歩み
幼い頃、母に自分の名の由来を尋ねたことがある。どのような過程を経てその疑問へと行き着いたのか、今となっては記憶はひどく曖昧だが、それでもその時母が浮かべた穏やかな表情だけは、今でもくっきりと思い出すことができる。
母はふわりと、花がほころぶようにほほ笑んだ。
「自分の足で立って、望んだ場所まで、どこまでも歩いて行けるように。だから、ハイク。あなたはハイク」
息子の髪を撫で、よく通る声で、歌うように母は言った。彼女は一族の中でも指折に美しい声を持つ、歌の名手だった。「あなたは言葉を覚えるよりも先に、私の歌を真似たのよ」というのが自慢で、彼女は幼い内からハイクに様々な詩歌を与え、発声の仕方を教え、譜面の読み方を教えた。
血筋か、はたまた伝統か。一族には、いわゆる同好の士と呼ばれる者が大勢居た。皆が皆、歌や楽器、芝居といった芸能の才に恵まれ、彼らから音楽が絶えることは、丘から緑と風が絶えることと同じくらい、考えられないことのように思われた。そんな一族の子ども達の中でも早期に頭角を現したハイクを見た大人達は、喜んでハイクに、詩歌だけに留まらず、歌劇のなんたるか、舞踊のなんたるか、物語を吟じることのなんたるかを、丁寧に教え込んだ。言葉も、読み書きも、すべてその中で覚えた。一族の子どもにとっては、それはごく当たり前のことだった。
ハイクが生まれるよりもずっと前から、母は足が不自由だった。ハイクを身ごもって間もない頃、魔獣に襲われ、足の腱を切られたらしい。父もその時死んだのだという。ゆえにハイクは父親の顔を知らない。魔獣って何、と尋ねたハイクに、「生き物であって、そうではなくなってしまったものよ」と母は答え、目を伏せた。当時のハイクは、まだ魔獣というものを目にしたことがなかった。 “黄昏”に魂を食われた人や動物がそういう風に姿形を変えることがあると知ったのは、同じようにして、丘が黄昏に食われ始めた頃だ。
そこから先はあっという間だった。
まず始めに、植物が枯れ始めた。日が陰り、気候が荒れ、丘の草花が次々と萎れ、畑の作物は黒く腐った実を落とした。初夏に差し掛かろうというのに霜が下り、丘は寒さと飢えに苦しみ、真っ先に耐えきれなくなった年寄りと子どもが、何人か死んだ。それでも、一族は互いに助け合い、なんとか飢餓に耐えていたが、ある日渇きを癒そうと水を飲んだ男が、病に臥せった。井戸の水が腐っていた。
三日三晩の高熱の末、皮膚に異様な紫の斑点を撒き散らし、その男は帰らぬ者となった。病はたちまち丘に蔓延した。
井戸の水も、沢の水も飲めない。備蓄してあったわずかな食料も尽きた。このままでは、病などなくとも全員死んでしまう。男衆は、まだ動ける者を集め、食料と水を求めて丘向こうの森へと向かう決意を固めた。森には魔獣がいるという噂もある。止める者もあったが、他に道は残されていない。樽をばらして作った気休め程度の防具を着込み、慣れない短剣を手にした彼らの姿に、ハイクは言いようもない不安を覚えたが、周囲の大人達が気丈に振舞う理由を察し、鑑み、そこから自分がどういった態度を取らねばならないかを考えることはできた。帰ってきたら、また歌を教えてよ。空元気の笑顔でそう言うと、男衆達は力強く頷き、ハイクの肩を叩いて、丘を発った。
