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『おかえりサヤカ』~「おかえりモネ」新田サヤカの過去〈前編〉~
※これは「おかえりモネ」新田サヤカのファンが彼女の過去を想像して書いたフィクションのフィクションです。気象予報士の森田さんがサヤカはモネと同じように、台風の日に生まれたのではないかとか、サヤカを演じる夏木マリさんがサヤカの履歴書を自分なりに作ったと語っていたので、私もサヤカの過去を掘り起こしてみたくなりました。公式ガイドブックのあらすじを参考にしましたが、放映されている「おかえりモネ」とは食い違う箇所もあります。二週分(10回分)しか見ていない状況で書きましたが、あらすじを参考にした都合上、今後のネタバレも含まれますので、ご注意ください。個人の主観で描いた若かりし頃のサヤカですので、こんなのサヤカじゃないとイメージが崩れる恐れもあります。ご了承ください。
「また、モネと一緒に眠る日が来るとはね…」
「私が登米にいた頃、嵐の夜に暴雨風に怯えながら、サヤカさんの部屋で眠った時以来ですよね…」
ひさしぶりに登米に帰省したモネはサヤカの部屋に布団を並べて、サヤカと一緒に眠ろうとしていた。
「モネは、東京に行ってどうなの?好きな人できた?」
「サヤカさん、突然、そんなこと聞かれても困ります。ひさしぶりに会ってそんな唐突に…。」
「眠る前のガールズトークと言えば、恋バナって言うでしょ?」
サヤカはまるで少女に戻ったみたいにおどけて言った。
「私は…別に好きな人はいません。たぶん…。」
モネは布団を被って話をはぐらかそうとした。
「たぶんってことは、気になる人はいるんだ。誰?菅波先生?それとも朝岡さん?私の知らない東京の人?」
サヤカは布団に包まっているモネに向かってニヤニヤ微笑んだ。
「菅波先生も、朝岡さんも、好きな人じゃなくて、大切な人です。二人とも関係ありません。」
「ふーん。大切な人って、好きな人より格上じゃないの。やっぱり二人のことが好きなんだ。愛してるのはどっち?」
「もーサヤカさん、菅波先生にも朝岡さんにも失礼ですよ。私のことより、サヤカさんの恋バナ興味あります。サヤカさんはたしか四回、離婚してるんですよね?つまり四人と結婚したことがあるなら、サヤカさんの話が聞きたいです。」
サヤカは少し沈黙して、こう言った。
「四回離婚はウソ。私は一生独身、子どもも産んだこともないって言ったでしょ?」
「えーウソだったんですか。じゃあなんで四回も離婚したことになってるんですか。森林組合のみなさん、言ってましたよ。姫は四回も離婚してる恋多き女だって…。」
「籍を入れたことがなかっただけで、四回事実婚をしていたってこと。みんな半年で逃げられちゃったけどね…。」
「なんだ、そういうことですか。その四回の事実婚、興味あります。聞かせてもらえませんか?」
モネはサヤカの過去が気になって、眠気もすっかり吹き飛んでしまっていた。
「こんな話、誰にも話したことはないんだけどね。モネにだけ教えてあげようか。私の過去を…。モネにはかなり偉そうなことばかり言ってきたけど、ほんとは偉そうなこと言える立場の人間じゃないんだ。特に若い頃はね…。モネの方がしっかりしてるよ。」
いつも強気なサヤカとは違って、珍しく気弱な一面を覗かせながら、モネに向かって話し続けた。
「私はね…言ってしまえば、ヤジロベエみたいに不安定な若者だったんだよ。」
「ヤジロベエ?」
モネはサヤカが言おうとしていることがさっぱり分からなかった。
「そう、ヤジロベエ。あれは立っているように見えるけど、そう見えるだけで、実はぶら下がっているだけで、ふわふわした不安定なものなんだよ。しっかり地に根を張って生きてる木とはまるっきり違って…。」
「立っているように見えて、ぶら下がっているだけなんですか…。」
「私は、ヤジロベエみたいに不安定な生活を送っていたんだよ。日本各地を転々としながら…。逆に言えば、木みたいに「ここ」って決めて根を張り巡らせて、一ヶ所に留まって、生きる勇気がなかっただけかもしれない…。」
「今、こんなに登米にこだわって、どっしり構えて生きてるサヤカさんが、不安定な生活を送っていたなんて、信じられません。」
サヤカは苦笑いしながら、モネに言った。
