嘆きの谷(前)

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“黒の谷”の場所は、大鷲が知っているという。テントに戻ってウルグ達とクラッカーと干し肉の朝食を摂ったあと、二人が沢に水を汲みに行った隙を見計らって、ハイクはフィデリオから貰った地図を開き、大鷲に聞いて目指す地点を確かめた。目測で、歩いて四日ほどの距離だ。その後、ハイク達はテントを引き払い、支度を整えて、森の入り口まで引き返した。ウルグとルーミは、これから工房都市スクイラルへと向かうらしい。つまり、東だ。ハイクが向かわなければならないのは北だった。
浅い霧が出て、足首のあたりに絡みついていた。風は無く、草木の青臭さが湯気のように周囲に立ちこめている。木々のトンネルを抜けると、湿った泥道が、前方で二つに分かれて伸びていた。
ルーミ達は右の道を、ハイクは左の道を選んだ。ハイクは振り返り、改めて二人に向き直った。何か特別な感謝の言葉を伝えておかねばならないような気がしたが、ハイクの口から出たのは、ありきたりな挨拶だけだった。
「んじゃ、ここでお別れだな。助かったよ、お二人さん」
「いいえ……。ハイクさんも、どうかお気をつけて。それでは、また」
言葉少なに、ルーミがほほ笑んだ。ウルグはだまってハイクを見ただけだった。また会おう。生き延びて、またどこかで再会しよう。この國においては、難しいことだ。ましてやこうして各地を旅し、戦いの中で血を流すこともある自分達にとっては、ことさらに困難なことだった。だが、そういったささやかな約束すらも信じられなくなった者が黄昏に呑み込まれやすいのも、また事実だ。
短い別れだった。二人の背が、次第に小さくなっていく。その姿が白く煙る霧の向こうへと完全に消えるのを見送らないうちに、ハイクは二人に背を向け、歩き始めた。

大鷲の案内と、赤の宝玉が示す方角は寸分違わず合致していた。ハイクは最初のうち、大鷲が本当に正しい方角を教える気があるかを疑い、分かれ道に差し掛かるたびに宝玉を確認していたが、大鷲に嘘をつく気がないと分かってからは、珠はガンベルトに仕舞い、そのままだった。
一日目と二日目は、霧の道が続いた。剥げかけた丸石の街道をひたすら歩き通し、一度、途中の山村で食料と水を調達した以外に、人が暮らす集落は無く、あっても古い廃村が関の山だった。北上するにつれて霧は少しずつ薄れ、植物は減り、空気は乾燥し、平坦だった地形は、次第にでこぼことした上り坂に変わっていった。
三日目になっても、道では誰ともすれ違わなかった。敷かれていた丸石がついに途切れ、ただの山道に変わり、その山道すら途切れて未開拓の嶺に入ってからもなお、ハイクは宝玉の針を頼りに、北を目指した。山の斜面は次第に険しさを増し、切り立った渓谷が連なり、ハイクの視界を塞いだ。
そして、四日目。険しい谷を越えた先に、それは悠然とそびえていた。美しい扇型をした、黒く巨大な山だった。
「ここが黒の谷か」
「ああ」
大鷲は、黄色い左目を細め、遥かな嶺を臨んだ。
「わたしの、生まれ故郷だ」

上へと登る道を探していくと、山のふもとに、古い坑道の入り口を見つけた。水晶灯のランプを付け、中を進んでいく。大人一人が歩ける程度の幅しかない、狭く窮屈な坑道だった。露出した古い地層のあちこちから、黒曜石の原石と思しき岩が顔を出している。遠目から山が黒く見えたのも、これのせいだろう。おそらくここから切り出された石材が、王墓にも使われていたのだ。入り組んだ坑道の中までは、大鷲でも案内は難しかった。道の分かれ目にぶつかる度に、ハイクは宝玉を取り出し、進む方角を確認した。
奥へ登るにつれ、山に入った時から感じていた一つの違和感が、ハイクの内側ではっきりと歪な形を成していくのが分かった。