最後の希望にすべてを託し、残された者達はただ、待った。最も壁が厚い家屋の中、藁と土で隙間風を防ぎ、ただじっと毛布にくるまって身を寄せ合い、寒さで体力を消耗しないようにするのが精一杯だった。永遠のように感じるほどに凍りついた一日が過ぎた頃、夕暮れに黒々と佇む森の方角から、数人の人影が戻ってくるのが見えた。始めは皆、窓辺に駆け寄り、口々に喜びを露わにして影を指差していたが、人影が近づくにつれ、その表情は次第に絶望へと変わっていった。
逃げなさい、と叫んだのは、一族の長老だ。彼は生き残りの中で最も優れた視力を持っていた。
確かに彼らは帰って来た。しかし、それはハイク達が知っている彼らではなかったのだ。二本の足で歩いていること。そして、出発の時に着ていた防具の残骸が、いびつに骨格が盛り上がった、毛深い体に引っかかっていること。彼らの面影は最早、それしか残されていなかった。
魔獣へと変わり果てたかつての仲間達が、膝まで届く長いかぎ爪を光らせ、窓の向こうからこちらを見て、にたり、と笑った。
人から生まれた魔獣は賢い。動物を元とする魔獣よりも、より狡猾で残忍な手段で人を襲う。魔獣のうちの一体が、丘に火を放った。恐怖で我を失った人々は、蜘蛛の子を散らすように外へと逃げていく。魔獣はわざとゆっくりとした足取りでそれを追い、相手の体力が尽きた所を見計らって、四肢を順番にもぎ、そうしてからようやく、もて遊ぶようにして爪ではらわたをゆっくりと引き裂いた。上がる悲鳴、断末魔と怒号。枯れた草が乾燥していたこともあり、丘はあっという間に煉獄となった。
家屋に満ちてくる黒煙に気付いた時には、ハイクの周りにはもう誰も居なかった。助けは期待できそうにない。悟り、ハイクは立てない母を振り返り、覚悟を決めた。私を置いて逃げなさい、泣きながら請う母に逆らう覚悟を決めた。ハイクは母の静止に耳を貸さず、彼女の体をおぶり、震える膝を叱咤し、立ち上がった。必死に歯を食いしばり、家屋の外に出る。だが、どれだけ母がげっそりと痩せていようとも、消耗しきった小さなハイクにとって、大人一人を担いで逃げるのは至難の技だった。ハイクは何度も地面に膝をついた。血が滲み、肉が裂ける。それでも立ち上がり、進んでいった。幸い、ほとんど這いつくばるようにして歩を進めるハイクの高さまで煙は下りてこない。顎を上げ、前だけを見る。進まなければ死ぬだけだ。考えろ、考えろ。どうすれば助かる。どうすれば母を助けられる。前方に崩れた家屋が見えた。あの瓦礫の影に潜りこめれば、魔獣も気付かないかもしれない。そう、きっとそうだ。あそこにさえ辿り着けたら。
しかし、そんな希望すら、容易く打ち砕かれることとなる。
突如、背後で劈くような咆哮が轟く。気付かれた。そう思った時、すでに事は決していた。
ずぶり、と、耳元で厭な音がした。急に体が軽くなる。理解が追いつかないまま後ろを振り向くと、背中からおびただしい量の血を流した母が、ぐったりと地に伏していた。
最早人のものではない異形のかぎ爪が、彼女の背からずるずると引き抜かれる。そこから鮮やかな血が噴き出し、血だまりが広がり、ハイクの足元を濡らす、止まらない。辛うじて人の形状を保っているだけの魔獣が、開きっぱなしの瞳孔で、ゆうらりとハイクを見る。
何が起こったのだろう。
今、何が起こった?