「若い頃はモネ以上に、自分探しに悩んでいたからね。たくさん時間を費やしたし。いろいろ失敗も後悔もした。だから、今になってやっと登米で根を張って暮らすことができるのかもしれない。私の居場所は「ここ」だったんだって気付くまで、かなり時間かかったよ。」
「そうだったんですか…つまりその自分探し?の間に四人と出会って、恋をしたんですか?」
「そう、その四人は結婚を考えた人ということで、恋愛ならもっとたくさんしたよ。何しろ、ほら私は姫って言われるくらいだし、若い頃はかなりモテたからね。」
サヤカは悪びれる様子もなく笑って言った。
「恋愛は四人どころじゃないんですか…すごい…」
モネは豪快なサヤカの若かりし頃の恋愛事情にすでに圧倒されていた。
「小さい頃から、お姫様扱いされて、調子に乗っている自分に妙に嫌気がさしたりすることもあってね。何、自惚れてるんだろうって。でも、伊達政宗の家臣の末裔という肩書きから外れると、自分は何も持ってないことに気付いて、怖くなって、結局、姫扱いしてもらえる心地良い場所に居座り続けたくなったりしてね…。ずっともどかしい気持ちで生きていんだよ。自分は何者なんだろうって。」
「サヤカさんは子どもの頃からすでに姫呼ばわりされていたんですね。私は、そんな経験ないから分からないけれど、でも伊達家家臣の子孫だからこそ、それなりに葛藤を抱えて生きているんですね。」
「今でこそ、こうして伊達家家臣の末裔として、開き直って、生きているけどね。でも本当は、私は伊達家家臣の末裔ではないんだよ。」
「えっ、それってどういうことですか?」
「モネが気仙沼から逃げるように、登米に来たのは高校を卒業した年のことだったね。私も、高校を卒業した頃、登米から逃げ出したんだ。実は新田家の本当の娘ではないと知って…。」
「サヤカさんって…実は養子だったんですか?」
「そう。高校を卒業する年に、そのことを知って。それまでは自分は本当に伊達家家臣の末裔の新田家の姫だって、思い込んでいたから、本当に調子に乗っていたし、選ぶってもいたし、近所の子たちなんて、みんな子分みたいな扱いもしてたからね。今思えば、ひどい人間だったなと思うよ。でも一人だけ、私のことを姫扱いせずに、対等に付き合ってくれる人がいた。」
「誰なんですか?」
「モネのおじいちゃん。龍己さんさ。子どもの頃から、うちの山に来てたからね。その頃からずっと仲良しなんだ。」
「じゃあ、もしかしてサヤカさんの初恋の人って…。」
「それはどうだろうね。龍己さんは盟友というか、モネが言う大切な人だから。恋愛とは少し違うかもしれない。山と海、それぞれ大切なものを抱えていて、お互いの大切なものを守り合う同志ってところ。」
モネはなかなか切り出してくれない、サヤカの恋愛話を聞きたくて、やきもきし始めていた。
「じゃあ、サヤカさんの恋はいつ始まったんですか?早く教えて下さい。」
「長くなるから、覚悟して。何しろ、四人の話をしなきゃいけないからね。高校を卒業した私は、とにかく登米から離れたくて、別に目標も夢もないのに、やみくもに仙台で暮らし始めたんだ…。仙台ならここより都会だし、何か見つかるかもしれないって思ってね…。」
サヤカはゆっくり自分の過去を語り出した。
「とにかく山なんて見えない、街で暮らしてみたくて、繁華街、一番町に近い所に住みながら、百貨店で働いていたんだ。洋服が好きだったからね、今でいうショップ店員をしたり、それから、夏には百貨店の屋上のビアガーデンで売り子をやってみたり…。そんな風に仙台で働いている時も、いろんな男の人から声を掛けられて、お付き合いもしたけれど、「この人だ」って思える人とはなかなか出会えなかったよ。初めて結婚を考えた人と出会ったのは二十五歳の頃…。」
一九七七年夏、私は屋上を開放して作られる夏季恒例のビアガーデンで働いていた。仕事を終えて、職場の同僚と複数人で訪れるお客さん、それからカップルで訪れるお客さんなどが多い中、彼はいつも一人きりで訪れ、一番端っこの席に座って、空ばかり眺めていた。オーダーは決まって、生ビールジョッキ一杯と枝豆。それだけで一時間以上、席に居座り続けていた。当初は少し変わった人だろうと認識していた。
「すみません、あの…。」
その日に限って、珍しく彼は追加注文してくれるのかと思ったけれど、注文内容は予想もできない内容だった。
「はい、ご注文承ります。」
「いえ、その…僕の上の照明だけ、切ってもらうことなんてできませんよね?」
「照明…提灯のことですか?」