生き物の気配がまるで無い。魔獣はおろか、鳥や虫、植物の一本すら、この山から死に絶えてしまったのではないかと思えるほどだ。こうして坑道を進んでいる今も、蜘蛛の一匹すら見かけない。黄昏に脅かされている様子でもないのに、死んだように静まり返っている。だが、意外にも、それについての答えは大鷲から返って来た。
「土が汚れてしまったのだろう。“滅びの星”が降ったから。前に、おまえの友人が言っていたのと、同じものだ。地に落ちた瞬間、爆発して、黒い光を放ち、その光を浴びた生き物は灰になる。二、三度瞬きをした、たったそれだけの間だった。あとに残ったのは、人だった者達の影が焼き付いた、黒く焦げた谷だけだった。わたしは、空からそれを見ていた」
「また隠し事か」
大鷲は目を伏せた。
「すまない。けれど、きっと、信じておくれ。わたしはおまえを謀ろうなどと思ったことは、いちども無いのだ。わたしはおまえとともにこの國を旅した月日が、何よりも楽しく、愛おしくて仕方がなかった。自らに課せられた役目を忘れ、夢中になってしまうほどに。しかしその旅も、じき終わりだ。わたしも、為すべきことを為さねば」
「待て。何を言ってる。為すべきことってなんだ」
思わず、ハイクは立ち止まった。足元で小石が跳ね、はらはらと斜面を転がり落ちていく。大鷲の声はあくまでも優しく、ハイクを包み込むように響いてきた。
「逃げてばかりもいられない、ということだ。ぜんぶ、おまえが教えてくれた。……もう少しで谷に着く。そうすれば、自ずと道は開けるだろう」
まるでこの先に何が待ち構えているのか知り尽くしているような口調だった。ハイクはわずかな苛立ちを覚えたが、その苛立ちが、ハイクに隠し事をするわけがないと思いこんでいた大鷲への失望という、身勝手な考えから起こった感情だということには気付いていたので、場違いに大鷲に当たることはしなかった。以前にフィデリオや大鷲にしてしまったことを繰り返したくはなかった。「見えたぞ」と大鷲に言われ、顔を上げてみれば、坂道の頂上に、今までとは異なる造りの真四角の横穴が、ぽっかりと口を開けていた。
大鷲は何も言わず、頭を下げるだけの動作でハイクを先に促した。これ以上は進んだ方が早いと言いたいのだろう。ハイクは溜息を吐き、横穴に入った。
王墓の地下通路を彷彿とさせる通路だった。というよりも最早、そっくり同じ物のように見える。磨かれた黒曜石で組まれた、短く、広い廊下だ。
道の先に、一つだけ橙色の炎が浮かんでいた。わずかに揺れている。人の持つランプの灯だった。ハイクの来訪に気付いて、灯りを持つその人物が、こちらを振り返る。
年老いた声が響いた。聞く者の心を落ち着かせるような、深い声だ。
「おお。来た、来た。待っていたよ」
ハイクは息を呑んだ。
そこに立っていたのは、一人の老人だった。曲がった鷲鼻と、豊かな長い銀髪、そして、その髪に埋もれかけた、染色された前髪の一房が、ランプの緋色に柔らかく照らし出されている。かなりの高齢だが、背筋は真っ直ぐにしゃんと伸びていて、その立ち姿は老いをまるで感じさせなかった。
古い友を迎えるように、老人は両腕を広げた。こざっぱりとした麻の着物から覗いた左右の腕は、丈夫そうな皮の手袋で肘まで覆われている。近づいてきたハイクをゆっくりと眺めると、老人は嬉しそうにほほ笑んだ。
「ようこそ、黒の谷へ。……ほほう、鋼玉に空とは、結構、結構。それから、ああ、アギラもそこに居るね?」
「アギラ?」
「おまえさんの、唯一無二の友のことだよ。成る程のう。一羽の鷲として、アギラがおまえさんに惹かれるのも、よく、分かる。鳥がより高く飛べる場所へと向かうのは自然なことだ」
心得たように頷く老人に、ハイクは驚き、目を瞬かせた。
「驚いたな。本当に他人の魂が見えてるみたいだ」
