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下座行で傲慢な心を浄化する

今日のおすすめの一冊は、北尾吉孝(よしたか)氏の『日に新たに』(経済界)です。その中から「明るい人には魅力がある」という題でブログを書きました。

本書の中に「下座行で傲慢な心を浄化する」という心に響く文章がありました。

得にならないことで 大いに成長に役立つこととして下坐行があります。 森信三先生は「たとえその人が、いかに才知才能に優れた人であっても、またどれほど人物の立派な人であっても、下坐を行じた経験を持たない人ですと、どこか保証しきれない危なっかしさの付きまとうのを、免れないように思うのです」と述べておられます。 

また、森先生は「ご不浄の中に落ちている紙屑の類を拾って、それを容器の中へ入れておくとか、さらには人の粗相をした跡を、人知れず浄めておくとか、すべて人目に立たぬところで……なるべく人に気付かれないように……善行を積むということ」が、「『報いを求めぬ』境涯にいたる一つの方法」とも言われています。 

「下坐行」とは元来「下座」ということで、一般の人々より下位につくことです。即ち、 自分の身を他人よりも一段低い位置に置くことを言います。そうした下がった位置に身を置き、その地位に安んじて我が身の修行に励むことを下坐行というのです。 

この下坐行は「情念の浄化」のため役立つと、森先生は言われています。私自身も、世の中で本来あるべき自分の地位等を全て捨て、自分自身の立場を一段下に落とした所で物事をやってみることで、自らの傲慢になる心・驕慢(きょうまん)になる心を浄化できるのではと考えています。 

ある意味人間が陥り易いそうした側面を下坐に行じ、己を清めて行く中で自らを高めて行くということです。自修自得すべく自分自身をどう磨き成長して行くかという点で、「ゴミを拾って歩きます」「便所掃除をして歩きます」といった形で、下坐行の世界に身を置くことは確かに大変意味があることだと思います。

◆森信三先生は「師教を仰ぐ(森先生に導かれて)」の中で「下座行」についてこう語っている。

そもそも一人の人間が、その人の真価より、はるかに低い地位に置かれていながらそれに対して毫(ごう)も不満の意を表さず、忠実にその任を果たすというのが、この「下座行」の真の起源と思われる。

◆昨今は、自己アピール全盛の時代だ。自分を知ってもらわなければ、不当に評価され冷や飯を食わされる、と自分を必要以上に大きく見せる人も多い。それとは、真逆な考え方が、この下座行だ。

どんなに低く見られようと、それを、微塵(みじん)も不満に思わず、淡々と仕事をし、生きていく。人よりも一段と低い位置に身を置き、不平不満を表さないことは、己を磨く修練であり修行だ。

京都の一灯園は、それを掃除を通じて行っている。見知らぬ家々のトイレの掃除をさせてもらうことが、己の高慢心を捨て、下座に行ずる謙虚な心をつくるという。

人は、一生のうちには、何度か、高慢になるときがある。現在、成功しているいないに関わらず、自分よりうまくいっていない人、もっと下にいる人を見ると、見下したり、高慢になったりするからだ。

「下座行で傲慢な心を浄化する」という言葉を胸に刻みたい。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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