彼は提灯の明かりを切ってほしいと妙な要求をしてきた。
「すみません、お客様、こちらの提灯は連動しておりますので、一部だけ暗くするというのは難しいです。」
「ですよね、すみません。今夜はほら、しし座流星群が来られる日だから…。」
「はぁ、なるほど。」
流星群を見たいなら、屋上のビアガーデンなんかに来ないで、山にでも行けばいいのにと心の中で思ったけれど、さすがにただのお客様にはそんなことは言えなかった。
「仕事、終わったら、夜空眺めてみるといいですよ。さすがに街中じゃ、見えづらいかもしれないけれど、今夜は雨の心配もないですし、見応えありますよ。」
彼はそんなことを言いながら、残りわずかな枝豆を頬張るとその夜は少し早めに退席した。
それから数ヶ月後…。仙台に初雪が降った日の朝。いつものように百貨店へ向かっている途中、例の空ばかり眺めている彼に遭遇した。路面は凍結していて、その上にうっすら雪が積もっているものだから、滑りやすくて危ないというのに、彼はまた空を眺めながら、歩いていた。危ないと思った瞬間、彼は思いきり転んだ。
「大丈夫ですか?」
私はとっさに彼に駆け寄った。
「痛ててて。すみません、大丈夫です。」
大丈夫というものの、ズボンの膝の部分が破れて、すりむいた膝から出血していた。
「膝、ケガしてますよ。それにズボンが破けてしまっています。」
応急処置で持っていた絆創膏を貼ってあげた。
「ありがとうございます。それじゃあ、僕は…。」
「あの、ズボン…破けてしまっているので、修繕する間、良かったら新しいもの、いかがですか?私、そこの百貨店で今、紳士服を担当していて…。」
「あーあなた、どこかで見たことあると思ったら、ビアガーデンで働いていたお姉さん!あの時は無茶なお願いをしてすみませんでした。今は紳士服コーナーにいらっしゃるんですか。」
「いえいえ、覚えていて下さって、うれしいです。そうなんです。今は紳士服コーナーにいて、セール中なので、お求めやすくなっています。」
「そうなんですか、でも今まだ開店前ですよね?ほしいけれど、買うのは難しいかな…。」
「ちょっと待っててください。」
私は慌てて、職場へ向かうと、彼のズボンと似た色、同じサイズのものを探し出し、彼に渡した。
「良かったら、これどうぞ。私が買っておきましたので。それからこちらのズボンは直しておきますね。」
「うぁ、いいんですか、ありがとうございます。助かります。おいくらですか?」
「私が勝手に選んだものですし、社割でさらに安く買ったので、大丈夫です。」
「そういうわけにはいきません。」
「じゃあ、今度何か洋服が必要になったら、その時、是非うちの売り場へお越しください。それで十分です。」
「分かりました、じゃあ今回はお言葉に甘えて…。今度必ず売り場へ伺います。」
そうそう自分はこういう者ですと去り際、彼は名刺をくれた。
「仙台管区気象台 楓智志(カエデサトシ)」
私はその名刺を見て、ようやく彼がなぜ空ばかり眺めていたのかが分かった。
「気象台にお勤めされているんですか。だからいつも空を眺めていらっしゃったんですね。くれぐれも足元にはお気をつけください。冬場は危ないですから。」
「空ばかり見てること、気付かれてましたか。どうも空を見上げるのは職業病なもので、クセになっていて。足元気をつけます。」
楓さんとはそんな風に出会った。後日、彼は本当に、紳士服コーナーに現れ、何点も購入してくれた。そして私が修理しておいたズボンもとても喜んでくれた。それをきっかけに私たちは付き合い始めた。
季節は立春を迎えていた。
「立春とは言え、二月上旬の仙台はまだ真冬だからね。サヤカさんはどこの出身なの?僕は九州、長崎の出身なんだ。だから、東北の冬はとても寒く感じるよ。」
「私は宮城の県北の方、登米ってところが出身なの。だから仙台はまだ暖かい方って思うわ。楓さんは長崎生まれなのね。随分遠くから仙台へいらしたのね。」
「登米出身なんだ。岩手よりだから仙台よりもっと寒いだろうね。どうしても、気象台で働きたくて、採用試験受かったのが、仙台だったんだ。子どもの頃から空を見るのが好きだったし、天気に興味あったから。仙台の冬は寒いけど、でも寒い分、放射冷却で星空がより一層綺麗に見えるから、この寒さもなんてことはないって思うようにしてるよ。雪も交通事故が増えて危ないけれど、でも見てる分には綺麗だよね。仙台の寒さで心が温かくなることが増えたよ。」