ほ、ほ、ほ、と老人は穏やかに肩を揺らした。
「もちろん見えているとも。長い人生で、多くの者に会ってきたからのう。自ずと分かるようになるものだよ。数少ない、老人の特権のうちの一つだろうて。だが、わたしが思うに、おまえさんが最もわたしに聞きたいと思うておるのは、そこではないのだろうね?」
ハイクは老人の前に立った。ハイクよりも低い位置にある鳶色の瞳が、きらりと光る。ルドラの長とも、ラブラドとも違う光だ。ハイクはその瞳の奥に、恐ろしく膨大な知識が眠っているのを感じた。それを正面から見据えて、ハイクはがらりと声色を変えた。
「あんた、一体何者だ」
警戒を隠そうともしなくなったハイクを不快に思う様子もなく、老人は静かに頷いてみせた。
「そうとも。わたしは、ルドラの一族ではないよ」
「そんなことは見れば分かる」
髪の一部を白く染める。それが、ルドラの一族の古い習わしだ。そして、ハイクと同様に、目の前の老人の髪もまた、その前髪の一部だけが染色されている。
ただしその色は、目にも鮮やかな、花のような朱色だった。
ルドラには、朱染の習慣は存在しない。ほとんど確信を持って、ハイクは老人を見た。
「アグニだな」
「いかにも。わたしの名は、セイファスだ。セイファス・ロド・アグニ。十年前、おまえさん達が自らにルドラと名を付けたように、遥か昔の我らもまた、自らに“炎”という名を付けたのだ。それより昔には別の名があったようだが、今となっては最早、誰も覚えてはおらん」
老人のその言葉に、ハイクは一層警戒を強めた。この老人は、十年前にルドラの村が滅びたことを知っている。しかしセイファスは、ハイクのその反応すらも承知しているような素振りだった。
「ルドラの民よ、おまえさんの疑念ももっともだ。だが、案ずるな。わたしにはすべてをおまえさんに伝える用意がある。おいで」
そう言って、セイファスは背後の扉を開けた。軋んだ音を立てて、鉄の扉が開き、明るい自然光が溢れ出す。この扉は外に通じていたのだ。
乾いた風が吹き、ハイクの頬を撫でた。しかし、どこか焦げ臭い。ハイクは眉をひそめながら、老人の後を追って外に出た。
「ご覧、ルドラの若者よ。これが、“黒の谷”だ」
眼下に、黒い都市が広がっていた。

     *

谷というよりも、そこはむしろ、山の内部をまるごとくり抜いて作られた、恐ろしく巨大な穴だった。ハイク達が立っているのは、その谷の頂上付近だ。穴の底に円形に広がる都市には、背の高い建物が、針山のように乱立している。まるで都市そのものが、一つの城か、あるいは要塞のようだった。見上げた曇り空は山の火口によって丸く縁取られ、白けた光と砂埃を、きまぐれにぱらぱらと廃都に落としていた。
街には白と黒しか色が無かった。光と影の陰影だけですべてが形作られ、ハイクが居る場所から見下ろすと、ただの立体的な影絵が立ち上がっているだけのようにも見えた。
セイファスが歩き出した。目の前の光景に圧倒されていたハイクは、遅れてそれに気づき、後を追った。扉を出た左手から、崖伝いにぐるりと半周、細い鉄の階段が這わせてある。セイファスはハイクが追いついてくるのを待つと、手すりに手を置き、再び階段を下り始めた。
「話の前に、まずはおまえさんの名を聞かねばなるまい」
ハイクはセイファスに言われるまで、自分がまだ名乗っていないことに気付かなかった。何故かこの老人は、すでにハイクのことを隅々まで熟知しているような気がしていた。奇妙な懐かしさを覚える人物だ。深い声のせいだろうか。それとも、丁寧な物腰の裏から滲んでいる、超然とした自信のせいだろうか。
「ハイク・ルドラだ」
ああ、と、セイファスは頷き、味わうようにその発音を繰り返した。この老人が、信用に足る者か否か。答えはまだ出せない。
