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我々は人生において客である

今日のおすすめの一冊は、ひろさちや氏の『のんびり生きて気楽に死のう』(PHP)です。その中から「苦労したことがない人」という題でブログを書きました。

本書の中に「我々は人生において客である」という心に響く文章がありました。

わたしは豆と芋が嫌いである。 子どものころ、親類の家で豆と魚を出され、嫌いな豆を片付けたあと、ゆっくり魚を食べようと思った。 ところが叔母が、「そんなに好きなんだったら…」と、もう一杯おかわりの豆を入れてくれたのには往生した。 それ以来、好きな物から食べることにしている。 

それはともかく、曹洞宗の現代の名僧であった沢木興道の言葉に、 「全部いただく。選(え)り食いはせぬ」 がある。 なかなかいい言葉だ。 わたしにはちょっと耳が痛いが…。 

しかし、沢木老師はたんに偏食について言われたのではない。 お分かりであろうが、これは人生の生き方についての言葉なのである。 人生の食卓には、いろんなご馳走が出てくる。 好物もあれば、嫌いな物も出てくる。 ご馳走ばかりとはかぎらない。 粗末な食事が供されることだってある。 

わたしたちはこの人生において客である。 客だと考えたほうがいい。なかなか、自分の思い通りには生きられないからである。 客だとすれば、わたしたちは出された食事を、あれこれ選り好みしないで全部いただかねばならない。 注文をつけることは、客の分際をわきまえていないことになる。 

そう、逆境になれば、逆境の人生をしっかり生きればいいのである。 まあ、ほとけさまがそのような食事を出してくださったと思えばいい。 安楽に生きられるなら、安楽に生きるとよい。 死ぬときも同じで、のたうちまわって死ぬ運命であれば、それもほとけさまの食事としていただけばよいのだ。 それが沢木老師の言いたかったことであろう。 

良寛和尚が71才の時、三条市を中心に大地震が起こった。 そのとき知人にこんな見舞の手紙を送っている。 

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候  死ぬる時節には死ぬがよく候  是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」 

災難にあったらジタバタせず、腹をくくって災難を受け入れなさい。 死ぬ時が来たら、あわてず騒がず、淡々と死を受け入れなさい、これが災難を逃れる唯一の方法だ、という。 

災難は、腹をくくると、気持ちが落ち着く。 「災難は、敵対しないで淡々と受け入れる」 それが、災難をのがれる最良の方法。 

まさに「我々は人生において客である」であるから… 
「全部いただく。選(え)り食いはせぬ」 

選り好みをしないで、人生を淡々と生きてゆける人でありたい。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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