彼は微笑みながら、また空を見上げた。
「九州出身の楓さんが、仙台を気に入ってくれてうれしい。」
「サヤカさんが生まれた登米にも行ってみたいな、いつか長崎にも遊びにおいでよ。案内するから。」
彼と一緒にいると、私も空を見上げる機会が増えた。
「あっ、あの雲、虹色に輝いて綺麗…」
「あれは彩雲っていう雲だよ。見ると良い事があるんだ。」
「そういうの、迷信じゃないの?」
「迷信なんかじゃないよ。僕は科学的に空を研究しているけど、そういう迷信と言われる類のものも信じてるんだ。だって、彩雲をサヤカさんと一緒に見られたこと自体が、すでに良い事だもの。好きな人と素敵な雲を見られて僕は幸せだよ。」
それから私たちは間もなく、一緒に暮らし始めた。
楓さんと一緒にいると、テレビで天気情報を見なくて済んだ。勝手に毎日、うるさいくらい天気予報してくれたから。「今日は、絶対雨が降るから、傘忘れずに、持って行ってね。」とか、四月になっても、「雨じゃなくて、季節外れの雪になるかもしれないから、手袋マフラーはまだしまわない方がいいよ。」とか。桜の開花日もぴたりと言い当てた。その時の彼の子どもみたいに喜ぶうれしそうな横顔はまだ忘れられない。まれに天気予報を外すと、やっぱり子どもみたいに落ち込んだ。楓さんは聡明だけど、空みたいにいろんな表情を見せてくれる魅力的な人だった。
六月、梅雨に入ると、毎日傘が手放せなくなった。
「サヤカさん、今年もビアガーデンの売り子やるの?」
「えぇ、その予定よ。どうして?」
「そっかーじゃあ一緒に行くのは難しいかな?ほんとはサヤカさんと一緒にあの屋上で呑みたいなって思ってたんだけど…。」
「休みの日もあるから、その時、一緒に行きましょうよ。」
「ほんと?うれしいな。去年までずっと一人で通ってたから、うれしい。」
彼は太陽みたいにうれしい時は心の底からニコニコ微笑んでくれた。悲しい時は、雨降りみたいにどんより落ち込んだ。ある意味、とても分かりやすい人だった。
「お盆休みってある?」
「百貨店はお盆の時期が稼ぎ時だから、ゆっくり休みが取れるのは秋になるかも…。」
「そっか、そうだよね。じゃあ秋でもいいから、九州に行こうよ。長崎の両親に君のこと、紹介したいし。」
付き合い始めて、一緒に暮らし始めてまだ半年程度だったけれど、彼も私も本気だったから、ご両親に紹介したいと言われて、本当にうれしかった。もしかしたら、彼と結婚できるかもしれないと思い始めていた。
「今日は郊外で、観測しなきゃいけないことがあるから、帰りは少し遅くなるかも。」
「分かったわ。いってらっしゃい。秋、楽しみにしてるね。」
「いってきます。」
彼はいつものように空を見上げると、傘を差して出かけて行った。
その日は六月十二日。午後五時過ぎ、大きな地震が宮城県を襲った。マグニチュード七・四を記録した宮城県沖地震。
私は職場で揺れを感じ、お客様の避難誘導をしていた。楓さんは大丈夫だろうか…気象台にいればきっと安全だけど、今日は郊外に出掛けるようにことを言っていた。胸騒ぎがした。だって今朝の会話がまるでドラマの別れ際によくある幸せな会話そのものだったから…。
携帯電話なんてない当時、連絡を取るのはなかなか難しかった。電話も混み合っていて気象台にもなかなか通じない。仕事を終え、一人、帰宅すると、部屋の中は地震の揺れでめちゃくちゃに荒れていた。二人で住んでいた幸せな日常がこんなにも簡単に壊されてしまうものなのかと、しばらくは片付ける気力も起きなかった。でも楓さんが帰って来た時のために少しでも片付けておかないとと、彼を心配する気持ちを抑えて、必死に片付けをした。
その晩、結局、彼は帰って来なかった。翌朝、電話が鳴った。彼の勤め先、気象台からの電話だった。彼がブロック塀の下敷きになって、亡くなったことをたった今、確認したと…。信じられなかったし、信じたくなかった。だって私たちはこれから梅雨が明けたら、一緒にビアガーデンに行って、一緒に呑んで、それから、秋になったら彼の故郷の長崎に行って、ご両親に会って…。幸せな未来が続いていると昨日の朝まではたしかに感じることができたのに、たった一日でこんなに未来が変わってしまうなんて、信じられなかった。
私はすぐに安置されているという病院へ向かい、変わり果てた姿の彼と対面した。あれだけ足元には気をつけてって言ってたのに、きっと彼のことだから、また空ばかり見ていたんだ。だからブロック塀の下敷きに…。そんなことを考えていたら、見知らぬ女性が現れて、声を掛けられた。
