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「35歳の少女」を見終えて考えたこと

『35歳の少女』最終回を見終えた直後、実家の本棚にあった1996年7月25日第55刷発行の本、ミヒャル・エンデ作『モモ』を引っ張り出して眺めてみた。ほぼ手付かずで24年ものにしては汚れも少なく新しい。これはたぶん妹の本で、私は読んだことがなかった。というか誰にも読まれた形跡はなかった。でも大切に本棚にしまわれて、密かに望美みたいに24年間、眠っていた。
その次に『35歳の少女』の小説をネットで注文した。まだ手元には届いていないけれど、どうやら私はすっかりこのドラマにハマってしまっていたようだ。

第1話は見逃してしまったけど、他の回はすべて見た。最初のうちは遊川さんの作品なら、救いようがなくて絶望的で報われないシビアな作品だろうと決めつけて、冷めた目で視聴していた。実際、毎回、誰もが不幸で幸せになれそうもなくて、それがある意味リアルで、いくら主軸がファンタジーな『モモ』でも、この作品は絶対最終話になってもこの調子でみんないがみ合って終わるんだろうなと予想していた。
King Gnuの主題歌「三文小説」も果てしなく底なしで暗いし。

しかし第8話あたりから、自分の想像の範疇を超え始めた。たしかに『モモ』だから“灰色の男たち”みたいな存在が登場しても少しも不思議ではないけれど、まさか天真爛漫な35歳の少女である望美が、その役もやるとは思いもしなかった。無邪気で人を疑うことさえ知らない誰でも簡単に信じてすべての人の幸せを願う望美が、合理主義で利己的な冷めた大人の代表格を演じるとは、この回で作風がガラッと変わった気がして、意表を突かれるとはこういうことかと。
この辺から望美という役柄は柴咲コウしか演じられない本当に難しい役柄だなと思い始めた。子どもの口調も冷めた大人の口調も、あまりにも自然体で、彼女にしかできない役だと気付いた。まさに千両役者というか。

第9話はクライマックスで、あの冷酷だったはずの母がマリア様のように微笑を浮かべて、家族三人にやさしい言葉をかけながら亡くなっていくシーンは鈴木保奈美圧巻の演技だった。柴咲コウ同様、母親役もかなりハマリ役だったと思う。鈴木保奈美が演じたいつも正しいけれどいつも無表情な母親像は恐怖さえ覚えた。こういう家族を支配しようとする母親ってたしかに現実でも存在するし。支配欲がリアルで恐ろしかった。

そしてそんな支配者から逃げ出しても、結局誰かに依存してしょうもない人生を送る家族もまた見覚えがあった。正しい愛情を知らないと、歪んだ愛しか与えられない人間になりやすい。離婚したパパも、母親の愛情不足で育った愛美も、結局本当に自分らしい自分の人生を歩めていなかった。再婚した相手やその息子とはちゃんと向き合えていないし、ママに未練もあるようだし、どっちの家族ともどっちつかずのふらふらした頼りなくて存在感の薄い父親像が描かれていた。愛美は何でも一人でできて、仕事もできて優秀だけど、男に甘くて、ついつい男に依存しがちで、ストーカー気質で、やっぱり歪んだ愛しか知らない大人になっていた。望美が目覚めるまでは。

25年ぶりに望美が目覚めて、望美の時間が動き出した時、家族の人生も少しずつ変わっていった。最初は衝突してばかりで、ケンカが耐えなくて、どうしようもない機能不全家族的な人間関係ばかりだったけれど、望美が少しずつ成長していくうちに、周りも変わり始めて、最終回では最初の頃と本当に同一の家族かと思えるほど、みんなそれぞれ誰に依存することもなく、誰の人生でもない自分の人生を素直にまっすぐ歩み始めた姿を見て、拍子抜けしてしまった。あまりにもハッピーエンドで終わっていたから。せっかく遊川作品なら、もう少し現実的に報われない部分があっても悪くなかったんじゃないかと思ったけど、でも『モモ』という児童文学がテーマなら、まぁ教訓童話的にみんな救われて「めでたしめでたし」もありなのかもと。

不思議なことにハッピーエンドで終わった「36歳になった少女」を見たら、主題歌「三文小説」が少しだけ明るい曲に聞こえた。あれほど救いようのない絶望的に暗い歌だとその暗さに浸りながら聞き惚れていた楽曲に、明るい陽射しが射し込んで短調から長調の曲に聞こえたから驚いてしまった。つまり「三文小説」がドラマの世界観と完全に合致していたから起きた奇跡みたいなものだと思った。ドラマの変化に合わせて、曲調も変化して聞こえるなんて、普通はあり得ない。恐るべし才能の持ち主、King Gnu。

25年間も眠っていた望美はたった1年で劇的に36歳らしい大人に成長した。現実では考えられない成長の速さなので、計算してみた。1年で25年分成長したということは、365日(うるう年は省く)×25年=9125日分生きた計算になる。つまりそれを12ヶ月で割ると1ヶ月あたり約760日分となり、1ヶ月が30日で再計算すると、1日あたり約25日ずつ成長したということになるのだろうか。(※算数が苦手な人間なので、間違っていたら指摘してください。)

もっと大雑把に計算すれば1日で25日分取り戻すということは、普通の人間の1日が約1ヶ月ほどの時間経過ということになるだろうか。ものすごい速度である。12日つまり約2週間ごとに1歳ずつ歳をとった計算になる。1ヶ月で2歳ずつ歳を重ねると1年で24歳分取り戻せる。