「走りなさい」
口から血の泡をふき、半狂乱の形相で、母は叫んだ。その声に、かつての美しさは欠片も残されていなかった。炎で焼けた喉から漏れ出す、ただおぞましく、枯れ果てた声。限界まで見開かれ、血走った両目。ハイクに向かって伸ばされた腕から、白い骨が覗いている。知らず、ひ、と悲鳴が漏れた。血糊の付いた長い髪を振り乱し、母は普段のしとやかさからは想像もつかないほどの強い力で、ハイクを前方に突き飛ばした。
そのあまりの勢いに、ハイクはなす術もなく地面に転がった。泥が口内に広がる。錆びた鉄の味がした。母の血が混じっていたのだろう。ハイクは幼心に悟った。いつも自分のことを抱きしめ、愛しみ、暖かく守ってくれた人はもう、そこには居ないのだと。
「走りなさい。他のことを考えてはだめ。さあ」
ハイクは母を見つめたまま、地面に手を付き、ずるずると後ずさった。言葉にならない喘ぎ声ばかりが口から漏れる。恐怖に支配され、足が動かない。
「何をしているの、行きなさい。……ハイク!」
名を叫ばれて初めて、ハイクは弾かれたように立ち上がった。数歩、後退し、それでも留まっていると、母が再びハイクの名を叫ぶ。そこから先、ハイクの記憶は曖昧になる。次に覚えているのは、遠い炎の中、魔獣の爪が、ぼろきれのようになった母の肉体に執拗に突き立てられている場面だ。
彼女の姿を見たのは、それが最後だったように思う。
夢中で逃げた。魔獣から逃れようとしたのではない。母の姿が、その死に際のありさまが、あまりにも恐ろしかったのだ。走りなさい、走りなさい。気が狂ったように、それだけしか考えられなかった。
地獄の夜が明けた。もっとも、空は黒雲に覆われ、夜と大差ない暗さだったので、その時のハイクには、朝が来たことは分からなかった。火が収まり、魔獣の気配が消えてもなお瓦礫のすき間から出てこようとしなかったハイクを、一族の長老が見つけ、助け出した。
丘を捨てよう。焼け野原に生き残りを集めて、長は静かに宣言した。それは一族にとっては非常に重い決断だったが、誰も反論する者は居なかった。皆、とうに限界を超えていた。
生き残ったのは二十人と少しばかりだった。丘を越えた峠の頂から見下ろした故郷はひどくちっぽけで、黒く焦げた丘に、風に吹きだまったごみくずのように、家々の残骸が散らばっているだけだった。消え切らない炎がまだあちこちで燻り、淀んだ煙をくゆらせている。風は絶え、枯れた草は、触れた先から灰になって崩れ落ちてゆく。
涙すらこぼれなかった。
あれが、己のふるさと。母が死んだ場所。
それが、ハイクが初めて出会った黄昏の、その一切の記憶である。
*
黄昏とは、古くからこの世界を蝕み続けている厄災の呼び名である。
春を枯らし、夏を散らし、秋を腐らせ、冬を殺すもの。そんな一文が古文書に残されるほどその根は深く、広く、古く、人々は時に恐れを、時には畏敬の念すら込めてその名を口にする。ひとたび黄昏が訪れれば、どんなに豊かな土地も腐り落ち、命ある者は死に絶え、そうして黄昏に飲み込まれて死んでいった生き物達は、魔獣と呼ばれる異形の怪物へと姿を変える。ハイクの故郷も、そうして滅んでいった数ある土地のうちの一つに過ぎない。ゆえにこの國は、悠久の歴史を流れゆくうちに、次第に人々から “たそがれの國”という忌み名で呼ばれるようになっていった。しかしながら黄昏は、その正体も、生まれた理由も、打ち倒す術すらも不明なままだ。情報が足りない、その一点に理由は集約される。黄昏で國が疲弊すれば、調査に割くだけの人と資材が枯渇し、そうして対処が遅れれば遅れるほど、黄昏はよりいっそう深刻化する。この悪循環が続く限り、世界に安寧はやって来ないだろう。そう教えてくれたのは、丘を出たあとにハイクを育ててくれた、一族の長老だ。
