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不完全にこそ価値がある

今日のおすすめの一冊は、有馬頼底(らいてい)氏の『よろこびの禅』(角川oneテーマ21)です。その中から「今を真摯に生きる」という題でブログを書きました。

本書の中に不完全にこそ価値があるという心に響く文章がありました。月

禅は「青天須(すべか)らく棒を喫すべし」とも教えています。これは「万里無片雲(へんうんなし)」という禅語で知られていることで、中国宋代の『禅林類聚(るいじゅう)』などにあります。 

ある僧が、臨済義玄禅師の弟子、宝寿沼(ほうじゅしょう)に、 「万里に一片の雲もない青空とは何か」と聞いた。雲ひとつない空とは、つまり、悟りの境地です。それは何かと尋ねたわけです。

この問いに宝寿沼は、 「青天須らく棒を喫すべし」 と答えた。「そんなきれいな青空には棒を食らわしてやらにゃいかん」と。僧が重ねて、「青天に何の罪があるのですか」と聞く。その途端、宝寿沼は僧をビシッとひっぱたいたという話です。 

雲ひとつない、実に爽やかな晴れ渡った空を見ると、私たちは完璧だと思いがちだけれど、完璧ではないのだ、青天に棒を喫すべし、と。青天は終着点ではないそれをも打ち砕いていかないといけない、ということです。 

これは、いろんな体験を経ていかないと、わからないことかもしれません。一点の曇りもない空に、何故、棒を喫すべきなのか? それは、完全無欠ということはないのだ、という教えです。 それをも乗り越えていかないといけない、と言っているのです。 

そして、完璧と思われる青天に執着し、こだわるな、と教えているのです。 何よりも執着を一番忌む禅の思想の激しさが、ここにあります。 

中国禅宗の第三祖僧璨(そうさん)が著した『信心銘(しんじんめい)』に、 「迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪なし」 とあります。人はみだりに愛着して、自分の心で自分を縛ってしまう。それでますます迷ってしまいます。 

『碧巌録』では「好事もなきにしかず」とも言っています。どんなにいいことであっても、それさえ、ないほうがまだましだ、というのが禅の思想なのです。だからこそ、人を更生させようというこだわりをも、根本的には打ち砕けということになる。

◆千利休は従来の常識を破り、形が歪(ゆが)んだり、いびつな「楽(らく)茶碗」を瓦職人の長次郎につくらせた。従来から珍重されてきたのは、中国から渡ってきた「天目茶碗」のような形の整ったものだった。

利休は「不均衡だから美しい」「不完全にこそ価値がある」とそこに美を見出した。雲一つない満月よりも、雲やカスミのかかっている月のほうが趣(おもむ)きや深みがある、と。

徒然草の中にもこんな言葉がある。『すべて、何も皆、事のととのほりたるは、悪しきことなり。し残したるを、さてうち置きたるは、面白く、生き延(の)ぶるわざなり。』
何事においても完璧に仕上げるのは、かえってよくない。やり残しがあった方が、面白く、味わい深い

まさに、「青天須らく棒を喫すべし」 だ。
「不完全にこそ価値がある」という言葉を胸に刻みたい。

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