わにしたのは例の壁画を見せた時だった。かわたれの時代が戦火と共にあったということをまざまざと見せつけられたためだ。通常なら、騎士団か正ギルドが調査し、安全が保障されるまでは立ち入りが制限されてもおかしくないが、今回ばかりは例外だった。この神殿はあまりにもプラトの民に近すぎる。
人の出入りは最小限に、その後の数日間で、長とハイクによって遺跡は調べ上げられた。もちろん、ギタは留守番だ。ギタはかなり不満だったようだが、長とハイクの二人による説得には、さすがに抗いきれなかった。調査の途中、ハイクは何度も壁画の詩の前で立ち止まり、遺跡とルドラの一族との関わりについて考えた。ここにある「我ら」が、ルドラの一族だとしたら、その罪は明らかだ。だが、そんなものを、どうやって償えと言うのだろう。これほどに多くの人の命を背負うには、ハイクはあまりにも無力だった。ハイクの人生の残りすべての時間を、あるいはこの命と引き換えたとしても、余りに重すぎる罪だ。余りに、多すぎる。
辿り着くのはいつもそこだった。そうして最後に、ハイクは途方もない気分で壁画を見上げるのだ。この青い壁は、自分の前に立ちふさがる巨大な障害だった。乗り越えなければどこにも行けないと分かるのに、その術が全く見つからない。そしてもう一つ不測があるとするなら、大鷲があれから一度も姿を現さないことだった。壁画について、大鷲は間違いなく何かを知っていた。今すぐにでも問い詰めたい衝動に駆られたが、そんなことをすれば、大鷲は二度とハイクの元には帰ってこないような気がした。
ほとんど癖のように、ハイクは腰の銃に触れる。やはり、反応は無かった。
眠らない夜が続いた。民宿に戻り、ベッドに寝転がりはするものの、頭は休まらず、目はいつまで経っても冴え渡っていた。結局は同じことを考えるだけだというのは分かっていたが、一度流し始めてしまえばもう止まらない。どうして鳥使いは珠を手放したのだろう。ラブラドの絵は確かに優れているが、神殿の秘密を知っておきながら、そんなことをしたのはなぜなのだろう。……たとえば、鳥使いは、何かの理由で珠を本来の姿に戻すことができなかったのではないだろうか。だからラブラドに珠を託した。……しかしそれは、明らかに危険な賭けだ。偶然酒場ですれ違っただけの相手に大切な宝玉を渡すだなんて、普通に考えればありえない。
偶然。またこの言葉だった。偶然出会った鳥使いと画家。その画家から偶然珠を貰い受けたハイク。待っていた大鷲の像。そしてハイクは偶然にも、その大鷲によく似た鳥を知っている。
あまりに出来すぎていた。まるで誰か、途方もなく大きな手を持った誰かが、舞台の上で糸を操っているかのようだ。逢うべくして逢う、成すべくして成す、そんなことが、この世に一体どれだけあるというのだろう。青の導き。三つの宝玉。その先にある真なる史とは何を指すのだろう。これ以上に、ルドラにはまだ隠された真実があるというのだろうか。仮にその真実を手に入れたとして、自分は一体何をすべきなのだろう。償いの道とはどういうことなのだろう。
結局その晩も、大鷲は姿を現さなかった。明日の夕には、帰りの飛行船が出る。
*
明け方近く、浅い眠りの中で夢を見た。どこかの空を、ハイクは飛んでいた。場所が分からないのは雲の上に居るからだ。太陽を背にして、青と白の二層にくっきりと分かれた世界のただ中を、身体を水平にし、凍てつく風を切って進んでいく。ぼんやりと、視界の右半分が霞む。咄嗟に目を擦ろうと腕を動かしたが、手があると思いこんでいた位置には大きな翼が生えており、ハイクは自分が鳥になっていることに気付いた。
自分がまだ飛べるという事実は、何故か不思議とハイクを安堵させた。包み込まれるような安心感に眠気を誘われ、ゆっくりと視界が暗くなっていく。
ハイクの意識は再びするりと落ちていった。
*
瞼を持ち上げると、古びた天井板の年輪が、窓の隙間から入り込んできた朝の霧に濡れ、しっとりと黒く浮き上がっているのが見えた。一度目が覚めてしまえばそのまま寝てもいられず、ハイクはベッドから起き上がった。違和感があるような気がして右目を擦り、その動作に自分ではてと首を傾げる。朝方夢を見たような気がするから、そのせいだろうか。