「歩く者、か。実によい名だ」
セイファスとハイクの間に、ふつりと間が生じた。機を逃さず、ハイクは切り出した。
「ラブラドに宝玉を渡した鳥使いというのは、あんたのことだな」
「……左様」
ごくわずかに、セイファスの声が変わった。階段を踏む足は止めず、表情も穏やかなままだが、声だけがより低くなる。ハイクもまた、セイファスの隣を歩きながら、耳と頭に意識を集中させ、身構えた。
「あの画家の御人が、いずれおまえさんに繋がるだろうということは分かっていた。我らに古くから伝わる天文学の術を使い、星の導きを読み解いたのだ。ゆえに、酒場で偶然を装って彼に珠を託し、おまえさんがここに来るのを待った」
天文学という言葉自体は、ハイクも聞いたことがある。確か、黄昏の始まりと共に衰退した学問だ。
「天文学ってのは、ただの星占いだと思っていたが」
「左様。あれは本来、占いであって、未来を予見する術ではない。ただ、アグニの中に、代々星の力を借りることのできる血筋があってな。彼らが扱えば、話は別なのだ。もっとも、占いは占い、確実ではないと本人達は言うておる。彼らの占いが外れたことは、まだ一度も無いがのう」
セイファスはくすくすと笑った。
「その占いとやらで、俺達が今日ここに来ることもお見通しだったって訳か」
「その通りだ」
セイファスは、視線を黒い都市へと向けた。うっすらと笑みを湛えるその横顔からは、何も読み取ることができない。
「ここはのう、ハイク。かつては強大な帝国だった。かわたれの時代に、我らアグニの祖先達が暮らしていた、巨大な軍事国家だ。すでに知っているだろうが、かわたれの時代は戦の世だった。この帝国も、多くの血を流し、流させ、他者を滅ぼし、そして自らもまた滅びていった。星を使って先を詠む一族が、星によって未来を絶たれてしまった。皮肉なことだ」
「滅びの星か」
「そうだ。アギラから聞いたんだね? それが、谷の終戦の……そして、ゆくゆくは世界大戦の終戦の引き金となる出来事だった。生き残ったのは、幸運なごくわずかな人々だけだった。その時だよ。我らが我らに、“アグニ”という名を付けたのは。償いの道はそこから始まったのだ」
階段を下りきり、都市の中を進む。路地を抜け、大通りに入った。上から見た時には分からなかったが、廃都は瓦礫で溢れ、そこかしこに戦争の痕跡が残されたままだった。建物は一棟一棟が王都の城よりも高く、四角く、家というよりは沢山の黒い塔が並んでいるようで、どうにか元の形を保っているものもあったが、上部が大きく欠けていたり、途中で折れて隣の塔によりかかっていたり、石壁に大穴が空いていたりするものがほとんどだった。
セイファスは、都市の中心部へと赴くつもりのようだ。道路の隅に、巨大な焼け焦げがあった。跡の中央部だけが、焦げずに白く残っている。人型だ。まだ、ほんの子どもだった。
その影の細さがどことなくアリアやギタに似ているような気がして、ハイクは人型の影から目を逸らした。顔を上げると、こちらを見ていたセイファスと目が合った。老人は目尻に皴を寄せ、労わるように言った。
「優しいね。それに、頭も悪くないようだ。おまえさんはもうほとんど、事の顛末に辿り着いているように、わたしには思えるのだがね」
ハイクはわざとらしく肩をすくめた。
「あんたが言うと、嫌味にしか聞こえないんだがな」
「ほっほ、加えてとても冷静なようだ。その様子だと、わたし達の目的にも勘付いているのではないかな?」
「勘付くも何も、最初から目の前にぶら下がってるじゃないか。“真なる史”だ。そうだろう? それを守るのが、あんた達の務めなんだ」
セイファスは頷き、だまって再び歩き始めることで続きを促した。ハイクはセイファスに並び、慎重に自分の推論を話し始めた。