「あの、すみません…楓さんの奥様ですか?」
「いえ、私はその、一緒に暮らしていた者です…」
「楓さん、近くを歩いていたうちの息子をかばってくれて、それでブロック塀の下敷きに…。本当に申し訳ありませんでした。」
その女性は肩を震わせていた。
「そうだったんですか…息子さんが無事で何よりです。彼もきっと安心していると思います。」
空を見ていたわけじゃなくて、子どもを助けたなんて、楓さん、やるじゃんって思えた。死んでしまったことは悲しいけれど、彼が誰かの命を救ったなら、彼はきっと良かったと思っているだろうと自分に言い聞かせた。
彼の両親が仙台にやって来て、結局長崎に行くこともないまま、彼の両親と対面した。お墓は当然、長崎にあるという。彼は長崎に帰ってしまった。一人取り残された私は、喪失感を埋めたくて、仕事に明け暮れた。空を見ることなんて忘れて、猫背になって自分の足元だけ見て過ごしていた。
秋雨前線の影響で、雨降り続きだった晩秋、あちこちに水溜まりができて、歩く度に靴が濡れた。私は濡れることなんておかまいなしに、疲れてくたびれた靴で手探りで前に進み続けていた。立ち止まってしまったら、二度と動けなくなってしまいそうで怖かったから。
ふと、水たまりの中に七色の光が見えた。何だろうと覗き込んでみると、それは虹だった。空に架かった虹が水たまりに映り込んでいたのだ。私は数ヶ月ぶりに空を見上げた。秋の空は高くて、遠くて、広い気がした。そこに七色の虹が架かっていた。
その瞬間、楓さんと出会って間もなく見た彩雲の色を思い出した。あの時の心は今日の虹みたいに七色にキラキラ輝いていた。あの日感じた心の色を、楓さんを失って以来、すっかり忘れてしまっていた。けれど、今日の虹があの時の気持ちを思い出させてくれた。私はたしかに楓さんのことが好きだったし、彼も私のことを愛してくれた。私たちは空でつながっていて、空のおかげで、空を見上げてばかりの彼と私は出会えた。そんな大切な空を私はすっかり忘れてしまっていた。行こうと思った。楓さんが連れて行ってくれると言ってくれた九州、長崎へ。彼が育った長崎の空を、彼が好きだった空の色を見てみたいと思った。私は、翌年、仙台を離れ、長崎へ移り住んだ。
「サヤカさんが彩雲を知っていたのには理由があったんですね…。まさか結婚を考えた一人目の方が気象台の方だったなんて…。宮城県沖地震で亡くなってしまったんですね。私はどうしても東日本大震災の津波の記憶の方が新しくて…。」
「三・一一が起きる前は、単体の宮城県沖地震の方が恐れられていたからね。あの地震がきっかけで、ブロック塀には必ず支柱を入れるという安全対策が施されるようになったんだよ。彼以外にも何人もの人たちがブロック塀の犠牲になったから。」
「楓さんたちの死が教訓になったんですね…。そして楓さんの故郷・長崎に行ったサヤカさんはどうなったんですか?」
「彼の故郷に移り住んだ私は…。」
長崎に着いた私は、まず彼のお墓に手を合わせた。ここにいれば、いつでも彼に会いに来ることができる。彼の側にいられると思うと、仙台にいる時よりも、心が軽くなった。長崎の空はどんな色だろうと期待していたけれど、宮城とそんなに変わらないことに気付いた。それは当然だ。だって同じ地球の大気だから。長崎と宮城は同じ空でつながっていると気付くと、なんだかうれしい気がした。
私はファミリーレストランで働き始めた。八十年代に入ると、二十四時間営業の店舗が増え、昼間だけでなく、夜間、働くことも増えた。夜は当然、若者たちでにぎわった。その中に、楓さんみたいに必ず一人きりで訪れるお客さんがいた。きっと私はどこかで楓さんの面影を追い続けていたのだろう。彼の第一印象は何となく、楓さんに似ている気がした。でも楓さんと違って、一人でその場に入り浸ることはせず、食事を済ませると、あっという間に退席し、お店から出て行った。忙しい人なのかなとなんとなく彼のことを想像するようになっていた。
ある夜、ふと、彼が去ったテーブルの片付けをしていると、ハンカチを忘れていることに気付いた。次、来てくれた時に渡せばいいだけかもしれない。でも、急げばまだ近くにいるかもしれない。私はお店から外に駆け出した。少し走ると、歩く彼の後ろ姿を発見した。
「お客様、すみません。忘れ物です。」