身寄りもなく、また一人で生きていくには幼すぎたハイクは、それから数年間、長老と共に、國の各地を転々として過ごした。数が減ったとはいえ、一族を丸ごと受け入れてくれるようなゆとりのある土地を探すことが困難だったからだ。ほかの仲間達は皆散りぢりになって、それぞれにそれぞれが、穏やかに暮らせる場所を求めて旅立って行った。旅の途中、ふと、皆はどうなったのだろう、と考えることはあったが、彼らの行方を知る術などあるはずもない。行き先も帰る場所もないあてどない紀行の中で、長はハイクに、清浄な水や食料を手に入れる術、それらの調理の仕方、怪我の処置、ナイフの扱い、魔獣への対処に至るまで、持ちうる豊かな知識のすべてを徹底的に叩き込んだ。そして、そういった中で、長は時折ふと、ハイクに尋ねた。「黄昏が憎いか」と。
問われる度に、憎い、と返した。火だるまになってこちらを見ている母を、どうして忘れることができよう。母を殺したのが、自分に歌や踊りを教えてくれた優しい同胞達だと、どうして認めることができよう。黄昏だ。ぜんぶ、黄昏のせいだ、そうだろ、長。息も荒く、目をぎらつかせ、ハイクは長に訴えた。だから俺は探しに行くんだ。黄昏の正体を暴き出し、人の命で膨れたその腹を、この手で切り裂いてやるんだ。
長老は、「そうか」と、それだけ呟いて、静かにほほ笑み、ハイクの頭を撫でた。母と同じやり方だった。
何度か同じ問答を繰り返したある日、長は淡々とハイクの目を見て、尋ねた。
「では、黄昏の何を、おまえさんは憎んでおるのかのう」
考えて、しかし、何も言えなかった。母や皆を殺した魔獣が憎いのか。それとも、村を襲った病が憎いのか。植物を枯らした天災が憎いのか。どれも正解なようで、しかし、おそらく間違っているのだろう、という予感があった。長老の問いに正しく返答するには、ハイクはあまりにも無知だった。自分はまだ、黄昏を知らない。それがもたらすものは嫌というほど知っていても、その正体も、原因も、ハイクは知らないのだ。
気付いた瞬間、分からなくなった。自分は何と戦うべきなのだろう。何に立ち向かわなければならないのだろう。魔獣だろうか、病原だろうか、天災だろうか、水枯れだろうか、それとも、その奥にあるのかもしれない、もっと別な、未知の何かだろうか。ハイクの瞳に浮かんだ迷いに、長は深く、ゆったりとした笑みを浮かべた。関節が固まり、深い皴が傷跡のように刻まれた両手が、ハイクの肩に重く置かれる。まるで、その手から直接言葉を染みこませようとしているかのようだった。
「ならば、見極めねばならん。儂はのう、ハイク。あの黄昏というやつが、儂らの古い友人のように思えて仕方がないのだ。憎むなとは言わん。だが、おまえさんは知らねばならん」
「でも、どうすればいいの」
老人の灰目の奥が、川底で磨き抜かれた丸石のように、きらりと光る。
「トレジャーハンター、と呼ばれる人々を知っているかのう?」
旅の道中で、その種の人々を見かけたことはあった。國が黄昏に呑まれ始めるよりも昔の時代、人はその時代を“かわたれの時代”と呼ぶが、彼らは主にその時代の遺跡に赴いては、値打ちのある宝物を探し出し、それらを売ることで食いぶちを稼いでいる。もちろんその仕事には命の危険が伴うだろう。遺跡には罠があるし、時には魔獣とも戦わなければならない。しかしその分だけ得られる富は大きく、ハンターの道を選ぶ者には、そうした一攫千金を狙う者が少なくないのだという。あるいは財宝を、夢や浪漫、という言葉に置き換えてもよい。