未だ覚めやらぬぼんやりとした頭で、ハイクはふと壁際の机を見た。
瞬間、ばちりと脳が覚醒した。手入れをし、置いていたはずの銃がない。嫌な予感が高速で答えを弾き出す。
ギタだ。足音を消すのが上手いとはいえ、部屋に忍び込まれても気配に気づかなかったのはこちらの失態だ。舌打ちをし、上着を羽織り、装備を引っつかんで部屋を飛び出す。髪は階段を駆け下りながら括った。
一階は食堂と受付を合わせたような造りになっている。食堂を突っ切り、入り口の扉に手を掛けようとした所で、ちょうど反対側から長が入って来て、危うくぶつかりそうになった。驚いた様子で、長の黒目が丸く縮こまる。
「ああ、丁度よかった。ルドラさん、ギタがこちらに来ませんでしたか。明け方から姿が見えないのです。もうすぐ朝食の時間なのに」
「来た。でももう居ない。俺の銃を盗んで出ていった」
なるべく短く経緯を説明する。ハイクが話す度に、長の顔は青くなり、話し終える頃にはほとんど蒼白になっていた。
「故郷の村を襲った魔獣を見つけ出す……あいつはそう言ってたんだ。だから銃を持っていったのも、きっとそのためだ」
「それでは、それではあの子は、魔獣に復讐するために? ああ、なんということだ、ギタがそんなことを考えていたなんて」
落ち着いた態度を崩さない長も、この時ばかりはひどく狼狽しているようだった。しかしそのことは、かえってハイクを冷静にさせた。「村から街道に出る道は二本あったよな」と、頭の中で地図を思い浮かべながら、長に確認する。
「え、ええ。南と西にそれぞれあります。村の回りは魔獣避けがあるので安全ですが、そこから先は……」
「……急ごう。馬を貸してくれ」
子どもとはいえ、ギタの足は早い。山道でハイクはそれを身をもって体感したばかりだ。ただならないハイクと長の雰囲気を察して近づいてきた民宿の店主の協力を仰ぎ、戦えるわずかな者達を掻き集めて、すぐさま捜索隊が組まれた。冷静さを取り戻した長の采配は的確だった。最も戦い慣れているハイクは、より魔物の出現が多い西側へと向かう隊に混じった。銃が無いのはかなりの痛手だが、まだナイフが残っている。もともと大鷲に出会う前の獲物はこちらだったのだ。ある意味では、一番体に馴染んだ武器といえる。
これほど朝日がもっと遅く昇って来ればいいと思ったことはなかった。焦らすように後ろから追いかけてくる太陽を背に、馬を駆り、他の二人と共に、木立を抜けて街道をひた走る。ひとたび山を下りてしまえば、広がっているのは荒涼と乾いた平野だった。野原で散開し、手分けして街道沿いを探していく。すると、目を凝らしたハイクの行く手、背の低いくすんだ灰色の草むらの中に、小さな人影が見えた。雲の隙間から細く差した朝日を受けて、ちかりと銀髪が瞬く。
「ギタ!」
ギタは今まさに、魔獣と対峙しようとしていた。カラスの魔獣ではない。あれは確か、山猫が魔獣化したものだ。夜に住まう魔獣のため、朝方の今はいくらかその牙も鈍っているようだが、それでも幼子の体くらいならば、顎の力だけで簡単に食いちぎってしまうだろう。相手が一匹だけというのは不幸中の幸いだった。ギタはこちらには全く気付く気配もなく、震える両手でハイクの銃を構えている。痩せた指は、すでに引き金にかかっていた。まずい、間に合わない。
ところが、ギタがいくら指に力をこめても、銃はびくとも動かなかった。物でも詰まったように、引き金が固まっている。何度試しても変わらない。懐かしい声が、ハイクの中にふわりと舞い降りた。「今だ、ハイク。撃て」
馬を駆りながら、ハイクは素早くナイフを抜いた。山猫はギタの殺意に煽られ、すでに走り出している。ギタはその場から動けず、かといって、馬にひっぱり上げているだけの時間は無い。ハイクは馬から飛び降り、転がるようにしてギタと魔獣の間に割って入っていった。そのまま馬は先に走らせ、ナイフの切っ先は山猫に向けたまま、空いている方の手でギタの手を銃ごと抑え込む。ギタがひっと悲鳴を上げた。その場に似合わないほど静かな声で、ハイクは言った。
