大谷恭子弁護士が亡くなった
大谷恭子弁護士が亡くなったと新聞で読んだ。
大谷先生は、2018年3月に起きた、目黒区女児虐待死事件の船戸優里被告の弁護人だった。
私は、この事件である捜査資料を入手していて、拘置所で優里被告本人に確認するにも、彼女が信頼を寄せる大谷先生がよしと認めてくれた人でないと、本人が会いたがらないという状況だった。手紙はなんどもスルーされ、3通目ぐらいでようやく電話がかかってきてお目にかかった。その時も、決して歓迎されなかった。「誰だお前は」という表情にはこれっぽっちの隙もなく、緊張を強いられた。
今から思えば、大谷先生は、世間の強い逆風から優里被告を守るのに懸命になっていたのだと思う。優里被告は当時、5歳の娘(結愛ちゃん)を虐待死に追いやった鬼母として世の中からも、マスコミからもみられていた。その内実は、娘を夫の暴力から遠ざけようと苦悩しつつ、自らもDVに遭っていた。部屋に残されていた「おねがいゆるして」と書いたメモは、優里被告が、夫の暴力を遠ざけるためにあえて書かせたものだった。
大谷先生の当時の決死の形相は、もうひとつ事情があった。この頃は、誰に対しても心を閉ざしていた優里被告が、ようやく大谷先生にだけ、地獄の日々を記したノートを開いてみせ、真実を伝える気持ちになりかけていた時期だった(その後、有罪にはなったものの、優里被告が娘を守ろうとした経緯は、裁判でも認定されている。いまでも鬼畜としての彼女の像を語る警察OBがいて、何を目的にしてか、某新聞がこうした人物の手記をそのまま垂れ流していることは大きな問題だと思う。これはまた書きたい)。
それから私は文藝春秋に関係する記事を2つ書いた。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h920
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h1282
大谷先生が個人として話しをしてもらえるようになったのは、その後だったと思う。いちど、編集者と3人で食事をご一緒したことがある。
話が興にのったおり、大谷先生がしてくれた「冒険譚」が記憶に残っている。今から30年近く前、潜伏中のペルーで日本赤軍の女性兵士が逮捕されて帰国した直後、接見した際に「残してきた子供が無国籍にならぬよう連れて帰ってきてほしい」と言われたこと、そのために南米へ向かったことをとつとつと語り始めた。
男の子はリマの児童擁護施設のようなところに保護されているが、女性が本当にごり(ごりごりの共産主義ゲリラ)だったから、彼女に育てられたその子もがんとして口を割らない、当局もほとんど事情が聞けていなかったはずで、先生は、吉村から預かってきた「この人は連れて帰るための人だから大丈夫」という短いメッセージを読ませてやっと納得をさせたそうだ。
当時のペルーは共産主義ゲリラに対して当局の警戒は非常に強く、簡単に子供と面会させてもらえない。実際、この直後にペルー日本大使館人質占拠事件が起きている。だから保護者からの要請があるんだと言っても首を縦にふらない。
仕方なく数日待っていると、当局から突然、「明日なら合わせてやる」と言われた。ところが先生は、「こっちだって予定がある明日はダメ、絶対ダメ、3日後ならいい」と突き返したという。なんでだ、お前が要求してきたのだろう、と当局者も怒り出す。「明日は行くところがあるんだ」と白状した先生。
「どこへ行くっていうだ!」
「……マチュピチュだよ」
話を聞いている私は、ぽかんとした顔をしていたのだと思う。先生は、「私はどんな仕事で行く時だって、買いたいものを買い、見たいものを見にいく。そうやってきたんだよ、私は」と言った。
大谷先生の告白を聞いたその当局者は笑顔になって、「あそこはすばらしいところだ、ぜひ行ってこい。待っている」と言って、3日後に少年に会わせることを約束したそうだ。そして、先生がリマに戻ってくると、約束は果たされた。
飛行機に乗せて連れ帰るまで、まだひとトラブルあったのだが、それはまた別の話だ。大谷弁護士は勇敢で、弱い者のために体を張って戦う、魅力にあふれた女性だった。
大谷先生、心から、ご冥福をお祈りします。