現代アート小説 キタタミ #1「逃亡編」
キタタミ
真夜中に、キタタミがコトコトと動き出した。
「どこに行ってしまうの?」、ぼくはベッドから飛び起きて、キタタミを追いかけた。「ここが、君のおうちじゃないか」
「イシガミさんのところに帰るのさ」、キタタミは固まった表情で、そう言った。
「何が不満なの?」
ぼくは、とても悲しかった。毎日ピカピカに磨いて、穴の中をこちょこちょしたり、一緒にひっくり返って、笑ったりしたじゃないか。
ぼくは、すべての窓を閉めて、鍵をかけた。やっぱり、キタタミを逃がすわけにはいかない。
こんな異常気象の熱帯夜だ。窓を閉め切ると、ぼくの部屋は、むっと熱を帯びた。身体のあちこちから、汗が吹き出して来る。もしかしたら、身体がカラカラに乾いて、スポンジになってしまうかもしれない。
「窓を閉めたってムダだよ」、キタタミが言った。
ぼくは振り返って、キタタミを見た。キタタミは、固まった表情のままだった。ぼくはムキになって、キタタミを洗濯ネットに入れて、テーブルの脚に紐で縛った。
「だから、そんなことをしたってムダだよ」、キタタミが言った。「キタタミは、日本中に散らばっているんだ」
「だったら、どうだっていうの?」、ぼくの声が大きくなった。
「ボクのタマシイを、ほかのキタタミに移して、この部屋のキタタミは枯らしてしまえばいい」
「今、タマシイって言った? もしかして魂のこと? ひょっとして、ひとつひとつのキタタミに魂が宿っているの?」
アハハハハ、とキタタミは笑った。あまりにも大きな笑い声で、部屋中の窓ガラスが割れてしまいそうだった。
「この世の中に存在するもので、タマシイが宿っていないものがあるとでもいうの?」
キタタミの言葉を聞いて、ぼくの身体は、カッと火照った。ぼくは、あたり前のことを、すっかり忘れていたのかもしれない。あまりにも恥ずかしくて、キタタミの穴の中に入ってしまいたい。
「だったら、もうひとつ教えて。君の魂が抜けてしまったとき、キタタミは枯れていくものなの?」
「人だってそうじゃないか」、キタタミは言った。「人のタマシイが空の上にのぼったとき、人のカラダは、そのままでいられるっていうの?」
「そんなこと考えたことないな」、ぼくは言った。
「そんなことカンガエたことがないんじゃなくて、カンガエないようにしているんでしょ」、キタタミは言った。
たしかにそれも、キタタミのいうとおりかもしれない。
ちょっと待って、話し込んでいる場合じゃない。窓を閉めてもダメだっていうなら、キタタミが逃げ出さないように、別のことを考えなくちゃいけない。
そういえば、キタタミはジャズが好きだった。たまたまラジオからジャズが流れたとき、キタタミの細胞がぶるぶると震えていたもんな。でも、どうすればいいんだろう? ジャズのアルバムなんて、一枚も持っていない。
ぼくは当てずっぽうに、棚からアルバムを引っこ抜いた。ハードロックが、部屋の中に充満した。そうだ、キタタミに乗っかってしまえばいい。ぼくはキタタミの上で踊り狂って、気絶するように眠った。
*
朝、目を覚ますと、キタタミはいなくなっていた。洗濯ネットは破れて、窓ガラスは粉々に割れていた。キタタミは、タマシイだけ抜け出せばいいって言っていたけれど、そんなふうに自由に、タマシイとカラダを分けることなんてできなかったんだ。
ぼくは、ほうきとチリトリを持って来て、ガラスの破片を集めた。ちょうどそのとき朝陽が差し込んで、ガラスの破片で跳ね返った。きっと、この光の筋の先に、キタタミが飛んで行ったんだ。ぼくは、キタタミに向かって、思い切り手を振った。
ぼくは、ガラスのない窓からゆっくりと庭を眺めて、朝食を食べてコーヒーを飲んだ。そのうちに時計が10時を指したから、近所のホームセンターに行って、洗濯ネットを買って来た。それから、近所の工務店に電話をして、窓ガラスを取りつけてもらった。
机の上に残っていたレシートと請求書は、封筒に入れて、イシガミさんに送った。
*
散らばっていたキタタミが、ギャラリーに集まって、一本の木になった。あちこちで愛されたキタタミは、共鳴しながら溶け合って、大地の底まで根を生やし、天に向かってこずえを伸ばした。
ぼくはいつのまにか、大きくてやわらかなキタタミの木に包み込まれていた。
ひさしぶりだね、キタタミが話しかけて来た。
覚えていてくれたの? ぼくは答えた。
もちろんだよ。あんな楽しい日々はなかったよ
じゃあ、なぜ逃げ出したの?
招いたんだよ。ここへ
ちょっと荒っぽかったけれどね、と、ぼくは言った。
キタタミとぼくは、アハハハハハハと大声で笑った。
@「梢のキタタミ」 2023.11.3 ~ 11.26
art cocoon みらい
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