ここで『モモ』の中でテーマとなっている“時間”とは何か?という概念を考えざるを得ない。本気で生きれば、たった1年で25年分の人生を歩むことも可能という発想はドラマだから可能なのではなく、人間が真剣に自分の人生と向き合えば、不可能なことではないと、このドラマが教えてくれているのかもしれない。
望美はよく言っていた。「25年眠っている間に、ママやパパやまなちゃんやゆうとくんは一体何をしていたの?時間を無駄にして生きていただけじゃない」と。

実際ママは望美の看病に明け暮れて、パパや愛美からは愛想をつかされて、自分しか信じない人を寄せ付けない孤独な人間になって、望美がいればそれでいいと、娘に依存する寂しい母親になっていたし、パパと愛美は前述した通りで、結人くんも夢だった教師はとっくにやめて代行業で自分の人生ではなく、誰かになりすまして、見ず知らずの人の人生を適当に演じる投げやりな人生を送っていた。みんなそれぞれ25年も9125日も生きていたはずなのに、まるで誰かに時間を盗まれたみたいに死んだ人間みたいに誰の人生かも分からないような自分の人生を彷徨いながら何となく歩んでいた。時間を自分のものにできていない人が過ごす時間って本当に無駄でもったいない。時間に意味がない。意味を持たない時間ってゴミより価値がない。ゴミの方がよっぽど意味がある。何を書きたいのが分からなくなってきた。

つまりこのドラマで感じたことは、時間は自分の人生を歩んでこそ、時間として動き出すし、大切な時間として輝くということだ。別に望美のママのように誰かを介護、看病して生きる人生すべてに意味がないと言いたいわけではない。自ら本気でそうしたいと望んで人のために尽くす自分の人生があってもいいと思う。そういう人のおかげで生き延びられる人もいることはたしかだから。

でも最終回でそれぞれがそれぞれの夢に向かって本気で歩み出したように、たとえ好きな人と物理的に離れることになっても、経済的に苦しくなっても、自分がやりたいことに時間を費やした方が、断然、その人の人生を輝かせることができるし、周囲の人たちのことも幸せにできると説いてくれていたので、人生って時間をどうやって味方につけるか次第で、劇的に変わるものなんだなと気付かされた。
投げやりな気持ちで何十年も生き続けるよりも、たった数年でもいいから本当になりたい自分になるために必死で生きた方が価値があるということを改めて知ることができた。

だからぐだぐだな救いようのない展開のまま終わるよりはやっぱり、後半たった3話でそれぞれの人生ががらっと変わったように、自分の人生を生きるため賢い時間の使い方を習得した登場人物たちが模範となってくれて良かった。こうして自分の人生を諭してもらうことができたから。

その自分の人生だが、改心したからと言って、ドラマのようにそう1年やそこらで劇的に変えることはなかなか難しい。実際2年前に、「自分の人生を生きる」と心を入れ替えて、35、6年無駄にしていた自分の人生、自分の時間の使い方を変えたら、望美ほどではないけれど、たしかに充実した生活を送れるようになった。以前までの自分の人生と比べたら、1ヶ月が1年くらいの濃度で、時間を使えている気がする。その分、労力使うし、疲れるし、毎日くたくただけれど、以前と比べたら楽しいし、幸せになれた気もしている。望美や愛美みたいに夢を実現できたわけではないけれど、夢を叶えるべく、毎日限られた時間と向き合って生きている。

自分の場合、睡眠時間はかなり大切なので、けっこう確保している。いろいろ差し引いて、12時間くらいしか活動できていない。でもその12時間をフル活用している。睡眠時間削って活動時間増やしても、睡魔に襲われるだけで、仕事でミスしてしまう恐れもあるし、こうして書く作業だってきっと集中できない。だから私はとりあえず眠る。ちゃんと睡眠確保して、12時間程度の活動時間、頭の冴えた状態でばっちり活動するのが理想。でもあくまで理想だから、たまに睡眠不足で、時間をうまく使いこなせない時もある。あー時間を無駄にしてしまったなと思う。

36歳の少女である妹の騒動に巻き込まれた時は、あーかなり時間を無駄にしたなとイライラもする。「私の時間を返して」なんて言った覚えもある。
だからなるべく距離を置いて、自分の時間を確保している。自分の時間を確保できるうちが勝負だと思っている。もしも親が年老いた時、介護なんて始まったら、こうしてゆっくり書く時間なんて今よりは取れなくなるだろうから。自分のために時間を使えるうちに、夢を叶えたい。叶えなきゃって思いながら、日々書いている。

そう、最後に「36歳の少女」ってタイトルが出て来た時は少し驚いた。だって11月に落ち込んだ時、妹のことを書いた時「36歳の少女」って言葉を使ってnoteを書いていたから。最終回を見る前に書いた記事なので、パクったわけではありませんので、あしからずご了承ください。

自分の母が作る駄文ばかりの脚本と、機能不全家族の三文芝居にいつまでも付き合いながら、自分の三文小説みたいな人生を自分の力で書き直しながら、自分の理想のはなしの果てのその先を書き足して、過ちでも愚かでも足掻き続けながら描き続けたい自分の人生という物語があります。新しい章は2年前に始まったばかり。って結構長い章になったな…。来年こそはそろそろ新たな章の幕開けを期待したい。と「三文小説」で締めてみました。

#35歳の少女 #三文小説 #モモ #時間 #人生 #KingGnu

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