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自分本位の神仏祈願

今日のおすすめの一冊は、ひろさちや氏の『捨てちゃえ、捨てちゃえ』(PHP研究所)です。その中から「今、目の前の人を大事に」という題でブログを書きました。

本書の中に「自分本位の神仏祈願」という心に響く文章がありました。

中国・東晋時代の仏教僧に、慧遠(えおん)がいた。 

ある日、彼のところに一人の将軍がやって来て、祈禱を依頼した。このたび、戦争をすることになったので、戦勝祈願の祈禱をしてほしいと頼んだのだ。 慧遠は、弟子たちを集めて祈禱をした。 

そのあと、帰ろうとする将軍を引きとめて、慧遠はこう言った。 「いまの祈禱は、もちろんあなたの戦勝を祈った。しかし、わたしは同時に相手の将軍の武運長久も祈った。あなたは、そのことを忘れないように・・・」 

将軍は一瞬、きっとなったが、しばらくして慧遠に合掌したという。慧遠の心が、将軍によく分かったのであろう。 

利害の対立する二人がいて、その一方のためだけを祈る。もしも神仏がその祈願をききとどけられたら、そんな神仏は安っぽい。なぜなら、相手のほうが倍のお布施を出して祈願すれば、さっさと相手の側につくにきまっているからである。それとも、先着順というのかしら・・・。

いずれにしても、そんな神仏は低次元の存在で、恃(たの)むに値しない。慧遠は、そのことを言いたかったのだと思う。 

わたしたちもしばしば、利害の対立のなかで自分の利益ばかりを願ってしまう。 大学への合格を願うが、自分が合格すれば確実に誰か一人が落ちる。わたしが部長になると、他の人はそのポストに就けない。 にもかかわらず、自分のことばかり神仏に祈るのは、本質的にエゴイズムである。 

したがってわたしたちは、神仏に祈るとき、少しは相手のことを考えてあげるべきだ。その相手のことを考える気持ちの余裕が、「ほとけの心」なのであろう。

◆中野信子氏の《脳科学からみた「祈り」/潮出版社》の中にタイガーウッズ選手の話があった。 

ゴルフの 最終日のプレーオフで、相手がパットを外せば自分の優勝が決まる場面で、タイガー・ウッズは「入れ!」と念じた。 最高のパフォーマンスを出し切った相手に勝ってこそ、それが心からの喜びとなるからだ、という。 

一流の選手は、相手の失敗を願うこと、あるいは呪うことは、結局は自分にそれが返ってくることを知っている。 競技相手は、配慮範囲で言えば、敵という自分から最も遠いところにいる人だ。 その相手の幸運を願うことこそ、これ以上ない大きな利他の心だ。

神社仏閣は、自分の利益を祈るところではなく、感謝をするところだと言う。感謝の祈りは、タイガーウッズの祈りとも通じる。

《自分本位の神仏祈願(対立相手のことを考える心の余裕を)》

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