「手を離してくれないか、ギタ。頼むよ」
馬から下りて銃を抑えるまで、ほんの数秒にも満たない時間だった。ギタは、はくりと息を呑んだ。小さな手の震えが止まり、指先の力が抜ける。ハイクはその手から銃を抜き取ると、手の中で一回転させて持ち手を握り、山猫に狙いを定めた。相手はすでに跳躍に入っている。もう、腕一本分の距離しかない。
頭で判断するよりも先に、引き金を引いていた。油を差したばかりのシリンダーは軽かった。ぱん、とひどく乾いた音が、だたっぴろい草むらに軽やかに響いた。鉛の弾が魔獣の眉間の中央にめり込む。血は一滴も流れなかった。一瞬、魔獣は何が起こったのか分からないというように空中で静止したが、やがて鼓膜に爪を立てるようなおぞましい声をあげると、次の瞬間、どさりと灰色の野原に崩れ落ちた。
前足の先から紅水晶へと変わっていく哀れな亡骸を、ハイクは無言でじっと見守っていた。体がすべて鮮血色の石へと変化し、さらにその石が金色の砂となって風の中に脆く崩れ去っていく様子を最後まで見届けると、同じように一部始終を見ていたギタが、茫然と呟いた。
「殺せなかった」
煮え切らないような、それでいて確かに決着がついた表情を、ギタは浮かべていた。銀の目の奥では未だに恨みの炎が燻っているが、それは今まで見せていたものとは少しばかり質を異にしているように、ハイクには見えた。「殺せなかった。折角銃があったのに、撃てなかった」と、銃を握っていた自分の手を、信じられないものを見るかのように見下ろしている。
ハイクは銃をベルトに収め、静かに話しかけた。
「撃てなかったのは、銃が撃たせなかったからだ。この銃はな、本当に相手を殺そうとしてる奴にしか、引き金を引かせないんだ。よく思い出してみろ。おまえは、憎たらしい、息の根を止めたいと思いながら魔獣に銃を向けたのか」
ギタはちらりと魔獣が伏していた場所を見やった。紅水晶は今や影も形もなく、今までそこに何かしらの生物が居たことすら、嘘のようだった。灰色の細長い草に付いた赤い水晶の粒が、まだ昇りきらない太陽のぼやけた光の中で光っている。あの魔獣が残したものはたったそれだけだった。ギタの声は、野原に吹く風のように乾いていた。
「最初は憎かったんだ。目の前が真っ赤になって、それで、殺してやろうって思った。でも、銃を構えたらあっちも僕に気付いて、目が合って、そしたら急に、すごく怖くなって、あいつに食べられちゃうんじゃないかって、他のことがなんにも考えられなくなって……。でもそんな、銃が使う人を選ぶなんてこと、あるわけないよ。そうでしょ?」
「ああ、普通ならないだろうな。けど、人が武器を選ぶように、銃にだって人を選びたくなる時もある」
「じゃあ、僕が撃たせてもらえなかったのは、僕が臆病だったから?」
「いいや、むしろ逆だ。おまえの魂を黄昏にくれてやるのが惜しかったんだろう。おまえは魔獣よりも死の恐怖に立ち向かうことを選んだんだ。生半可な覚悟の奴にはできない、勇敢で、より尊い選択だ」
ハイクの脳裏に壁画の光景が立ちはだかる。あれが本当に真実の歴史だというのなら、ギタと同じようにハイクもまた、立ち向かわねばならないのかもしれない。
腰の銃が、わずかに震えたような気がした。
「ありがとう、お兄さん。僕を励まそうとしてるんでしょ」
ギタがふわりと笑った。たったそれだけで、この少年はずいぶんと大人びたように見える。先に行かせていた馬が、草を踏んで戻ってくる音が聞こえた。黒々とした馬の脚に蹴られて、紅水晶の最後の一粒が飛んでいった。
*
村に戻ってからたっぷり長針二周分、ギタは長の説教を食らい、ハイクに頭を下げることで一連の騒動はひとまずの決着を見た。ギタは当分の間外出を禁じられ、ついでに毎朝宿屋の床磨きをすることとなったが、当の本人がそれを素直に受け入れたので、長は驚いた様子だった。
