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菅長の挨拶

今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの『ただしい人から、たのしい人へ』(廣済堂出版)です。その中から「好奇心、興味、関心は謙虚さのひとつ」という題でブログを書きました。

本書の中に「菅長の挨拶」という心に響く文章がありました。

作家で僧侶の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんが天竜寺で修行をしていたときの話です。 毎朝宗久さんが拭き掃除をしている廊下の外や庭先から、作務衣を着て「おはようございます」と、にこやかな笑顔で挨拶をされた方がおられたそうです。


宗久さんは、当初はこの方がいったい何者なのかわかりませんでした。ただ、それ が毎日続くので、とても感じのよい人だとは思っていたそうです。 あとでわかったのですが、この方が天竜寺の管長(最高位の方)でした。


この管長さんは、毎朝決まった時間に天竜寺の近くを散歩されていたのだそうです。 管長さんには、毎日出会う人がいました。その人に対しても、毎日同じように「おはようございます」と挨拶をして会釈をなさったそうです。


しかし、その声をかけられた人は無視をして、いっさい返事をすることがなかったといいます。 けれども管長さんは、相手から挨拶が返って来ようが来るまいが関係なく、毎朝笑顔で「おはようございます」と言い続けたのだそうです。


3年たったある日のこと。いつものように「おはようございます」と笑顔で話しかけた管長さんに対して、その男性はついに声を発しました。「おはようございます」と言い終わったあとに、「ごめんなさい」と、がばっとひれ伏したというのです。


この男性の心の中に何が起きたのかを推測することは無意味なことでしょう。何があったのかということは大した問題ではなく、かたくなに挨拶を拒み続け、話をすることを拒み続けた人に対して、3年もの間、笑顔で「おはようございます」と言い続けた人が世の中にいる、という事実です。


その結果として、かたくなに拒み続けた人がついに心を開き、涙ながらに「ごめんなさい」と謝ったというのです。管長さんは返事をしなかったことを責めていたわけではありません。ただ自らの生き方として、相手がどういう態度であろうと関係なく「おはようございます」と言い続けた、そういうことに徹した、ということだと思います。


「これほど自分が挨拶をしているのに、返事をしないとは何ごとだ」と言うのは簡単でしょうし、一般的な反応かもしれません。しかし、それでは挨拶をしている意味がありません。挨拶をしていることで、結局けんかを売っているのでは何にもならないでしょう。


「おはようございます」と声をかけることは、管長さんの側からすると「自分の勝手」ということであったのかもしれません。自分が行として、ただそのように毎日を送り、そういうことに徹し、相手がどのような反応であろうと関係なくそのように生きる、という姿であったのでしょう。


宗久さんの話すその管長さんのお話は、とても爽やかで、すがすがしいものでした。


「ためにする」という言葉がある。ある目的に役立たせようとする下心をもって、事を行うことだ。「あいさつ」は本来、人間関係を円滑に取り運ぶための、気持ちをよくするため行為だ。

その挨拶も、「ためにする」ならかえってしないほうがいい。「こっちが真剣に挨拶しているのに、なぜ挨拶しないのだ」と険悪な雰囲気になる。よくありがちなシーンだ。

本当に人の心を溶かす行為は、押しつけがましくはない。ましてや強圧的でも、不機嫌で行われるものでもない。

「管長の挨拶」の話を胸に刻みたい。

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