と言いかけた時、私は思わず転んでしまった。
「大丈夫ですか?」
思いきり、転んだ私に気付いた彼が駆け寄ってきた。
「大丈夫です。お客様の忘れ物を届けたくて…。」
私は必死に守ったハンカチを彼に渡した。
「これのために暗い夜道を駆けてくれたんですか。すみません。それより、足ケガしてます。消毒しないと。」
彼は持っていた鞄から消毒液を取り出すと、手際良く私の足を手当てしてくれた。
「しまった。包帯切らしているから、すみません、代わりにハンカチ代用します。汚れてはいないので、大丈夫だと思いますが、後で包帯巻いて下さいね。」
私が届けた白いハンカチを患部に巻いてくれた。
「すみません、ありがとうございます。消毒液携帯してるなんて、すごいですね。」
「一応、救命士やってるので。何かあったらすぐに手当てできるようにしてます。医者ではないので、本格的な医療行為はできませんが…。」
彼は檜木義人(ヒノキヨシト)という名前で、緊急救命士だった。
私は檜木さんから借りたハンカチを丁寧に洗濯しアイロンをかけ、後日、お店に現れた時、彼に返却した。
「先日はどうもありがとうございました。汚れ残っていたら、すみません。」
「これはあなたにあげるから、良かったのに。わざわざすみません。こんなに綺麗にしていただいて。足のケガは大丈夫ですか?」
「おかげさまで、すっかり良くなりました。すぐに処置していただいたおかげです。」
「それは良かった。」
楓さんの面影を追い掛けて、長崎まで来たというのに、いつの間にか私は檜木さんに惹かれ始めていた。
朝方、仕事を終えて帰ろうとしていたある日、同じく仕事帰りであろう、檜木さんとばったり遭遇した。
「あっ、おはようございます。おつかれさまです。」
私は思わず声を掛けた。
「おつかれさまです。今、帰りですか?」
「はい、今から帰るところです。」
「おつかれさまです。この朝の時間帯、好きなんですよ。」
檜木さんはおもむろに空を見上げた。
「この時間帯ですか?眠くないですか?」
「眠いですよ。でも、空を見ると、清々しい気分になるというか。夜と朝が交代する時間帯なんですよね。それがなんだか好きで。」
檜木さんはやっぱり楓さんに雰囲気が似ていると思った。
「たしかに朝焼けとか見えると、得した気分にはなりますね。」
「そうなんですよ、この時間帯ってまだ起きてる人が少ないでしょ?だから、こんな綺麗な空見られる自分はラッキーだって。仕事がんばって良かったなって思えるんです。」
「太陽が昇る前は月も見られますもんね。」
「そうそう、月がまだ光っているのに、反対側の空がうっすらオレンジ色に染まり出すあの光景が好きで。群青色の夜空にオレンジ色の差し色が入って、朝と夜が同時に見られると幸せな気持ちになります。」
檜木さんは東側の空を見つめていた。
「空…好きなんですね。」
「好きですよ。空は好きですが、嵐を呼ぶのも空なので、恐ろしくも感じます。僕、災害が起きた時にいち早く現場に駆け付ける救命士やっていて、だから日常的に空模様もけっこう気になるんですよね。特に梅雨とか台風の時期は。」
「そうなんですか。災害現場に急行する救命士さんなんですね。たいへんなお仕事されてるんですね。」
「普段は消防署で勤務してます。できれば災害は起きてほしくないですね…。招集されないのが一番なんですが、毎年何かしらあります。特に九州は豪雨が多いので。」
「長崎あたりだとやっぱり水害は多いんですね。」
「ええ、多いですよ。もしかして長崎の方ではないんですか?」
「はい、私は東北出身で、長崎に来てまだ二年くらいです。」
「そうなんですか、じゃあこれからくれぐれも雨には気を付けてください。油断しない方がいいです。九州の雨は。」
こんな風に私たちは出会い、いつの間にか付き合い始めていた。
私は三十歳になっていた。当時三十歳と言えば、結婚していて当たり前の年齢だった。別に焦っているわけではなかったけれど、子どもは欲しかったから、なるべく早く結婚したいと思っていた。彼も子どもが好きだという。あの頃、私たちはなぜか生き急いでいた。
結婚を前提にお付き合いし始めて数ヶ月、身籠っていることに気付き、彼と一緒に暮らし始めた。妊娠初期でつわりもひどかったから、仕事は休むことにした。
「無理して仕事続けなくていいよ。辞めても大丈夫だからね。」
と彼は私の身体を労わってくれた。やさしい人だと思った。
