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立派なことを言う前に

今日のおすすめの一冊は、渡辺和子氏の『あなただけの人生をどう生きるか』(ちくまプリマ―新書)です。その中から「この世に雑用はありません」という題でブログを書きました。

本書の中に「立派なことを言う前に」という心に響く文章がありました。

一人の学生がこんな手紙を書いてくれた。 

「小さな闘い…幼い頃よく聞かされた努力とか忍耐ということを、知識が多く入って来るにつれて、私はないがしろにしてしまったようです。 理想や、大きな結果ばかり追っていました。 …たいせつなのは、これら小さな努力の積み重ねではないでしょうか。 小さな苦労をいとい、自分自身の生活をコントロールできなくて、どうして『神だ』『愛だ』と言えるのでしょうか」 

大学3年生のこの学生は、だから「小学生の道徳のようですが」と前置きして、「これからは早起きすること、一つひとつの授業に打ち込むこと、何ごとも後にまわさないこと、気分に左右されず、一定の時間勉強し、定刻に寝ることなどを自分に課していく」というのである。 

これは、この学生にとって、実行するという決心であると同時に、いやそれ以上に、自己変革への決意と言ってよいだろう。 私はこの手紙を読んで、はからずも数週間前に手にした草野天平詩集に書かれていた言葉を思い出していた。 

いくら立派な詩を書こうとしても、詩的生活が安易で一般と大差なければ、形も精神も人も打たず、特別な響きなど到底生まれてくるものではない。 詩の本質は憧れに向かって実際歩くことで、難しいのはこの身である。 向こうの世界と歩き方の純粋さにある」 

先述(せんじゅつ)の学生の言葉ではないけれども、「神だ」「愛だ」といくら立派に説こうとしても、説く人の日常生活が安易に流れていて、そこに厳しさがないとすれば、その言葉も精神も人を打たず、人の心を動かすことなど到底望めたことではない。 

難しいのは、いかに説くか以前の「この身」であって、いかに毎日を生きるかにある。 「小学生の道徳」のようなことでいい、というか、むしろ、それさえできていない自分が恥ずかしい。 

わずらわしい人間関係の渦の中で自分らしく生きてゆくには勇気がいる。 自分はこうありたいという理想への現実的な忠実さが求められる。 それは、悪意を持っているとしか考えられない相手に対して、なおかつ善意を失わないことかも知れないし、無礼な態度をとる人に礼儀正しさを崩さない毅然とした人格の在り方をいうのかも知れない。

 一つひとつの物事に、一人ひとりに心をこめて接してゆこう。 一日一日に自分の人格をきざみつけてゆこう。 そこに自分にしかつけられない「生の軌跡」がつけられてゆく。 自分らしく生きる強さは、他人にも「その人らしく生きる」ことを許す寛容を生み、相手をやさしく包んでゆく。 

《やさしくね、やさしくね やさしいことは強いこと》
宮城まり子さんの言葉が、そんな生き方を裏づけ、励ましてくれるようである。 

◆哲学者の森信三先生は、躾(しつけ)の三原則を提唱している。 
【しつけの三原則】
1.  朝のあいさつをする子に。 それには先ず親の方からさそい水を出す。 
2. 「ハイ」とはっきり返事のできる子に。 それには母親が、主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。 
3. 席を立ったら必ずイスを入れ、 ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に。 

挨拶の基本は、人より先に挨拶をすることを心がけること。 そして、呼ばれたら必ず「はい」と返事をし、席を立ったら椅子を入れ、脱いだ靴は揃えること。 「はい」という返事は自分の「我(が)」を捨てる一番よい方法だ。 我(わが)ままになったり、偉そうになる気持ちをおさえるからだ。 

躾(しつけ)とは習慣化のことだ。 人前で、どんなに偉そうなことを言ったとしても、「あいさつ」「返事」「後始末きちんと」という基本動作が習慣化できていない人には信用がない。 

小学生で教えるような「躾」ができていない大人は多い。 長く続く良き習慣は、その人にとっての「信用」であり、目には見えない財産だ。 小さな努力の積み重ねこそが、習慣化の第一歩。 それこそが、「凡を極めて非凡に至る」ということ。

 誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けてゆくと、「非凡」という人より一頭地抜きんでた人となることができる。 

「立派なことを言う前に」
自らの身を正すことのできる人でありたい。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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