しかし、この國、この時代においては、彼らはもう一つ、重要な役割を担っていた。かわたれの時代は、文明の時代だ。ともすれば必然的に、今の時代よりも遥かに高度なあらゆる技術、あらゆる英知の結晶が、遺跡の奥には眠っていることになる。ハンター達が掘り当てたそれらは、國やギルドの研究員達によって吸い上げられ、解析され、再び民に還元される。國の交通の大部分を担っている気球や飛行船の大元とされる技術も、遺跡から出土した古代の飛空艇だ。賢いおまえさんなら、もう分かるじゃろう? 長の両手に力がこもる。
「遺跡で見つけることができる物は、それだけではないのだよ」
ハイクは、ぐ、と顔を上げた。その瞬間、ハイクは自分が歩く道を決めたのだ。「大切なのは知ることじゃ」長は繰り返す。
「その結果、おまえさんがどんな道を選ぶか、それはおまえさんの自由じゃ。すべて知ってもなお復讐したいというのなら、それも良かろう。だがのう、ハイク。まずは、黄昏が何者か、おまえさんは自分なりに、自分の答えを導き出さねばならん。おまえさんがそうして己の行く末を見定めるのを最後まで見届けてやれないのは、少しばかり残念じゃが」
「見届けられないって、どういうこと」
長はだまって、再びハイクの頭を撫でた。
宿屋のベッドの上で長が冷たくなっていたのは、その会話から一週間後の、冬の朝のことだった。十年来の心臓病だ。簡素な葬儀のあと、医者がそっと教えてくれた。
*
五年が過ぎた。子どもは少年へと成長し、ハイクはいっぱしのトレジャーハンターとして、國を飛び回るようになった。魔獣に後れを取らない実力も身に付け、各地で依頼をこなし、報酬を稼ぐ傍らで、黄昏にまつわる遺跡の噂を集めては足を運ぶ日々を過ごすうち、更に五年が経っていた。
そうして少年は青年となった。今やハイクは、ただ滅んでゆく丘を見つめることしかできなかった、無力な子どもではない。己の足で自立し、目的を定めて歩いていくことができる。かつて母が言っていたように、望んだ場所まで、どこまでも歩いて行くことができるのだ。そのために古代の知識を学び、そのために戦う術を身に付けた。為すべき願いがあるのなら、思考を止めるな、行動を積み上げろ。母をおぶったあの煉獄の中で、ハイクが得たものがあるとするなら、その信念だ。
その日、ハイクはわずかなランタンの灯りを頼りに、遺跡に張り巡らされた廊下を歩いていた。訪れていたのは、魔をもたらす者が眠るとされる、いわくつきの古代の建造物だ。土着の民すらも忌諱していたために、長らく誰の目にも触れることがなかったが、黄昏が迫って来たことによって國の調査の手が入り、この度ようやく存在が明らかになった。一見城のようにも見える、迷路のような構造の、巨大で荘厳な遺構である。
一帯を包む暗闇は、すでに濃霧のようにどろりとして、密度が高い。うすら寒い冷気をまとって、ハイクの上着の表面をするすると撫でていく。だが、今はまだ夜ではない。正午を半刻ほど過ぎたあたりだ。もしも本物の夜が来てしまえば、黄昏に半ば沈んでいるこの土地で、無事に翌朝を迎えることはまず不可能だろう。暗闇に気が狂う者、魔獣となる者、魔獣に殺される者、可能性はいくつかあるが、そのすべてが死に帰着する。そうして帰って来なかったハンター仲間を、ハイクは何人か知っていた。
それでもハイクは焦らなかった。冷静に歩幅を数え、距離を測り、頭の中に遺跡の地図を描いていった。奥に進む度に空気は冷え、かび臭さを増していく。吐いた呼気が白く滲んで広がり、その流れを目で追っていくと、ふと、廊下の突き当たりに、一つの扉が見えてきた。
扉を抜けると、広々とした直線の大回廊に出た。奇妙に幅が太く、そして長い。丸い天井は連続する骨太のアーチによって支えられ、その下を次々と潜っていくと、まるで巨大な生物のあばら骨の中を歩いているような気分になってくる。