「特に、妊娠初期は大事にしないと。安定期に入るまでは無理しちゃダメだよ。早く正式に結婚したいと思ってるけど、サヤカさんが安定期に入ってから式を挙げた方がいいよね。」
「私はそんな形式にこだわってはいないから、大丈夫。別に式なんて挙げなくてもいいし、とにかく早く子どもを産んで育てたい気持ちの方が強くて。」
強がりでも何でもなく、好きな人の子どもを産んで育てることができれば、結婚式なんて二の次だと思っていた。入籍だって子どもが生まれるまでに間に合えばいいと思っていた。
「ありがとう。ごめんね、仕事忙しくて、なかなか東北のご両親にも挨拶に行けなくて。」
「そんなこと気にしないで。今は無事におなかの子が生まれて来てくれればいいって思ってるから。」
私は東北の両親とはほとんど連絡を取り合っていなかった。本当の親子ではないと分かったあの時から、信じていたのに裏切られた気持ちで、なんとなくぎくしゃくしたままの関係が続いていた。
一九八二年、七月、長崎に大雨が降り続いた。後に長崎大水害と命名され、三百人近くの犠牲者が出た。私も一歩間違えれば、その犠牲者の一人になっていた。
七月二十四日。あの日、私は一人で家の中にいるのが怖くて、開設された避難所へ向かった。つわりがおさまらず、避難所の公民館でも横になっていた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
見知らぬ男の子が私に声を掛けてくれた。
「ありがとう。大丈夫よ。」
「僕のママも、弟が生まれる時、そんな感じに苦しそうだったんだ。だから、お姉ちゃんも「つわり」でしょ?」
まだおなかが出ているわけでもないのに、洞察力のある子だと思った。
「そうなんだ。君のママもたいへんだったのね。」
近くでその子のママと弟が座って遊んでいた。
そんな会話をしていると、聞き慣れない地鳴りが響いて、公民館からそれほど遠くない、裏山が崩れ始めた。
「誰だよ、この公民館なら安全だって言ったのは。」
「あの裏山が崩れるなんて聞いたことないぞ。」
「ここも危ない、早く別の場所へ避難しないと。」
逃げる間もなく、土砂は公民館を襲った。
「危ない。」
私はとっさにその子をかばった。
気付くと私とその子を残して、他の人たちの姿は消えていた。
「ママ、翔(カケル)、どこに行っちゃったの?」
その子は不安そうな表情を浮かべて泣き出してしまった。
「大丈夫、ママもカケルくんもきっと大丈夫だから。」
身体が重い。私とその子は体の半分、下半身が土砂で覆われてしまっていた。ふと、私はその子の心配をすると同時におなかの子の心配をした。おなかの子は無事だろうか…初期は流産しやすいと聞いている。下半身が埋もれてしまっている。あの土砂の衝撃でこの子に何かあったら…と不安になった。
「君のお名前は?何歳?」
「覚(サトル)…朝岡覚(アサオカサトル)…十一歳。」
「サトルくん、身体痛くない?大丈夫?」
「うん、大丈夫。痛くない。お姉ちゃんの名前は?」
「私はサヤカっていうの。お姉ちゃんの大切な人は救命士やってるから、すぐ助けに来てくれるからね。一緒にがんばろうね、サトルくん。」
「うん、わかった。サヤカお姉ちゃんと一緒にがんばる。」
幸い、雨の勢いは弱まっていた。けれど、少しの雨でも長引けば身体が冷えてしまう。私は近くに流れ着いていた傘を広げて、サトルくんと私の頭上に置いた。
「サヤカお姉ちゃんは、おなか大丈夫?」
「ありがとう、おなかなら大丈夫だから。」
数十分がとても長く感じた。一時間が一日くらいに感じた。数時間は経過したと思う。サトルくんの元気がなくなってしまった。
「サトルくん、もう少しがんばろうね。そうだ、何か唄を歌おうか。」
私は必死に彼を励まし続けた。彼を励ますと同時に自分を励ましていたのかもしれない。
「ラーラーラ ラララ ララーラララ ラララララ―」
「その曲…知ってる…『なないろ』って曲だよね…」
私の唄にサトルくんは反応してくれた。
「そう、その曲よ。知ってるなら、一緒に歌いましょう。きっともうすぐ助けが来てくれるからね。」
くじけそうな心で私たちが必死に歌い続けていると、雲間から青空が覗いて、太陽の光が射し込んだ。
「サヤカお姉ちゃん…あの雲キレイ…」
サトルくんが見上げた方を見ると、微かに彩雲が現れていた。
「あれは彩雲っていう雲よ。見ると良い事が起きるの。」
「良い事?」