「神殿と王墓は、どちらも真なる史への鍵を隠しておくための堅牢な金庫だった。事実をありのままに後世に伝えるっていうのは、難しい仕事だからな。だから、あんた達アグニの祖先は、あらゆる術を組み合わせ、正しい手順を踏んで、三つの鍵を揃えた者にしか真実が開示されないようにした。同じような遺跡はいくつも踏破してきたけど、ここまで手が込んでるのは初めてだよ」
「ああ、そうか」
セイファスは納得し、頷いた。
「おまえさんは、トレジャーハンターだったな」
細長い塔の谷間に、風が吹いた。街に来てから初めて風を感じたが、それは、爽やかさとは程遠い、殺伐とした風だった。人のむせび泣く声に似た風切り音が、無人の都市に虚しく響き渡る。
ハイクは目を伏せた。
「 “我ら償いの道をゆく——”青の神殿に行った時、俺は、“我ら”っていうのは、ルドラのことを示しているんだとばかり思っていた。神殿の壁画も、そして“真なる史”も、かわたれの時代にルドラの一族が犯した罪を綴るためのものなんだろうと。実際、王墓の碑文を読んだ時も、最初はルドラの一族の懺悔の言葉だと考えた。……だが、それだけではどうしても、辻褄が合わない部分があった。なぜか碑文には、“ルドラ”の名が刻まれていたんだ。そこだけが、妙だった。俺達がルドラを名乗り始めたのは、今からきっかり十年前だ。それ以前に、俺達の一族がルドラの姓を使ったことはない。考えられる可能性は二つだった。一つは、俺達の一族と、王墓に刻まれた“ルドラ”が、全くの無関係であること。だが、これはありえない。“ルドラ”という言葉は、元々俺達の一族にだけ伝わる古代語だからだ。なら、正しいのはもう一つの可能性の方だ。それは」
セイファスが、ちらりとハイクを見た。
ハイクは前を向いたまま、淡々と続けた。
「それは……ルドラの一族が、大昔に一度その名を捨てた、って仮説だ。だが、今から歴史を守り続けようという奴が、どうして自分から名前を捨てる必要がある? 物語と同じで、役者の名ってのは一番大事な部分だ。捨てるのはあまりに不合理だ。それに、今から捨てようとしている名を、わざわざ王墓の壁に刻みつけるのも、おかしい。ということは、ルドラではない誰かが、あの碑文を遺したってことになる。……そして、王墓には、おあつらえ向きにもう一つ別の名前があった。聞いたこともない名だ。あんたの話を聞くまでは、自分に都合の良い解釈じゃないかと疑っていたが、ようやく今日、確信した。“いつの日か、白日のもとに暴かれるその時まで、歴史の闇に落ちぬよう、我らは守り続けよう——”壁画や王墓に刻まれていた碑文は、全部、アグニ、あんた達のことだ」
「……ああ」
老人が、静かに嘆息した。誤った推理ではないらしい。確信を得て、ハイクはそのまま話し続けた。
「物語の主役が、ひっくり返った。俺が今まで見てきたものは、すべてアグニの歴史だったんだ。ついでに、王墓にはこうあった。“探しにゆかねばならぬ。自由を奪い、その身に終わりなき罪を背負わせた者達を”と」
ハイクの声に耳を傾けながら、セイファスは何度も頷いた。
「そう、そうだ。そのとおり。きっと次におまえさんはこう思ったことだろう。“アグニは誰を探しているのか”とな」
「そうだ。そして、考えついた。そもそもどうして、ルドラの一族は名前を捨てたのか? 名も無き一族として、東の端の、地図にも載らないような小さな丘でひっそりと暮らし、どうして長い間、そこから一歩も外に出ようとしなかったのか? 簡単だ。隠れようとしたからだ。なら一体、何からだ? 黄昏の浸食が始まるよりも前だっていうのに、一体何から逃げる必要があったんだ?」
セイファスはじっとハイクの話に聞き入っていた。ほんの一瞬、まるでおとぎ話に夢中になっている子どものようにも見えたが、やはり、セイファスが身に纏っているのは老成した者が持つ威厳で、垣間見えた歳の差が、ひどくちぐはぐな印象ばかりを与えてくるようだった。