ハイクはしばらくの間、歩数を数えながら、変わらぬ歩調で回廊を進んだ。歩数が二百を超えた時、ふいに静寂を破って、自分の物ではない澄んだ声が、ハイクの頭の中に響いた。
「おうい、ハイクよ」
ハイクは特別驚かなかった。二百三十一、二百三十二、歩数を数えるのをやめないまま、のんびりと返事をする。
「どうした、魔獣か?」
「いや、そうではない。なあ、わたしは思うのだが、ここに魔の者が居るというのは、ただの迷信なのではないか? まだ一度も、魔獣のにおいすらしないじゃないか」
「正確には、魔の者じゃなくて、魔をもたらす者だけどな」
とはいえ結局、どちらも同質の物なのだ、自分達にとっては。いずれにせよ黄昏に関係する可能性はあるのだから、ここまで来て退くわけにもいかない。「行けば分かるだろ」と顔を上げ、ハイクは回廊の先を見つめた。どれだけ目を細めようとも、先にはやはり暗闇ばかりが伸びている。
「やることは今までと同じだ。だからまあ、妙な気配がしたら、よろしく」
「そうだな。わかった」
短く頷くと、声は消えた。同業者の中には何人かで組んで遺跡に赴く者も多いが、ハイクは基本的に単独で仕事をこなす。その主たる理由はこの声にある。
この不思議な声の主に出会ったのは、ハイクが十五の時だ。今から五年前、ハンターとして初めて乗りこんだ遺跡で、その奇妙な存在は、静かに探索者を待ち構えていた。
若かりしハイクの前に現れたのは、一羽の巨大な鷲だった。動物と呼ぶにはあまりに大きく、魔獣と呼ぶにはあまりに深い知性を有していた不思議な鳥は、たった一羽、遺跡の最も深い場所で、檻の中に囚われていた。しかし訳を問おうにも、どうやらあまりに長い間閉じこめられていたせいで、そのあたりの記憶がすっぽりと抜けてしまっているらしい。哀れな大鷲は疲弊しきった声で、ハイクに懇願した。わたしを殺してくれないか、と。不思議な大鷲に肉体はなかった。体が朽ち、骨と魂ばかりになっても、檻の中に囚われ続けていたのだ。
だから、手を取った。すべてを諦めたような物言いに腹が立ったというのは否定しないが、ハイクがそうすることで、この大鷲が生き延びることができるのなら、それで構わないと思った。結果、大鷲は旧時代の鳥籠から、ハイクの魂の中へとその住み家を移すこととなった。財宝も黄昏の手がかりも見つからなかったが、誰よりも信頼できる唯一無二の協力者を、この瞬間、ハイクは得たのである。実際に大鷲は、ハイクの意志に応えるように、ハイクを深く理解し、信頼し、そして、助けた。
元から人より鋭い視覚を持っているのが大鷲という生物だ。その大鷲の目にも何も見えないということは、この遺跡に魔をもたらす者が居ないというのも間違いではないのかもしれない。そこからさらに百数歩を歩き通すと、ふいに、高い位置で無造作に束ねたハイクの髪を、かすかな風が揺らした。明らかに質が違う空気は、暖かな湿気を含んでいる。前方から流れて来るようだ。
外が近いのかもしれない。
引っ張られるように先へ進む。すると間もなくして、目の前に美しい装飾が施された巨大な扉が現れた。これまでとは明らかに様相が異なる扉だ。両開きのそれは薄く開いており、眩しい緋色の光が一筋、隙間から漏れ出している。空気もそこから流れ出ているようだ。
立ち止まり、耳を澄ます。音は無い。大鷲もだまったままだ、危険は無いだろう。
取手に触れると、大した力も加えていないのに、するりと扉は開いた。
緋色の光が大きくなっていく。暗闇に慣れた目には強すぎて、ちかちかと視界が明滅した。扉が開ききり、目が慣れると、次第に部屋の全貌が見えてくる。その光景を目の当たりにしたハイクは、ただ一言、「見事だな」と呟いたきり、しばらく体を動かすことができなかった。