「そう、良い事。だからきっともうすぐ助かるから。」
二人で希望の光を見つけたかのように、じっと彩雲を見つめていたけれど、あっという間に消えてしまった。
間もなく、救助隊の人たちが駆け付けてくれた。
「大丈夫ですか?分かりますか?お名前は。」
「大丈夫です。新田サヤカです。こちらの子は朝岡覚くん。」
「新田さん…もしかして檜木の…。」
「えぇ、そうです。それより、サトルくんを早く助けてあげて下さい。」
「分かりました。それでは子どもさんを先に救助します。」
「サヤカお姉ちゃんのことも早く助けてあげて。おなかに赤ちゃんがいるんだから。」
サトルくんは自分もたいへんなはずなのに、最後まで私の身体の心配をしてくれた。
「妊婦さんでしたか。急いで、病院へ。」
サトルくんと私は救急車で病院へ搬送された。
「サヤカさん、大丈夫?」
目を開けると、そこには檜木さんが立っていた。
「ゴメン、すぐに助けに行けなくて…。」
「あなたが謝ることないわ。檜木さんの同僚の方々が助けてくれたの。サトルくん…おなかの子は…。」
彼は私の手を力強く握って、ポツリと呟いた。
「おなかの子は…助からなかった…でもサヤカさんが生きていてくれて本当に良かった。」
流産してしまった。あの時、もう少しおなかをかばっていたら、この子は助かっただろうか。もしも公民館じゃないところにいたら、巻き込まれずに済んだだろうか…。
「救命士なのに、自分の子どもも守れないなんて、救命士失格だよな…」
彼は涙を流していた。
「そんなことない、あなたは何も悪くないわ。だって他の場所でたくさんの人たちを助けていたんでしょ。立派だわ。」
私は折れそうな心で、彼のことを励ました。
「立派なんかじゃないんだ。救えた命もあるけれど、救えなかった命もあるから…。」
「誰のせいでもない。大雨のせいだから、仕方ないわよ。あなたはがんばったんだから。」
それは彼に向かって言っているようで、自分自身に向かって言いたい言葉でもあった。
「サトルくんは?」
「君と一緒に救助された子なら大丈夫。お母さんと弟さんは行方不明のままらしいけれど…」
サトルくんが無事で良かったと心から思った。あの時、サトルくんがいてくれたから、心強かった。一緒に唄を歌って、彩雲を見て、励まし合っていたから、がんばれた。おなかの子は助けられなかったけれど、サトルくんのことは助けられて良かったと涙が溢れた。
長崎大水害の後も、その年の夏は日本中大雨に見舞われた。特に大水害から間もなく、台風10号が上陸し、甚大な被害をもたらした。檜木さんは災害現場に急行することが増えていた。
「くれぐれも気をつけてね。」
病院から退院した私は、彼が現場に向かう度に心配した。
「うん、気をつけるよ。救命士はまずは自分の命を守らないと、誰のことも救えないからね。無茶はしないよ。それにサヤカさんを一人にしてしまうようなことはしたくないし。この大雨が明けて落ち着いたら、早く籍を入れよう。」
「ありがとう。入籍なんて今はいいから。どうか無事で。」
このシチュエーション、以前にもあった気がする…。楓さんの時も…。
数日後、彼は現場で二次災害に見舞われ、亡くなってしまった。おなかの子を失った悲しみも癒えていないというのに、彼のことまで失ってしまった。
長崎に来た理由は…楓さんを失った治らない古傷が疼いて、楓さんの面影を追い求めてはるばるやって来たはずだけれど、ここで檜木さんと出会って、自分たちの子どもも授かって、幸せだったはずなのに、掴み取ったはずの幸せは砂のように指の隙間からこぼれてしまった。傷を癒したくて長崎に来たはずなのに、治らない傷は増える一方で、どうしようもない。
檜木さんが好きだと言った、夜と朝の間の時間帯になっていた。月の明かりが弱まって、太陽の光が空に反射し始めていた。長崎の空の色は夜と朝の間にひと時現れる、群青色とオレンジ色が印象的だった。それは長くは続かない色。ここでしか会えない色は夢みたいに儚い色だった。檜木さんがいた場所に一人きりで居続けることは耐え難い。忘れたいけど、完全に忘れてしまうときっと寂しい。その寂しさを乗り越える自信がなかった。だから私はまた新たな旅を始めた。目的は特にない。ただ寂しくない夜を過ごしたくて、気付くと私は東京へ向かっていた。
★〈後編〉へ続く
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