この老人に、不思議な懐かしさを覚える理由が分かった。似ているのだ。セイファスは、大鷲にとてもよく似ている。
ハイクは続けた。
「アグニは追う側で、ルドラは追われる側だった。そうなるに至った理由は、分からない。だが、一度はまんまと逃げ果せたはずの、名も無き……いや、名を捨てた一族が、今になってなぜか、再び昔の名を掲げ始めた。俺は長いこと、國のあちこちに散り散りになってしまった仲間を見分けるために、長がそう決めたからだと思っていた。だが……」
言葉を切る。続きを話すのを、ハイクは躊躇した。ここから先は、推理というよりは、ただの想像だったのだ。セイファスが瞼を持ち上げ、どうした、と首を傾げた。
「どうした、ハイク。遠慮はいらん。最後まで聞かせておくれ」
「いや……。根拠がない」
「構わん。わたしはおまえさんの考えが知りたいのだ」
セイファスの口調からは、ハイクの意見を聞くまでは気が済まないとでも言いたげな、強い欲求が滲み出ていた。仕方なく、ハイクは口を開いた。
「……もちろん、離れた仲間への目印の役目もあったんだろう。だが、それだけじゃ無いんじゃないかと、俺は思う」
「ほう」
「つまり……アグニに、見つけてもらう為じゃないか、と」
たちまち、セイファスの表情が一変した。喜色に溢れ、笑みすら湛えている。
「すばらしい。さあ、ほら、まだ続きがあるのだろう」
「だから、その……。そうする必要が出来たから、一度は捨てた名を、わざわざ自分達に付け直したのかもしれない、と、思ったんだ。真なる史の為に」
目が合うと、セイファスは力強く頷いて、後押しするように続きを促した。
「俺が思うに……、アグニは、真なる史の守り手ではあったが、実際に神殿や王墓の封印を解き、真なる史への鍵を開く権利を持っていたのは、ルドラの一族だったんじゃないか? それが原因で、いや……理由は分からないが、ルドラは一度アグニの元から去った。だが、時代が変わり、ルドラも隠れてばかりはいられなくなった」
「黄昏、だな」
ゆっくりとセイファスが引き継いだ。ハイクは頷いた。
「そうだ。丘が黄昏に呑まれ、ルドラは壊滅状態に陥った。ルドラが居なくなれば、真なる史は今度こそ永遠に闇の中だ。アグニだけでなく、ルドラにとっても、それは困ることだったんだろう。真なる史に何が書かれているのかは俺には分からない。だが、少なくとも、なりふり構わず、例え一度は逃げた相手であっても、助けを求める必要があるものだったのは確かだ。だから、丘を離れることになったあの日、長は決断した。最もアグニが気付きやすいであろう旗を掲げ、皆を國の各地に散らばらせた。そして、それが功を奏し、五年の歳月を経て、アグニはようやく一人のルドラの生き残りを見つけ出した。……俺だ。そして俺は今、あんた達の思惑通り、真なる史への鍵を持ってここに居る」
ハイクは一気に話しきると、ようやく息をついた。
すべてを聞き終えたセイファスは、満足げに溜息を洩らした。
「実に、実に聡い男だ」
ハイクはどう応じればいいのか迷い、肩をすくめた。
「見つけたものを、一本の筋になるように並び替えただけだ」
愉快そうに、セイファスはくつくつと笑った。
「ならば、わたしはその骨に肉を付けるとするかのう」
いつの間にか、都市の中央に来ていた。丸い広場だ。ここだけは、瓦礫が綺麗に片付けられていた。都市に入ってから初めて感じた、人の手の気配だ。迷いない足取りで、セイファスは広場を進んでいく。丸い空から光が落ちてきて、辺りを白く浮かび上がらせていた。中央で立ち止まったセイファスに、ハイクは問いかけた。
「何をするつもりだ?」
「下へ降りるのだ。わたしの隣においで」