そこは、あまりにも広い、これまでに歩いてきた回廊ですら狭く見えるほどに広い、真白い大理石の大広間だった。外と繋がっていると感じたのは間違いではなかった。割れた大窓の向こうで、鉛色の雲は濁ったまだら模様を描いていて、それでもこの広間だけは、長い時間を掛けて夕日をその内側に溜め込んできたかのように、全体が薄らと緋色に輝いている。広間の最奥に視線を移せば、そこには一体の巨像が佇んでいた。元は剣を携えていたのだろう。男とも女とも判別のつかないその彫刻は、両手で何かを握るような恰好をしていて、しかしその手首から先は折れ、大理の剣は下に落ち、半分に砕けてしまっていたのだった。
圧倒的だ。ただただ、圧倒的に濃縮された古い時間が、この広間には流れていた。
「魔をもたらす者ってのは、そういうことか」
戦神、そう呼ばれる神を崇める宗教が存在していたことは、ハイクも知っていた。黄昏の進行と共に滅んだ教えだ。戦の勝利を願って、かわたれの人々は神に祈ることがあったらしい。人と人が争うなど、今の世の中では信じられないことだが、確かに過去にはそういう歴史があった。これは一般にはほとんど知られていない史実だ。人を殺す者、それは人ではなく魔獣だ、というのが、この國における常識であり、共通の認識だからだ。神であっても、それは変わらない。しかし、神は魔獣ではない。だから、魔をもたらす者。
納得して、ハイクはゆっくりと、大樹のような柱の間を進んでいった。ブーツの踵が石の床を踏む度、足音が木霊し、何重にも反響して、ハイクの耳に返ってくる。ここまで来れば、この遺跡が何の為に造られたものなのかは推測できた。要するに、あの回廊は祈りの道だったという訳だ。信じる神は持たないが、広間の奥に着くまでの間、あの白く輝く像からは目を逸らしてはならないような気がした。
大聖堂は、太陽の方角を計って造られていたようだ。側で見上げると、像の真後ろに位置するステンドグラスの大窓に、落ちてくる太陽の軌跡がぴたりと重なった。背筋が震えるほどに超然として、慈愛に満ちた像のほほ笑みは、人々に愛された者の亡骸、それそのものの姿だった。
息を吐き、緊張を解く。結局この遺跡に、ハイクが求めていた物は無かったようだ。今日はこれで終わりにしよう、呟くと、ああ、と返事が返ってくる。ハイクは最後に像を一瞥すると、踵を返し、来た道を戻っていった。
あの緑の丘と同じように、この土地もまた、黄昏に沈んでゆくのだろう。
目を伏せれば、まぶたの裏側に、暖かなてのひらに抱かれた、幼い少年が見えた。
*
物語。この物語。
黄昏に立ち向かった、一人の青年の物語。
未来というものを信じないことにしている。それがハイクの持論だ。曖昧な可能性に期待などしない。為すべき願いがあるのなら、思考を止めるな、行動を積み上げろ、目を見開き、先を見据え、両足に力がある限り、どこまでも、どこまでも歩き続けろ。
舞台の上に立ち、ハイクは少しふざけたように笑ってみせる。踊るように両腕を広げ、靴底を鳴らして優雅に回る。
赤い幕が上がる。湿気た匂いがする。
母親譲りの深い声で、ハイクは厳かに告げるだろう。
物語。この物語。
これは決しておとぎ語ではございません。とある時代、とある國で、とある人々が生きた、形のある現実。黄昏という名の絶望に抗った人々の過去と未来を、私はただ、語るだけ。……ありのまま。
振り返れば、己の足がつけた一本の道が、果てしなく、うねりを伴いながら、無骨に伸びるばかりである。
ですから、お客人。
これは、そういう歩みの物語でございます。
(歩み)