ギタの様子は、それまでとは明らかに変わっていた。以前よりも落ち着いた振る舞いをするようになり、表情も穏やかなものになった。その銀の瞳に見え隠れしていた黄昏の片鱗は、山猫のそれと一緒に、きらきらと光りながら、山の向こうへと飛ばされていったらしい。へとへとになって床磨きから退散してきたギタは、宿屋の一階で朝食後に新聞を読んでいたハイクを見つけると、向かいの席に座ってくったりと倒れこんだ。
「お勤めご苦労さん」
「ほんとだよ! 皆僕のことこき使いすぎ。あ、お兄さん、あの約束忘れないでよね」
「約束?」
「銃を教えてくれるってやつ」
「なんだ、まだ懲りてなかったのか」
「だって格好良かったんだもん」
ギタはそう言って、口でひゅるひゅると音を出しながら、空気の銃を手の中で回し、正面に構える真似をした。
「ガンスピンっていうんでしょ? あれ、僕もやってみたい」
妙なところで関心を買われてしまったらしい。仕方なくハイクは言った。
「大人になったおまえに、まだこいつが必要だと思えてたらな」
夕方までの空いた時間で神殿についての資料をまとめ、後回しにしていた荷支度や、長との細かい話合いを終える頃には、丁度いい時間帯になっていた。宿の支払いを済ませたハイクは、ゆったりとした足取りで村の出口に向かった。
柔らかな湿った風が吹いていた。あとは帰りの飛行船を待つばかりだ。切り開かれた山の裾野は、船が滞りなく発着できるよう、ある程度の大きさのひらけた空間になっている。西日に染まった黄色い草原が針葉樹の森の中にぽっかりと浮かんでいるさまは、空から見ても非常に分かりやすかった。
ギタと長も、あとで見送りに来ると言っていた。じきに並んで歩いてくることだろう。ぼんやりしていると、大きな鷲が、目の前に降り立った気配がある。ハイクは顔を上げた。もちろん、そこには誰も居ない。
「やっと話す気になったか?」
大鷲はしばらくの間黙していたが、やがて意を決したように、曲がった嘴を開いた。
「壁画を見て、……思い出した。おまえたちが、かわたれと呼ぶ時代。わたしは兵士として、戦場を飛んでいた」
「……だろうな」
その可能性を考えないわけがなかった。大鷲がギタに向けた冷酷な殺意は、おそらく兵士時代に染みついたものだったのだろう。
「たくさん殺した。わたしは己の爪で、人の体を引き裂いた。あの頃のわたしにとって、それは子狐を狩るのとなんら変わらぬ、ごく簡単で、あたりまえの仕事だった。あの神殿にわたしに似た像があったのも、きっとそういうことだろう。人が少なくなってから、わたしたちのような兵は余計に数を増やしていった」
「……参ったな。ルドラもおまえも、元はかわたれの戦士か。なら余計、こいつを持って来て正解だったな」
ハイクは腰の荷物入れを探り、黒から青に転じた珠を取り出した。中に浮かんだ光る針は、今も寸分違わず真西を指し続けている。大鷲の左目がわずかに見開かれた。
「神殿に返していなかったのか」
「まあな。ずいぶんと頼み込んだよ」
壁画に描かれていたような水の力は、もうこの珠には残されていない。それはハイクと長の間でも一致した考えだった。戦火に飲まれ、いったんその生涯を閉じたかに見えた水の神殿は、しかし密かに新たな役割を与えられ、壁画を刻まれて隠された。この珠も同じだ。希望の宝玉は、道を示す針となった。
「あと二つ、必要なんだ。真なる史とやらに辿り着くためには」
ハイクは振り返って、高くそびえるレイクァの山を仰ぎ見た。憎むべき相手とすらも共に。そのルドラの教えだけは、疑うことも覆すこともできない。そして、ルドラの名を名乗り続けると決めたのは他でもないハイク自身だ。その事実もまた、変えようもなく、疑うべくもないことだった。
知らなければならない。ハイクにとって、それは今や避けようもないことだった。何が真実かを見極める。それがどれだけ恐ろしいものだったとしても進むしかない。
「わたしの仲間たちは、戦に生き、戦の中で死んだ。あれはひどくかなしいものだ。だから、なあ、おまえはきっとそうなってくれるなよ、ハイク」
ふと顔を上げれば、羽虫のような小さな飛行船が、赤い太陽の中を移動しているのが見えた。血に灰をばら撒いたようなまだらの空を漂う一隻の船は、戦火の煙に浮かんだ、かつての大鷲の姿を想像させた。