言われるがまま、ハイクは老人の隣に並んだ。セイファスはおもむろに屈みこみ、敷かれた煉瓦の一つを持ち上げた。下に、奇妙な盤が取り付けられている。
「操作盤か」
「いかにも。どれ、少し揺れるぞ」
セイファスは慣れた様子で、盤のボタンをいくつか押した。ほどなくして、広場の中央部だけが、地下に沈み始めた。昇降機になっているようだ。
ゆっくりと、ハイク達は都市の地下へと下りていった。想像以上に地下は明るかった。もちろん自然の光ではないが、太陽のように白い人工の照明が、ドームの天井に点々と並んでいる。上と同じく丸い広間になっているのが、昇降機からも見下ろせた。何気なく真下を覗き込み、ハイクはぎょっと目を見開いた。
見覚えのある機械人形だった。王墓で対峙した、巨人の方だ。それが二体、下でハイク達を待ち構えている。それぞれこちらを向いて片膝をつき、謁見を待つ家臣のように、忠実に頭を垂れていた。ハイクは反射的に銃を抜いていた。それを見たセイファスは、ハイクを宥めるように、ゆったりとほほ笑んだ。
「案ずるな。彼らは、もう動かぬ」
昇降機が床に着地した。わずかに震え、静止する。ちょうどその両脇に控えるような恰好を取った二体の巨人は、言われてみれば確かに、王墓で見たものよりもずっと古ぼけているようだった。鋼の関節は完全に錆び付き、竜核も取り除かれている。
セイファスは昇降機から下り、どこか愛おしげな表情で巨人達を見上げた。
「彼らは、戦のために作られた兵士だった。失う命を持たぬ最強の矛、不死の隊列だ。終戦とともに、彼らは皆、その機能を完全に停止したはずだった。だが」
セイファスは、そこで一旦言葉を区切った。老いた顔に苦痛が過ぎる。
「とある任務を与えられ、稼働し続けた機械人形達がおった。……そう、墓守だ。我らの祖先はのう、こう考えたのだ。いつか再び戦争が起こった時、王墓が荒らされるのではないか、と。戦乱に終止符が打たれてもなお、彼らは時代の変容を、完全には、理解することができなかった。武器を手放すことを恐れた。時が経ち、やがて機械人形は狂い始め、おまえさんに最初の珠を渡したのち、我らが気付いた時にはすでに、あの哀しき機械人形達を止める術は残されていなかった。そして……、そしてとうとう彼らは、何の罪もないおまえさんの友を……」
激しい痛みに耐えるように、セイファスは目を閉じ、深く項垂れた。
「なんと……なんと恐ろしいことだ。許されないことだ。あの人形達に屠られるべきは、我らのほうだったというのに」
「やめてくれ」
ハイクは咄嗟に、セイファスの話を遮った。
「そんなことは言うな。それはマキナ達の死を軽んじているのと同じだ」
セイファスは顔を上げ、力なく「ありがとう」とほほ笑んだ。
「だが、それだけではないのだよ、ハイク。罪はそれだけに留まらないのだ。ルドラの民たるおまえさんには、それを知る権利がある」
「すべてはあの扉の向こうだ」と呟き、セイファスは口をつぐんだ。老人の視線を辿っていくと、広間の奥には大きな扉があった。見るからに堅牢な造りの、どんな砲弾の直撃にも耐えてしまいそうな、粗忽で分厚い石の戸だ。
「真なる史は、この先だ。そして、おまえさんの推論を一つ訂正するならば、我らがルドラを求めたのは、真なる史の為ではない。真なる史の大部分の内容を、すでにアグニは知っておるからのう。それは、もう一つ、真なる史を知った先にある、とある場所に深く関係していることだ。扉を見てごらん」
ハイクは扉に近寄った。扉の表面には詩が彫られていた。これまでの二つの遺跡で見たものと同じ言語だ。

——ふたつのあいだにわたしはひらく
  我らが友に 歌よ祈りよ

「これは」
知らず、溢していた。「やはりそうだろう」と、セイファスが目を細める。
「きっと、これと一字一句違わぬ詩を、おまえさんは見たことがあるのだろうね」
