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努力と成果

私は小学生の時、足が非常に遅く、
50m走、80m走、100m走。
距離が延びるにつれて、
クラスでの順位が下がっていったのを
覚えています。

足が遅い私に対して、
練習して早くなった欲しかったためか、
3位以内になったら、
父親がスーパーファミコンのソフトを
買ってあげるから、
頑張ってみなさい!!

と、言われ、
それが小学生の時の運動会では、
毎年恒例のご褒美になっていました。
(3位と言ってもクラス全体の3位ではない。)
(一緒に走る5,6人の中での3位。。。)
(ハードル、低っ!!)

確か、、、
その恒例行事は小学4年生くらいから
始まった記憶があります。

ただ、その目標に向かって、
練習したのは小学4年生の時だけでした。
その4年生の時の運動会で、
大敗し、大きな挫折を味わって以降。
3位以内のスーパーファミコンのソフトを諦め、
走る練習を止め、諦めました。

でも、、、
5年生の時に1回だけ、
ご褒美をゲットできたんです。

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▼約半年間の朝練と長靴
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4年生の時、3位以内の目標を定め、
学校に行く前に毎朝、走る練習をしてました。
家の前の道路をひたすらダッシュを繰り返すという練習。
多分、学校に行く前の20分~30分は
毎日やっていたと思います。

しかし、、、
運動会の練習時に自分が早くなっている感覚が
全くありませんでした。
でも、、、
練習の成果は、必ず本番で発揮されるはず!!
そう信じて、
運動会当日にスタートラインに立ちました。
なんか、結構、自信があったように覚えています。
これで、
スーパーファミコンのソフトをもらえる!!と。

しかし、、、
結果は、6人中5位。
しかも、4位と5位には結構な差がありました。

当然、約束の3位になれなかったので、
スーパーファミコンのソフトは、
もらえませんでした。
(朝練の姿を見ていたのに、
うちの親父は、問答無用で4位以下は認めない)
(私、、、同じ状況なら、子供に、頑張ったねって、ご褒美あげちゃう。。。)

子供ながらに、
自分は多分、走るのが苦手で、
練習しても早くならないんだって思いました。

そして、走る事をやめました。

ところが、、、
5年生の時の運動会。。。3位になりました。
もちろん、練習はしていません。

その日、雨が結構降っていて、
コンディションは最悪でした。

私は、そもそも勝つことを諦めているので
そのレースに長靴を履いて参加しました。
(勝つことよりも、シンプルに靴が汚れるのが嫌だから。)

私は、その頃から他の同級生に比べ、
一回り、人によっては二回りくらい、
身体が、縦にも横にも大きく、
友達と一緒に遊んでいると、
同級生に見られる事は少なかったです。

今考えると、
多分、身体が重い(体重が重い)ので、
ぬかるんだコースでも、
滑りにくかったんだと思います。
一緒に走った友達も、
実際にかなり滑っていたと記憶しています。
(一人は、確か、滑って転んだ)

そして、
長靴をはいていた事も大きかったと思います。
当然ですが、
レースに長靴で参加したのは、
全学年で、私だけ。

走りにくいかもしれないが、
意外と滑らない。

そんなこんなで、なんか、3位になれて、
ご褒美をゲットしました。
(何がどうであれ、3位は3位。)
(親父もためらわず、ご褒美をくれた。)
(そういえば、3位だったら、くれるよねって、レースが終わってから言ったけど。)

なんか、色々ラッキーではありましたが、
親父との約束に対し成果を出し、
認められた瞬間でした。

努力している姿は見てはいるが、
それが、成果につながらなかったとき、
それでも、その努力を成果として、
ご褒美をあげる。

努力している姿は見ていないが、
それが、成果につながった時に、
問答無用で、ご褒美をあげる。

どっちが良いのか。。。

でも、今になって、私の中での、
その答えが見えてきました。

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▼努力を成果に結びつけるために。
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いずれにしても、
報われるかどうか。
その基準が相手になる場合。

その評価基準は絶対的に自分にはないという事。

3位以内なる事が相手の判断基準であった場合。
基本的には、5位では、
評価の対象にはなりにくいのは事実。

今になって思う事。

3位になる為の努力って、
がむしゃらに毎朝走る事だけであってはならない。

例えば、、、

競争する相手の情報。
その日の天気。
一番早く走れる靴。

どんなに努力しても、
3位になる為の具体的な、
こういった部分がないと成果って出なかったんだと思います。
少しでも本気で3位を目指すなら、、、
早くなっている実感のない、走る練習だけしていても絶対にダメ。

逆に、本当は学年で一番、早く走れるのに、
悪天候でぬかるみに足をとられたから、
3位にもなれなかった。

これって、誰が評価してくれんだろう。

この努力や実力は、
それは実績じゃないのか?

それは、だれの評価?

頑張った。この指標は、
誰かの依頼や、誰かに評価されるときは、
その指標は相手にある。
自分が死ぬほどやったとしても、
相手が、頑張ってないと思えば、
頑張ってないんです。

相手に、
目標やミッションを掲げられたにも関わらず、
その相手を満たす事なく、
自分の努力という指標でやってきたことを振り返ってしまう。

シビアで厳しい世の中ではやっぱりそれを実績と言うには、
すこし甘いんじゃないかなって、、、

勝手に色んなことに悩み。
それを都合の良い理由にして、
停滞気味であった自分の活動に対して、
最近、感じた事です。
(そんな事より、ホント、仕事しよーぜ!!)
(猛反省です)

小学校時代に、
親父に買ってもらった
スーパーファミコンのソフトが、
TikTokで流れていて、
なんか、、
ふと、、、
思い出し、振り返り、
気が引き締まりました。

親父。
4年生の時に、生半可に、
ご褒美くれなくてありがとう。

努力は絶対的に無駄ではないですが、
その努力が報われるかどうかは、
その努力だけではダメかもしれません。

どの努力が必要かっていう事を一緒に真剣に考えてみましょう!!

そんな、話です。

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