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曖昧(あいまい)さ耐性
今日のおすすめの一冊は、和田秀樹氏の『感情的にならない本 不機嫌な人は幼稚に見える』(PHP文庫)です。その中から「感情は放っておく」という題でブログを書きました。
本書の中に「曖昧(あいまい)さ耐性」という心に響く文章がありました。
心理学のことばに「曖昧(あいまい)さ耐性」というのがあります。文字通り、曖昧さにどれだけ耐えられるかという意味ですが、じつはこの「曖昧さ耐性」こそが認知的成熟度の大きな指標になってくるのです。
わかりやすく説明してみましょう。子どもと大人の違いは、加減がわかるかどうかということです。たとえば大好きな食べものでも、「これぐらいで十分だな」とやめるのが大人、お腹を壊すまで食べ続けるのが子どもです。
そういう未成熟さを母親は知っていますから、薬のように少量なら大丈夫でも飲みすぎたら毒になるようなものは、子どもの手の届くところには置きません。あるいは「危ないから絶対に口に入れたらダメよ」と教えます。
動物も同じです。自然界には少しなら薬になるけれど、大量に食べると毒になるような植物があります。 イメージが湧きにくいかもしれませんが、そういう植物を動物は毒と判断し ます。「ほどほど」とか「いい加減」といった曖昧な量の概念がありませんから、毒だと覚えて子どもにもそう教え込んだほうが間違いないのです。
つまり人間というのは、未成熟なあいだは白か黒かをはっきりさせたほうが便利なのです。楽だとか、生きやすいといってもいいでしょう。 けれどもだんだん成長して認知的にも成熟してくると、白か黒かだけでなく、その中間もあるのだとわかってきます。
毒だって少量なら薬になるとわかれば、白か黒かという区分は極端すぎるということもわかるのです。 これは「グレーゾーンを認める」ということです。 たとえばある植物を見て、「これは毒にもなるし薬にもなる」と理解することです。
人間に対しても同じで、「敵か味方か」という区分ではなく、「敵でも味方でもない」と受け止めることです。「どっちとは断言できない」とわかってくるのです。
ところがそういった理解の仕方が、認知的な成熟度の低い人間にはなかなかできません。どうしても白黒はっきりさせないと気が済まないのです。つまり 「曖昧さ」に耐えられません。「曖昧さ耐性」が高いか低いか、それによって認知的成熟度がわかってくるというのはそういう意味です。
《未成熟な人ほど、白か黒かはっきりさせたがる》
◆「大人になるということは、あいまいさを受け入れる能力を持つということである」(フロイト・精神分析学者)
社会があいまいさを受け入れなくなったとき、それは寛容性がなくなったということであり、社会が幼児化しているということ。まさに昨今の、SNSでの匿名の暴言や悪意あるひどい投稿などがそれだ。トゲの多い門松を何度もくぐり、酸いも甘いもかみわけた大人は、あいまいさや多様性を受け入れることができる。
右か左かではなく、右も左も。右の道を行っても、左の道を行っても、いつか同じところにたどり着くかもしれない。正しいか正しくないかを追求し、正しさを押しつける人は窮屈で、重苦しい。
あいまいさには、余白があり、余裕がある。あいまいさを受け入れられる大人でありたい。
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