ない、という回答が返ってこないと確信している口調だった。
確かに、そうだ。
確かに、ハイクは知っている。
初めて見た時は、解読できなかった。だが、ハンターとして数多の古代の文化に触れ、言語を学び、研鑽し、経験を積んでいくうちに、いつしか読めるようになっていた。
秘密を打ち明けるかのように、セイファスが囁いた。
「……そう。“浜”だ」
そうしてセイファスは、ゆったりとハイクを見上げた。
「必然だ。もちろん、おまえさん自身のたゆまぬ努力の賜物だが、同時に、おまえさんの中に宿ったアギラの記憶が、古代のアグニの言葉を読む手助けをしていたのだ。おまえさんはもう、あの浜の場所を知っているね」
腰の銃に触れた。ハンターとして訪れた初めての遺跡。迷いの森。不可解にうねる廊下。
そして、その奥に記されていた古代文字。海と空、大鷲。
「古の術だ。あの森も、廊下の奥に書かれていた文字も、いわば篩(ふるい)なのだ。素養がある者は“浜”へ、そしてさらに、真なる史を知り、すべての鍵と条件を揃え、壁に記された言葉を唱えることができたなら、“浜”は己の本来の姿……我らはその姿を“ゆりかご”と呼んでおるが、その“ゆりかご”の姿で、その者を迎えると言われておる。そこには、おまえさん達ルドラの民しか、到達することはできん。我らがルドラを求めたのは、そのためだ」
「ゆりかご?」
「ああ。約束の地だ。そして、この扉にはのう、ハイク。その浜の入り口にごく近い手法が用いられておる。この谷や浜に一切の関わりを持たぬ者は、扉を開くことはおろか、触れることも、扉の姿をその目で見ることすらも叶わぬ」
「待ってくれ」
ハイクは思わず口を挟んだ。
「知り合いに一人、浜に入れた奴がいる。つまりそいつも、真なる史に関係しているということか」
「ああ」
セイファスは頷いた。
「海(アウシャ)の家の子だね。彼らは、……そうだな、かつての黒の谷の同胞だ。そういう言い方で、間違いないと思う。戦士でありながら、実に心優しく、敵にも味方にも誠実な騎士であったと言われておる。特におまえさんの友人は、すばらしい海を宿しておるようだからのう。余計に浜に引かれたのだろう」
語りながら、セイファスは確かな足取りで扉へ向かって行った。ハイクは後ろからそれを見ていたが、どれだけ扉に近づいても、セイファスは止まる気配がない。このままではぶつかってしまう。しかしハイクが口を開きかけた瞬間、扉がゆらりと歪み、セイファスの姿が目の前から掻き消えた。
呆気に取られていると、扉の向こう側からくぐもった声が響いた。
「大丈夫だ。信じて進めばよい」
扉はすでに、ただの硬そうな一枚岩に戻っている。ハイクは訝しみながらも、足を踏み出した。扉まであと三歩、二歩、一歩……。
想像したような衝撃や痛みは無かった。霞のように扉がするりと溶け、次の瞬間には、向こう側に抜けていた。背後を振り返ると、そこには先程と同様に固く閉ざされた扉がある。
セイファスが、すぐ横でハイクを待っていた。
「来たね。さあ、ご覧。これが我らの道、歩んできた歴史だ。真なる史とは、黒の谷という国が生まれてから滅びるまでの、一切の記録なのだ」
一本の、白く長い廊下だった。そしてその廊下は同時に、一本の長い物語だった。床に隙間なく敷かれた石畳に、鮮やかな色彩でそれは描かれていた。
絵だ。絵巻物のように、過去の出来事が順番に記されているのだ。
ハイクの目は自然と、廊下の先に向いていた。白く霞んでいて、終端がどうなっているのかは分からない。
「進もう。もう少しだけ、共に歩いてくれるかのう」
セイファスの声が、静かにハイクの鼓膜を震わせた。






(嘆きの谷(前))

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